◆   ◆

 あまりにも普通にありそうな光景だったから、私は最初、それが夢だったのだと気がつかなかった。
 ――あれ? ここ、どこ? 荒船がいなくなっている。
 唐突に切り替わった場面にとまどい、身を起こしてあたりを見回したところで、ピピピピピ、と鳴り続いている音に気がついた。首をねじって振り返ると、まくらと、その横に携帯電話が転がっている。なんの抑揚もない電子音は、その小さな機械の声だったのだ。
「ああ……夢、か」
 ようやく気がついた私は、健気に目覚ましの機能を続ける携帯電話を手に取り、仕事を終わりにしてあげた。
 くあ、とあくびをかみ殺しながら、のそのそとベッドから這いだす。あまりに現実的な夢――ボーダーで訓練をする夢――を見ていたせいか、眠っていたはずなのに身体が重く感じられた。トリオン体を脱いだ時の、あのだるさに似ている。
 夢の中の私は、狙撃銃を構えては的を撃ち、荒船からアドバイスを受けては的を撃つことを、繰り返していた。
 私に狙撃のコツを教えてくれる荒船は、いつものようにちょっと乱暴な口調で、いつものようになんだかんだと面倒見がよかった。
 足の裏にひんやりとしたフローリングの冷たさを感じながら、部屋のカーテンを開ける。暗さに慣れていた瞳に朝陽が突き刺さり、まぶしさに目を細める。天気は晴れだった。ぴかぴかに磨かれた空が青く、雲はふわふわと白い。
 ついでに窓を開けて換気をしながら、まだ一日がはじまったばかりだというのに、はやくも放課後のことを考える。
 今日、荒船は、本部に来るだろうか。会えたら、夢と同じように狙撃について教えてもらおう。太陽光を浴びても洗い流せない眠気にあくびをもらしながら、そう決めた。

◆   ◆

 朝礼のベルが鳴る、二分前。携帯電話に目を落としていると「セーフ」気の抜けた声が耳に届いた。伏せていた顔を上げると、右斜め前の席に、当真がすわるところだった。今日も遅刻ギリギリの時間だ。それなのに、前髪を上げたポンパドールも、なでつけた横髪のリーゼントもばっちりと決まっている。私はひそかに、当真の登校がいつも遅いのは髪型のセットに時間がかかっているからなのでは、と疑っていた。
「おはよ、当真」
「よお、桑染」
 細長い身体をひねりながら、当真がこちらを向いた。担任の教師はまだ来ない。教室の中もざわめいている。
「ねえねえ、当真」
 私は少し身を乗り出すようにして、斜め前の当真に声をかける。
「なんだあ?」
「あのさ、今日、荒船って本部に来るかな?」
 たずねると、当真は斜め後ろの私と話がしやすいようにイスに座りなおしてこちらに向き直った。
「荒船? 知らねーなあ。用事でもあんのか?」
 イスの背もたれに頬杖をついた当真は、器用に片眉だけを上げる。
「用事ってほどでもないんだけど。今日本部に行くか、聞いてくれないかな」
「なんでだよ。めんどくせー」
 教室の小さな机とイスではもてあまし気味の、長い足先をパタパタと鳴らしながら、当真は一蹴した。昼寝と猫が好きで、勉強とまじめな訓練が嫌いなこの男は断るだろうな、と思っていたけれど、予想通りだった。
「だって、私、荒船の連絡先知らないもん」
「――はあ?」
 当真が驚いた顔をするのと、ショートホームルーム開始のベル、担任が教室へ入ってくるのはほとんど同時だった。「はい、日直ー挨拶」「きりーつ」担任のゆるい声によって、日直から声が上がる。ガタガタとイスを鳴らしながら、私も当真も立ち上がる。
「お前、荒船の連絡先知らねーの?」
「だから、知らないって言ってるじゃん」
 知らないから、知っていそうな当真に頼んでいるのだ。連絡が取れるのなら、わざわざ人を通さず自分で話をつけている。私は荒船の電話番号もメールアドレスも、メッセージアプリのIDも知らない。荒船と連絡を取るには直接会って話すか、誰かを中継しなければいけないのだ。
「なんでだよ。お前、荒船と仲いいじゃねーか」
「仲はいいほうだと思うけど」
「はいそこー。当真、桑染、おしゃべりはそこまでなー」
 しまった。ついついしゃべりすぎて、ショートホームルームがはじまることを忘れていた。クラスメイトの視線を集めながら私と当真は軽く謝り、号令にしたがって席につく。当真はイスに腰を落ち着けるなり、話の続きとばかりに私のほうを振り向いた。
 バカ。黒板を指さして、前を向けとジェスチャーで示す。まずはショートホームルームから先だ。朝から注意ばかりされたくはない。サボりと赤点で叱られなれている当真は気にならないかもしれないけど、それなりにまじめに学校生活を送っている私は、あまり悪目立ちをしたくはない。
 当真はわかりやすくつまらなそうな顔をしたけれど「当真ー、前向けー」担任の注意によって、いやいや黒板へと相対させられた。私は無関係を決めこんで、真面目な顔を作る。当真のほうが話しかけてきたんですよ、私は悪くないですよ、と。
 点呼がはじまり、教室のあちこちから返事の声が上がる。自分の番を待っていると、あくびがうかんだ。やっぱり昨夜はあまり寝つきがよくなかったらしい。夢は眠りが浅いときに見るものだというし、そのせいかもしれない。昼休みにでも、少し眠ればすっきりするだろうか。教室の窓から外を見ながら、私は目じりににじんだ涙をそっとぬぐった。

「桑染」
 ショートホームルームが終わるなり立ち上がった当真は、私の前まで来ると机に手をついた。横幅はないが、縦に長い当真が、まるでかぶさるような格好で見下ろしてくる。
「なんで荒船のメアドとか知らねーの」
「なんでって、聞いてないから?」
 今まで、荒船と連絡を取る必要がなかった。時々狙撃について教えてもらってはいるけれど、それはこの当真にも言える。私は色々なスナイパーからコツを聞いていて、特定の師についてはいない。私と荒船は師匠と弟子ではないのだ。
 さらに、所属している隊も違うし、通っている学校も違う。電話番号やメールアドレスを交換するほどの接点がない。タイミングさえあえば本部で会えるし、わざわざ個人的に連絡を取ってなにかをする必要がなかった。
「それじゃ、なんでまた今んなって荒船と連絡つけてーの」
「狙撃を教えてほしいからだよ」
「おいおい、それならこの俺でもいいじゃねーの。そんなことなら、この天才スナイパー様がじきじきに教えてやるっての」
「やだ。荒船がいい」
 自信たっぷりに言った当真をぴしゃりと跳ね除ける。即答できっぱりと言ったのに、当真は軽く肩をすくめただけだった。この程度では「天才スナイパー」の自負にはかすり傷もつきやしないようだ。
「つれねーやつだな」
「確かに当真の狙撃の腕は一級品だけど、ちょっと感覚的すぎて、私の身にはならないの。荒船の教えかたのほうが、私にはあってるんだもん」
 アタッカー、ガンナー、スナイパー、そのすべてのポジションで戦えるパーフェクトオールラウンダーを目指している、という荒船は、とても論理的な動きで戦いをする。そしてその理にかなった戦いかたは、どちらかというと理屈っぽい私の性格にはあっていた。
「しかたねーなあ。一級品って褒め言葉に免じて、荒船に連絡しといてやるよ」
「やった。ありがとね、助かる」
「でもいきなりじゃねーの? お前、最近は東さんに教えてもらってたろ。飽きたのか?」
「まさか。東さんから学ぶことはまだまだたくさんあるよ」
 元祖スナイパーである東さんは、狙撃の腕はもちろん、戦術にも長けている。私のような並の狙撃手が、一朝一夕で学び尽くせるほど浅い人ではない。
「夢でさあ」
「ん?」
「夢で、荒船に狙撃を教えてもらったんだよ。そしたらさあ、やっぱりそんな気分になるじゃない? だから」
 素直に答えたはずなのに、当真はいつも少し眠たげに見える目を、これでもかというほど大きくしていた。驚きの顔だ。どうしてそんな顔をする?
 訝しんで首をかしげると、とたんに当真はニヤニヤとした含みのある表情を浮かべた。いやな感じだ。私は露骨に顔をしかめて見せる
「おいおい、マジかよ園希チャン」
「その呼びかたやめて」
「なんでだよ園希チャン。いーじゃねーかよ園希チャン」
「当真が園希チャンって呼んでくるときは、からかってるときだもん」
 にらみつけてみても、当真にダメージは与えられない。イスに座る私とそこへかぶさるようにしてニヤついている当真は、その外見もあいまって、はたから見ると不良とからまれる女子生徒の絵面になっているだろう。私はいじめられっ子ではないし、当真も不良ではなく、その実態はただのバカなのだけれど。いや、サボり魔という点では不良と言えるか。
「園希チャンてば、荒船のこと好きだったんだな。言えよなあ、そーいうことは」
「――はあ?」
 思わず、大きな声が出た。となりに座る男の子がこちらを振り向いたのが気配でわかったけれど、私は大げさにあきれた顔をしてみせたまま、当真から視線をそらさない。当真も、ニヤついたまま私から視線をそらさない。
「なんでそういう話になるわけ。夢に出てきただけでしょ」
「夢に出てくるってことは、それほど好きってことだろ?」
「バカなの?」
 いや、尋くまでもない。当真はバカだ。最初からバカだった。
「夢に出てきたから好き、だなんて、小学生みたいなこと言って。バカでしょ」
 ハッ、と鼻で笑ってやる。夢に見るほど好き、なんてバカバカしい。三年前の、高校受験がせまっていた時期、私は夢の中でも勉強をしていたことが何度かあった。けれど、それは勉強が好きだったからという理由ではない。単純に、脳が記憶の整理のために見せたものだ。夢とは本来そういうもののはずだ。
 たしかに願望が表れることもあるのだろうけれど、私は荒船をそういう対象として見たことはない。第一、好きになるには接点が少なすぎる。たまたま手があいたときに狙撃のことを教えてもらう程度で、連絡先すら知らない仲なのだ。
「わかったわかった、だからんなこえー顔すんなって。せっかくのカワイイ顔が台無しだぜ、園希チャン」
 まったくこいつは懲りていない。反省の色どころか、なおも軽口をたたけるバカへ冷たい視線を送って、私は引き出しから教科書を取り出した。一限目は数学。きっとこの当真は板書すらせず、睡眠を決めこむだろう。ノートは写させてやらないからな、と心で誓う。
「まあ、もしくはあれだな」
 机についていた手をはなして背筋を伸ばした当真は、ヘッドショットを決めたときのような笑みを浮かべて、
「荒船がお前に会いたかったのかだな」
 ――意味が不明なことを言い放った。
「……は?」
 突拍子もない発言に脳の機能が停止する。ぽかんと口をあけたまま、当真を見上げる。だめだ。バカの思考回路を読み取れず、脳がエラーを起こしている。
 荒船が、私に会いたい? どこをどう解釈したらそうなるのだ。おかしいだろう。私が見た、私の夢だ。そこに荒船の意思が介入するなんてありえない。
「当――」
「あー、本鈴鳴っちまった。げえ、次数学かよ。だりーな」
 バカでしょ、と言おうとした声は、響いたベルの音で中断させられた。いつの間にか数学教師も教室へ入って来ていたらしい。本鈴とともに号令がかけられ、当真は席に戻っていってしまった。
 最後まで罵ることができずに消化不良気味な私は、右斜め前のひょろりとした背中をにらみつける。視線を感じないのか、気づいていて無視しているのか、「着席」という声で座った当真は、教科書も出さずに机に突っ伏した。
 イスでも蹴飛ばしてやろうか、と足を伸ばしてみたけれど、あいにく当真のような長身ではない私では、つま先さえ届かない。右隣り、当真の真後ろに座る女子から、変なものを見るような視線を向けられただけだった。
 もやもやとした苛立ちだけが残された私は、頭の中で構えたアイビスを、うつぶせる当真の背中に向けてぶっ放す。――トリオン供給器官破壊。当真、ベイルアウト。
 続けて四発ほど撃ち込んでどうにか満足した私は、シャープペンシルをにぎって黒板へ目を向けた。あとからノートを写させてほしいなんて泣きついてきても、絶対助けてなんかやらないからな。私はますます決意を固くした。

◆   ◆

「園希チャン、まだすねてんのか? そろそろ機嫌直せよなあ」
 斜めうしろのあたりから投げられるゆったりとした声を無視して、私は早足で黙々と歩く。警戒区域内には当然のように人影はなく、放棄され傷みはじめている家ばかりがたたずんでいる。遠近感の狂いそうな巨大な四角の建物――ボーダー本部は、早足で歩けども歩けども、なかなか近づかない。警戒区域は意外と広いのだ。
「悪かったって。なあ、園希チャンてば」
 ――なにが、悪かった、だ。
 口ばっかりで、声に反省の色が見られないというのに。私はなおも当真を無視して、白い建物を目指す。本部直通の道を選択しなかったことが悔やまれる。もしくは、トリガーにグラスホッパーのチップを入れていれば。いかにも狙撃手らしいごくごくありきたりなチップばかりをセットしている私は、このまま当真をコバンザメのように連れて本部へ向かうしかなかった。共生主である私より大きなコバンザメだけれど。
「そろそろ機嫌なおしてくれてもいーんじゃねーの?」
 となりに並んだ当真が、身をかがめるようにして私の顔をのぞきこむ。大股かつ早足で歩いているというのに、そのハンデを当真は長い足のたった一歩でイーブンにするのだから、それがまた神経を逆なでする。
 と、いうのに。
「あ、もしかして生理か?」
 ひらめきながら飛びだしたデリカシーのかけらもない言葉に、私の怒りは一瞬で沸騰した。大きく一歩踏み出した足を軸に、勢いを利用して身体をひねる。肩からかけていたスクールバッグをおろしながら、遠慮や手加減をするどころか遠心力を上乗せするくらいの気持ちで、
「――死ッ、ね!」
 思いきり当真へと振りぬいた。
「いッ――てえ!」
「バカ! アホ! 死ね! 三十回は死ね!」
 カバンによる近距離攻撃をまともに食らった当真は、接近戦に弱いスナイパーらしく細い身体をぽきりと曲げた。ざまあ見ろだ。ふんと鼻で笑って、私はまた本部へと足を進める。
 当真は当てつけがましくうめいているけれど、知ったことではない。痛覚オフが利用できない生身ではそこそこの威力があったのだろうけれど、私が受けた仕打ちに比べれば可愛いものだ。本当は、生身にアイビスをぶっ放してやりたいくらいなのだから(気絶するほどの痛みを味わえばいいのだ、こんな男は)。
 私は怒っている。それもこれも、この男があることないことを言いふらして回ったからだ。それはもう、尾ひれに背びれに胸びれまでたっぷりとつけて。
「痛えなあ……暴力はどうかと思うぜ、園希チャン。そんなんじゃ、荒船にゲンメツされるんじゃねーの」
「もう一度ぶたれたいんだね? 勇チャン」
 おどすように、めいっぱいドスをきかせた低い声でカバンの持ち手をつかみなおすと、さすがの当真も両手を上げて降参のポーズを見せた。何度も生身をなぐられるのはいやだろうとも。生意気な顔をきつくひとにらみして、私はスクールバッグを肩にかけなおす。
「ハーゲンダッツ一週間分」
「あん?」
「それから、駅前にあるカフェのケーキセット一回。……それでゆるしてあげる」
 われながら、なんて心がやさしいんだろう。私は仏さまかもしれない。あることないことくっつけにくっつけて噂を流したこの男を、アイスクリーム一週間分と千二百八十円のケーキセットで許してあげるというのだから。
「安いもんでしょ」
「いやいや、安くはねーだろ」
「あたしより稼いでいるくせに。それともケーキセットを二回に増やそうか」
「オゴラセテイタダキマス」
 指を二本立てて見せると、当真はぎこちない敬語でうなずいた。出来高とは別に月給までもらっているA級二位部隊のくせにケチくさい。
「ところでさ、ちゃんと荒船に連絡してくれたんだよね? 来るって言ってた?」
 今日の平穏をぶち壊した火種を出すのは蒸し返すようでためらわれたけれど、私は隣に並んだ当真を見上げてたずねた。朝から言いふらされた誤解のせいで火消しがいそがしく、荒船からの返事がどうだったかを聞けないままだったのだ。
 テスト期間でもないのだから、特になにもなければいるだろうと考えて本部へ向かっているけれど、やっぱりむだ足にはなりたくない。これでもし荒船への連絡を忘れていたりしたら、問答無用でケーキセット三回だ。
「ねえ、聞いてる?」
 返事のない隣に目を向けると、当真はにやにや笑って私を見ていた。半眼になった瞳とゆるんだ口元に、まさかといやな予感が満ちる。
「ちょっと待ってよ。連絡先わからないから、代わりに言ってって頼んだよね?」
「頼まれたなあ」
「なんで頼まれたことしてくれないの?」
 のらりくらりとした返事に耳を疑い、つかみかからんばかりに詰め寄る。うそだと思いたい。本当に連絡をしていないというのか。私のなかでケーキセット三回が確定する。これは決定で絶対で強制だ。当真に拒否権はない。
「信じらんない。見損なった。信用ガタ落ちだからね。ワックスつけすぎてハゲろバカ」
「本当にお前は口が悪ィなあ、園希チャン」
 からかうようにチャン付けで名前を呼ばれて、神経が逆なでされる。なんなの、と苛立ちがふくらむ。あることないこと言いふらして変な噂を広めるだけでは飽きたらなかったというのか。当真とはそこそこ仲がいいと思っていたし、それなりに好意的に思っていたというのに。
 私は当真を無視することにして、荒れた警戒区域の中をずんずんと歩む。それでも当真はさして苦労もなく隣に並ぶけれど、もう今日は口なんかきいてやるものか。今度真木ちゃんに告げ口してやる。怒られてしまえ。
「まあまあ、そんな急ぐなって」
 半壊している元民家・現廃墟の角を曲がろうとしたところで、二の腕をつかまれ無理やりに歩みを止められる。
「触んないで、はなして」
「そろそろだろうから待てって言ってんだろ」
「なにがそろそろなの。わけわかんない、はなしてってば」
 当真はひょろひょろしてるくせに、しっかりと男の子だった。私の腕をつかむ手は大きいし、振りほどけない。トリオン体なら腕力差などほとんどないというのに、生身だとこうもちがうのが腹立たしい。
「またなぐられたいんだね?」
「おいおい、暴力はやめようぜ」
「だったらはなしてよ。叫ぶよ」
「叫んだって人はいねーよ。来るとしてもボーダー隊員だろ」
「……なにやってるんだ、お前ら」
 人が来ないのはこっちも同じだ、と肩から鞄の紐をおろしかけた時だった。
「よォ、荒船」
「えっ……なんで?」
 醜い応酬を裂くような第三者の声に振り向くと、数メートル先の、やっぱり元民家・現廃墟の角から、ブレザーに身を包んだ荒船が姿を現していた。トレードマークの目深にかぶったキャップはなく、額や眉や目元がまるで裸になったようにはっきりとさらされている。見慣れないその格好がなんだかはずかしくて、むずがゆいほど新鮮だった。
 出鼻をくじかれて当真をなぐり損ねたバッグが、ずるりと肩からすべり落ちる。あらふね、とつぶやくと、切れ長の目が私に向けられる。
「なんだその顔は。お前が呼んだんだろうが」
「そうなんだけど、びっくりした……って、当真、ちゃんと荒船呼んでてくれたんだね。言ってよ、もう」
「感謝しろよォ? ――なあ、荒船」
 当真はますますにやにやとした笑みを浮かべて、私と荒船を見る。どうやら驚かせようという魂胆だったらしい。はあ、と大きく息をつく。信用ガタ落ちなんて言ってごめん、と心の中でそっと謝る。でもくやしいから、ケーキセットは二回だ。
「……当真、もういいだろ。はなしてやれ」
「あァ、悪ィ悪ィ」
 荒船の言葉で、二の腕がつかまれたままだったことを思い出した。骨と筋が張った当真の手から解放されて、わたしはずり落ちて引っかかっていたスクールバッグを肩にかけ直す。
「じゃーな」
「えっ、当真?」
「ごゆっくりィ」
 ひらりと手を振ると、当真はすたすたと歩き出してしまった。なんでいまさら別々に。とまどって荒船を見上げるけれど、荒船は動かない。
「あ、そうだ」
 追うべきか、と迷っていると、十数歩先で立ち止まった当真が、首をひねってちらりと振り返った。
「俺におごらせる予定だったケーキセットは荒船におごってもらえよ」
「えっ。なに言ってるの、そんなことできないよ。だいたい荒船は悪くないでしょ」
「それでいいだろ? 荒船。駅前のケーキ屋だとよ」
「だから――」
「……わかった」
 よくない、と言おうとした私の声は、いつもより少しだけトーンを落とした荒船の声で遮られてしまった。
「ちょっと、荒船?」
 どういうつもりなのだろう。ケーキセット千二百八十円掛けるの二回は当真への罰なのだから、荒船が肩代わりをする必要はない。それとも、荒船は当真になにか借りでもあるのだろうか。
「決まりだな。それじゃあ頼んだぜ、荒船。ああ、ハーゲンダッツはちゃんと俺がおごってやるから安心しろよ、園希チャン」
 ひらりと手を振ると、当真は気まぐれな猫のような足取りで、警戒区域内にたたずむ放棄家屋の角を曲がって見えなくなってしまった。

◆   ◆

 ――どうしてこうなった。私は頭の中で頭を抱えて、隣にいる荒船の顔をちらりと盗み見た。
 現在、私と荒船は並んで警戒区域の中を歩いている。幸いなことに付近でゲートが開く様子はなく、平和なものである。そして不幸なことに――というよりはつらいことに――二人のあいだに会話はない。
 当真が立ち去って以降、私と荒船は一言も言葉をかわしていなかった。なんとなくの流れで一緒に本部へ向かって歩きだしたけれど、この妙な居心地の悪さは一体なんなのだろう。
 ちらりと、もう一度荒船の様子をうかがう。トレードマークとなったキャップをオフにしているために、表情がよく見える。もともと顔つきはきつめだとは思うけれど、いつもより機嫌が悪そうなのは、きっと気のせいじゃない。
  ――どうしてこうなった。私は頭の中でもう一度くり返した。
 いや、原因はまぎれもなく当真だということはわかっている。わかっているのだけれど、こんな空気になるとは思っていなかったのだ。本当なら、もう少しいろいろ話しながら歩けていたはずなのに。
 油断をするともれそうなため息をぐっと飲みこんで、地面と見つめあいながら歩く。立ち入り禁止となった戦闘区域は整備も放棄され、荒れ放題だ。
「……当真が悪かったな」
 右肩下がりに悪くなっていく空気を撃ち抜いたのは、荒船だった。顔を上げると、鋭い視線がしっかりと私を見ていた。
「なんで荒船が謝るの! どう考えたって、当真が悪いよ。あることないこと言いふらして広めるから――ってそうだ、荒船には謝らないといけないよね、ごめん! 本当にごめん、迷惑かけたよね」
「落ち着けよ」
「うっ」
 ようやくしゃべることができたものだから、ためこんでいたものを矢継ぎばやにはきだしていると、額を指ではじきとばされた。見事なヘッドショットである。
「痛い!」
 キャンとほえると、荒船がふっと口元をゆるめて笑った。とげとげしていた空気がまるくなって、私の肩のこわばりもとけるのがわかった。思ったより、無言の状態に緊張していたらしい。
「聞いてよ荒船! 当真ったら本当にバカなんだよ! 信じられないくらいのバカなの!」
 落ち着けと言われたことをまったく聞かず、荒船に泣きつく。
「当真はバカなのバカなのバカなの!」
「まあ、お世辞にも勉強ができるとは言えないな」
「今日、当真経由で荒船に連絡してもらったでしょ? 狙撃教えてって」
「いきなりだったから、少し驚いたぜ」
「それなんだけどさ、聞いてると思うけど、もともとは夢の中で荒船から狙撃を教えてもらったことがきっかけなんだよ。それで、久しぶりだし荒船にアドバイスもらおうと思って連絡してもらったのに、あいつ、あいつ!」
 思いだすと、また腹がたってきてしまう。
 朝「夢に見るほど荒船のことが好きなのか」とぶっ飛んだ思考回路を披露してみせた当真は、こともあろうか、同学年のボーダー男子だけを集めたというトークアプリにまで投稿しやがったのだ。しかも「桑染は荒船が好きらしい」と改変を加えた上で、だ。
 一限目の授業のあいだに教師の目を盗んで投下されたそれはあっという間に拡散され、授業が終わったときには、私のもとへ方々から様々な内容のメッセージが届いていた。本当なのかという事実の確認から、お熱いですねという冷やかし、応援するぞという余計なお世話の優しさから、おめでとうというずれたお祝いまで、それはもう通知数に引くくらいの数で。
 そして私のほうへメッセージが来ているということは、荒船のほうへもおなじくらい冷やかしやからかいが送られていることは明白だった。
「当真があることないこと広めたせいで、しばらくはからかわれると思う……本当にごめん。からかってくるやつがいたら、そいつの名前教えて? 責任を持って粛清するから」
 そう、粛清するのだ。当真が言ったことは事実と異なるということを、懇切丁寧にわかりやすく訂正して回ったのに、私の話を聞いてくれる者は少なかった。否定しなくてもいいだとか、相談にのるだとか、火消しに回るとかますますあやしいとか、くり返されるおめでとうだとか。ほとんどがそういう内容ばかりだった。
 害にならなさそうなものはそのままにするとしても、いいネタとばかりにからかってくるやつは断じてゆるせない。話してわかってくれないのなら、こちらにも考えはあるのだ。暴力を持ちこめばさすがに口をつぐむだろう。殴ってでもわからせてやる。
 私ひとりだけはずかしい思いをするのならまだいいのだ。人のうわさも七十九日というから、燃えるものがなくなって火が消えるまでじっと待てばいい。でも、これは私ひとりだけのことではないからそうもいかないのだ。鋭い目つきでデコピンを撃ってくるこの男は、完全にとばっちりを受けているだけである。私が夢に見たせいでこんなことになるなんて、いくら謝っても謝りたりない。
「本当にごめん……。とりあえず犬飼は殺すから安心して。十回は殺すから」
 当真をのぞくと一番人の話を聞かず、それどころか一緒になって尾ひれ胸びれをつけてまわった男は、すでに粛清のリストに入っている。許すまじ、犬飼。
「殺し方に希望があったら言って? 腕撃ち抜いてからとか、脚撃ち抜いてからとか。アタッカーじゃないから切り刻むとかはできないけど」
「……お前って、けっこう物騒だよな」
 にやりと笑いながら言われて、頬が熱くなった。そんな、からかうみたいな顔ををしないでくれてもいいんのに。荒船だって、被害者のはずではないか。
「でも、犬飼も当真とおなじくらいひどいでしょ」
「やめとけやめとけ。スナイパーとガンナー一対一での模擬戦なんて、時間がかかりすぎるだけだろ。それにどう考えても不利だ」
「う、そうだけどぉ……」
 私は唇をとがらせて不服をあらわす。荒船の言うとおり、スナイパーとガンナーの一対一では勝ち目が薄いということはわかってる。けれど、やっぱり恨みは晴らしたいのだ。
 進んで点を取りにいく近・中距離のポジションと違って、遠距離の狙撃手は隠密が基本だ。それに加えて、比較的どこででも戦えるアタッカー・ガンナーと違い、スナイパーは狙撃のポジションを押さえられたら不利になる。
 狙撃地点を確保したうえで、獲物の居場所を見つけられればこちらにもチャンスがあるけれど、そう上手くいくわけがない。相手だって射線に入らないように動くに決まっている。
 仮に絶妙な舞台を作ることができたとしても、外せばこちらの居場所を教えることになっておしまいだ。バレて寄られればますます不利になるし、釣り出してくれる仲間がいなければ、スナイパーは真価を発揮することができない。
「――そうだ、荒船も一緒に戦えばいいんだよ!」
 そうだ、考えてみれば簡単な話だ。荒船は攻撃手としても戦える。被害者同士、手を組んで戦えばいいのだ。
「やんねーよ」
「えー! なんで!」
 期待をこめて見つめたのに、返ってきたのはそっけない返事だった。荒船だってからかわれて嫌な思いをしたはずなのに。
「ハーゲンダッツおごってもらうんだろ」
「それだけじゃ足りないの! ケーキセットもおごらせて、その上で負かさないと気が済まないの! 犬飼は鹿のやであんみつ!」
 自分ではなかなかできない贅沢を、やつらのお財布で実現させないと腹の虫はおさまらない。私は荒船とちがって落ちつきや余裕などはないのだ。
「ケーキセットは俺がおごってやるから、当真も犬飼も許してやれよ」
「なんで荒船がおごるの! 荒船に責任はないでしょ!」
 むしろ、一緒におごってもらう側だ。いや、荒船はケーキセットより映画のほうがうれしいだろうから、前売り券を買わせたほうがいいかもしれない。
「俺にも責任の一端があんだよ」
「……え?」
 どういうことだ、と荒船を見上げると、ふいにかざされて手でふたたび額をはじかれた。
「痛い! 暴力反対!」
「隙だらけなんだよ」
 いまはランク線でもないし、隙だらけでもしょうがないだろう。ヘッドショットを決められた額をなでながら、仕返しに荒船の脇腹を肘で小突いた。
「おい、それやめろ」
「仕返しだもん。――それより、荒船にも責任があるってどういうこと?」
 隣を見上げても、荒船は目をあわせてくれなかった。前を向いて警戒区域を進むだけだ。
「どういうこともなにも、そういうことだって言ってんだろ」
「だから、それの意味がわからないって言ってるんだってば。荒船に責任はないでしょ」
 荒船が責任を感じる理由がないのだ。悪いのは当真や犬飼だし、もっと突き詰めるなら、そもそも私が悪いと言える。夢に荒船が出てこなければ当真に連絡を頼むこともなかったし、当真に事情を話さなければネタにされることもなかった。被害者であり加害者でもある私とちがって、荒船はまちがいなく被害者だ。
「――あ、わかったかも」
 腕を組んで首をひねったところで、はっとひらめいてしまった。
「もしかして、当真に『夢に出てきた人は、自分が会いたがっているんじゃなくて、相手の方が自分に会いたがって出てきた』って変なこと教えたの、荒船?」
 今朝当真が言ったわけのわからない理屈は、思えばあのバカらしくない発想だった。ロマンチックといえばロマンチックなその説を、あの当真が自分で考えたとは思えない。だれかから聞いた話なのだとしたらすんなり納得がいく。
「そこじゃねえな」
「えー」
 けっこう自信があったのに、あっさりと否定されてしまった。夢に出てきた人は自分に会いたがっている、なんて荒船が言うのも、それはそれでロマンチックがすぎる気もするから、映画からの受け売りだろうと思ったのだけれど。
「わかんないから教えてよ」
「少しは自分で考えろ」
「考えてもわかんないから言ってるんじゃん」
 じっとりとにらみつけて見ても、荒船は鼻で笑うだけだった。
「これだから進学校のやつはー! 普通校をばかにしてー! ヒントくらいくれてもいいじゃん!」
「だからやめろっつってんだろうが!」
 このやろう! と脇腹をつついた手は、手首をつかまれて阻止されてしまった。
「ヒントなら十分すぎるくらい出してるるだろ。小学生でもわかるぞ。それともわざととぼけてんのか?」
「なにそれ」
 本気でわからないのに、小学生以下と言われてはむっとくる。
「私は荒船ほど賢くはないんだよ」
「賢いとか賢くないとかじゃねえよ」
「じゃあなによ」
「……鈍感すぎるって言ってんだよ」
「鈍感?」
 首をかしげて、荒船を見上げる。手首はつかまれたままだ。
「鈍感なつもりはないんだけど……」
 実際、まわりから鈍感だと言われたことはほとんどない。聡いかといえばそうでもないとは思うけれど、決して鈍感ということもないはずだ。
「それ本気で言ってんのか?」
「嘘ついたりとぼけたりする必要もないと思うけど」
 そう答えれば、荒船は深い深いため息をついた。呆れと諦めが混じったような、心底どうしようもないなという感情がにじんでいるため息だった。
「……ちょっと納得いかないけど、私が鈍感だったらさ、なおさらもっとわかりやすく言ってくれないと」
 荒船は、私をじっと見下ろす。まわりは無人で静かだ。急に不安になってくる。狙撃銃を構えられているわけでもないのに、射抜かれそうだった。
「……荒船?」
 場を和ませようとへらりと笑って名前を呼んでみても、荒船は真顔のままだ。居心地が悪い。どうしてこうなるんだ。
「お前がそこまで言うんなら、はっきりさせてやるよ」
 いまだもってつかまれたままの手首に、少し力がこめられる。
「会いたかった」
 ――その一言で、自分の身体が硬直するのがわかった。冗談でしょと笑うには、その表情も声音も本物で、じわじわと顔が熱くなっていく。薄く開いたくちびるが、勝手に震える。頬も耳もきっと、はっきりわかるくらいに赤くなっているに違いない。
「――ふっ」
 息を吐くように笑って、荒船が歩き出した。手首をつかまれている私は、当然のように引っ張られる。
「は、はなして!」
「断る」
「――はなしてー!」
 空き家の住宅街のど真ん中で私は叫ぶ。逃れようにも手首はがっちりしっかりつかまれていて、ほどけない。当真以上に力が強い。荒船は身体を鍛えているそうだから当然なのだけど、生身では到底かなわない。
「俺としてはもう少し時間をかけるつもりだったんだけどな。まあ手間が省けてよかったと思うことにする」
「う、うそだ……信じないから!」
「俺にだって嘘ついたりとぼけたりする必要はないんだけどな?」
 私がいったこととと同じ言葉を返されて、ぐうの音も出ない。さっきの叫び声を聞いたボーダー隊員が来てくれないかと期待もしたけれど、その気配もない。
「逃げないからはなして……」
 細く情けない声で懇願する。私を連行する荒船はなにも答えない。
「おねがい荒船……はずかしくて死んじゃいそう……」
「……なおさら無理だな」
「なんでよ! 鬼! 悪魔!」
 わめく私をよそに、荒船は迷いなく本部へと足を進める。つまり私も連れて行かれる。
 このまま本部へ着いてしまったら、大変なことになる。こんな状態を犬飼にでも見られようものなら、間違いなく瞬く間に広がってしまう。今日の一件があったばかりなのだ。きっと「荒船と桑染は付き合っている」くらいにまで誇張されるにきまっている。
「噂になっちゃう……」
「ちょうどいいな」
「ちょ……!」
 さらりと言われて言葉を無くした。少し引いていた熱が、またぶり返す。私は聡くはないけれど、鈍感でもない。ここまで来たら、荒船の言う「噂になるはちょうどいい」がなにを意図しているかくらいは察しがつく。
「ああ、当真がハーゲンダッツをおごるって言ってたな。あれ断れ。俺が代わる。むしろ俺が当真におごるべきだからな」
「………………もうすきにして……」
 なにを言っても荒船に敵うとは思えない。手を引かれ、なされるがまま、私は深くうなだれた。これからボーダーで狙撃の練習をしても、きっと身にならない。集中なんてできるはずがない。なにせ、現在進行形で私の心をめちゃくちゃにかき乱しているこの荒船哲次から教わる予定なのだ。集中しろと言う方が無理な話だ。今すぐ家に帰りたい。
「……まあ、準備期間くらいはくれてやるよ」
 首だけで振り向いて、荒船が言った。その表情も口調もやわらかいもので、ずるい。ずるすぎる。全身が、特につかまれている手首が熱い。
 逃げられないのだろうな、という確信があった。今日決定打が出たというだけで、遅かれ早かれ、いずれつかまっていたのだろうと思う。
「――あ*もう! こんなはずじゃなかったのに!」
 なにもかも、夢であったらよかった。空に向かって吠えると、荒船がうるせえと笑った。私は余裕たっぷりの男をにらみつける。
 そもそも夢に出て来たお前が悪いんだ! 心の内で悪態をついて、せめてもの反撃にあいている方の手で荒船の脇腹を強めに小突いた。



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