魔術の魔の字も知らない一般人だったとはいえ、私にだって「マスター」としてのプライドがある。

 しくしくからめそめそへと移り、それも通り越してぐずぐずと泣いている源氏の棟梁を前に、私はため息を飲み込めなかった。
 ──あ、しまった。
 そう思った時にはすでに遅かった。
 私が息をつくのをしっかりと聞き届けた彼女は、女性にしては大きな身体、刀を振るっては敵を切り倒すその肩をひくりと震わせて、さらに涙をあふれさせた。ぼたぼたとこぼれる涙で、その頬はぐっしょりと濡れている。
「──わ、わたし、はっ……あなたの、ことを、おもって……」
 しゃくりあげながら目元を擦る仕草は、子どものそれとそっくりである。とても妙齢の女性とは思えないぐずり方に、呆れと、罪悪感と、疲れと、面倒くささと、その他もろもろの感情が綯い交ぜになって、身体から力が抜ける。
「いやあ、よく泣くねえ。このままいくと、小さな海ができそうだ」
「そりゃあいいね! そしたらアタシが船を出してやろうじゃないか」
 夢魔とW太陽を落とした女Wは他人事のようにあっはっはと声をあげて笑う。真面目な竜殺しは、この状況に困ったような顔をして、眉尻を下げている。もう一人のサーヴァント、エミヤは「参ったことになったな」と口の端を吊り上げて、フォローをくれる様子もない。いつもはなんだかんだ面倒見がいいくせに、どうしてこういう時には助けてくれないのか。
 また喉元まで込み上げてきたため息を、意識してぐっとこらえる。
 もし、この場に坂田金時でもいたら、いくらかマシだったのだろうか。マーリン、ドレイク、ジークフリート、エミヤという、前世での接点がない面々ばかりでは、自分がどうにかするしかないのだけれど。

 きっかけは、私の注意不足による怪我だった。
 エミヤの弓で吹き飛ばしたスケルトンの残骸から、獲れそうな凶骨がないかと先走って駆け寄った時だった。
 ──マスター──!
 叫んだ声が、誰のものだったのかはわからない。え、と間の抜けた声を漏らして振り返るのと、視界の端から剣を握ったままの骨の手が飛び出して来て、私に斬りかかるのはほとんど同時だった。
 鬼は首だけになっても動くそうだが、スケルトンも、それと同じだったのだ。手首から先だけになっても、最後の力を振り絞って敵の息の根を止めようとする。死なば、諸共。
 とっさに身をよじったものの、並の反射神経ではほとんど役には立たなかった。避けきれず、骸骨の最後の悪あがきは私の腕を裂いた。鋭い痛みが走り、カルデアの白い制服を赤で汚す。
 ──慣れ、油断、慢心。そういったものがあったのだろう。強いサーヴァントと共にいることで、自分まで強くなった気になっていたのだと思う。魔術礼装に頼りきりで、できることも少ないというのに。
 骨の手首は、私の腕を斬りつけたところで力尽きた。切っ先を血で濡らした剣が、支えを失い、音を立てて地面に転がる。殺意を持っていた手は関節から一つ一つの骨にばらけ、今度こそ沈黙した。
 切り傷の痛みは強かったけれど、傷はすぐにマーリンが治してくれた。気がつかなくてすまない、と謝るジークフリートに大丈夫だと腕をぐるぐる回して見せて、お転婆だねえとからかうドレイクに笑って返して、エミヤの小言を受け止めようとしたところで──源頼光の雷が落ちた。
 行動が軽率過ぎる、周囲への注意が足りない、ここは戦場なのだ。等々。
 私の行動に対するお叱りはまだよかった。言い訳や反論の余地もなく、彼女の言い分が正しかったからだ。
 けれど、それがマスターとしての行動にまで及んだとき、むっときてしまったのだ。
 母性がありあまっているような彼女は、過保護な節がある。普段なら気にならないし、流せもするのだけれど、頭ごなしに叱られたことで、私も血がのぼったのだと思う。
 たしかにサーヴァントに比べると、できることは圧倒的に少ない。けれど、マスターとしてのプライドもないわけじゃない。強い彼ら彼女らに頼りきりではなく、私だって一緒に戦っていきたいのだ。
 だから「あなたは大人しく下がっていなさい」と言われた瞬間、考えるよりも早く噛みついてしまっていたのだった。
 私は頼光さんに守られるためにいるんじゃない。そう言い返され、驚いた彼女の目のあどけなさ。意表をつかれて丸く見開かれた紫の瞳は、私よりもずっと幼い純朴ささえたたえていえ、無防備だった。
 しかしそれもほんのわずか数秒のことで、「娘」に言い返されたかの神秘殺しは、くしゃりと顔を歪めて泣き出したのだった。

 ブーディカやマリーがいたら、なんとかしてくれただろうか。母親の経験がある二人の顔を思い浮かべてみるけれど、残念ながらこの場にいるのは母という存在にはほど遠い者ばかりだ。夢魔との混血に、船乗り、竜殺しに、守護者。フォローを期待するだけむだな気さえする。
「……頼光さん」
 名前を呼ぶと、怯えたように肩をふるわせる。鬼退治を成し遂げた、高名な英雄だとはとても思えない。
「心配してくれるのは、うれしいです。ありがとうございます」
 私だって、皆が傷つくのは見たくない。助けたいし、守りたいし、力になりたい。彼女も私も、きっと根っこで考えていることは同じなのだろうと思う。
「でも、私はマスターだから。守られるだけじゃなくて、一緒に戦いたいんです」
 ただ守られるだけの存在なら、いてもいなくても同じだ。お飾りになんか、なりたくはない。英雄と呼ばれた者たちはあまりにまばゆいけれど、できることなら──傲慢なのかもしれないけれど──対等な立場でいたい。
 そして、そのために私ができることはといえば、共に戦うことくらいしか、ないのだ。
「……出過ぎたことは反省しています。次からは気をつけます。でも、マスターの私の気持ちも、わかってくれませんか」
 泣きはらした目としっかり視線を合わせながらたずねると、彼女は大きく鼻をすすって──こくりとちいさく頷いた。
「は、母も、言いすぎました……ゆるして、くれますか」
 びちゃびちゃの声は、これでもかと言うほど不安を滲ませている。──どこが母だ。どっちが子供かわかったもんじゃない。呆れすぎて、なんだかどうでもよくなってしまう。
「うん……仲直り、しよう」
 右手を差し出すと、数秒のためらいの後、おそるおそる手が伸ばされた。遠慮がちなそれを捕まえるように、握りこむ。痛くない程度に力を込めてぎゅっと握ると、やっぱり少し遅れて、握り返される。これでもう、ちゃんと仲直りだ。
「めでたしめでたし、かな?」
 バラエティ番組でも観るような態度だったマーリンが、ひょうひょうと口を開く。
「……見せ物じゃないんだよ」
 ぶすっと返すと、ごめんごめん、と笑顔で返される。形だけの、まったくもって反省の色が見えない謝罪だ。
「僕は夢魔との混血、人でなしだからね。人間の感情の移り変わりは、とても興味深いのさ。許しておくれ、マイロード」
 すっと、色白の手が差し出される。その手を見て、マーリンの顔を見て、また手を見る。
「……マーリンからは、反省が感じられないんだよなあ」
「辛辣だなあ」
 信じてませんと言う気持ちを込めてじとっとした視線を向け、今度はマーリンの手を握る。頼光さんより少し大きくて骨ばっていて、少し冷たかった。
「ドレイクも、エミヤも、ジークフリートもごめんね。次からは気をつけるから」
「気にするこたァないよ。アタシは好きだからね、勢いのあるヤツ。一緒に突っ込んでやるから、安心しな!」
 太陽を落とした女が、お日さまのような笑顔で私に手を差し出してくる。
 マーリンに続いて握った船長の手は、女の人のわりには厚みがあって、少しがさついていた。舵を取り、ロープを引いた手。海で生きた者の手だと、思った。
「君はいくら言っても聞かないだろうからな。せいぜいサポートをさせてもらうよ」
 嫌味を言いながら、赤い弓兵も手を差し出してくる。握った彼の手も、厚みがあった。ただ、それはドレイクのものとは違う、ずっしりとしたものだった。弓を、剣を、武器を奮う手なのだと感じられた。
「俺がいながら、危険な身に遭わせてすまない……」
「ううん。今回は頼光さんの言う通り、私が軽率だったから。ジークフリートの力には、いつも助けられているよ。ありがとう」
 なんだか、皆と握手をするという妙な流れになってきている。律儀に手甲を外した、ジークフリートの手を握る。骨と、手の筋肉がしっかりとした、英雄らしいと言える感触だった。
「それじゃあお宝探しに行こうじゃないか。凶骨の骨だったっけ? ガイコツどもから追い剥ぎってねえ!」
 アッハッハ! と高らかに笑って、ドレイクは戦闘でめちゃくちゃになった場所へと歩き出してしまった。単独行動、と思ったけれど、財宝を愛するような彼女に言ったって、通じることはないだろう。私と違って戦闘能力もあるのだから、こうなったら自由にさせたほうがいい。それに、最高の幸運を持っているドレイクなら、素材以外にもいい見つけものをするかもしれない。
「凶骨と一口に言っても、使える物、使えない物がある。なんでもいいわけじゃあない」
「大きい骨……だろう?」
「そうだ。なるべく原型が残っているものでなければ、素材として使えない。粉々に砕けたものは論外だな」
 エミヤとジークフリートも素材について会話を交わしながら、あとを追う。
 振り返ると、マーリンと頼光さん。
「何かあれば呼んでおくれ、マスター」
 にっこりと笑って手を振ると、マーリンもふらふらと行ってしまった。
 残される、私と、頼光さん。ちらりと視線を向けると、涙こそ止まったようだけれど、彼女は鼻をすすり続けていた。
「……これ、どうぞ」
 ハンカチを差し出すと、いやいやと頭を横に振られる。
「まだ使ってないから、きれいですよ」
「だめです、だめです……よごしてしまいます……」
「洗えば大丈夫だよ。ていうか、そんなに気にするなら、頼光さんにあげるよ。大したものじゃないから、使い終わったら捨ててくれてもいいし」
 ぐいぐいと、押しつけるようにしてハンカチを握らせる。無地のシンプルなものだったけれど、こうなったらなにかしらのプリントがあっほうが良かった気がする。花とか、動物とか。金時顔のプリントだったら喜んで使ってくれただろうか。──いや、このひとなら、もったいなくて使えないと言いだすかもしれない。
「捨てるなど……! ものは大事にしなければいけません!」
「うん、そうだね。それなら、ハンカチも使ってあげないと。そのためのものでしょう?」
「うっ……うぅ……」
 屁理屈をこねてようやく、頼光さんはハンカチを受け取ってくれた。涙で一本一本コーティングされたまつげ、赤くなった目尻、涙袋、余すことなす濡らした頬。それらをゆっくりとぬぐっていく。その仕草はとても品があり、雅なひとという印象を受ける。
「鼻ちーんは?」
「……汚してしまいます」
「泣いた時の鼻水って、もともと涙なんでしょう? 汚くないと思うけどなあ」
 白くて華奢な指から、ハンカチを奪って、強引に鼻へ押しつける。
「ま、マスター……!」
「はい、ちーん」
「自分で、できます……!」
「そう?」
 今度は頼光さんが私からハンカチを奪い返して、わずかな逡巡のあと、ひかえめに鼻をかんだ。
「上手、上手」
「……」
 目を赤く染めたまま、神秘殺しがぷくりと頬をふくらませる。
「……母は、私なのですよ」
「そうだねえ」
 不満顔、というより、すねた顔だ。いくら主張されても説得力はない。
「あんまりみんなと離れるのも、よくないし。行こっか」
 うながして、並んで歩き出す。少し進んだところで、手の甲に頼光さんの手がぶつかった。ごめん、と口にしかけたところで、おずおずと指をすくわれる。
「……危ない、ですし……迷子になっては、いけませんから」
 ひどく、言い訳じみた主張だ。手を握っていては、刀も抜けないはずなのに。危険とかはぐれるとか、そんな理由をつけなくても、ただ一言「手をつなぎたい」と言ってくれれば充分なのに。
「おーい、マスター!」
 先行していたドレイクが、向こうで手を振っている。きっといい収穫があったのだろう。やっぱり、彼女を連れてきたのは正解だったのかもしれない。
 あいてる方の手を大きく振り返して、私と頼光さんはゆっくりと歩みを進めた。


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