──青。目を開けると、目の前一面が青だった。
 そして次に気がついたのが、内臓が浮き上がるような感覚と、全身を包む強い風。
 もしかしてもしかしてもしかして。嫌な記憶が思い出され、さあっと血の気が引く。前後左右どこにも、自分がいる場所の確かな感覚がない。これは、これは、もしかして。
「──ッ落ちてるううううう!」
 宙空を地上へ向けて落下しているのだと認識すると同時に、私は大絶叫した。
「やだやだやだやだやだこわいこわいこわいこわいこわいいいい!」
『──マスター! 落ち着いてくださいマスター!』
「──マシュ! マシュ……!」
 聞こえてきた後輩サーヴァントの声に必死ですがりつく。高いところはいい。それだけならいい。でも、そこから飛んだり落ちたりするのは、話が別だ。
『マスター! 近くにサーヴァントの姿はありませんか!』
「み、見当たらない……!」
 まわりを見てみるけれど、同じように落下している人影はなかった。ただ、遠くに見える山の峰や、激突に向けて近づいて行っている森を考えると、相当な高さにいることだけはわかる。あと、どれくらいで地面に激突して死ぬのだろう。きっと、思うよりそれはすぐだ。
「し、し、死ぬー! 死んじゃうー! 絶対死ぬー! うわーん南無三! なむさん! なむさーん!」
『はっはっは、パニックを起こしているなあ、ソノキちゃん? もしもーし、聞こえるかい、君の頼れる天才だよ。私が誰かわかるかな?』
「──だ、だ、だびんちちゃん……!」
『そう、万能で、美しく、誰もが知るレオナルド・ダ・ヴィンチさ! それでは見事正解したマスター、ソノキちゃん。これから私が言うことをしっかり聞いてほしい』
「たすけてよおだびんちちゃんんん!」
『だーいじょうぶ、助けるとも。助かるとも。だから安心したまえ。君には私もいるし、マシュもいる。その他にも大勢のサーヴァントがいるじゃないか』
 ──なっ? ウィンクもついてそうな軽やかな声音。
 墜落の恐怖が、少しだけやわらぐ。彼女が言うのならばそうなのだろう、と思える万能の天才ゆえの説得力。
『君が助かるのは簡単なことさ。一緒にレイシフトしたサーヴァントがいるだろう。彼らを呼ぶんだ』
「どうやって!」
『令呪を使うのさ。誰でもいいから呼んでみたまえ。一人くらいは来るはずさ』
『ダ・ヴィンチちゃん、そんな説明、少し大雑把過ぎではないですか!』
「──だれかきてえええええええ!」
 一も二もなく、右手の甲に意識を集中して叫ぶ。刹那、甲に燃えるような焼けるような熱を感じ、
「──まったく。うるさいマスターだな、鼓膜が破けそうだ」
 魔法のように、すぐ側へ自分以外の存在が現れた。
 空よりも濃い青の髪、大きな眼鏡に、私より小柄な少年の体躯。サイズの合っていない白衣をばたばたとはためかせながら一緒にダイブするのは、キャスターの英霊。
「──っあ、あ、あんでるせんせええええ!」
 アンデルセン、その人だった。
「た、たすけてたすけてええええええ!」
「叫ぶなうるさい! しがみつくな鬱陶しい!」
「だってだってだってこわいよおおおお!」
 空で手を伸ばし、頼みの綱を引き寄せてがっちりと抱きつく。見知った顔が来てくれたからか、ぶわりと涙があふれた。目尻から雫をこぼしながら、私よりも一回りもふた回りも小さい身体にすがりつく。ここで彼を離してしまったら、きっと助からない。
 特異点キャメロットと新宿で行われた二度の人間ロケットで、私は高所恐怖症になったらしかった。
 想像してほしい。サーヴァントとという人を超えた存在が側についているとはいえ、パラシュートなどの安全装置もない生身の状態で空を飛ぶ気持ちを。心に傷を残したとしても、なんらおかしくはない。
 さいわいなことに高所からの射出、落下の類は滅多にないため、その後の日常生活に大きな支障がなかったのだけれど──この通りだ。レイシフトも完璧ではない、不安定で不確定なものだとはわかっているけれど、よりにもよって空に放り出すなんてあんまりだ。
「仕方のないやつだな……安心しろ、お前は助かる」
 外見と不釣り合いな低い声が、ごうごうとうなる風の合間を抜けて耳に届いた。
「しがない作家の英霊とはいえ、サーヴァントには違いあるまい。お前のクッション代わりにくらいにはなるだろうさ」
「────え──」
 白衣の袖を余らせた腕が、私の背中に回る。その力は存外に強く、しっかりとしていた。
 意味を理解した瞬間、身体が奥底から凍りついた。地面は背、空は正面。私を抱える、ハンス・クリスチャン・アンデルセン。アンデルセンにかばうように抱え込まれた私、桑染園希。これは、つまり、このままだと──。
「や──やだやだやだ、アンデルセン!」
「暴れるな! 体勢が崩れてお前が下になったらどうする。死ぬぞ!」
「それもやだー! やだやだやだやだ──いや……!」
 このまま墜落死はいやだ。けれど、私をかばって彼が下敷きになるものいやだ。どちらかのためにどちらかが犠牲になるなんて、絶対にいやだ。
「──ほうぐ! 宝具で──……!」
 彼の宝具は、本に書いた通りに対象を成長させるものだ。ムッキムキに強い自分の姿を書きつければ、この窮地を打開できるはずだ。
「俺の宝具か? 残念だが無理だな、大人しく諦めろ。考えてもみろ。そう簡単に脱稿ができるものか。お前は作家の執筆というものを甘く見過ぎている。さらにだ。他にサーヴァントがいるならまだしも、俺は俺のことを心底嫌っている。お前を救い自分も助かる『最高の姿』なんぞ、たった一行さえ書き上がるものか!」
 瀬戸際だというのに、アンデルセンはいっそ堂々と誇らしげに言い切った。厭世家で自分自身のことを嫌っていることは知っていたけれど、こんな状況なのだから、もう少しがんばってみてもいいのではないのだろうか!
 みるみる地上は迫ってきている。下に広がる緑が樹々なのだとわかるくらいに。どのくらいの高さから落ちてきたのかはわからないけれど、タイムリミットまでそう長くはない。どうすればいい。私はマスターなのに。何もできないのか。
「やだよお……!」
 アンデルセンの小さな身体にしがみつきながら、駄々をこねるように叫ぶ。それでどうなるわけでもないというのに。不甲斐ない自分が情けなくて、鼻の奥がつんとする。泣いたところで、現状を打破できるわけでもないのに。
『──マスター!』
「──間に合ったな」
 通信のフィルターがかかったマシュの声と、それに重なるようにして聞こえた悠々とした声。
「──スリサズ。イーサ。ライゾー──」
 呪文というにはあまりに短い。聞きなれない単語をつなげたようなそれは──ルーン魔術だ。
「──キャスタぁ!」
「助けに来たぜマスター、童話作家のセンセイ」
 空に似た色の長髪を風に遊ばせながら、キャスターのクー・フーリンが私たちに向かってオークの杖の先を向けていた。
『うん、間に合ったようだね。よかったよかった。キャスターのクー・フーリン、君に感謝だ』
『私からも感謝を!』
「──あ……」
 落下のスピードが、少しずつ緩やかになっている。キャスターのルーン魔術が減速させているのだろう。真下は森林のようだけれど、この様子なら枝葉で肌を切るくらいで済みそうだった。
「遅いぞドルイド! 貴様、それでも光の御子と名高いケルトの大英雄か?」
「こちとらマスターの令呪が届かないくらい離れたところに飛ばされてたんだよ。間に合っただけ上等だろうが」
「他のやつらはどうした」
「魔女と聖女狂いと絵本の嬢ちゃんなら、自力でなんとかなるだろ」
「────うッ、うぅ──」
 アンデルセンとキャスターのやり取りを聞いていると、堪えていた涙があふれた。──助かったのだ。私も、彼も。地上に叩きつけられてぐちゃぐちゃになることは、もうないのだ。
「おいマスター、クワゾメソノキ、まさかお前泣いているのか」
「──った──よかったあ……!」
 ぎゅうぎゅうとアンデルセンを抱きしめて、その肩に顔をうずめる。この体温が失われなくてよかった。
「ま、こればっかりはお前さんに非があるな。自分を犠牲に、なんてこのマスターが良しとするわけがないだろ」
「……気に食わん。高所恐怖症でパニックを起こすような小娘だぞ。大人しく助かっておけばよかっただけの話だろう。まったく、実に、心の底から気に食わん。三文小説以下のつまらなさだ。駄作どころの話じゃない」
「ハイハイ。さ、地上はもうすぐだ。あんたはそのままマスターを抱えてな」
 着陸のために微速度となっている私の背中へ、躊躇いがちに腕が回った。ありがとう、と鼻声ですすりあげると、やけくそのように力が込められた。


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