波羅夷空却は、待つことが嫌いな男だ。それ故に決断が早く、他人にも同様に即決を強いる。
しかしそんな男はもう数年に及んで、お預けを──待てを、させられている。
「く、空却、くん」
寺暮らしにはあまり馴染みのない洋室。白熱灯の明かりが灯る中、空却に組み敷かれた家主は身体を強張らせて視線をさまよわせた。
「空却、くん」
「……」
戸惑っているような呼びかけへ返事をせずに距離を詰めると、二人を受け止めているベッドが軋んだ。
「──だ、だめ!」
切迫したような声をあげ、肩を押して拒んだ女に、空却は露骨に眉根を寄せた。
「キスくらいいいだろうが」
「き──……!」
キス、という単語に顔を赤らめた女は、大げさなほど首を振って「だめ、だめ」と繰り返した。
「だめ、だよ──」
数えることもとうに辞め、何度目になるかもわからないこのやり取りは、やはり今回も同じだった。空却は舌打ちをしそうになるのを寸前で堪え、代わりに渋面を作った。
波羅夷空却と、この部屋の主──桑染園希は、恋人同士である。
園希は空却の属する寺の檀家で、二人は幼い頃から付き合いがあった。いわゆる幼馴染である。
その関係を打ち破ったのは、空却からだった。
──信心深く、面倒見のいい園希を他の者に取られたくない。始まりは、独占欲じみたものだった。
家業が家業であったためか、あまり玩具を与えてもらうことがなかった空却にとって、相手をしてくれる幼馴染は執着の対象になりうるものだったのもあるのだろう。
けれど、その感情も成長とともに変質していった。恋慕の種を育て、今の関係性まで進展させたのは、空却が高校生、園希が社会人となる時分だった。
──それから三年。二人の関係性は、ほとんど進展していなかった。
「いい加減にしやあ。毎ッ回毎ッ回、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ! 付き合ってんだから、なんもダメじゃねえだろうが!」
「だって、空却くん、未成年だもん!」
喚いた空却に、園希も負けじと叫んだ。
二人の年齢は六つ離れている。「先」を阻む大きな理由がそれだった。
園希は信仰心が厚い。生臭な空却よりよっぽど仏の教えを信じ、守っている。倫理、道徳、貞操観念といったものが固いのだ。
高校生になったばかりの子とは付き合えない、歳が離れている──。空却が初めて心中を打ち明けた時も、そういったことを理由に断られている。
もっともその程度の事で諦める空却でもなかったため、口説き、情に訴え、時には強引な解釈の説法を交えて丸め込みながら、恋仲へと漕ぎ着けたのであるが。
しかし、そこから先にも難題は待ち受けていた。この通り、身持ちの固さである。敬虔な園希は、恋人の間にあるような触れ合いを簡単には良しとしなかったのだ。
年齢も原因ではあったが、空却が僧侶であるということも問題だった。出家者に課せられた戒律「不邪婬」の教えである。
邪で淫らな事をするなかれ──。十善戒で説かれている、戒めの一つである。
妻帯も許されている現代において、不邪婬は男女の道を乱さない──不倫など不道徳な男女関係を持たない──という、必ずしも性交渉を禁じない考え方が主流である。
だというのに、園希は前時代的に情事そのものを避けようとする。房事無くして子は成らなず、この世に園希と空却が在るのも、そもそも両親が男女の契りを交わした他ならない証だというのに。
「未成年でももう十九だが! AVも観れるし、なんならデリヘルも呼べりゃあソープにも行けるわ!」
包み隠さない言い方に、言葉を失った園希が口を閉じたり開いたりしながら、恥じらいを見せる。初心なことは結構だが──波羅夷空却は限界だった。
「いつまでもお手手繋いで仲良しこよしだけで満足してられっか。もうそんなガキじゃねえんだよ。こっちは充分待たされてるんだ、そろそろキスくらいさせろ」
貞淑な点は園希の美徳である。けれど、色恋にある男女となれば話が別だ。焦がれる相手だからこそ、身も心もすべて知りたいと願うのだから。
「で──でも、だって」
「でももだってもねえ! 付き合ってから三年、手を繋ぐだけって有り得ねえだろ。俺達ゃ幼稚園のガキか? 今時、幼稚園児の方がチュッチュチュッチュしてるくらいだろうが!」
高校生と肉体関係が持てない、というのはまだわかった。いくら性的同意年齢に達しているといっても、相手は在家でもないのに戒律を気にするような信心深さである。高校を卒業するまでは、と思い辛抱もした。
しかし、やっとの思いで卒業を迎えたところで、今度は「成人していない」という名目で禁欲を強いられることになる。園希の性格を考えれば予想されることではあるが、卒業が終着点ということを励みに堅忍していたのだから、そこまで考えが至らなかったのも止むを得ないだろう。
「そ──そういう、ことは、やっぱり、大人になってからのほうがいいと思うの……」
もじもじもごもごとしながら、園希は主張する。
年齢を言い訳に先延ばしをしているが、それが恥じらいからくるものであることもまた、よくわかっている。手を繋ぐだけでも照れて見せる女なのだ。より明確に関係性を意識させられる行為となると、そう易々とはいかないということも、重々承知している。
承知している──が。
返答をせずに、シーツに広がった髪を掬う。肌には触れてもいないのに、園希はぴくりと身体を震わせた。緊張で強張っているのが見て取れる。
「──お前のことを好いている。なあ、いいだろ」
低い声音で説き伏せるように、二人の距離を縮める。
待てない、気が短い男はにしては、相手のことを尊重して随分と耐えた。少しくらい、その報い──褒美──があってもいいはずだと、空却は考えている。今すぐにでも暴いて、自分の手で滅茶苦茶に乱して、お互いの存在を確認したい、という暴力的な欲求を宥めすかすのも楽ではないのだから。
戒律など知ったことではない。端から生臭坊主であることは自覚がある。煩悩があるから人間なのであり、そして波羅夷空却は仏ではない。
ただ、今より少しだけ先に。手が届くところにある「人参」を、ただ眺めるだけにするのではなく。
「ま、まって、くうこうくん」
「待たん。俺を部屋に上げたのはお前だ」
在宅と知って押しかけ、中に入れろと迫ったのは空却であるが、扉の前で尋ねている。いいのか、と。
それに頷いたのはこの女だ。ならばこういう状況になることも踏まえた上での行動だろう。男を部屋に招くということの、意味を知らないとは言わせない。何故ならば、空却を子供扱いする「大人」なのだから。
「くう、くうこう──くん」
今回ばかりは空却に引くつもりがないことを感じ取っているのか、打つ手を無くした園希はただ彼の名前を呼ぶばかりだ。顔だけでなく、耳も首も赤く染めて狼狽える様は、余計に劣情を抱かせるというのに。
一向に抱かせてはくれないことに不満はあるけれど、この純情な面は愛おしくて仕方がない。最も身近な男の位置に収まり続け、余計な虫がつかないよう目を配り、己以外の男に興味を持つことがないようにしてきた賜物なのだから、当然ではあるのだけれど。
長い「御預け」も、この女が誰のものにもなったことがないと知っているからこそ、甘んじることができているのだ。
だが、限界もある。不慳貪、不瞋恚を教えられていようとも、断ち難いのが欲心である。破戒の見本のような男には、何の制約にもなりやしない。
「この拙僧に目を付けられたのが運の尽きだ。マーラに唆されたとでも思って、観念するがいい」
頬に手を添えると、縮こまっていた園希の身体が硬直する。不安か、怯えか、その瞳に薄く涙の膜が張る。
「おねがい、まって、ね? ね?」
「──聞き飽きた」
一蹴し、あやすように頬を撫でる。触れている掌が熱いのは、相手の体温のせいばかりではない。
「く──くうこう、くん」
か細い声で、園希が空却の名前を呼ぶ。
「くうこう、くうこうくん、おねがい、まって──……」
──くうこう、くん。
肩を押し返す手が戦慄き、弱々しく服を掴む。
「──……ざッ──けんな! お前わかっててそんな声出してんだろ!」
空却は身を起こして叫んだ。哀れっぽく何度も呼ばれ、縮こまれては強くも出られない。惚れた弱み──である。波羅夷空却は、桑染園希が真に嫌がることは出来ないのであった。
長らく燻られている情欲がある。けれど、それを自分本位に、一方的に解消したいわけではない。それこそ不邪婬である。交歓を求むのならば、お互いの気持ちが通じ合っていなければ意味がないのだ。
傷つけるようなことはしたくない──しない。それは、仏へではなく自分自身に誓っていることだった。
「……園希」
「は、はい……」
「拙僧は何も、セックスを迫ってるわけじゃあねえんだぞ。その手前の手前、キスがしたいと言ってんだ。口と口をチョチョっとくっつけるだけなんだから、簡単だろうが」
またがったままの体勢で、真正面から目と目を合わせて説教をするように言い聞かせる。
「だって……」
うんざりするほど繰り返されている言葉を前置きにして、園希がおずおずと続ける。
「……したこと、ないし……はずかしい……」
「──」
頬を赤らめながらそう打ち明けた園希を見て、空却は欲念が再びはっきりとした形をとるのを感じた。
「……お前は、俺のことが好きか」
ぐ、と絞り出されたような問いは、広くもない部屋ではすぐに、滲んで消えた。暖色の白熱灯は温かみがあるというのに、余所余所しく二人を照らしている。
「……」
「すき、だよ」
数秒の間の後、これまでの廉恥からは考えられない呆気なさで、無防備な声が返された。
「好きだよ、空却くん」
はにかみながらもはっきりと、園希は繰り返した。
遠慮がちな指先が、空却の指先に絡む。自分のものではない体温が触れたところから伝わり、お互いの熱を分け合う。ぬくみの混じり合ったところから二人の境界が溶けていくような、あり得るわけがない感覚に、いっそ眩暈を覚えるほどだった。
指頭が少し触れただけだというのに、身体の奥の奥、最も深いところから、どうしようもない衝動がこみ上げてくる。
「──許せ」
懺悔のような言葉を投げ捨てるが早いか、触れるばかりの手を強く握り込み、その指先に口付けた。
「く──」
驚いて逃げようとする園希の手を、離れてしまわないように引き寄せる。爪に、指に、手の甲に、輪郭を確かめるように唇を落としていけば、その度に小さく反応する様がいじらしくて堪らなかった。
──この衝迫は、紛うことなき欲気である。けれど、ただの煩悩として、心の汚れとして否定するべきものとも思いたくはなかった。
C淨句是菩薩位──男女の交合を邪婬として頭ごなしに戒めるだけならば、十七清浄句の読誦はなんだというのだ。正しい心を持ってして互いに触れ合うことは、清浄なる菩薩の境地ではないのか。
渇愛は、成る程苦悩の根源である。けれど、人の「愛」は小欲によるものばかりではない。胸を衝くこの情意は獣欲を孕んではいるけれど、目の前の女への慈愛に満ちている。
「──好きだ」
溢れ出したような言葉は、一転してひどく穏やかな響きをしていた。
唇で、かたちを探るように何度も何度も手に口付ければ、触れた唇がじんと痺れるような熱を持つ。
「お前が好きだ、園希」
薬指の付け根を口唇で柔らかく食み独白のように零すと、躊躇いがちに、手を握り返された。
「わ──わたしも、すき」
か細い、息も絶え絶えなかすれ声が応えたかと思うと、手を引かれる。
次の瞬間には、空却の指先に柔らかな感触が掠めた。
唇が触れたのは、ほんの僅かな時間だった。瞬きの一瞬にも満たない。それでありながら鮮烈で、痛烈だった。
衝撃に言葉を失っていると、その隙に園希は空却から逃れ、顔を手で覆ってしまった。
「はずかしい……」
蚊の鳴くような声が、空却に意識を取り戻させる。
「……ッはぁあ──……」
空却は深く深く息を吐いて、園希と同じように顔を手で覆った。
「……お前のそういうところ、タチが悪すぎっぞ」
一切の計算がない、天然──素の行動なのだから、頭を抱えたくもなる。純朴が故なのか、良くも悪くも予期せぬことをしてくれる。
「い、いや──だった?」
今度は顔を青ざめさせながら、園希が尋ねた。自分の行いが裏目に出たと思っているのだ。
「惚れた女にキスされて、嫌な男がいるわけねーっての」
血の気の引いた頬を撫でてやれば「よかった」と安堵の息をもらす。これではどちらが歳上なのか、わかったものではない。
「……まあ、お前さんにしちゃあ頑張った方だろうな」
唇と唇を重ねるものではなかったけれど、奥手の女が甲斐性を見せたのだ。これ以上を求めるのは、強欲が過ぎるだろう。関係を発展させる気がないわけではない、とわかっただけでも充分とするところだ。
あとは、押して、引いて、丸め込んで、手に入れるだけのことなのだから。
限界まで先送りにしたとしても、二十歳を迎えるまでが期限である。正真正銘、最後の終着点は、もうそれほど遠くもない。
それに、ここまで待たされたのなら、三年も四年も変わらない。ならばいっそ、猶予期間の今を楽しんでおくのも悪くないのかもしれない。事に及んでからは、それ以前に戻ることは出来ないのだから。
「園希」
「うん?」
歳上の情人は、名前を呼ばれてあどけない顔を見せる。
「もう少しだけ待ってやるから、精々覚悟を決めておけ」
僧は仏門の徒らしからぬ悪童じみた笑みを浮かべ、慈悲深く告げた。
←back
BGM:Kiss / iLL
自慰/手淫/オナニズム