◆ 準備

 どうして、私はまだ高校生なんだろうと、最近よく考える。もし私がもう少し早く生まれていたなら。せめて二十歳になっていたなら――。
 けれど、私が今十六歳の高校生だったからこそ、あの人と出会うことが出来たんだから、文句は言えないのかもしれない。
 窓から覗く空は青く、差し込む太陽の陽射しを目一杯に取りこんで、ざわつく教室。向かい合って広げた昼食を、さっさとたいらげた乱菊先輩は、ぱん、と両手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「乱菊先輩、食べるの早いですね……」
「あんたが食べるの遅いだけよ」
 織姫ちゃん程ではないにしても、乱菊先輩もなかなか食べっぷりが良い。そして私は、食べるのが遅い。弁当もまだ三分の一近くが残っている。先輩は、食後のコーヒー牛乳にぷつりとストローを差すと、すっと目を細めて私を見た。
「ご飯も食べずにぼんやり外なんか眺めちゃって。どうせまた、うらは」
「せ、先輩っ!」
 先輩の口から飛び出しそうになった名前に、私は慌てて声を遮った。恥ずかしがりの私は、軽い冷やかしにもすぐ血が上る。自分でもわかるほど、全身が熱い。きっと、顔が真っ赤になっていることだろう。
 そんな私を見た先輩は、どかりと椅子に背中を預けると、小さく肩を竦めた。
「あんたって本当、わかりやすいわよね」
 呆れたような口調で言われても、私には言い返す言葉がなかった。あの人のことを考えてぼんやりしていたことは、事実なんだから。
 けれど、その名前は私にとって、特別な響きをする大事なものなんだから、つい反応してしまっても、しかたのないことだと思う。
「そんなことより先輩。いつも思ってたんですけど、なんでわざわざ私の所にご飯食べに来るんですか。先輩目立つから、教室に居づらいんですけどっ」
 からかわれっぱなしも悔しくて、話題を変えてささやかな反撃を試みる。そんな私を見て乱菊先輩は、肩にかかる金色の髪を後ろへ払った。たったそれだけなのに、海外の映画に出演する女優のように、とても絵になる。
 乱菊先輩は、とにかく目立った。腰まで伸びた、艶やかな波打つ金髪に、高校生らしくないグラマラスなボディ。すらりと伸びた背に、猫のようにしなやかな手足。そういったものを一切隠すことをせず、むしろ惜しみなくさらけ出した華やかさは、いっそ潔いほどだった。ぱっと人目を引くその容姿から、学校では知らない生徒はいないくらいだ。
 だからこそ、地味を地でいくような私と並ぶと、華やかさがよけいに際立ってしまって、しかたがない。私は私だから、別に、乱菊先輩の華やかさに嫉妬なんかはしないけれど、さっきからずっと、ちらちらと送られる男子生徒の視線が、恥ずかしくて居心地が悪かった。
「なあに、あたしとご飯が食べられないっていうの。可愛い後輩の相談に乗ってあげてる、心優しい先輩だっていうのに」
 目を細めて、不満そうに唇を尖らせた先輩に、う、と言葉が詰まる。
「中学からずっと可愛がってあげてるっていうのに、ちょっと薄情じゃない?」
 足を組んで、睨むようにじとっと見上げられれば、もう私には反論する術がない。正にその通りで、私は中学生の頃から乱菊先輩にお世話になっている。今だって、何かあるたびに相談に乗ってもらっているし、頼りにしているのは事実。
 けれど、素直に謝るのもやっぱり悔しい私は、そっぽを向きながら、小さくすみませんでした、と呟いた。
「──本当、あんたって可愛いわねえ!」
 乱菊先輩は、大きな声で明るく笑い飛ばすと、ばしんと私の肩を叩いた。
 ああ、可愛がってくれるのは嬉しいんだけど、もう少し大人しくしてください……!
 ちくちくと痛いクラスメイトの視線に、顔が赤くなるのがわかった。
「ほら、さっさとご飯も食べちゃいなさい」
「……はぁい」
 食後のトークタイムが待ち遠しい先輩は、まわりの視線もお構いなしに私を急かした。乱菊先輩には、恥ずかしさという気持ちが、欠けているのかもしれない。
 私は、クラスメイトの視線から逃げるように弁当に目を落とすと、いじいじとお箸を動かした。玉子焼きを口に放りこみ、ご飯を頬張る。ブロッコリーを飲み込んだら、コロッケに手を付ける。乱菊先輩はコーヒー牛乳を片手に、スマートフォンをいじっている。
 ありふれた日常だと思う。大きな不幸が起きることもなく、小さな幸せばかりが散りばめられた、ごくありふれた日常。乱菊先輩に恥ずかしい思いをさせられることはあっても、この、取り立てて大きな事件の起こらないささやかな毎日が、私はけっこう好きだった。
「ごちそうさまでした」
 ようやく弁当を食べおわった私が両手を合わせるのと同時に、乱菊先輩が携帯電話を机の上に伏せて置いた。「飲む?」と差し出されたコーヒー牛乳をありがたく受け取って、一口いただく。
「ありがとうございます」
「はーい」
「──桑染君」
 コーヒー牛乳を返すのと、乱菊先輩が口を開くのと、桑染君と私の名前が呼ばれたのは、ほぼ同時だった。
 声の聞こえた方を振り向けば、藍染先生が教室の入口辺りに立っていた。いつも通りの穏やかな笑みを浮かべて、こちらへやってくる。
「藍染先生、どうしたんですか?」
「桑染君、悪いんだけど、手伝って欲しい事があるんだ」
「手伝って欲しいこと、ですか……?」
 どうしたのだろうと、お弁当を片付ける手が止まる。
 けれど、藍染先生が続けて言葉を発するよりも先に、乱菊先輩が口を開いた。
「なんですか、それ。今、昼休み中なんですけど」
「乱菊先輩……!」
 あからさまに不機嫌な態度に、私の方が焦る。教師だとか関係なく遠慮がないその態度に、藍染先生は困ったように眉尻を下げた。
「ああ、本当に悪いとは思うんだけど、現代社会の係の雛森君が――お休みでね」
「ああ」
 そうか、と、斜め前の空いた席に目を向ける。今日は欠席している桃ちゃんは、現代社会の係だった。
 けれど、そんなこと乱菊先輩には関係がなくて。
「手伝いなら、他の生徒でもいいんじゃないんですか? 何も園希じゃなくたっていいと思うんですけど」
「乱菊先輩ってば……!」
 まるでつっかかるような先輩を、慌ててたしなめる。いくら藍染先生が優しい人でも、こんな態度をとるのは良くない。
「もう……。藍染先生、良いですよ、お手伝いします」
「園希!?」
「乱菊先輩、ちょっと静かにしてくださいっ。恥ずかしいです……!」
 身を乗り出して、何のつもりだと声を大きくする先輩に、クラス中の視線が集まって、私は焦った。早く話を済まそうと、早口で続ける。
「藍染先生、お昼の片付けが済んでからでも良いですか?」
「ああ、本当に助かるけど――いいのかい?」
「大丈夫です。お弁当も食べ終わっているので」
「園希ったら!」
「それなら、先に社会科資料室に行ってるから、片付けが済んだら来て貰ってもいいかな」
「はい、すぐ行きます」
「ありがとう。――それじゃあ松本君、悪いけど桑染君を借りるね」
 申し訳なさそうに微笑んだ藍染先生に、私も笑って返す。そのやり取りを、拳を握りしめながら見ていた先輩は、藍染先生がいなくなった途端に「ふざけんじゃないわよ!」と、爆発した。
「何なのあいつ! ムカつく! 大体あんたもあんたよ、なんであんなやつの仕事手伝うのよ!」
「ら、乱菊先輩、静かにしてくださいってばっ。恥ずかしいです……!」
 わあわあと怒りもあらわに騒ぐ乱菊先輩に、野次馬の視線が向けられる。ただでさえ目立つ先輩が、さらに目立つことをするものから、廊下を歩いていた生徒も立ち止まって、こちらを見ているほどだ。
「桃ちゃんがお休みなんだし、誰かが手伝わなきゃいけないじゃないですか」
「どうせあんたが大人しくて頼みやすいからって、声を掛けたに決まってるわ。あんな教師の手伝いなんかする必要ないわよ!」
 クラスメイトの遠巻きに眺める視線と、藍染先生に文句を言う先輩。野次馬の視線の恥ずかしさと、乱菊先輩の苛立ちに挟まれて、なんだかもう泣きそうだった。目立つことが苦手な私にとって、今の状況は拷問に近い。
 とにかく先輩を落ち着かせなければと、小さな声で名前を呼べば、乱菊先輩はぴたりと止まった。一呼吸、私の目を見つめると、諦めたように大きくため息をついた。
「ごめん。悪かったわ」
「……なんで、そんなに、嫌がるんですか」
 少しだけ咎めるような口調で尋ねれば、先輩はちらりとこちらに視線を向けて、口を開いた。
「あの男、胡散臭くて好きじゃないのよ」
「うさん、くさい……?」
「まあ、単純に好き嫌いの問題もあるんでしょうけど」
 乱菊先輩は、まとわりつく不快感を払うように、ばさりと髪を揺らして残りのコーヒー牛乳を一気にあおった。
 私は、少しずつ離れていくクラスメイトの視線にほっとしながら、藍染先生の顔を思い浮かべた。藍染先生はいつも穏やかで、教師だからと偉そうな口をきくこともなくて、どちらかというと生徒に慕われている人だ。それに、相性の問題にしても、あんなにつっかからなくてもいいんじゃないだろうか。
 お弁当箱をバンダナで包みながらそう考えていると「園希」と、トーンの落ちた声が名前を呼んだ。重みのある響きに、はっと顔を上げると、乱菊先輩が真剣な表情で、真っ直ぐに私を見ていた。
「あんたが手伝うって言うんなら、もう止めないわよ。そういうところがあんたの良いとこだしね。ただ――気をつけなさい」
「え?」
 なんだそれは、と首をかしげた私に「女の勘よ」と言葉が続く。
「まあ、何も無いとは思うけどね」
 乱菊先輩はさっと立ち上がると、ゴミをコンビニの袋に詰め込んだ。
「今日の所は帰るわ。邪魔したわね」
 乱菊先輩はひらりと手を振ると、すたすたと教室のドアへ向かう。
「あ、ちょっと、先輩……!」
 私が慌てて呼び止めてももう遅く、先輩は廊下の向こうに消えていった。
 教室のざわめきの中、ふっと、藍染先生の顔が頭に浮かぶ。いつも穏やかに微笑んでいて、生徒達に優しい先生。桃ちゃんなんか、憧れて尊敬しているほどで、そんな藍染先生の一体どこが、食えないというのだろう。
 ――気をつけなさい。
 乱菊先輩がそこまで言う理由が、私にはわからなかったけれど、最後に少しだけ植え付けられた不安が、胸の中をさわりと撫でた。


◆ 調理

 社会科資料室へと向かう廊下。窓から見上げた空は高く澄んでいて、晴れわたっているというのに、私の胸の中はもやもやとしたものがゆっくりと渦をまいていた。
 さっきからずっと、気をつけろと言った乱菊先輩の言葉が、小さな不安として影を落としている。
 どういう意味なんだろう。忠告の意味を考えながら、どこか重い足取りで廊下を進む。藍染先生は、警戒するような人とは思えない。いつも穏やかな表情が頭に浮かぶ。生徒に慕われた、良い先生だと思う。
 いくら考えてみても、もやもやを消せないまま資料室に着いてしまった。私は一瞬立ち止まって、胸の不安を吹き飛ばすように深く深呼吸をして――資料室のドアをノックした。
「失礼します……。藍染先生、桑染です」
 からからとドアを横に引きながら、中を覗き込む。廊下に差し込む陽の光に比べて資料室は薄暗く、吹き飛ばしたはずの不安が、また戻って来たような気がした。
「ああ、中に入ってくれないかな」
 並んだスチール製の本棚の奥の方から、藍染先生の声がして、私は少しほっとした。ドアを閉めて、そろりと奥へ進む。
 ふっと天井へ目を向けた時、部屋の薄暗さの正体がわかった。節電のためにと、二本並べるところを一本に減らされた、蛍光灯達のせいだ。資料の日焼け防止にと、厚いカーテンが陽射しを遮っているのもあるだろう。
 資料室独特の埃っぽい匂いを吸い込みながら、本棚と本棚の細い隙間を抜ける。部屋の奥までたどり着けば、すでにいくつか資料を揃えた藍染先生が、窓際に立っていた。後ろのカーテンが、まるでかちこちに固まったかのように、重く垂れている。
「遅くなって、すみませんでした」
「いや、助かるよ」
 新聞を片手に持った藍染先生の瞳が、眼鏡の奥で緩く細まる。いつもと同じ口調には、何も気をつけるようなことを感じられなかった。乱菊先輩は、心配のし過ぎだ。
「何を手伝ったらいいんですか?」
 不安の消えた私は、きょろきょろと資料室を見渡しながら、尋ねた。多いのはやっぱり本や古い新聞などで、プロジェクターに並んで地球儀が置いてあったり、丸められたスクリーンが無造作に立て掛けてあったりする。資料室や準備室は、どの教科でもごちゃごちゃと物に溢れているものらしい。
 足を踏み入れたことのない社会科資料室に好奇心がわき、あちこちに目を向けていた私の視線は、藍染先生と目があって、ぴたりと止まった。
「あ、藍染先生……?」
 藍染先生が、微笑んでいながらどこか射抜くような目で、私を見ていた。真っ直ぐ過ぎる視線に、思わず動きが止まる。――これは、何?
 視線をそらすことも出来ない私は、ただ吸い込まれそうに、眼鏡の奥の瞳をじっと見つめるしかなかった。ぱさり、と、新聞がスチール机の上に置かれる。こもった空気が、それに合わせて揺れた。はっと、乱菊先輩の言葉が脳裏に浮かぶ。気を、つけろ。
「あ――あい、ぜん、せんせい?」
 普通に出そうと思った声は、喉が乾いていて、かすれたものになった。どくどくどく、と心臓が鳴る。一ミリもそらすことのない藍染先生の視線が、やけに重みを持っているようで、身体を動かすことができなかった。
 眼鏡の奥は柔らかく細められているのに、ちっとも穏やかな気がしなかった。むしろ、これは、こわい――。
 手を伸ばせば届く距離。誰か助けて、と思った時、ブー、ブー、と小さく鈍い音が響いた。
「あっ……!」
 その瞬間、金縛りが解けた私は、慌てて制服のポケットに手を伸ばした。マナーモードに設定していたスマートフォンが、受信を告げたのだ。
 誰から着信が来たのだろう、と画面を覗きこもうとした時、またしても私は、動けなくなったのだった。
「桑染君――」
 ぞわり、と絡みつくような声音に、手も足も視線さえも、ぴたりと止まった。携帯電話は、早く早くと急かすようにうなっているけれど、止めるために指を動かすこともできなかった。
「学校での携帯電話の使用は、禁止だよ――。今回は見逃してあげるから、電源を切りなさい」
 ゆっくりと見上げた顔は、いつもと同じ穏やかな表情だったけれど、有無を言わさない力があった。私は圧されるままに、まだうなっている携帯電話のボタンを、ゆっくりと押した。それを確認した藍染先生は、なぜかとても満足そうな笑みを浮かべて「いい子だ」と囁くように言った。
 一体、これは何なのだろう。ぷつりと切れたスマートフォンを握りしめたまま、私は考える。藍染先生がいつもと様子が違うような気がするのは、気のせいだろうか。だって、いつもと同じように微笑んでいる。きっと、この薄暗い資料室の雰囲気が、私の不安をあおっているだけだ。
 そう言い聞かせようとした私にの頭に、乱菊先輩の声が響く。気をつけなさい――。
 途端に、胸の中を不安が塗り潰した。全身が心臓がになったように、どくどくと脈打つ。じわりと涙が浮かんで来て、逃げ出したいほどこわいのに、足はぴくりとも動かない。「どうしたんだい、桑染君――」藍染先生の手がゆっくりと伸びてくる。サイレンのようにわんわんと、頭の中で乱菊先輩の声がこだまする。助けて、たすけて、うらはらせんせい――。
 バン!
 突然響いた大きな音に、ぴたりと藍染先生の手が止まった。薄暗い資料室の空気を切り裂くように、開け放たれたドアから、光が差し込む。明るい陽射しを背負ったそのシルエットが、一体誰なのか、私はとても良く知っている。
「――う、うらはら、先生――」
「いやあ桑染サン、探したっスよ」
 あっけらかんとした声で私を救ってくれたのはそう、浦原先生、その人だった。
「電話も繋がらないですし、何かあったのかと思いました」
 こもった空気を散らしながら、浦原先生が歩いて来る。安堵で、力が抜けそうだった。どうして、と小さく呟いた疑問に、浦原先生は、にこりと柔らかい笑顔を向けてくれた。それだけで、もう、私を黒く染めていた不安が消え去る。
「部活の事で話があったんスけど、ここにいるって聞きまして」
「あ、すみませんでした……!」
 さっきの電話は、浦原先生だったらしい。慌てて頭を下げる私を、いいんスよ、と浦原先生は制した。
「それより――藍染センセイ」
 白衣から、いつも持ち歩いている扇子を取り出して広げながら、浦原先生は藍染先生に向き直った。
「悪いんスけど、部活のことでお話があるんで、桑染サン借りていってもいいっスか?」
 浦原先生の口調に、ちり、と肌が違和感を感じ取った。浦原先生も藍染先生も、笑みを浮かべているというのに、何か穏やかではないような気がする。目は笑っていないというか。言葉ではなく、視線で何かをやり取りしているような。
「藍染、先生……?」
 浦原先生と目を合わせたまま、黙ってしまった藍染先生の名前を呼べば、すっと視線が私の方へ向いた。さっきまでの威圧感を思い出して、思わず身構える。
「――桑染君、社会科の係でもないのに手伝ってもらって、悪かったね」
「え……?」
 けれど、返って来た言葉は柔らかく、眼鏡の奥の瞳も、いつもと同じ穏やかなものに戻っていた。さっきまでの鋭さは、夢だったのだろうか。
「で、でも、私、何も」
「今日の授業で使う資料をコピーして貰おうと思ったんだけど、僕一人でも出来ないことはないからね」
「じゃあ桑染サン、藍染センセイのお言葉に甘えて行きましょうか!」
 まだ何も手伝っていない、と戸惑う私を急かすように、資料室の外へと追い出される。首だけで振り返った藍染先生は、いつもと同じ優しい目で、ありがとうと言った。やっぱり、さっきまでのことは、気のせいだったのだろう。
 廊下へ出る寸前に、失礼しました、とだけかろうじて挨拶をして、浦原先生によって、資料室のドアが閉められた。
 薄暗い社会科資料室から飛び出した廊下は、真昼の陽が明るく差しこんでいる。正しい世界へと戻って来たような気がして、ほっとした。
「うらは――」
「桑染サン、話があるんで理科準備室に行きましょうか」
 見上げれば、浦原先生はにこりと笑って、さっと歩き出した。いつもとほんの少しだけ、違う空気。浦原先生に関することには、いつだって過敏な私は、その小さな違いをすぐに感じとった。――もしかして、怒っている?
 振り返りもせず、理科準備室へと足を進める先生の後を、慌てて追いかける。
「浦原、先生」
「なんスか?」
 横に並んで、顔を覗き込むように見上げても、浦原先生は前を向いたまま、私の方を向いてくれなかった。歩く早さも変わらず、むしろどんどん先へ行く。
 ――やっぱり、怒っている。いつもの浦原先生なら、私の歩幅に合わせるように歩いてくれる。
 どうして、と尋ねることもこわくて、私は泣きそうになりながら、置いて行かれないように白衣の背中を追うのが精一杯だった。


◆ 完成

「園希サン」
「っ……!」
 どうぞ、と招かれるまま理科準備室に入れば、ばたん!と乱暴にドアが閉められて、そのまま詰め寄られた。二人きりになった時だけ呼んでくれる、くすぐったくて嬉しくなる「園希サン」という名前の響きが、なぜだか今はこわかった。
 恐る恐る見上げた顔は、笑っていなくて、怒らせてしまったことに、涙が浮かぶ。
「う、うらはら、せん――」
「何もされてないっスか!?」
 がしり、と両肩を掴んで、浦原先生は早口でまくしたてた。
「藍染先生に変なことされたりしてないっスよね!?」
 肩に食い込む指が少し痛くて、思わず涙が引っ込んだ。どうして浦原先生がそんなに焦っているのか、よくわからなかったけれど、戸惑ったまま「何も、されて、ないです、けど」とゆっくり答えれば、大きなため息とともに、肩にかかった指の力が緩んだ。
 一気に脱力した先生は「良かったっス……」と、ほっとしたような声で呟いて、ふらふらとイスの上に腰を下ろした。私はいまいち状況を把握できず、ドアの前で立ち尽くす。
 浦原先生は、しきりに良かったと繰り返しながら、机の上に置いてあった、マグカップ代わりの500mlビーカーへ手を伸ばした。
「浦原、先生……?」
「ああ、スミマセンでした、園希サン。まあ、掛けてくださいよ」
 中に残っていたブラックコーヒーを一気に飲み干した先生は、にっこりと微笑んで古びたソファを示した。その笑顔に怒りは感じられてなくて、安心した私は促されるままに、等身大の人体模型と骨格標本の間をすり抜けて、ソファに腰をおろした。
 このソファは、浦原先生が私の為に用意してくれた物だった。もともとは、外から拾ってきた粗大ゴミだったけれど、傷んだところは直せばいいんスよ、と、先生が修理をしてくれた。古いソファはくすんでいたけれど、ヴィンテージ物のようなその風合いを、私はとても気に入っていた。
「それにしても、本当に心配したんスよ」
 机の横に置かれた小さな冷蔵庫から牛乳を取り出して、新しいビーカーにそそぎながら、浦原先生は真面目な口調でそう言った。何が、と言いかけたわたしを、じとっとした横目で制す。
「園希サンは、警戒心が足りません」
「警戒、心」
 三脚の下にアルコールランプを押しやると、浦原先生はイスごと私の前まで移動した。まだ目はじとっと細められたままで、悪いことをして叱られた子供のように、罰の悪さを感じた。
「園希サンは自覚しちゃいないんでしょうけど、アナタが気になっている男だって、少なからずいるんスよ」
「え……?」
 突拍子もない話に、まさか、と苦笑がもれる。地味を地で行き、なるべく目立たないように生活をしている私が、男の子に興味を持たれるだなんて、ありえない。
 今までだって、男の子に告白をされたことは無い。私が男の人を好きになったのは、浦原先生が初めてで、私のことを「好きだ」と言ってくれたのも、浦原先生が初めてなんだから。
「まあ、無防備な所も可愛いとは思いますが、実際、危なかったじゃないスか」
 ため息と共に吐き出された言葉と、真剣な表情に、先程までのことを思い出す。
 薄暗い社会科準備室で、感じた何か。いつもと違う目の色をした、藍染先生。伸びてきた、手。浦原先生の言っていることはこのことなんだろうか。
 あの時感じた不安やこわさをちらりと思い出してみても、やっぱり藍染先生に限って、そんなことをするようには思えなかった。きっと、私の気のせいだ。伸びた手だって、髪に付いた埃でも取ろうとしたに違いない。
「でも、あの藍染先生がそんなこと――」
「園希サン」
 弁護しようとした私を遮って、浦原先生が、低い声で呼んだ。はっと口をつぐんだ私を真っ直ぐに見ながら、ゆっくりと立ち上がる。私が座るソファの背に手をつくと、息がかかりそうな程の距離で、先生が口を開く。
「アナタが思うほど、男の人は甘くないっス」
 低く絞られた声に、素直に反省したのは、最初の一瞬だけ。すぐに、近すぎる距離に血が沸いた。ざあっと顔に血液が集中して、心臓が猛烈に駆け出す。思わず顔を横にそらしても、ソファの背についた先生の腕が見えて、逃げられないことに、ますます恥ずかしさが募る。
「園希サン」
 先生は、低い声で私を呼ぶ。頭に、体に、細胞の一つ一つに聞かせるような響きに、くらくらした。
「こう見えても僕、かなり我慢してるんスよ――。それなのに、いきなり出て来た男なんかが、簡単にアナタに触れるなんて、許せません」
 鼓膜を震わせる振動に、体の芯がぞくりとした。思わず、涙が滲む。先生はずっと、私を大事にしてくれていた。――だから、こんな態度を見るのは初めてで。急に男性ということを強く意識した私は、これ以上ない恥ずかしさに、ぎゅっと目を閉じた。
「――わかって、くれたっスか?」
 ふわりと和らいだ空気に目を開いたら、いつもの優しい目が私を見つめていて、安心したら泣きそうになった。
「スミマセン、ちょっと意地悪し過ぎたっスね」
 私の顔をのぞきこんだ浦原先生は、困ったように眉尻を下げた。大丈夫、というようにぎこちなく笑って見せれば、先生も同じように笑顔を返してくれた。
 言葉で気持ちを伝えたのは、最初の一回きり。今私たちが交わすのは、言葉の代わりに、笑顔だった。
 私が卒業するまで、待つ。それが私と浦原先生二人で決めた、大切な約束だった。それまでは指一本だって触れないし、好きという言葉も口にしない。隠し通すつもりだけれど、もしもまわりに知られてしまった時、健全な関係だったと少しでも言えるようにと、二人で張った防衛線。
 今はそうすることしか出来ないスけど、と困った顔で言ってくれた浦原先生が、やっぱりどうしようもなく好きで、私は泣くほど嬉しかった。
「でも本当に、園希サンを狙っている男は、意外といるんスよ」
 先生は机に向き直って、アルコールランプであたたまったミルクに板チョコレートを一欠片落としながら、もう一度言った。
 そうなのかな。何度言われても、ちっとも心当たりがない。強いて言うなら、乱菊先輩くらいしか、思い浮かばなかった。
「まあ、とっくに園希サンは僕のものなんで、譲るつもりはないんスけどね」
 熱いから気をつけてくださいね、とチョコレート入りホットミルクのビーカーが、布巾でくるまれて差し出される。受け取る瞬間に指が触れあって、私は一瞬で顔に血が上った。
 ちらり、と浦原先生を見上げれば笑っていて、恥ずかしさに慌てて目をうつ向けた。くつくつと、笑い声がもれる。ソファの向かいまで引かれた椅子に座って、先生は柔らかく目を細めた。
 視線から逃げるようにホットミルクを一口飲めば、じんわりとあたたかさが広がる。
「園希サンに美味しいホットミルクを作ってあげられるのも、僕だけっスからね」
 浦原先生がビーカーで作ってくれるホットミルクが、何よりも好き。そのことをよく知っている先生は、私の赤くなった顔を見て、とても優しく微笑むんだった。


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移転前のサイトで相互の方へ贈った話です。
再掲にあたり少し細かい表現を修正しましたが、ほぼ当時の文章ままです。

 

自慰/手淫/オナニズム