賢者が熱を出したらしい。
賑わう時間から少しずらした朝の食堂で、兄弟子を囲む二人の少年の会話からオズはそのことを知った。
どうやら、いつもの朝食の時間に賢者が姿を現さなかったために発覚したようだった。様子を見て戻ってきたというフィガロを、リケとミチルが捕まえている。
「ただの風邪みたいだったから、大丈夫だよ」
「それなら、僕が魔法で治します。治癒魔法は得意なんです」
「ありがとう、リケ。でも大人しく休めば、すぐに治るよ」
献身の教えが身についているリケの申し出を、医者であるフィガロはやんわりと却下した。
「どうして、魔法で治してはいけないんですか?」
不服そうに、リケが尋ねる。
「なんでも魔法に頼っていると、免疫力が落ちるからだよ」
「メンエキリョク?」
「うーん、どう説明したらわかりやすいだろう。身体が自分で自分を治そうとする力、って言ったら伝わるかな? ミチルには前に教えたよね」
「はい、知ってます!」
首を傾げたリケとは反対に、授業で発言をする生徒のように、ミチルが声を上げた。
「じゃあ、リケに教えてあげてくれる?」
「もちろんです!」
ミチルはリケに目を向けると、教鞭を取ったかのように、魔法で体調を治さない理由を説明し始めた。
「免疫力というものは、身体の中の悪いものをやっつける力なんです。それで、なんでも魔法で治すようになると、免疫力はお仕事をサボりだしちゃうんです」
「どうしてですか? 免疫力がお仕事をサボったら、身体の中が悪いものでいっぱいになってしまいます」
「魔法が治してくれるから、自分が働かなくてもいいんだ、って思っちゃうんです。そうすると、小さな怪我の治りもおそくなって、ただの風邪なんかもこじらせやすくなるそうです。なので、命に関わるようなものでないかぎり、なるべく魔法には頼らないようにする……そうですよね、フィガロ先生」
「うん。正解」
よくできた生徒を褒めるように、フィガロは笑みを浮かべてミチルの頭をなでる。褒められて喜ぶミチルよりも、満足げですらあった。
「そうなんですか……。たしかに、サボるのはよくないことです。怠慢はいけません、堕落への一歩です。魔法で治すのは、やめることにします」
胸元で手を組んだリケは、神妙な顔でうなずいた。宗教団体にいたというリケは、献身に加えて勤勉、さらには節制までが教え込まれている。
腰の重いオズにさえ怠慢を説教することがあるのだから、免疫力の怠けを聞いては、大人しく引き下がるしかないだろう。
「でも、やっぱり少し心配です……」
「そうですね……では、、お見舞いに行くのはどうでしょう」
顔をくもらせたミチルに、リケが閃いたように提案する。目を合わせた二人は、期待したような、彩度の違う草葉色の瞳をフィガロに向けた。
「お見舞いならいいよ──と、言ってあげたいところなんだけどねえ」
「ダメなんですか?」
「どうしてですか?」
被せるようにして、二人が尋ねる。
「もし二人にうつしたりしたら、賢者様が気にしちゃうからだよ。うつるような病気や、痛みに苦しむような怪我じゃなかったら、お見舞いに行って話し相手になってあげてほしいんだけどね」
素直で瑞々しい勢いに圧されながらも、フィガロはやはりその提案も却下した。リケとミチルは、あからさまなほど肩を落としてうなだれる。その落胆ぶりからは、賢者のことを心から慕っていることが見て取れた。
オズはただ、そんな二人を見て「若いな」と漠然と思った。
「大丈夫だよ、南の魔法使いで腕の立つ医者のフィガロ先生がいるんだから。明日にはすっかり良くなってるよ」
安心させるように、フィガロが前向きな言葉を送る。
「はい……」
「そうですね……」
しかし、リケとミチルは気を落としたままで、医者は困ったように眉尻を下げた。
「そうだなあ……じゃあ、ミチルには魔法薬を作ってもらおうかな」
「任せてください! 魔法薬作りは得意です!」
パッと顔を上げたミチルが、胸を張って承知する。
「それで、リケは──」
「俺と一緒に、賢者さんの食事を作るか?」
考えるように顎に手を当てたフィガロの言葉を、横からさらうように料理人のネロが輪に加わった。
「いいんですか? ネロ」
奉仕がしたい少年もまた、表情を明るく輝かせる。
「もちろんだ。賢者さんは風邪なんだろ? 元気が出るようなものを食べてもらうのが一番なんだが、食欲があるのか、どんなものなら食べられるのか、わからないんだ。それなら、食べられそうなものをいくつか用意しておいた方がいい。リケが手伝ってくれたら助かるよ」
まったく東の魔法使いらしい、頼み方だった。
「わかりました。賢者様がはやく良くなるように、祈りを込めながら作ります」
役割を得て調子を取り戻した二人は、うれしそうに顔を見合わせる。素直な善意が眩しく見えるのは、朝の時刻だけが理由ではないだろう。
「健気でかわいらしいですね。あの子たちが作ったお薬と食事なら、賢者様もすぐに元気になること間違いなしです。おはようございます、オズ様」
遠巻きにやり取りを聞いていたオズの方へ、朝食を配膳に来たカナリアが微笑みながら声をかけた。
「……ああ」
無愛想に一言だけで挨拶をすませたオズに対して、カナリアは人当たりよく朝食のメニューを告げる。
「今日はオムレツとベーコン、グリーンフラワーのサラダに二股ニンジンのスープです。サイドディッシュのおかわりはお申し付けください。パンとスープはあちらにありますので、お好きなだけ召し上がってください」
「……感謝する」
「それでは、ごゆっくり」
会釈をして、カナリアはキッチンの方へ下がっていった。書記官のクックロビンに同伴ししてやって来たその妻は、オズのような魔法使い相手にも物怖じせず、そしてなによりよく働いている。
魔法でどうとでもできるというのに、リネンの洗濯だと言って部屋に押し掛けられたことは一度や二度ではない。今では観念し、大人しくシーツを渡すようになっている。おそらく北の魔法使いたちも、オズと同じはずだった。
食事に手をつけながら、立ち話をする四人の方へ意識を向けると、指導者で相談をしているところだった。
「賢者さんの様子はどうだった?」
料理人が、医者へ確認する。
「食事をする意思はあるようだったよ。実際どれくらい食べられるかは、わからないけどね」
「そうか。薬を飲ませるにしても、少しくらい何かを口にした方がいいからありがたいな。とりあえず、ゆるめのポリッジを作るよ。ゼリーはすぐには作れないから、だめなら果物だな」
「うん、いいと思うよ。ありがとう」
「それじゃあ、リケ。医者先生が朝食を食べてるあいだに賢者さんの食事を用意するから、早速手伝ってもらえるか?」
「はい!」
意気込むリケに、ネロの口元がわずかに緩む。
素直に懐かれるむずがゆさは、オズにも覚えがあった。ネロのように笑みを見せてやることは、得意ではなかったが。
「じゃあ、ミチルには魔法薬作りの準備をしててもらおうかな。俺は朝食を済ませて賢者様にご飯を食べさせないといけないんだけど、一人でもできる?」
「もちろんです!」
「じゃあ、風邪に効果のある魔法薬を作る際に必要なものは、何?」
「体調を整える薬草です」
即答したミチルに、フィガロは満足そうな表情を浮かべる。よくできた優秀な生徒を、自慢げに思うそれだった。
「正解。ただし、魔力のない賢者様には、効きすぎる恐れもあるから、普通の薬草の方を用意しておくこと。あ、棚の薬瓶は無闇に触らないようにね。落として割ったりしたら危ないものも、置いてあるから」
「わかりました。ついでにフィガロ先生の部屋も片付けておきますね。お酒があったら没収です!」
「それは困るなあ。ちゃんと隠しておいたかな」
困ると言いながら、フィガロは楽しんでいるような声音でミチルに部屋の鍵を渡した。
善は急げとばかりに踵を返したミチルがカフェテリアを出て行くのを見送り、フィガロはオズの方へ振り返った。
「おはよう、オズ。よく眠れたみたいだね」
「……いつも通りだ」
「みんなで食事を取るのには、相変わらず慣れない? 賑やかなのも悪くないよ」
断りもなく向かいの席に腰を下ろし、兄弟子はエメラルドの瞳孔を埋めた瞳を細める。出身を隠しているこの男は、今の「南の魔法使い」という立場を随分と気に入っているらしい。
「……賢者は」
冷やかしには取り合わず、尋ねる。付き合いの長さで多少は慣れたものの、この男を真正面から相手をして、疲れることは少なくない。
ペラペラと回る舌で、ペースを乱されるのだ。どちらかというと寡黙なオズは、コミュニケーションという点において、フィガロとは対極にいる。
「賢者様なら大丈夫だよ、ただの風邪。安静にしていればすぐに治る。まあ、熱で多少苦しいかもしれないけどね」
天気の話でもするような、気軽さだった。パンをちぎったオズの手が止まる。
「どういう意味だ」
「どうもこうも、そのままの意味。熱は身体の防衛反応だ。下手に解熱なんかしたら、逆に治りは遅くなる。アーサーの時にも教えただろ? 忘れたの?」
オズは答えられなかった。フィガロに指摘された通り、すっかり抜け落ちていたからだ。
発熱は、免疫反応である。異常を治そうと身体が抵抗している証拠でもあり、熱を下げるということは、身体の抵抗力も弱めるということなのだ。
「ねえ、オズ。賢者様が心配?」
頬杖をついたフィガロが、覗き込むようにオズの瞳を見つめる。底を探るような視線が不快で、パンを口に放り込むことで逸らす。
「ミチルやリケみたいに、お前の魔法で治してあげたい?」
答えないオズをさらに追求するように、目を細め、口角を上げ、楽しそうにフィガロが尋ねる。
「……魔法は不要なんだろう。私が手を貸すようなことはない」
「ふうん。聞き分けがいいね」
──何が言いたい。
言外に睨み付けると「恐い恐い」と戯けたようにフィガロは身を引いた。
「……ミチルと魔法薬を作るんだろう。早く食事をして行け」
「それもそうだ。賢者様に薬を飲ませないといけないし、治るのが遅くなったらかわいそうだ」
あからさまに追い払う言葉だったが、あっさりと乗ったフィガロは食事を求めてキッチンの方へと去って行った。
オズは少し冷めたスープを飲み込んで、息を吐いた。フィガロに乱されて、胸の辺りにさざなみが立っている。
朝食の味はよく、わからなかった。
◆ ◆
夕食の時間にも、賢者の姿はなかった。
朝とは違い、皆で集まる時間に合わせて食堂へ赴いたというのに、目的の人間の姿を確かめることはできなかった。
眉間に皺を刻みながら耳をそばだて、リケとネロが作った食事は残さず食べられていること、ミチル特製の魔法薬を飲んでおとなしくしていることを拾い出すことはできた。しかし、熱が引いただとか、良くなったという情報を得ることはできなかった。
そして今、オズは賢者の部屋の前に立っている。
意識したものではなかった。食事を終えて自室に戻るつもりが、階を間違えていたらしく賢者の私室へ来ていたのだ。
他の魔法使い達は食堂や談話室で過ごしているのか、辺りに他者の気配はない。各々の部屋へ続く廊下は、夜の中に深く沈んでいた。
扉の前で途方に暮れたように立ち尽くした末、
「……賢者」
オズは雫のようにぽつりと部屋の主を呼んだ。
「──……」
室内から、返事はなかった。物音もさえもしない。北の国で雪に埋もれるようにして建つ、一人きりで過ごす己の城を思い出した。
「賢者」
先程よりはっきりと呼びかけてみるが、やはり応答はなかった。無音ばかりがオズの耳殻を撫でる。
ドアノブに手を掛け、わずかに逡巡し──躊躇いを振り切るように、力を込める。
ドアは、為されるがまま、いとも簡単にその口を開いた。
鍵をかけていない不用心さには危惧を抱くが、寝込んでいるのならば、施錠の余裕がなくても仕方がない──。オズはまるで自分に言い聞かせるようにそう考えながら、賢者の部屋へ足を踏み入れた。
こざっぱりとした部屋の中は、机の上のテーブルライトでぼんやりと明るかった。夕食と薬を与えた際に、フィガロが点けて行ったのだろう。
壁際にぴったりと寄せられたベッドの上は、人の形に膨らんでいる。足音を殺しながら近づき、枕元に立つ。
デューベイを被った賢者は、細い息を吐きながら眠っていた。額には濡れた布巾がズレて引っ掛かるようにして、貼り付いている。
戻してやろうと指先でつまむと、それは冷水に浸したばかりのように冷たかった。どうやら温くならないように、魔法がかけられているらしい。
「ん……」
額の布巾を整えたためか、身じろいだ賢者にぎくりと手が止まる。しかし、閉じられたまぶたは僅かに震えただけで、マホガニー色の瞳を見せることはなかった。張り詰めたものが緩み、胸を撫で下ろす。
この場にいるのが、賢者の面倒を見ているフィガロでも、ミチルでもリケでもネロでもなく、己であるという理由を、オズは見つけられていないのだ。
賢者は、再び静かに呼吸を繰り返している。寝顔は穏やかなものだが、薄暗い部屋においても、その頬は少し赤みが強いように見えた。
──解熱はしていないはずだが、熱は下がったのだろうか。
確かめるために、指の腹で首筋に触れる。柔らかな皮膚に包まれたそこは、驚くほど熱く、しっとりと汗ばんでいた。ほんの指先でもわかる程の、高熱だった。
大人しく寝ているためにわからなかったけれど、苦しむ体力さえないほどに弱っているのではないか。
──フィガロは一体、何をしている。
焦りの矛先が、看病を請け負っている医者へ向かう。
──これほどの熱だというのに、側についていてやらなくていいのか。
免疫力など気にせず、魔法で治してやった方がいいのではないか。
医者であるならば、治して見せろ──。
一方的な非難が胸に打ち寄せ、引いて行く。
賢者は、ただの人間なのだ。魔法を使えず、すぐに死んでしまう脆く弱い生き物なのである。石に変わることもなく、冷たい肉になり、土に還る。
ぞっとした。背筋を冷たいものが滑り落ち、夜の闇よりも暗いものが身の内に広がる。
《ヴォク──》
──呪文を唱えた途端、意識が遠ざかる。
ハッと目を見開いた次の瞬間、額に布巾を乗せた賢者の寝顔が飛び込んできた。
胸の内に苦いものが広がる。オズは考えるよりも早く、その身に掛けられているデューベイごと、賢者を抱え上げていた。
魔法を使えない己が心底憎く、恨めしく、たまらなく悔しかった。
人間の一人、楽にしてやることもできず何が「魔王」だ。かつて世界の半分を征服した力も、揮えなければ意味などない。子供の手でも摘み取れる薬草の方が、余程役に立つ。
高い位置にまとめた濡羽色の長い髪を翻し、魔法を奪われた最強の魔法使いは、賢者を攫っていった。
◆ ◆
衝動的な行動は、冷静になった途端に問題を浮かび上がらせる。
夜具で包んだ賢者を抱きかかえたオズは、自室へ戻ってようやく、己が軽率だったことに気がついていた。
ベッドは一つ、一人掛けのソファが一脚。床材は石。
弱った賢者を休ませられる場所は、必然的に寝台のみだった。
──嫁入り前の娘に、あるまじき行為をしでかしてしまったのではないか。
しかし、今更正気を取り戻してももう遅い。賢者を攫って来た時と同じように、誰にも見咎められられずに引き返せる保証はない。
フィガロやスノウ、ホワイトに見つかれば、間違いなく数十年はからかいの種にされる。同じ階に自室を持つオーエンやブラッドリーの場合なら、脅しや強請りに使うだろう。賢者のことを心から心配していたリケやミチルならば、オズの粗忽さを非難するするかもしれない。
浅ましくも保身を考え、諦めることにしたオズは、繊細なガラス細工を扱うように自身のベッドへ賢者を下ろした。
「……う……お、ず……?」
舌がもつれたような辿々しい声が、オズの名前を呼ぶ。
「……起こしたか」
体勢が変わったためか、それとも敏感に寝床の違いを感じ取ったのか、ここに来て賢者は目を覚ましてしまった。
気まずさをごまかすように、頬に張り付いた髪をよけてやる。すると、賢者は重そうにとろりと開いたまぶたで、ゆっくりとまばたきをした。
「水は飲めるか……汗をかいている」
発熱は、発汗を伴う。脱水症状に陥らないためにも、水分だけは摂らせるようにと、以前フィガロから教わっていた。
朝とは違い、きちんと風邪の対処法を思い出せていることに、オズはわずかに安堵する。看病をする側が冷静でなければ、病人の不安を煽るだけなのだ。
ちょうどよくテーブルの上に出しっぱなしだった水差しとグラスを取って見せると、賢者は素直にうなずいた。
「……起こすぞ」
寝かせたばかりの背中に片手を差し入れ、身を起こさせる。夜着越しに触れた背中は熱く、燃えているかのようだった。
背中に手を当てたまま、もう一方の手に持っていたグラスを口元へ近づける。うっすらと開いた唇の隙間にその縁が触れたのを確かめ、慎重に傾ける。
緩慢に与えられる水に、こくり、と喉が動いた。熱で体力が奪われているのだろう、喉の渇きを潤す賢者の嚥下もまた、酷くゆっくりとしたものだった。
「はぁ……」
気が遠くなりそうなほど時間を掛けてグラスを空にした口唇から、熱っぽい吐息がもれる。
「まだ、要るか」
尋ねると、首肯する。まだなお足りないと訴える唇は、いつもより赤く染まり、湿っていた。
「……何か、して欲しいことはあるか」
満足するまで水を飲ませて寝かせた賢者に問うと、水を求める時とは違い、首が横に振られた。
「……そう、か」
打つ手を無くしたオズが口を噤むと、途端に、夜の気配が部屋中を満たし始める。オズは黙り込みながら、じっと賢者の顔を見つめた。
何も望まれてはいないのに、とにかく何かをしてやりたかった。魔法を取り上げられた己にできることなど、どれほどあるかもわからないというのに。
魔法は使えない。ならば、やはり賢者の部屋に戻って薬を取りに戻るべきか。──いや。
薬ではないが薬の代わりになるかもしれないものが、一つだけ、あった。
すっくと立ち上がったオズは、ベッドから離れ、テーブルの引き出しを開ける。リケから責務のように課され、煩わしく思いながらも少しずつ手をつけていたことが、ここに来て役立つことになるとは思いもしなかった。
「……これも食べておけ」
引き出しから取り出したのは、手のひらに乗る大きさのガラス瓶だった。中には、金色の星屑が少しばかり収められている。
オズが作った、シュガーだった。店へ卸すために協力するよう、リケに迫られていたものだ。
魔法使いが作るシュガーには、体力の回復や魔除け、ささやかな加護の効果がある。風邪を治すような効果はないけれど、熱で弱った身体を快方へ導いてくれる可能性はあった。
瓶の蓋を開け、シュガーをつまみ出す。口元へ持っていくと、水を与えられた時と同じように、柔順に唇が開かれる。
しかしその薄い裂け目は、シュガーを落とすには細すぎた。
瓶を枕元に置き、おとがいに親指を添える。抜けるような息をもらした賢者の紅唇を、指先をねじ込むようにして割り拓く。
内側の熱い粘膜が、オズの指先を湿らせた。
切り揃えた爪の先が賢者の歯にぶつかる。促されるままかそれとも非難か、どちらにせよ都合よく広がった門歯の隙間を逃さぬように、口腔内へシュガーを落とす。
オズが指先を引き抜くのと、賢者の喉が上下したのは、ほとんど同時だった。
「──お、ず」
震えるように絞り出された声が、オズを呼ぶ。
「なんだ」
「な、にを……」
「薬の代わりだ」
答えながら、ガラス瓶から手のひらへ出した新しい一粒を、直前と同じように唇の隙間に押し込む。
賢者は抵抗するようにわずかに身動いだが、あきらめたのか、それとも僅かばかりの体力も尽きたのか、すぐになされるがままオズの指先からシュガーを受け入れた。
ふと、幼いアーサーと見た、鳥の子育てを思い出した。あれは、北の国の短い夏に、繁殖のために現れる渡り鳥だった。
肩から雪を落としたばかりの枝に、かき集めた小枝で作られた貧相な巣。そこで産まれた雛鳥が、親から餌をもらう姿と、今の賢者の姿はよく似ているような気がした。
その時の雛鳥達は、兄弟姉妹を押し除けてでも餌を得ようと、小さな嘴を目一杯に開いてた。
──それなのに、この賢者は──人間は、どうだ。
ろくに身動きもできず、なされるがままで、力を貸してやらなければ水さえ飲むのもままならない。
生きようとする力、意思の違いに、腹の底が冷える。
動物は、本能がそうさせるのか、生きることに貪欲である。死ぬために生きている獣はいない。獣達は、死ぬその時まで生きるのだ。
北の国で生まれた魔法使いであるオズも、そうだった。他者を押し除け、文字通り喰らって生き延びる。生物は、生きようとしなければ、生きられないもののはずなのだ。
けだものであれば、生死は自然の理に在る。死ぬのは、生きられないからなのだ。寿命にしろ、捕食にしろ、生きられなくなったから死ぬだけである。
魔法使いはけだものと違い、その力で自然の道理を変えられる。命ある「いきもの」である限り死から完全に逃れることはできなくとも、僅かばかり死を遠ざけることができる。
しかし、人間はどうだ。けだもののようにただ生きるには知恵を持ち過ぎ、魔法使いのように死を遠ざけるには力が足らない。弱れば、自分の世話もろくにできなくなってしまう。
南の魔法使いが説く人間との共生が、今ならわかるような気がした。魔法使いが力を貸してやらなければ、人間は容易く死んでしまう。
駆られるように、オズは三つ目のシュガーを賢者の口内に押し込んだ。オズの指先を包む熱く柔らかく湿った粘膜は、確かに賢者が生きている証拠でああった。
身体の異常を示す酷い熱だとわかっていながら、安堵してしまう。物言わぬ冷たい肉塊になってしまうことの方が、取り返しがつかなく恐ろしい。
「──おず、も、い……」
身動いだ賢者に喘ぐように拒まれ、意識の焦点が目の前に結ばれる。枕に頭を預けた賢者が、首を横に振った。
「……水を、飲むか」
しかし、賢者は頭を振る。水ならばもう、飲ませているのだ。断られて当然である。行き場のなくなった手を、握り締める。
シュガーを取るような気分ではなかったのだろうか。それとも、風邪の今は甘い味が気持ち悪かったのだろうか。それとももっと別に、無理やりに口にさせるオズのやり方が悪かったのか。
──ならば、どうするのが賢者にとって最善だったというのだ。
医者のフィガロはいない。かつて風邪の看病をしたことがあるアーサーは、魔法使いだった。魔法使い相手に行った看病は、人間の賢者に通じるものなのか。
世界最強と名高い魔法使いは、今この瞬間、どうしようもなく、無力で途方に暮れていた。
「お、ず」
「──なんだ」
「ありがと、ございます……」
飛びつくような返事に賢者が向けたのは、飾り気のない感謝の言葉だった。
熱に浮かされて潤んだ瞳が、柔らかくオズを見ている。それは、桑染園希から賢者の魔法使いたちへ向けられる、いつもの眼差しだった。
──魔法を使えない私に、苦しいはずなのに、何を。
言葉にならない感情が波のように押し寄せ、砕ける。
「……眠れ」
かき集め、絞り出し、ようやくオズが返せた言葉は、ただそれだけだった。
厄災による、奇妙な傷が憎かった。魔法を使えないということは、オズの致命的な弱みであり、命を脅かすものにもなりかねなかった。
けれど、どれほど憎み恨んだところで、夜が明けるまで奪われた力はもどらないのだ。
「おず……?」
険しい顔をしていたのか、賢者が心配するような細い声で名前を呼んだ。──ああ、そんな顔をさせたいのではない。
そんな顔をさせるために、私がいるのではない。
「……なんでもない。眠れ」
繰り返して、デューベイとブランケットを肩までしっかりと掛け直す。額にかかった前髪を払ってやり、体温を確かめるために首筋に触れると、賢者はむずがるようにふにゃふにゃと笑った。
どうして、こういう状況でもなお笑みを浮かべられるのか。オズにはわからなかった。けれど、胸の内で硬く強張っていたやる瀬なさが、崩れていく。
頭を撫でてやると、重そうな目蓋が瞳を隠した。柔らかな表情が戻ってくる。
胸の辺りを手でゆっくりと叩いてやると、賢者はあっけなく眠りに落ちた。シュガーの効果なのか、それとも覚醒の限界だったのかはわからない。けれど、その寝顔はあどけなく、穏やかなものであった。
細く、規則正しい寝息が真夜中のさざなみのように、オズの鼓膜に寄せては返す。
無力な自分に、感謝されるような謂れはない。信頼しきったような無防備な寝顔を晒されても、今のオズはそれこそ人間並みなのだ。「世界の半分を征服した魔王」が聞いて呆れる。
──けれど、その眼差しが、月に支配された夜でも変わることのないものならば。
「私は、お前の魔法使いだ」
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