教壇に立った軽薄な教師は、たった二人の生徒に向かって「今日の一限目は──自習!」と高らかに宣った。
「……いや、授業してくださいよ」
着席した伏黒恵は、数秒の沈黙ののち、真顔のままきっぱりと言い返した。
「だって、園希寝ちゃってるし」
しかし、授業を受け持つはずの五条悟は、黒い布で覆われた目を伏黒の隣の席へ向けて肩をすぼめた。
話題に上げられているもう一人の生徒──桑染園希は、机に突っ伏してすうすうと寝息を立てている。声をひそめるようなことをしない五条と伏黒の会話を浴びていながら、起きる様子はまったくなかった。
「園希は昨晩から任務だったんだけど、予想より呪いの数が多くて朝方まで祓ってたんだって。夜勤明けの扱いで授業は欠席してもよかったのに、まじめだよね」
桑染の堂々とした居眠りは、徹夜によるものだったのだ。
「……任務がこいつのレベルに合ってなかったんじゃないんですか。一般家庭出身でしょう、桑染は」
じっとりと、伏黒が疑うような視線を向ける。なにを隠そう、桑染の任務を決めたのはこの五条その人なのだ。
「疑うねえ。もしかして僕、恵から信用されてない?」
「そうですね」
「ひどいなあ。任務はちゃんと、園希の現時点の能力を考慮して振ってるよ。実際、今日も大きな怪我もなく帰って来たしね」
桑染は五条や伏黒のような、呪術師の家系出身ではない。呪いとは縁のない、一般家庭出身だ。東京都立呪術高等専門学校へ入学するまでは、ただ呪いが「見える」だけだった。そのため呪いを祓う術はまだ学び始めたばかりであり、呪術師の等級も四級だ。与える任務は、難しいものにはしていない。
彼女に今課すべきものは、場数、経験、自信といったものなのだ。成長のための少し難しい任務、というのはもう少し先の予定となっている。
ただ、今回は窓による報告と、実態が少しずれていたのだ。経験値稼ぎのために「弱いけれど敵の数が多い」という舞台を用意はしたけれど、予測していたよりもずっとその敵が多かったのだ。
そうして一晩中、祓っても祓っても湧いてくる呪いの相手を続け、東の空が白むまで休みなく戦った結果──桑染は、こうして眠りこけているのである。
「僕としては起こしてもいいんだけど、恵も起こしたい?」
尋ねて、五条は口角を上げた。意地の悪い質問だった。
「一限の授業は呪いに関する基礎知識だからね。恵はもう知っている内容だろうし、授業をするなら園希を起こさないと」
「……自習でいいです」
伏黒は五条をにらみ、唇を引き結んで答えた。終夜戦い続けた初心者術師を気遣わないほど、冷血ではない。それを五条もわかっていて、伏黒の意見を尋ねたのだ。
生徒からの人望をまた少し失った五条は、そうとも知らずに満足そうにうなずき、さっと踵を返した。
「それじゃ、あとはよろしくね。恵」
軽佻浮薄な足取りで、教師は生徒を残して無責任に教室を出て行った。
「──……」
扉が閉まると、しんと静まった室内に桑染の寝息がよく聞き取れた。机にうつ伏せたまるい背中が、ゆっくりと規則正しく上下している。
まっさらな黒板へ視線を戻し、伏黒は細く長く、静かにため息を吐いた。
──本でも持って来ていればよかったな。
暇をつぶせるようなものもなく、伏黒はぼうっと窓の外を眺めていた。校舎の向こうに広がるのは、木々の緑と、そこから生えるように伸びた仏塔や、社殿の屋根である。数日前には見えていた朱色の鳥居が、今日は見当たらなかった。
日によって現れ、消えるハリボテの宗教建築を眺めていると、隣の席で動く気配があった。寝ているはずの同輩へ視線を向けると、顔は伏せたままに、ぐずるように身動ぎをしていた。
声をかけようとした伏黒は、しかし、身を縮こまらせた桑染を見て口をつぐんだ。
今日は四月の下旬にしては、気温が低買った。天気の良さに反して、気温はここ数日よりも下がっている。それに加えて、風が強かった。よく言えばレトロな木造の校舎で、はなんの遠慮もなく隙間風が入ってくるため、肌寒いのだろう。
「う……」
ちいさく唸り、桑染が身体をふるわせる。目を覚ましこそしないが、落ちついてと眠れているとは思えなかった。
「……チッ」
逡巡は一瞬だけだった。舌打ちをひとつし、伏黒は制服の上着を脱いだ。個々人でそれぞれ異なるデザインにアレンジされた黒いそれを、机でうつ伏せる桑染の背中にかけてやる。
「ん……」
伏黒の学生服をかけられ、桑染は鼻にかかったような声をもらした。強張っていた身体が徐々にゆるんでいく。再び深くなった寝息が、無防備だった。
伏黒と桑染の二人は、まだ知り合って一ヶ月程度の付き合いしかない。伏黒は桑染のことをまだよく知りはしなかったが、そのまじめな態度は少し好ましく思っていた。
桑染は非術師の家系の出で、呪いについて詳しくない。その分、この世界のことをよく知ろうとしていた。人の醜悪と汚濁の後始末をさせられるような、呪術界だというのに、だ。
入学から今までのまだ短い付き合いでも、その誠実な姿勢は端々に見て取れた。彼は誰時まで戦いながら、休みを取らずに律儀に授業を受けようとしたのも、そういう実直さの現れなのだ。
呪いが見え、呪術師という濁って澱んだ場に立つ身になりながら、まだ擦れてない在り方を保っている。その姿を見ていると、沈殿した澱が浚われるような気になることがある。
人から生まれた呪いと対峙し続けるうちに、それはいずれ失われてしまうかもしれない。ならばこそ、この隙だらけな眠りが、できるだけ穏やかなものであってほしかった。
教鞭をとる教師の声も板書をする筆記の音もない、一限目の教室。たった二人分だけの学習机が、その中心に並んでいる。空間を持て余した教室は、春のやわらかな陽射しで満ち満ちている。
静かな寝息を聞きながら、伏黒はあくびを噛み殺した。
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