桑染園希は、あきらめと無念と悲しみを胸に、補助監督が運転する車のバックシートに沈んでいた。窓の外を夜が、時速八十五キロメートルの速さで流れていく。
 反射した車窓に映る顔は、隠していてもやはり落胆した色がにじんでいた。もれそうなため息を、ぐっと飲みこむ。
 手にしたタブレットに表示されている時間は、まもなく0時を回ろうとしている。移動にはまだ時間がかかかる。
 なにせ、山形まで向かっているのだ。高速道路に入ったとはいえ、ここからまだ三時間半はかかる見込みだ。
 ──よりによって、どうしてこのタイミングで。
 にじんでくる不満は、自然とこの状況を起こした最強の呪術師へと向けられる。
 就寝の間際に受けた着信は、突発的な任務の発生を告げるものだった。
 通常の任務であれば、窓からの報告を受け、状況を確認し、調査報告をまとめたものを共有の上で対応するものである。そのため、難易度と術師の状況に合わせて任務は割り振られる。
 しかし、例外対応となった今回の任務は、いわく時間との勝負。確認されている呪霊はそう強いものではないため、手が空いている術師を即刻向かわせる。
 電話口で任務を投げてきた五条悟は、軽薄な口調でそのようなことを伝えてきた。
 無理です、と断りを入れたけれど、その断りはすげなく断られた。他の術師ではだめなのかと問えば、手が空いている術師がいないと返され。
 さらにダメ押しのように「明日休みでしょ」と言われてしまえば、反論の言葉は継げなかった。
 他の術師に押し付けて、日中の任務に加えて深夜の突発任務まで負担させてしまうことが心苦しかったからだ。
 任務を詰め込まれれば、疲労で集中力も落ちる。常に命を落とす可能性を抱いている呪術師にとって、それがどれだけリスクであるか。常に人手不足ではあるけれど、だからこそ、そこをチラつかせられては逃げようがなかった。
 おそらく、五条はそのことも見越して桑染に連絡をしてきたのだ。
 観念したように「わかりました」と請け負うと「ありがとう」「さすが」「君ならと思っていた」「頼りになる」といった言葉をぽんぽんぽんぽんと並べ立て、任務を伝えた時と同じように一方的に終話した。
 ──せめて、任務が早く終わってくれれば。
 車窓を眺めながらそう考えたけれど、あまり期待はできなかった。
「桑染先輩」
 ふいに呼ばれた名前に、顔を上げとなりのシートに目を向ける。ツーマンセルの相方として、五条から同じように任務を投げられた虎杖悠仁だった。
「着くまでにまだ時間かかるみたいだし、少し寝てたら?」
「んー……そうだね、でも眠くないんだよね……」
 体力や集中力のことを考えたら、移動の間に少しでも寝ておくのが正解だろう。けれど、車の揺れを持ってしても、眠気は感じられなかった。
「虎杖くんのほうこそ、仮眠取っておいたら?」
「んー、俺も大丈夫」
 そう答えて、虎杖がじっと見つめてくる。
「えっと……どうかした?」
「なんか、元気なさそうに見えたから。眠ぃのかなって思ったけど、そうじゃないならなんだろって」
「あー……」
 落ちこんでいることに気を遣わせないよう、態度には気をつけていたつもりだった。けれど、うまく隠しきれていなかったようだ。
「たいしたことじゃないよ。ただ、明日の休みの予定がつぶれたなって、ちょっとがっかりしてただけ」
 口にすると、実感がともなって肩が落ちる。
 そう、明日──日付が変わって今日──は、楽しみにしていた予定が朝から入っていたのだ。
 しかし、片道約五時間をかけての、山形移動だ。行って、祓って、帰って来るころには予定の時間を過ぎてしまう。どう急いだところで、楽しみには間に合わないのだ。
「あー、それはヘコむわ」
 同調するように虎杖が眉尻を下げた。それだけで、少し気分が楽になる。
 虎杖だって、押し付けられた任務のためにこうしてとなりにいるのだ。給与が出るとはいえ、割りを食っているのは自分だけではない、ということが励みだった。
「虎杖くんは、明日の予定、大丈夫? 休み? それとも任務入ってる?」
 高専へ戻って休息が取れる昼過ぎや夜ならともかく、もし朝に任務が入っているのだとしたら、五条に抗議をしなければならない。悪いのは五条ではなく、虎杖を敵視する上層部なのかもしれないけれど。
「俺も休み! 特に予定もなかったし、へーきだよ」
「そっか、それならまだよかった」
「明日はさ、何するつもりだったの?」
 他愛のない、雑談の延長である。けれど、踏み込まれてぎくりとした。
「えっ──と」
「あ、わり、あんまプライベートなこと突っ込んじゃだめだよな」
 口ごもった桑染に、虎杖はすぐに質問を取り下げた。最強の呪術師と違い、この後輩はデリカシーがある。
「ううん、行きたいカフェが、あっただけだよ」
 嘘ではない。そのカフェというのが、漫画のコラボカフェだというだけで。
 いわゆるオタク向けのカフェだというだけで。嘘では、ない。
「予約取ってたの?」
「うん。むだになっちゃったけど」
 そう自分で応えて、やっぱり悲しくなってしまう。予約の申し込み抽選に勝って、休みをもぎ取って、ずっと楽しみにしていたのだから当然である。
 スタートしたばかりでまだチャンスはあるけれど、もう一度予約が取れるかどうかはわからない。貴重な当選だったのだ。
「そういえば桑染先輩、釘崎とか真希先輩とよく出掛けてるよね」
「そうだね、よく遊んでもらってると思う」
 呪術高専の生徒はそもそも人数が少ない。呪いが見える人間が少ないからだ。
 同性となると、自分をふくめて三人しかいない。そのためか、同級生の禪院真希と後輩の釘崎野薔薇とは、プライベートでも仲良くしてもらっている。
「女子って、女子だけだとなにして遊んでんの?」
「買い物したり、カフェに入ってお茶したり、おしゃべりしたりとかかな。野薔薇ちゃんは流行にも詳しいから、話題のお店に行ったりすることも多いかな」
 東京を楽しむことに全身全霊全力の後輩は、あれこれと店を調べてはここに行きたいと誘ってくれる。それがまた、かわいくて仕方がないのだ。
「ふうん、そういうもんなんだ」
「虎杖くんは? 伏黒くんと遊びに行ったりはしないの?」
「伏黒と二人でってのは、あんまないかな」
「野薔薇ちゃんとは?」
「はっ? いやいやいや、釘崎と二人だけで出かけたりしねーよ! それに、あいつが一緒だと荷物持ちさせられるし! 俺も、伏黒も!」
「あはは」
 虎杖は手をふって激しく否定したが、容易に想像できた光景につい笑ってしまった。気の強い釘崎なら、同い年の男子二人程度、手足のように使うだろう。
「一年生、仲いいよねえ」
「先輩たちだって、仲いーじゃん」
「そうかな? そうかも?」
 たしかに、同級生との仲は良好と言えるだろう。信頼もしているし、好ましくも思っている。
 自分だけがそうなのではなく、真希、狗巻棘、パンダ、乙骨憂太も同じ気持ちであるはずと、疑わない程度には。そして、彼女たちのような友人がが得難いものであることも、わかっている。
「……いーなぁ。俺ももっと、先輩と仲よくなりたい」
 少し唇を突き出して、虎杖が言った。素直な感情表現がかわいらしい。そしてなにより、率直に慕われることがむずがゆく感じるほどうれしかった。後輩がかわいいと
「ありがとう。そう言ってもらえてうれしいよ。私も虎杖くんと、もっと仲よくなりたいな」
 照れくさかったけれど、同じように言葉にして伝えると、虎杖は屈託のない笑みを浮かべた。陽差しのように明るい笑顔だった。
 なつっこい犬が尻尾をふって寄ってくるような、愛嬌がある。
「じゃあさ、今度休みが合った時、一緒に遊ぼーよ。先輩が予約してたってカフェ、俺も行ってみたい」
「えっ、あー……あー、うん。いいよ。カフェね、わかった」
 頭の中で、過去に利用したことがある店を振り返りながら、うなずく。
 それというのも、桑染がよく行く「カフェ」はマンガやアニメ、ゲームのコラボカフェなのだ。
 そうでなければよく見かけるチェーン店が多く、おそらく虎杖が想像しているような小洒落たカフェに入ることは、あまりない。せいぜいがスターバックスだ。いや、スターバックスは小洒落ているけれど。
「……やっぱ、女子と行くほうが、いい?」
 記憶を探っていると、気落ちしたように虎杖がこちらを見ていた。
 しょんぼりした様子に、罪悪感がざっくりと突き刺さる。
「あー! 違う違う。ごめん、一緒に行きたくないとかじゃなくて」
 最初の反応がノリ気ではなかったのは、決して虎杖と行くのを渋っていたのではない。オタク趣味を彼に知られたくない、というただの見栄なのだ。
「虎杖くんと一緒に遊べるのはうれしいし、楽しみだよ。どこのカフェがいいのか、考えてただけ」
 ──嘘では、ない。うれしいのも楽しみなのも、本心である。
「そう? よかったーマジであせった」
 ほっと息をつき、座席に背中を預ける後輩の姿に、やはり後ろめたさを感じる。
 嘘をついているわけではない。嘘をついているわけではないけれど、隠しごとをごまかしながら付き合うには、相手が少しまぶし過ぎる。
 桑染の趣味を知っている者はいる。一緒に出かけることが多い、真希や釘崎がそうだ。買い物ついでに本屋やグッズショップ、アニメの複製原画の展示に立ち寄らせてもらったことは少なくない。当然、パンダに狗巻、乙骨も知っている。
 けれど、後輩の虎杖、伏黒にはまだ打ち明けてはいない。それは趣味の傾向が違うことに加えて、同性の釘崎ほどプライベートな話をする機会がなかったからで、秘密にしようとしていたわけではない。
 積極的に話すようなことでもない、とも思ってはいたけれど。
 ちらりと虎杖の顔をうかがう。「どーかした?」と親しげな視線を向ける後輩が、いい子なのはもう十分に知っている。自分がよく知らない趣味でも──ひとが大事にしていることを──否定したりしないであろうことも。
「えーっと……そのー……」
「ん」
 ためらい、口ごもっても、こちらの準備ができるまで急かすことなく待っていてくれる。
 ぎゅ、と膝の上の両手を握りしめ、大きく息を吸い込む。彼のことを知りたいし、できれば自分のことも知ってほしい。──もっと、仲良くなりたい。そう、思った。
「あの……予約してたカフェって、コラボカフェ、なんだよね……漫画の」
「コラボカフェ? ……漫画の?」
 予想通り、虎杖は首をひねった。漫画のコラボカフェと言われても、イメージができていないのだ。
「店員さんが、漫画のコスプレとかしてんの?」
「あー、そういうカフェもあるけど、私が行くのはちょっと違うかな」
「へー、いろいろあるんだ。じゃあ、先輩が行く『コラボカフェ』はどんなやつなの?」
 根が明るく、二次元オタク的な趣味とは縁がなさそうとは思っていたけれど、純粋な興味を向けられるのもなかなかにはずかしいものがある。
 否定されなかったことに安心するのと同時に、体温が急に上がっているのが自分でよくわかった。
「えっと……書店とか、ゲームセンターが運営しているカフェで、漫画とかゲームとかのキャラクターをイメージした料理とか、ドリンクとか出してる感じの……」
「あー、そういうこと。俺あんまり漫画とかゲームくわしくないからさ。テレビは観るんだけど、バラエティとかばっかだし」
 羞恥心を抱きながら説明をする桑染に対して、虎杖は肩透かしを食らうほどあっさりと趣味を受け入れている。
「なんて漫画のやつだったの?」
 ──それどころか、ストレートど真ん中に、突っ込んでくる。
「うーん……虎杖くん知ってるかなあ」
 タイトルを教えれば、読んだことはないが知っていると言われ、ぱっと明るい表情を浮かべてしまう。
「おもしろいから、機会があったら読んでみてほしいな」
「先輩が持ってんなら、貸してよ」
「興味ある? いいよ! 今度貸すね!」
 思わず声が弾んだ。破顔している自覚もあったが、好きな作品に興味を持ってもらえたことが、とにかくうれしくてたまらなかった。単純なもので、車に乗ったばかりの時の暗い気持ちは吹き飛んでいる。
 コラボカフェの席をあけてしまうこと、公式にお金を落とせなくなったことは残念ではあるけれど、ファンが増えてくれる可能性が出てきたことは喜ばしい。
「あ、アニメにもなってるから、よかったらそっちも──って、なに……?」
 テレビが好きなら映像のほうもいけるクチか、と顔を向けると、虎杖がニコニコとした笑顔を浮かべてこちらを見ていた。
「んーん。先輩が楽しそうだったから」
 ──楽しそうに話しているのが、楽しい。そう言わんばかりの表情に、指先がほかほかと熱を持つ。
 今が夜で、照明をつけていない車内で、よかった。心底、そう思った。
「ごめん、私ばっかりしゃべって」
「先輩の話聞きたいから、いーよ」
 虎杖は、あくまで友好的な姿勢を貫いてくる。
 頭ごなしに否定するような後輩ではないとわかってはいたけれど、ここまで肯定的なのかと、いっそ感心の域だった。
「虎杖くんは、休みの日なにしてるの?」
「最近だと、映画観てるかな」
「そうなんだ。直近だと、なに観たの?」
「あ、漫画好きなら、先輩も知ってるかも」
 そう言って教えてもらったのは、有名なギャグ漫画を実写化したものだった。
「知ってるし、漫画読んだことあるよ! おもしろいよね。映画どうだった?」
 尋ねれば、虎杖も楽しそうに感想を語ってくれる。
 楽しそうに話しているのを聞くのが楽しい──というのは、きっとこういうことなのだろう。
「……ねえねえ、先輩がいーならさ」
「うん?」
 こちらをうかがうような視線に、笑みを返して続きをうながす。
「……今度、一緒に映画も行かね?」
「いいの? 行きたい!」
 即答で返すと、虎杖の顔が弾けんばかりの喜色に満ちた。
「ッしゃ、決まり!」
 向けられたひとなつっこい笑顔に、つられるようにこちらも笑顔を返す。
 こんなにあっさり受け入れてくれるのなら、もっと早くからカミングアウトをしておけばよかったのかもしれない。そうすれば、いろんな映画を紹介してもらえただろうし、こちらだって漫画やアニメをいろいろとすすめることができていた。
 ──でも、それは、これからやっていけばいいことか。
「今、なに上映してっかな。先輩気になるの、ある?」
 虎杖が手にしたスマートフォンを、こちらに差し出した。小さな液晶が、深夜の車内に明るい光を放っている。
「えっと……」
 私は肩を寄せるようにして、後輩の手元をのぞきこんだ。



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