モストロラウンジでアルバイトを始めた監督生は、週に一度、客としても店に訪れるようになった。行動を共にしているやかましい魔獣も連れず、きつく閉じた二枚貝のように静かに過ごすと、一時間ほどで出て行ってしまう。
「大水槽がお気に召しましたか?」
ラウンジのカウンターの一番端、大水槽を一望できる席を定席にしつつある後輩へ声をかけると、彼は視線をこちらに向けるべく振り返った。
陸の土の色をした瞳が、僕の姿を捉える。
「はい。モストロラウンジの大水槽、とってもすてきです。ラウンジに水槽を作るのを考えたのは、アズー ル先輩ですか?」
「ええ。店を開くとなると、コンセプトは必須ですから。オクタヴィネル寮は海の魔女の慈悲の精神に基づいているので、それに合わせて海中をイメージした内装にしました」
照明のシャンデリアのアームはタコの脚、シェードと飾りのパーツはクラゲを模している。
「先輩が暮らしていた海も、あんな感じなんですか?」
監督生が、視線を僕から大水槽へ向けて尋ねた。
それを追うように、僕も水槽へ目を向ける。
ブルーライトで照らされた大水槽は、複数種類の珊瑚で飾られている。テーブル型や塊状の造礁珊瑚から、宝石珊瑚まで。ハード、ソフトを問わず様々な種が、青い光を浴びながら佇んでいた。
「そうですね、僕が生まれ育った故郷を参考にしています」
「あれ? 先輩は、寒いところの出身じゃなかったですか? 冬には海面が凍るとかって」
「ええ。僕とリーチ兄弟は珊瑚の海の、北の方の出身です。この大水槽よりもっと暗く、冷たく、静かなところですよ。それがどうかしましたか?」
「ぼくの世界のサンゴは、あたたかいところにしかいないんです。南の方のリゾート地で、ダイビングとかしてお魚と一緒に楽しむイメージがあります。でも、こっちのサンゴは、寒いところにもいるんですね」
大水槽を見つめたまま、監督生は独り言のようにそうこぼした。もっと遠く、ここではない彼方を見ているような、横顔で。
海中に噴いた真黒い墨がじわりと広がるように、苦いものが胸の内側で滲み出す。彼が見せる横顔が、どうしようもなく、たまらなく不快だった。
「あ、でも、海の中は、あっちもこっちもあまり変わらない気がします。サンゴもそうですけど、シャンデリアのタコの脚とか、クラゲとか、そういうものは同じような形なので。深海魚とかになると変わった形が多いので、どうかわからないですけど」
そう言って、監督生がこちらを振り向く。焦点が、僕に向けて合わせられる。
「……そうですか。深海にご興味があれば、連れて行って差し上げますよ。陽の光も届かない、暗く冷たいところですが。──鑑賞の邪魔をしてしまいましたね。ごゆっくり、どうぞ」
笑みを貼り付けて、社交辞令を述べ、僕は逃げるように彼から離れた。
「フロイド」
「なに?」
客の食器を片付けていた幼なじみの片割れを呼び止めると、気怠げな返事が返ってきた。
どうやら、都合がいいことにホールの仕事に飽きてきているらしい。
「監督生さんが、ずいぶんと大水槽を気に入っていくださっているようです。彼は週に一度ラウンジを利用してくださるお客様でもありますから、たまにはサーピスをいたしましょう」
「それってぇ」
「泳いで来なさい。ホールは僕が引き継ぎます」
「マジ? サボれんじゃん、やったー!」
「待ちなさい、テーブルは片付けてから──おい、店内で走るな!」
言うが早いか、気分屋のスタッフは手にしていた食器をテーブルへ戻すと、バックヤードへ駆けて行ってしまった。
──引き継ぐとは言ったけれど、やりかけのことはやってから行け。堂々とサボりと言うな。ホコリが立つからラウンジでは走るな。
言いたいことは山程あったけれど、ため息ひとつで諦めて、中途半端にまとめられていた食器を集め、テーブルを拭く。
ちらりと確かめた監督生は、またぼうっと水槽を眺めていた。
そのぼんやりと大水槽を見つめる目が、驚きに見開かれる。ぽかんと口を開いた横顔が間抜けで、胸のすく思いがした。胸の内に広がっていた墨は、深い海に溶けるように消えた。苦く滲んだものは、今ではどこか甘さを持った別のものになっている。
通りかかったアルバイトに片づけを押し付け、靴音を高く鳴らしてカウンターへ向かう。フロイドに言えたものではなかったが、モストロ・ラウンジの経営者は僕だからいいのだ。
「フロイドですよ」
まだ目を丸くしたままの監督生へ再び声をかけ、愛想のいい笑みを浮かべて隣に立つ。
「大水槽をお褒めいただきましたので、ちょっとしたパフォーマンスのサービスです。貴方は常連のお客様でもありますから」
「え、ぼくのためにですか? うわあ、ありがとうございます、びっくりしました……。いきなり大きな影が飛び込んでくるから、何事かと」
「……いかがですか? 人魚は」
「人魚?」
「ええ。人魚を見た、貴方の感想をお聞かせいただけませんか。今回は貴方へ向けたサービスですが、評判が良ければパフォーマンスとして取り入れるのも検討しようかと」
──嘘、だった。
パフォーマンスとして人魚の遊泳を見せる気など、これっぽっちもない。気まぐれで奔放なフロイドは気にしないだろうし、ジェイドも仕事であれば請け負うだろう。
けれど、監督生にフロイドの本来の姿──人魚──を見せたのは、サービスでもパフォーマンスでもないのだ。
「えっと、おとぎ話みたいだなって、思います」
大水槽の中、陸の姿よりもさらに長い尾びれをうねらせて人魚は泳ぐ。
「私がいた世界にも人魚の話はありますけど、伝説や絵本の中の存在なんです。だから、なんだか、おとぎ話の中にいるみたいな気持ちです」
大水槽を見つめるその横顔は『おとぎ話』に視線を縫い止められている。
──そう、ここはツイステッドワンダーランド。
魔法があり、海には人魚が住む世界。魔法がなく、人魚がおとぎ話の中の存在の、かつて貴方がいた世界ではない。
「お気に召していただけたのであれば、幸いです。──心ゆくまで、ご堪能ください」
貴方の海は、爪先も浸かれぬはるか彼方。
見つめるならば、この海を。
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