ぼくには、大好きな恋人がいる。わかりにくくてわかりやすい、かわいらしい恋人だ。
ボーダー本部を出て、ぼくらは並んでゆっくりと歩く。自宅まで送ると言うぼくを、方向が違うからと彼女が拒んで譲らなかった結果だ。だから、彼女の歩幅と速度に合わせるフリをしながら、二人でいる時間を引き延ばしているのだ。
隣を歩く彼女は、陽が沈んで暗くなった道を、まっすぐに見据えている。ぼくといる彼女の口数はいつも少なく、その頑なさがある唇も好ましかった。けれど、そろそろ物足りなくもなっていた。
彼女と付き合えたのは、ぼくが口説きに口説いて、根負けさせたからだった。ぼくが包み隠さず向ける好意を彼女は避けていたけれど、ぼくは絶対に彼女と恋人になりたかった。
ボーダー本部の外れにある人気のない自動販売機コーナーで、飲み終えたスチール缶を泣きながら潰していた彼女の姿は、今でも鮮明に思い出せる。
そして、見られていたことに気がついた彼女が、頬を濡らす涙もそのままにぼくへ詰め寄り「いま見たの、ないしょにして」と赤くなった目で睨んだ時に確信したのだ。
彼女だ、と。
運命というものがあったら、おもしろいだろうなとは考えていた。けれど、それを信じるまでには至っていなかった。一目惚れというものも、したことがない。そもそも恋愛にそれほど興味があるわけでもなかった。ぼくにとっておもしろい物事は他にたくさんあって、恋愛への関心度は低かったのだ。
そんなぼくだったから、彼女との出会いはまさしく「運命」的なものだった。彼女が他の誰かの特別になる前に、ぼくの特別な人にしてしまいたいと、そう強烈に思った。端的に言えば、彼女をぼくのものにしたくなったのだ。
だからぼくは絶対内緒にすると約束をして、その場で「きみのことが好きになったからぼくと付き合ってほしい」と申し入れた。それを彼女が困惑したような、不審がるような、怪訝な顔で「無理です、意味がわからない」と断わったのも、楽しい思い出となっている。
もちろん、断られたからといって諦めるという考えはなかった。ぼくには「彼女と恋人になる」という選択肢以外なかったのだから。
けれど、それは思ったより簡単なものではなかった。告白が急すぎたためか、彼女がぼくのことを警戒していたせいだ。好きと言えば言うほど避けられ、信用されなくなっていったのは本当に困ったものだった。そこがまた、かわいらしいところでもあったのだけど。
最終的には、外堀も埋めていくことになった。ぼくが彼女を好いているということを周知の事実にさせて、お互いに逃げ場を無くしたのだ。彼女が観念してぼくを受け入れるか、もしくはぼくが彼女を諦めるか。そのどちらかの勝負にまで、持ち込んだのだ。
結果は、ご覧の通り。ぼくの勝利だった。
でも、だからだろうか。強引に押し切るように結んだ関係だからなのか、ぼくといるときの彼女は、いつまでたってもぎこちない。
「園希ちゃん」
名前を呼べば、彼女はぼくのほうへ顔を向ける。その視線は真っ直ぐぼくを貫くのに、並んで歩くぼくらの間には、溝のような距離が取られている。
「……王子くん?」
名前を呼んでそれきりのぼくに、彼女が首を傾げる。不思議そうに瞬きをする瞳には、ぼくへの嫌悪は見られない。一緒にいると口数は少ないし、ぎこちないけれど、ぼくを真正面から捉える時の彼女はひどく素直なのだ。
「好きだよ」
たまらない気持ちになってそう伝えると、彼女はぷいと前を向いてしまった。そっぽを向いて「そう」とこぼされた小さなつぶやきが、暮れた道にぽつりと落ちる。
「園希ちゃんは? ぼくのこと、好き?」
立ち止まって尋ねると、一歩半踏み出した先で、彼女も立ち止まった。けれど、名前を呼んだときのようには、目を向けてくれない。
界境防衛機関からまだそう離れていない住宅街は、人気がなく、静かだった。立ち尽くしたぼくら二人を、街灯のくすんだ明かりが照らしている。
「……好きじゃなかったら、一緒に帰らない」
焦ったくなるほど長く、甘い間を置いて、彼女はそう答えた。背を向けられたままで、表情は読めない。けれど、その声音はわかりやすいほど素直で、恥じらいと、意地悪なぼくへの非難が込められていた。
「それって」
足を踏み出して、彼女を追い越す。振り向きながら、大好きな彼女の顔を覗き込む。
「きみも、ぼくが好き、ってこと?」
ばちりと視線が重なり合って、すぐに逸らされる。それを黙って見つめていれば、気のせいと思えるほどかすかに、彼女がうなずいた。交際を受け入れてくれたときと、そっくり同じ顔で。
ぼくの、大好きな女の子。恥ずかしがりで、わかりにくくて、とっても素直なかわいい恋人。意地悪をしてごめんね。きみがぼくと同じ気持ちでいてくれることが、とってもうれしいんだ。
「ねえ、きみと手を繋ぎたいな。いい?」
「……指一本だけなら」
顔を背けたまま、彼女が答える。街灯の薄暗い明かりでも、その頬が赤く染まっているがよくわかった。
「ありがとう、うれしいな」
所在なく脇に下ろされていた彼女の小指に、人差し指を絡める。やさしく促すと、彼女の足がのろのろと動き出す。
さらに遅くなった歩みで、ぼくたちは帰り道を行く。指一本分だけ近くなった距離を保って。
繋いだ人差し指にやさしく力を込めると、彼女の小指がぎくしゃくとそれに応える。
ぼくには、大好きな恋人がいる。わかりにくくてわかりやすい、恥ずかしがりのかわいらしい恋人だ。
そして彼女もまた、ぼくのことが大好きなのだ。
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