お風呂から出て髪を乾かして自分の部屋へ戻ったら、幼なじみが上がり込んでいた。週末の日曜日、夜の八時になる少し前のことだった。
 その幼なじみは私のスマートフォンを手にしていて、画面へちらりと視線を送ると、険しい顔で「誰だこいつ」と言うのだから、心底げんなりした気持ちになった。

「なんでいるの」

 私は幼なじみからの質問に、質問で答えた。部屋にいる理由はわかっている。どうせ母さんが勝手に入れたのだ。
 だから私が知りたいのは「どうやってここに入ったのか」ではなく「どうして来たのか」の方だ。ここ最近は、全然姿を見せなかったというのに。

「別にいいだろ」
「よくない。それに質問の答えになってない」

 質問に質問で答えたことを棚に上げてぴしゃりと返すと、幼なじみ──糸師凛は、むっとしたように私を睨んだ。
 癖のない黒髪に、涼しげな目元、うらやましくなるほど長くて濃い下まつげ。きれいな顔立ちをした糸師凛は、一つ年下の幼なじみだ。
 この関係は、小学校へ入る前から始まっている。
 家が近いこと。
 凛と、凛のお兄ちゃんの冴くんと、私の年齢が近いこと。
 親同士の年齢が近いこと。
 そういったことが重なって、ほとんど家族ぐるみでの付き合いになっている。
 だから私の親は凛が来たら歓迎して家に上げるし、私がお風呂に入っている間に、許可も取らずに部屋へ通してしまう。勝手に入れないで、と何度も言っているのに。いつも「いいでしょう、凛くんなんだから」の一言で済ませられてしまって、聞き入れてもらえない。
 いくら幼なじみだといえ、私たちはもう高校生になっているのに。私の両親からしたら、凛はいつまでも「園希の幼なじみのかわいい凛くん」のままなのだ。

「スマホ、返して」

 手を伸ばす私を見下ろしたまま、凛はむっつりと黙りこくっている。不満があるとすぐ表情や態度に出るところは、相変わらずだ。
 末っ子気質というものなのだろう。昔はそういうところをかわいいと思えた。でも、今はどうだろう。無性に鼻について、しかたがない。

「返してってば」

 百八十センチを超えたという上背を活かすように、私を見下ろす凛へ繰り返す。威圧的な姿勢だ。しかし残念、私には通用しない。よくもわるくも、付き合いの長い幼なじみなのだから。

「こいつと付き合ってんのか」

 凛が、私のスマホのロック画面を突きつけてくる。そこにはメッセージアプリの通知が、内容の一部と共に表示されている。
 ──俺は課題やってるんだけど、終わんなくてさー。
 学校の先輩からのメッセージだった。たわいもない、ありふれた雑談の言葉である。

「凛には関係ないでしょ」

 いくら詰められても、私はあくまで黙秘を貫く。凛には、ただの幼なじみには、関係のないことだ。私と先輩の関係について、教える必要も義務もない。
 私が頑なに突っぱねても、凛はスマートフォンしっかりと握ったままだ。それどころか、苛立たしげな空気をにじませる。身体が大きくなっても、そういう子供っぽいところはなくなりきっていないみたいだ。

「返してって」

 奪おうとすると、さっと避けられた。サッカーに打ち込んでいる凛からしたら、私をかわすのは簡単なのだろう。
 凛はさらに、スマホを持つ手を挙げた。そんなことをされたら、私が背伸びをしても届かないとをわかっててだ。スマートフォンは、百八十センチを超える男の頭上。踏み台かなにかに乗ってようやく、対等になれる高さだ。
 けれど、踏み台を使って張り合ったところで、サッカー漬けで鍛えている男子の身体と、帰宅部の女子の身体では、どちらが勝つのかもわかりきっている。ちょっとやそっと押したくらいでは、びくともしないに決まっている。
 凛は、パッと見た感じでは細身に見えるけれど、そのシンプルな黒のタートルネックの下の身体には、しっかりと筋肉がついているのだ。手押し相撲で私に負けていたころの凛とは、もう違う。

「誰だよこいつ」

 凛はもう一度繰り返した。ターコイズブルーの目が、責めるように私を見る。そんな目で見られる謂れはないのに。理不尽さに、私まで苛立ってくる。

「誰でもいいでしょ。凛には関係ない。なんの権利があって、私の人間関係に口出ししてくるの」

 ──彼氏でも、ないのに。
 吐き捨てたくなる言葉を飲み込んで、ぐっと胸の奥に押し戻す。
 凛はいつも、こうだ。ただの幼なじみのくせに、私に干渉してくる。幼なじみという立場を、なにかとても強い力を持つ特権のように思っている。
 たしかに、子供のころの私たちはとても仲良しだった。幼い凛は兄の冴くんにべったりで、その冴くんがいない時は、私にべったりだった。一人っ子の私はというと、弟ができたみたいでうれしくて、凛がかわいくてしかたがなかった。
 でも、いつまでも無邪気な関係は続かない。
 私たちはもう、高校生なのだ。学校から一緒に帰ったりしないし、手を繋いで歩いたりもしない。凛は私を「園希ちゃん」とも呼ばなくなった。
 幼なじみという関係それだけで、子供のころと同じような仲良しではいられない。
 凛はサッカー部のエースで、私はなんの取り柄もない帰宅部。幼なじみであるということを差し引いても、今の私たちは、釣り合わない。

「返してってば」

 私もオウムのように同じ言葉を繰り返す。早く、先輩からのメッセージに返信がしたい。凛のことなんか考えたくない。
 それなのに、この強情な幼なじみも譲ろうとしないのだ。

「だから、誰なんだよこの佐藤ってやつは」
「佐藤先輩! 年上なんだから呼び捨てにしないで」

 私の一つ年上、凛からは二つ上──冴くんと同い年──の佐藤先輩とは、二週間ほど前に連絡先を交換した。
 元々は友達の彼氏の友達、という接点の薄い関係だった。友達の彼氏という繋がりで、校内で何度か顔を見たことはある。でも喋ったことはないし、名前も知らない。そういう遠い距離にいる人だった。
 そんな佐藤先輩が、私と連絡先を交換したがっている。友人からそう伝えられたことが、きっかけだった。

「この佐藤って野郎と付き合ってんのかよ」
「だから、凛と関係ある? 私が佐藤先輩と付き合っていても、いなくても、凛には関係ないでしょ」
「関係なくても不愉快なんだよ」

 言葉通り、不愉快そうに顔を歪める幼なじみに、私はお腹の奥の方が熱くなるのを感じた。

「──なに、それ」

 一瞬で沸点を超えた怒りで、涙がにじんでくる。でも泣いたりするのは嫌で、震える唇を噛んで必死にこらえる。
 幼なじみなら、なんでも許されると思っているのだろうか。たしかに、子供のころはかわいがって甘やかして、凛の言うことは大抵受け入れてきた。
 でもそれは、ただ仲良しでいられれば満足できる子供だったからだ。
 どうして凛は、こうなのだ。冴くんと、サッカーしか見ていなくて、私のことを見ていないのに。それなのに、私がそばにいるのが当たり前だと思っている。
 今日のようにふらっと会いに来ては、盛り上がりに欠ける世間話を少して、さっさと帰る。ここ数年は、ずっとそんな感じだった。
 昔だったら、もっといっぱいおしゃべりをした。話題はサッカーのことばかりだったけれど、私は凛が話すことならいくらでも聞いていられたし、凛だって、もっと私の話に付き合ってくれた。
 けど、今の凛は、そのころが夢だったかのように変わってしまった。口数は減ったし、笑わなくなった。私が隣にいても、ずっと、ここではない遠くを見ている。
 ──自分はそういう風に、変わったくせに。
 凛は、知らない私を嫌がる。自分はどんどん先へ進んで、私を置いて行くのに。私が私の道を進むことは認めようとしない。私がいつまでも変わらずにいるのが、当然とでも考えているように。

「関係ないなら、口出ししないで! ──凛なんか、凛なんか──きらい──」

 おさえきれずに、言葉があふれた。そうしたら、つられるように涙もあふれた。
 凛のしかめっ面が、驚きに変わる。目を丸くした、久しぶりに見る表情だった。けれど、なつかしいはずのそれが、私の神経をますます逆撫でする。
 手の甲で乱暴に涙をぬぐう。結局泣いてしまったのが悔しい。その悔しさがまた涙となるせいで、ちっとも止まってくれそうになかった。
 いっそ、幼なじみじゃなければよかった。凛にとってどうでもいい、路傍の石みたいな存在だったらよかったのだ。
 中途半端に近いせいで、こんなことになっているのだから。私は、冴くんとサッカーに及ぶようなものでもないのに。
 幼いころの関係を、惰性で延長している繋がりなのだから、さっさと捨ててくれたらどれだけいいか。

「……園希」

 私を呼んだ声は、ぎこちなかった。うつむいた視界の端で、凛の大きな手が所在なげだった。
 泣く私をどうしたらいいのかわからないのだ。十数年の付き合いの中で、私が凛の前で泣いたことは数えるほどだから。
 せいぜい、困ればいい。ぐちゃぐちゃになった感情が、私を醜い気持ちにさせる。私の涙で、その胸のうちが揺れればいい。
 ざまあみろだ。幼なじみという強権で自分の好きなように通してこれたのは、いつも私が折れていたからだ。だから、こんなのどうしたらいいかわからないんでしょう。困って、途方にくれてしまえ。

「なんで泣くんだよ。泣きやめ。返すから」

 凛が、私の手首を掴む。握りしめていた手がこじ開けられて、私の元にスマホが戻ってくる。
 バカみたいだと思った。泣いている理由の、本当のところもわからないくせに。取りあげたものを返せば、私が泣き止むと考えている。
 凛の手が、今度は二の腕を掴む。子供のころ、よく繋いだ手だ。成長してからは、私にほとんど触れることのなくなった、大きな、手。

「もういいだろ」
「──はなして。──出てって」
「嫌だ」
「──出てって!」

 ヒステリックな自分の声に、情けなくなる。こんな感情的なところ、見せたくなんかないのに。涙が止まらないせいでか、自分をコントロールできない。ひどい嵐の中で、舵の壊れた船を操縦するかのようだった。

「嫌だ」

 きっぱりと、凛が言う。変声期を終えて、低くなった声。その声は、私の判断を鈍らせ、選択肢を減らす。
 ──ずるい。どうすれば言うことを聞かせられるか、本当はわかってるみたいだ。
 私の腕を掴む手に、力がこもる。
 痛かった。痛くて、離してほしいのに、もう一度「離して」と言うことができない。身じろぎすらできない。その自分の浅ましさが、どこから来ているのか、私は知っている。
 私は、凛にとってなんなのだろう。
 尋ねたところで、ほしい答えは返ってこない。どうせ、幼なじみとか、姉のようなやつとか、そういうものなのだ。
 それなのに、凛は私を掴んで離そうとしない。
 いっそ私に、それでもいいと思えるいじらしさがあればよかった。幼なじみでもいいから、近くにいられるだけで十分、と思えるような、健気な女だったらよかった。
 私は欲張りな自分自身のせいで、こんなにみじめに泣くはめになっているのだ。

「凛なんか、きらい──」

 ぐずぐずの涙声が、みっともない。掴まれた腕を振りほどこうとしない私そのものに、凛へ抱く感情が示されている。
 でも凛は、私のそういうところに気がつくことはないのだ。

「嫌いたければいくらでも嫌え。でも、俺の側にいろ。お前が言ったんだろうが」

 ──ああ。
 その瞬間、脳裏に鮮やかな光が差し込む。 
 ──そんな、子供のころの口約束を。
 しっかりとフタをして、何重にも鎖で巻いて。重石を付けて、深い深い奥底に沈めて。忘れていたふりを、していたのに。
 ──凛は──凛も、まだ、覚えていたの。
 記憶の箱が、開く。

 その日、凛は冴くんの試合を観に行けなくてぐずっていた。冴くんの試合は必ずと言っていいほど観戦しているのに、その日は糸師家の両親の事情で観に行けなかったのだ。
 冴くんパパは外せない急な仕事が入り、ママは風邪で高熱を出していた。冴くんはサッカーチームのメンバーの親御さんに会場へ連れて行ってもらったけれど、凛も一緒にとはならず、留守番になったのだ。
 それで拗ねてだだをこねる凛に、私がかけた言葉だった。
 今でも、鮮明に、思い出せる。

 ──さえくんがいないときは、わたしがりんといっしょにいてあげる。

 なんの屈託もなく、ずっと一緒にいられると思っていたころ話だ。楽観的で、現実的でない言葉だった。
 そんな、成長するうちに忘れてしまうようなことを、凛も、覚えていたのだ。
 凛の大好きだった、憧れで自慢で目標だった冴くんは、いない。サッカー留学でスペインにいるからじゃない。詳しいことはわからないけれど、仲違いをしたようで、今の凛は冴くんのことを恨んでいる。
 その憎しみは、仲のいい姿を見ていた私には到底信じられないことで、同時に、私には踏み込めないことでもあった。
 昔から凛の世界の中心は冴くんで、さらにその周りをサッカーが取り囲んでいた。凛の世界は冴くんとサッカーでできていると言っても過言ではなかったし、冴くん自身も凛にやさしかった。
 私は世界の中心にも取り巻くものにもなれず、近いところから二人を見るだけだった。それでも、この兄弟はこのまま二人で世界一になるんだと、疑っていなかった。それくらい、仲のいい兄弟だった。
 ──でも、だからなの?
 大好きな兄ちゃんがいなくなったから。大ゲンカをして、離れてしまったから。だから、幼なじみの私を代わりにするの? 子供のころの私の言葉を、証拠にして。
 あんまりだ。こんなのあんまりだと思うのに、凛が覚えていたことが、どうしようもなくうれしかった。悲しくて、腹立たしいのに、うれしくて、足元が浮つくような気持ちになる。
 私は、ただの幼なじみだ。冴くんやサッカーのように、凛の世界を構成するものではない。子供のころに大好きだったおもちゃのような、お気に入りの絵本のような、そんな、成長するうちに遠ざかっていくもののはずだ。
 特別じゃないなら、捨て置いてほしい。そう思っていた。そうしてくれたら、凛から離れることができると考えていた。
 ──それなのに、凛が、覚えていたから。
 私はきっと、佐藤先輩とのやり取りをやめてしまう。先輩と付き合っているわけではないし、凛とそういう関係になるわけでもないのだから、断つ必要もないのに。
 鼻をすすって、涙をぬぐう。自分が単純で、安上がりなことはわかっている。でも、どうしようもなく、うれしいのだ。
 私が大事にしたくて、でも大事にし続けることがつらくて、なかったことにしようとしていたこと。それを、凛が覚えていてくれた。ただそれだけのことで、あらゆることを許せてしまえるくらい、うれしいのだ。
 うつむけていた顔を少し上げると、私の腕を掴んでいた凛の手もゆるんだ。それがさびしくて、やっぱりどこまでも欲張りなのだと思い知らされる。
 でも、今の私はそんな自分さえどうでもよかった。
 目は合わせないまま、私は怒った口調で凛に言う。

「……あやまって」
「何に対してだよ」
「泣かせたことに対して!」
「……お前が勝手に泣いたんだろ」
「凛が理不尽言わなかったら、泣いてない! だから、凛が悪い! 謝って!」

 めちゃくちゃを言っていることはわかっていた。どちらが理不尽なのだか。でも、凛に謝ってもらって、私も謝って、それで仲直りがしたい。
 子供のころだったら、こんなケンカ、私の方からごめんねと言っておしまいだった。いつの間に私の素直さは擦り切れて、ボロ雑巾になってしまったのだろう。
 でも、こじれたまま、遠くのひとになりたくない。
 仲直りしたところで、私たちの関係性が変わるわけではない。凛は私のことを幼なじみとしか思わないだろうし、私にこだわるのだって、冴くんの穴埋めなんだろう。
 そのことでまた、苦しくなることはある。絶対に、私はこの先、今日と同じように惨めな思いをする。その度に、凛のことを恨むだろう。
 でも。

「……謝ってくれたら、許すから」
「ならお前も謝れ。俺のこと嫌いって言っただろ」

 凛が、むっすりとした声で返した。
 私は思わず顔を上げてしまった。真正面から、目と目が合う。
 怒っているような、不満そうな顔。私を見下ろす、青緑の瞳。神が宿ると言われる鉱石と同じ色の眼には、態度に表されない感情もふくまれているように見えた。

「……なにそれ」

 くしゃりと、自分の顔が崩れるのがわかった。
 背が伸びた。大人びた。大好きなお兄ちゃんと、決別した。そうして凛は、子供のころと比べて随分変わってしまった。
 けれど、私が知る幼なじみはまだ、彼の中に残っているらしい。

「──ごめんね、りん」

 ──ゆるしてくれる?
 ──……うん。
 ──じゃあ、なかなおりね。
 ──うん。……おれも、ごめんね、そのきちゃん。

 私たちが、素直で無邪気な幼なじみだったころの、仲直りの言葉。
 凛も、あのころと同じように、ごめんと言ってくれるだろうか。



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