恋する女の子たちのための日。
二月十四日は、まさにそんな感じの日だ。「どうしよう、ちゃんと渡せるかな」不安そうに、でもほっぺをほんのり赤くして、友だちの山鳩詩桜ちゃんが小声で言った。私はそんな彼女を「大丈夫だよ!」と勇気づけた。
決して根拠のない励ましではない。バレンタインデーというこの日、詩桜ちゃんがチョコレートを渡そうとしている鈴木くんは、彼女に好意を持っている。数週間前に「山鳩は誰かにチョコを渡すのか」と探りを入れて来たから、これはたしかだ。
いわゆる、両片想い。彼女の恋は、成就間違いなしなのである。
緊張と少しの興奮で、いつもより落ち着きなくそわそわとしている友だちは、本当にかわいらしい。これが、恋をするということなのだ。微笑ましい姿だった。
「ね、園希はやっぱり渡す人いないの?」
椅子に座る私の机に手をつき、詩桜ちゃんが尋ねた。キラキラとした、恋バナを楽しむ女子高生の瞳だった。
「うん、残念だけど私はいないんだぁ。渡すのは友チョコだけ。──ということで、はい! ハッピーバレンタイン、詩桜ちゃん!」
机の横に掛けていたスクールバッグから、手作りのチョコレートを取り出す。カップに乗せ、つまみやすいようにピックを刺したトリュフだ。一つはココアパウダーをまぶしたスタンダードなトリュフ。残り二つには、それぞれ抹茶パウダーとココナッツファインをまぶしている。
「ありがと〜、おいしそう!」
「去年はカップケーキを作ったから、今年はトリュフにしてみたんだ。お口にあったらうれしいな」
「絶対おいしいよ、去年のカップケーキもおいしかったもん。ちょっと待ってて、私も用意してるから!」
笑顔でトリュフを受け取って、詩桜ちゃんが自分の席へと戻る。
「はい、ハッピーバレンタイン!」
「ありがと!」
彼女からの友チョコは、チョコレートブラウニーだった。しっとりとした切り口が濃厚そうで、粉砂糖でうっすらとお化粧を施されている。彼女の手作りはとてもおいしそうだった。
「ね、本命はどんなチョコにしたの?」
声をひそめて尋ねると、詩桜ちゃんの頬にさっと朱色が差した。
「……生チョコレート。ちょっと甘さはひかえめの」
どうやら、相当気合を入れて作ったらしい。照れているような表情だけれど、自信はありそうだった。
「それもおいしそうだね、きっとうまくいくよ! 応援してるからね」
「ありがと、がんばる……!」
「私も、来年は渡したいと思える人がいたらいいんだけどなぁ」
一年生の時も、そして今年も、好きな人はできなかった。バレンタインデーは、友だちにチョコを渡しておしまいだ。
恋愛をしてみたいという気持ちはあるけど、こればっかりはどうしようもない。友人の姿を見ているとそう思う。恋というものは、多分、しようと思ってできるものじゃない。
もっと唐突な、それこそ「落ちる」ようなものだったり、ゆっくりじわじわ、気がついたらそうなっているもの、なんだと思う。
私も好きな人ができたら、この友人のような表情をするようになるんだろうか。今の自分では、全然想像ができなかった。
「園希なら、すぐ彼氏できそうなんだけどねー。気になってる男の子もいないんでしょ?」
「うん、いないんだよねぇ。でもまあ、自分のペースでいくよ」
来年の目標かな、なんて笑った時だった。教室の入り口の方で「鳩ちゃんー」と詩桜ちゃんを呼ぶ声がした。違うクラスの女の子だった。たしか、詩桜ちゃんと同じ中学出身の子だ。詩桜ちゃんとは高校から付き合いになる私には、ほとんど接点のない子だった。
「ごめん、数学の教科書貸してくれない? 忘れちゃってー」
「いいよー、ちょっと待ってー」
返事をした詩桜ちゃんが「行ってくる」と声を掛けて離れる。私はその軽い足取りの後ろ姿を見送った。
チョコは、いつ渡すんだろう。報告が楽しみだ。きっと、花が咲いたみたいな顔で、結果を教えてくれる。
ゆるむ口元を隠すように、手元のブラウニーに視線を落とす。その時、頬に視線を感じた。私の左隣の席、いつの間にか登校していた蜂楽廻くんが、じぃっと私のことを見ていた。くりくりとしたフリージアの色の目には、なにか訴えるようなものが感じられる。
「えっ……と……。おはよう、蜂楽くん。どうしたの?」
「チョコレート、いいなー。俺もほしー」
どうやら、私と詩桜ちゃんの一連のやり取りを見ていたらしい。蜂楽くんは、真っ直ぐに私と目を合わせながらそう言った。
おねだりの視線に、私は少しだけ困ってしまう。こんなにストレートにチョコをねだられたのは初めてだ。どう反応したらいいのかわからない。
でも、男の子からしたら、バレンタインデーのチョコは重要なものなのかもしれない。私が男子だったら、誰かからもらえるかな? とソワソワしていたんじゃないだろうか。
私の手の中には、友人からもらったブラウニーがある。でも、これをそのまま彼にあげてしまうのは、詩桜ちゃんに失礼だ。
二人で分けて食べるんなら、大丈夫だろうか。半分こをするのであれば、詩桜ちゃんも怒ったりはしない気がする。
なんとなく居住まいを正して、蜂楽くんに向き直る。好きな男の子にチョコを渡すようなシチュエーションに似ていて、なんだか緊張した。
「よかったら、一緒に食べる?」
一切れのブラウニーを手に、どきどきしながら尋ねる。
蜂楽くんとは、これまではあまり喋ったことがない。挨拶をしたりはするけど、普段から雑談をするような親しい仲ではなかった。
彼は少し変わった男の子で、つかみどころがない。
授業中はぼんやりしてたり、寝てたり、落書きをしていたりで、あまりまじめに話を聞いている印象がない。多分だけど、成績もよくはないはずだ。
休み時間はというと、サッカーボールをお供に教室を飛び出して行く。休み時間になるたび、どこかでボールと遊んでいるらしかった。
まるで小学生のようだけど、それくらい、とにかくサッカーが好きなんだろうなということはわかる。ボールがお友だち、というか。
そんな感じだから多分、蜂楽くんのことを「なんか変わった子」「ちょっと不思議な子」と思っているクラスメイトは多いと思う。私もその一人だ。
──でも、蜂楽くんと仲良くなったら、男の子との出会いも増えたりするかも?
ふと、そんなことを思いつく。そうしたら、好きな男の子もできるかもしれない。
──いやいや、そんな理由で仲良くしようとするのはダメだよ。私は思いついたことをすぐさま否定した。
蜂楽くんをダシにするみたいなこと、彼に対して失礼だ。仲良くなりたいなら、打算や利害といったものを持ち出しちゃいけない。そうじゃないと、本当に仲良くなることはできないと思う。
蜂楽くんは、私の隣の席だ。これもなにかの縁、なのかもしれない。だから、まずはクラスメイトとして仲良くなれたらいいな。ちょっと変わってるところはあるけど、悪い子ではない……はずだし。そうしたら、彼は初めての男友だちということになる。
少しワクワクしながら返事を待っていると、
「ううん、いらない」
蜂楽くんは私の予想に反して、首を横に振った。私は考えていなかった断りに「え」と声をもらすことしかできなかった。
どうして断られるのか、わからなかった。いいなー、ほしい、と言ったのに。どうしていらないと言うんだろう。
やっぱり半分こは違うんだろうか。誰かに分けてもらうんじゃなくて、自分のためだけのチョコがほしい、とか。
なんと言ったらいいかわからず、眉尻を下げる私に蜂楽くんが続ける。
「俺がほしーのは、それじゃないんだよね」
「これじゃないの?」
手元のブラウニーに視線を落とす。しっとりとして濃厚そうなチョコレートブラウニーは、見た目にもおいしそうに見える。私だったら、半分こしてもらえるなら喜んでいただいているはずだ。
「でも、いいなーって……」
どういうことなのわからずに顔を上げると、真っ直ぐな視線とぶつかった。心臓をつかまれたように、どきりとする。
「俺がほしーって言ったのは、桑染さんが作ったチョコなんだ」
「──えっ」
またしても、短い返事しかできなかった。やっぱり、蜂楽くんが言うことを上手に理解できない。動揺とは、まさしく今の私の状態を指していた。
「──えっと──それ、って……」
目を合わせることができず、視線が教室のあちこちにさまよう。じわじわと、身体の奥の方から熱が広がっていくのを感じた。
だって、私のチョコがほしいって。
それは、まるで──告白、だ。
彼の言葉は、私のことを好きみたいな言い方だった。友だちからもらったチョコをを分け合うんじゃなくて、私のチョコがほしい。それはつまり、そういうこと──なんじゃ?
しどろもどろになりながらちらりと蜂楽くんの様子をうかがうと、彼はいたって平然とした態度だった。ぱっつんの前髪。蜂蜜色のまんまるい目。真っ直ぐすぎるくらいの、視線。少し首をかしげて「どうしたの?」とでも言うような顔で私を見ている。
──あれ?
告白をしたと言うには、あんまりにも態度が普通すぎた。てっきり告白をされたのかと思ったけど、全然そんなことはなかったのかもしれない。私が勘違いをしただけで。
そう、たとえば、チョコレートブラウニーよりトリュフのほうが好きだとか。そういう意味だったとしたら、私のチョコがほしいと言うのも納得がいく。
自意識過剰に考えた自分に、一気にはずかしくなる。ちょっと勘違いしちゃうような言い方だったから、早とちりをしてしまった。
私は気を取り直すように息を吸って、吐いて、ぎこちなく笑顔を浮かべた。
「ごめんね、友だちにあげる分しか持って来てないんだ」
「そっかー、残念」
本当に残念そうな表情と声音だった。あんまりにもがっかりした様子だから、なんだか申し訳なくなる。もっと前から仲良くしていたら、作って来てあげられたんだけど。
「あの……明日でよければ、トリュフ持って来ようか?」
「いいの?」
バッと顔を上げた蜂楽くんが、食いつくように身を乗り出す。きらきらと輝く瞳がシトリンみたいだった。
「お家に余りがあるからいいよ。自分で食べるつもりだったけど、そんなにトリュフが好きなら蜂楽くんにあげるよ。あ、でも、やっぱり今日じゃなきゃダメなのかな?」
「全然! 桑染さんの手作りならなんでもうれしーし、いつでも大歓迎! ありがとー、俺、明日が楽しみ!」
そう言ってはしゃぐ蜂楽くんは、全身から喜びがあふれてるみたいだった。私はというと、そんな彼とは対照的に、再び動揺と混乱に陥っていた。
彼は「私の手作りなら」と、言った。それは「私が作ったチョコを食べたかったのではなく、あくまでトリュフを食べたかった」という推測とは少しズレている。
むしろ、最初の考え──勘違い──告白まがい──に、戻ってしまうような発言だった。
蜂楽くんの考えいていることがわからない。こうなったらもう、はっきり聞いてしまったほうがいい。
私が勘違いしそうになっていることもバレてしまうけれど、ずっとモヤモヤ気にするより「そんなつもりはなかった」と否定してもらったほうがスッキリもするはずだ。
「……蜂楽くん。あの、あんまりそういうこと言うと、勘違いされちゃうよ」
「勘違い?」
なんのことかピンときていないのか、蜂楽くんの語尾は跳ねていた。本当に、深い意味はなかったようだった。だとしたら、どうして「私が作ったもの」にこだわるのかがわからないけど。
私は特別料理上手なキャラというわけでもない。今日のような日くらいにしか、お菓子を手作りしたりはしない。買ったほうが簡単だし、おいしいから。
「なんていうか……誰でもいいとか、どれでもいいとかじゃなくて『特定の誰かだからいい』みたいな言い方だと、その人は特別なのかなぁって、思っちゃうよ」
「じゃあ、桑染さんもそう思っちゃうの?」
痛いところを突かれて、目が泳いでしまった。まさか、直球で突っ込んでくるとは思わなかった。
どう答えるのがいいんだろう。あせりながら、正解を探して考える。
うん、と素直に答えて、笑いにしてしまう? それとも否定する? 否定したとしたら、それは嘘をついたことになるんじゃないだろうか。私が勘違いしそうになったことは、事実なんだから。
黙ってしまった私の回答を、蜂楽くんはじっと待っている。ちゃんと答えるまで逃さないというような、力を感じる視線だった。
「──そ、その」
誤魔化しを許さない真っ直ぐすぎる瞳にいたたまれなくなったころ、教室にチャイムの音が響いた。授業の開始が近いことを告げる予鈴だった。私にとっては天の恵み、助け舟だった。
雑談の声でざわついていた教室の空気が、大波を打つように動く。一限目の授業は化学で、教室の移動が必要なのだ。
「か、化学室、行かなきゃ」
急いでチョコレートブラウニーを鞄の中にしまう。バタバタと机の中から教科書とノート、筆記用具を取り出していると、隣の蜂楽くんも同じように机の中に手を入れるところだった。
よかった、と少しほっとする。このままうやむやにできそうだった。手にした学用品を、ぎゅっと抱きしめる。このまま逃げてしまおう。
「ねぇ桑染さん、一緒に教室移動しよーよ」
──それなのに、席から立ち上がったちょうどそのタイミングで、蜂楽くんが私を引き留めた。
思わず顔を向けてしまったのは失敗だった。まだ席に座ったままの蜂楽くんは、ニコニコとうれしそうな笑顔を浮かべている。勢いのまま逃亡するには、その笑顔は無邪気すぎた。逃げ出すには、手遅れだった。
勘違いするようなことは言わないほうがいい、って言ったのに。私の言葉が伝わっていないのだろうか。
いちいち振り回されていることはわかっているけど、不動のように構えるには私には恋愛経験が少なすぎた。蜂楽くんの発言に他意はないのか、それともわざとで私をからかっているのか、はたまた勘違いなんかではなく本当にそういう意味を含んでいるのか。自分ではまったく判断ができない。
「俺と一緒はいや? やっぱり友だちと移動する? いつも山鳩さんと一緒だよね」
いいともだめとも答えない私に、彼は上目遣いで重ねてくる。鼻を鳴らして甘える子犬のようで、ずるかった。断るという選択が、しづらくなる。
「──ば、蜂楽くん、今日、なんか変。どうしちゃったの」
変だなんて、ひどいことを言ってしまったかもしれない。でも、困り果てた私の気持ちもわかってほしかった。
「変かな?」
「変だよ、今までこんなに絡んできたこともなかったし……」
「今まではきっかけがなかったからなー」
たしかにその通りではある。私だって、蜂楽くんとこんなに喋ったのは今日がはじめてだ。それなのに、こんな展開になるなんて思いもしなかった。
「──でも」
そう言って、蜂楽くんが立ち上がる。
毛先の揃った前髪に、まんまるの瞳。見た目にも雰囲気にも子供っぽさがあるせいで気がつかなかったけれど、近くで並んで立つ彼は、思ったよりも背が高かった。
「俺はずっと桑染さんと話したかったし、仲良くしたいなって思ってたよ」
はにかむような蜂楽くんの口から出たその言葉は、するりとした素直なものだった。顔を覗き込まれるようにして言われた私は、一瞬で顔が熱くなるのがわかった。
言葉をなくした唇が、意味もなく開閉を繰り返す。酸素を求める金魚が、パクパクと口を開け閉めする気持ちがわかるような気がした。酸欠になったみたいに、頭がくらくらする。
──だから、そういう発言は、告白みたいなんだってば……!
声が出ない私は、心の中で叫んだ。
私と話したかった、仲良くしたいという言葉をそのまま受け取れば、そこに恋愛的な好意は見られない。
深読みをしないんであれば、彼の言葉にはクラスメイトへ向けるもの以上の意味はふくまれていないことになる。言葉通りの意図しかないのだとしたら、思わせぶりに感じる私が、やっぱり自意識過剰だということだ。
「園希? どうしたのー、遅刻しちゃうよ!」
名前を呼ばれてハッとした。声の方へ振り向くと、詩桜ちゃんが私を待っていた。気がつけば、教室に残っている人はほとんどいない。
「ちょ、ちょっと待って……! ──あの、蜂楽くん、移動教室は私、詩桜ちゃんと行くから。その、ごめんね……!」
私ははぐらかして全部をなかったことにするつもりで、そう断った。
こんな状態で彼と一緒に化学室へ向かうなんて、到底できなかった。それに、私と一緒に移動するつもりで待っててくれている友だちにも、なんて説明をしたらいいのかわからない。
また、子犬の顔をされたらどうしようと思ったけど、蜂楽くんは「おっけーおっけー」とすぐに引き下がった。それは肩透かしをくらうほど、あっさりとした態度だった。
「誘ったの急だしね。でもそーゆーことだから、これからはよろしくね!」
陽射しをいっぱいに浴びた花みたいな笑顔を見せて、蜂楽くんは跳ねるような軽い足取りで教室を出て行った。言い逃げ、だった。私は呆然として、その背中を見送るしかできなかった。
「ねえ園希、そろそろ行かないと本当に遅刻──って、どうしたの!」
急かすように近づいてきた詩桜ちゃんが、びっくりしたような声をあげた。
「え? どうしたのって……」
「顔真っ赤だよ!」
もう私と彼女しか残っていない教室に、声が響く。「熱があるんじゃない?」と心配する彼女の姿が、うたた寝で見る夢のようにぼんやりとしたものに感じられる。言い残された言葉が頭の中いっぱいに膨らんで、私の心は遠くへ追いやられてしまっているようだった。
真っ直ぐな視線。素直な言葉。真意がわからない、思わせぶりな態度。
──そーゆーことだから。
──これからはよろしくね。
私はこれから、隣の席の男の子と、どう接していったらいいんだろう。
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