久しぶりに会う幼なじみは、記憶の中の姿よりさらに大人っぽくなっていた。ホテルのラウンジ、座り心地のよさそうなソファで足を組む糸師冴は、場慣れしているような落ち着きがある。
私はというと、宿泊以外でホテルのラウンジを利用するのが初めてなのもあり、少し尻込みをしていた。知らず、紙袋を持つ手に力がこもる。中には、彼への手土産が入っていた。
なんとなく近づきがたく足踏みをしていると、冴が不意に顔を上げた。すぐに私に気がつき、軽く手を挙げる。遠目にも、目尻と口元がかすかに緩んだのがわかった。それは、彼がちっとも変わっていないということを示していた。
「──冴くん!」
名前を呼んで、小走りに駆ける。知らないひとのようでためらったていたけれど、なにも心配はいらなかった。彼は、私の知る幼なじみのままだった。
彼との間にある席が、邪魔に思える。私は一秒でも早く、という気持ちで冴の方へ向かった。
そんな私に、彼はあきれたような表情を浮かべて立ち上がった。私はその胸に飛び込むようにして、彼に思い切り抱きついた。
「久しぶり! 会いたかった!」
「こんなとこで走んな。コケんぞ」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、びくともしない身体はしっかりと私を受け止めた。それはやっぱり昔の記憶と変わってなくて、なつかしさに頬がゆるむ。
「背、また伸びた? 今何センチ? 最後に会った時は──」
「ちょ、ちょっと冴ちゃん……!」
抱きついたまま矢継ぎ早に尋ねると、横から慌てたような声が割って入ってきた。
幼なじみとの再会に水を差した第三者に驚いて顔を向けると、黒縁メガネをかけた茶髪の、おそらく外国人が、焦ったような表情でこちらを見ていた。
冴ちゃん、と親しげに名前を呼んだけれど、見覚えのない人だった。私はその人から隠れるようにして、そうっと冴から離れた。彼の目には、私たちを咎めるような色が見えたからだ。
「いくら私がいるからって、そんな堂々と抱きつかれたりしたら──」
「知るか。コイツは幼なじみだ、そんなんじゃねーよ」
注意するような口調に対して、冴は素っ気なく返した。見知らぬ外国人は、そんな幼なじみの態度にさらに眉尻を下げた。
「あの、冴くん……そのひとは……?」
うかがうように尋ねると、彼は「マネージャーだ」と簡潔に教えてくれた。
「マネージャー、さん」
「そう。冴ちゃんのマネージャーをしている、ジローラン・ダバディです。初めまして」
そう言って、ジローラン・ダバディは、バッグから名刺を取り出した。差し出された小さな紙片には、英語で名前と連絡先が書いてある。名刺を両手で受け取った私へ、補足するようにダバディが続ける。
「スペインで冴ちゃんのマネージャーをしているの。スケジュール管理とか、メディアへの対応とかそういうのをいろいろ」
「はあ……あ、えっと、初めまして、桑染園希です。冴く──糸師さん、の、幼なじみです」
「冴ちゃんから話は聞いてるわ。幼なじみと会うって言うから、私も紹介してもらおうと思って。急で驚かせちゃったわね」
「なにが紹介だ。パパラッチ避けだろ」
「──パパラッチ」
普段口にしない単語が出てきて、私はその言葉をオウムのようにくり返しをした。舌の上で転がしてみても、私の生活には馴染みのない音だった。
「あ、もちろん二人の再会を邪魔するつもりはないの! でも冴ちゃんも有名人だから……ね。日本では未成年だし、あまりひどいことを書かれたりはしないと思うけど……念のため、一応。スポーツ選手とはいえ、やっぱりスキャンダルとかはないほうがいいから。幼なじみ水入らずでお話がしたかったでしょうけど、私も同席するのを許してちょうだい」
マネージャーのダバディは、本当に申し訳なさそうな顔で、そう説明をしてくれた。
「念の、ため……」
それは要するに「冴と二人きりで会うと、あることないことを好き勝手書かれたり言われたりする可能性がある」という話だった。それを否定するために、マネージャーも同席する。そういうことなのだ。
私は隣に立つ冴の顔を盗み見た。なんの感慨もなさそうな、冷めた横顔。表情の変化が乏しいのは昔からだけど、パパラッチだとか有名人だとか、そういう言葉が出てきたせいで、とても遠いひとになったように感じられた。
私と冴の間には、世間に隠さなければいけないようなことはなにもない。私たちは幼なじみで、その付き合いは小学校に入るより前から始まっている。そんな兄妹同然のひととの再会なのに、どうしてこそこそしたり、潔白を証明したりしなければいけないのだろう。
──会いたいなんて、言わなければよかったかな。
そんな後悔がわいてくる。
おばさんから、冴が一時帰国しているという話を聞いて連絡をとったけれど、もしかしたら迷惑だったのかもしれない。
一時帰国とはいえ、実家に帰っているのではなく、ホテルに泊まっているという時点でおかしかったのだ。鎌倉の実家より、都心部のホテルのほうがなにかと都合がよかったわけだ。
日本にいるのに連絡をくれなかったのもきっと忙しかったからで、私と会うこの時間を作るのも大変だったはずだ。
それなのに、私はパパラッチなど考えもつかなかった。会いたいなんて言わなければ時間を取らせることはなかったし、週刊誌対策としてマネージャーにまで手間をかけさせることもなかったのに。
「……あの、冴くん」
ずっと手にしていた、紙袋を握りしめる。──お土産だけ渡して帰ろう。そう考えた時だった。
「お前は妹みたいなもんなんだから、気にすんな」
大きな手のひらが、乱雑に私の頭をなでた。私たちが今よりももっと子どもだったころと、少しも変わっていない仕草だった。
「やましいことはねーんだ、堂々としてろ。マネージャーは空気と思えばいい」
「でも……」
「そうそう、私はいないものと思ってちょうだい! 大丈夫、イヤホンで音楽でも聞いてるから。二人の話を盗み聞きしたりしないから、安心して」
フォローするように、ダバディも続ける。
「冴ちゃんはこの調子だからいいとしても、幼なじみのあなたには、いろいろ勘ぐられたりして嫌な気持ちになるようなことがあってほしくないの。ね、冴ちゃん」
同意を求められても、冴は興味がなさそうな目を向けるだけだった。
そのしらけたような表情も、記憶の中と変わらない。幼なじみの彼のやさしさはいつもぞんざいで、それでいて愛情深かった。
「ん……わかった。ありがと、冴くん。ダバディさんも、気をつかってくれてありがとうございます」
「いいのいいの。それじゃ、ゆっくり話に花を咲かせてちょうだい」
そう言って、ダバディさんはそそくさと冴くんの隣のソファに腰を下ろした。脇に置いていた鞄からイヤホンとタブレットを取り出すと、すぐに耳を塞いで視線を落とす。彼は本当に空気に徹してくれるようだった。
「やさしいマネージャーさんだね」
「フツーだろ」
やっぱり冷ややかなことを言って、冴くんもソファにどっかりと身を沈めた。この様子では、ダバディも苦労していることだろう。苦笑いをして、向かいのソファに私も腰を落ち着ける。
「好きなのを好きなだけ頼んでいーぞ」
冴がメニュー表を開いた状態で見せてくれる。そこにはきらびやかでおいしそうなデザートたちの写真が載っていた。
「わあ! ごちそうになってもいいの?」
「稼いでるからな」
「そっかあ。じゃあ甘えちゃおっかな。ありがと!」
メニュー表にざっと目を通す。しかしなかなか難しい選択だった。載っているケーキの写真はどれもおいしそうで、目移りする。
「なに悩んでんだ。好きなの頼めって言ってんだろ」
「そうしたいのは山々だけど……! 誘惑しないで! サッカーしている冴くんと違って、ケーキ二つは私のカロリーオーバーなんだよ」
体育の授業くらいでしか運動をしないのだ。食べ過ぎたら太ってしまう。
「食った分運動したらいいだろ」
「さすがスポーツマン、簡単に言う〜!」
唇を尖らせると、冴は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
彼をよく知らない人から見ると嘲笑のように映るだろうその表情は、実際のところ、近しい者にしか向けられないものだ。私じゃなければ誤解されている。
「だったら、二つ目は後から考えればいいだろ」
「うーん、それもそっか。じゃあショートケーキにしよ。飲み物はミルクティーにしよっかな」
メニューから顔を上げた時には、すでに冴くんがスタッフを呼んでいるところだった。「ショートケーキとミルクティー」いかにもホテルの従業員という感じの、落ち着いて物腰の柔らかなスタッフへ、冴くんが簡潔に注文する。
「……久しぶりだね」
スタッフが下がってから、私は改めて冴に向き直った。
「そーだな」
「何年ぶり?」
「帰国自体は一年ぶりだな。でもお前と会うのは実質五年ぶりってとこじゃないか。……前の帰国の時はほとんど日帰りみたいなもんだったからな」
「あーそっか、去年の冴くん、帰ってきてすぐスペインに戻ってたもんね。そっかあ、五年ぶりかあ。だから久しぶりに感じるんだ。でも、全然変わってないね」
「……お前の方こそ、変わってない」
冴はソファアームに肘をついて、私を見ながらそう言った。
「そうかな? これでも少しは大人っぽくなったと思うんだけど」
たかが一年、されど一年だ。身体の方はほとんど成長していなくても、精神的には多少なり成長しているはずだ。
それに、冴を基準にしてはいけない。この幼なじみは、子どものころから年齢以上に大人びて落ち着いている。例外だ。
「変わってねえよ。全然変わってねえ。postre──デザートで迷うのも、ドリンクは決まってミルクティーなのも、昔からそうだろ」
「そんなこと……あるかも、しれないけど!」
言われてみればそうかもしれない。でも、なんとなく、意地を張るように否定してしまう。
「褒めてんだよ」
口元だけでうっすらと笑って、冴くんがコーヒーを一口飲んだ。その表情や仕草はやっぱり大人っぽく見えた。一歳しか変わらないのに、こんなにも落ち着いているのは、十三歳で親元を離れて、海外で生活をしている経験からだろうか。
「スペインには、もう五年とかだっけ。それだけいたら、海外生活にも慣れた?」
「そーだな」
「スペインってどんなところ? 寒い?」
「マドリードは寒ぃな。夏は暑ぃ。湿度が低い分、こっちよりは楽だが」
「あー、日本は湿度が高いって言うよね」
海外へ行ったことがない私にはいまいち実感がないけれど、やっぱり気候は大違いらしい。
「いつか私もスペインに行ってみたいなー。サグラダ・ファミリアとか見てみたい」
「マドリードからバルセロナは少し遠いぞ。鉄道で三時間ってとこだな。観光するならマドリードにしとけ。案内してやるから、来ればいい」
「でも、サッカーがあるでしょ?」
「練習がない日なら問題ねーよ」
「でも冴くんは、そういう日もサッカーの試合観たりしてるでしょ」
スペインへ行く前からそうだった。毎日毎日サッカーサッカーで、たまの休みも海外の試合(なんとかリーグ、と言うらしい。名前は忘れた)を見たりして研究していた。私が知る彼の世界は、フットボールを中心にして回っている。
「……一日くらいなら、空けてやれる」
返事をするまでの間が、海外に移っても彼の生活が変わっていないと言っていた。でも、それくらいサッカーのことを考えていないと、海外で活躍することはできないのだろう。
「あはは、無理しなくていいよ。でも、マドリードはどんな観光名所があるの? スペインって言えば、サグラダ・ファミリアってイメージが強いけど」
「知らん。でも何かしらあんだろ」
「えー、案内してくれるって言ったのに!」
話が違う、と笑うと「近所を案内してやる」と真顔で言うからまた笑ってしまう。
「ダバディさんに聞いた方が、くわしそう」
冴の隣でタブレットを操作するマネージャーに目を向ける。イヤホンで耳を塞いでいる彼は、自分が話題に上がっていることに気づいていない。人の良さそうな彼なら、スペインのことをいろいろと教えてくれる気がした。
「でも海外なら、街並みを見ているだけでも楽しそう。冴くんが暮らしてる場所を散歩するっていうのもいいね」
建築様式も全然違うため、観光名所を巡らなくても異国に来たという非日常感は十分楽しめる気がする。
「公園とか、マーケット? とか見てみたいな」
広い芝、高い空の公園。石畳の通りに並ぶ出店。多分そんな感じだ。
行ったことのないスペインを想像していると、注文したショートケーキとミルクティーがやって来た。スタッフは会話の邪魔をしないようにか、控えめに「ごゆっくりお過ごしください」と言い、静かに去っていった。
テーブルに置かれた上品なショートケーキは、真っ白なクリームに真っ赤なイチゴが映えていた。実物はメニューで見た以上においしそうだ。自然と顔がほころぶ。
「おいしそう〜! 早速いただきます!」
ショートケーキは、さすがホテルと感じる味だった。スポンジは軽く、生クリームはさっぱりとしていてしつこくない。それでいて品のある甘さがある。
「──おいしい〜……」
目を細めてうっとりとつぶやくと、向かいの肩が小さく揺れた。視線を向けると「ほんと変わんねーな」と冴くんがつぶやくようにもう一度そう言った。私を見据えるそのエメラルドの瞳は、やわらかな光をたたえている。
「そういう冴くんも、変わってないよ」
昔から、表情は大きく変わらないしおしゃべりでもないけれど、その瞳の色は私のよく知るものだ。弟の凛や、幼なじみの私に向ける、やさしい眼差し。大好きな幼なじみで、お兄ちゃんのようなひと。
「で、お前の方はどーなんだ」
「どーって?」
「高校生活」
「あー、うん。まあ、それなりに楽しくやってるよ。でも来年三年生だからね。進路のこととか、いろいろ考えさせられてる」
あと数ヶ月もしたら、受験生だ。周りもなんとなく、そういう空気に包まれている。
「成績は悪くなかっただろ」
「悪くはないけど、特別よくもないよ」
私の成績は、平均より少し上程度だ。真剣に勉強をすればもう少し伸ばせるだろうけれど、今のところあまり熱心には取りくんできていない。普段の授業をまじめに聞くのと、テスト前に詰め込むくらいだ。
それに、私の成績がよかったのは凛に勉強を教えていたおかげだった。サッカーに自分のすべてを振っている凛の成績は、それはもうひどいものである。さすがに見かねた糸師家母に相談され、私が面倒を見ていたのだ。
凛の成績は、英語以外は壊滅的である。海外進出を見込して英語は勉強しているというだけで、他の教科は目も当てられない。
英語はペラペラなのだから、ちゃんと勉強をすれば見合っただけの結果を出せるはずなのだけれど。それもこれも、サッカー以外は不要だと切り捨てているせいだ。
前まではテスト直前に一夜漬けの勉強を教えていたけれど、ここしばらくはそれもなくなっている。高校生になってからはますますサッカーに打ち込むようになり、さらに勉学が後回しになっているのだ。
思えば「凛に教えるためにも」という意識で勉強をしているところはあった。一年遅れで教えることにはなるけれど、その時にわかりやすく解説できるように、と。
人に教えるということは、自分の頭の整理にもなり、理解を深めることにつながる。一学年違う彼のテスト勉強に付き合うことで、結果的に復習にもなっていたのだ。
そんな勉強会がなくなっても、凛はなんとかやれているようだった。頼られなくなって少し寂しく思っているのは、私だけである。
曖昧な笑みを浮かべて、目をそらすようにケーキにフォークを通す。ふつりと湧いてくる鬱々とした感情を、甘い味で流し込む。
「凛とはどうなんだ」
それなのに、冴の方から切り込んできたせいでむせそうになった。動揺を隠すように口を動かし、舌と喉を潤すためにミルクティーを一口飲む。
「どうって……フツーだよ」
私は慎重に言葉を選びながら、答えた。意図的に触れるのを避けていた話題を、まさか冴の方から振ってくるとは思わなかった。
「なんだよフツーって」
「フツーはフツーだよ」
見透かそうとするように、緑色の瞳がじっと私を捉える。私はそれに気がついていないフリでやり過ごそうとする。
一年ほど前、冴と凛が揉めてから──私にはよくわからないけれど、サッカーのことらしい──私と凛の関係は少し変わっている。というより「凛が変わったことで私たちの関係も変わった」と言うのが正しいだろうか。
かつての凛は、兄である冴には及ばなくても、幼なじみである私のことを慕ってくれていた。だから私は凛のことがかわいくてしかたがなかったし、勉強の面倒だって見ていた。
でも、今の凛はフットボールのことしか考えていない。もっと言えば、フットボールと、兄の冴のことだけだ。
兄弟ゲンカは二人の問題だ。無関係の幼なじみは口を出せない。仲直りをしてほしいと思っているけれど、事情も知らない私から言えることはなにもなかった。
だから私は、サッカーとケンカ相手のことには極力触れないように、これまで通りに接しようとしていた。どちらの肩も持たないことで、どちらのそばにもいられるように、と。
けれど、凛が変わったことで、私たちの関係も──いや、私も、変わることになってしまった。
今の凛には、私を慕っていたころの面影がない。激しい感情をターコイズの瞳の奥に宿して、ずっとずっと遠くを見ている。それは兄の背中であり、サッカーで世界一になるという目標であり、隣にいる私を捉えることはない。
ピリピリした空気をまとうようになり、口数が少なくなって、口調も態度も乱暴になった。はじめて「お前」と呼ばれた時、私がどれだけ悲しかったか。
それでも最初こそ、私は態度を変えないように努めていた。でも、凛の態度がこれまでと同じものに戻ることはなかった。
まるで性格が変わった凛につられるように、いつからか私も彼に対してきつい態度を取るようになってしまっていた。
年上なのに、受け流せない私が悪いことはわかっている。でも、好きな男の子に冷たい姿勢を見せられて、平気でいられるほど強くはなかったのだ。
たとえ「幼なじみ」であることが理由だとしても、これまでの凛が好意的だった分、余計につらく感じたのだ。
「……あのバカが」
ほとほと呆れた、というような声音で、冴くんがため息をついた。なにも言っていないのに、彼は自分の弟と私の関係について察するものがあったようだった。
「ほんと、フツーだよ、フツー」
「ほんとにフツーだったら、アイツの話もするだろ。お前の口から弟の話が出てこない時点でフツーじゃねーんだよ」
バッサリと斬るように指摘されて、これ以上弁解できる言葉が出てこなかった。思わず目を伏せてしまい、それはもう冴の考えていることを認めているのと同じだった。
「園希」
低く落ち着いた声に名前を呼ばれて、掬われるように顔を上げる。彼の表情が、幼いころに私の手を引いてくれた時のものと重なる。
私にとって──そして昔の凛にとってもきっと──いてくれるだけで、安心できるひと。かっこよくて、やさしくて、憧れる、大好きなお兄ちゃん。
「凛に泣かされたら、俺に言え」
「……ありがとう、冴くん。その言葉に、泣かされちゃいそうだよ」
上手く笑えていたかわからないけれど、冴くんの瞳は新芽のようなやわらかい色のままだった。
「お前は昔から泣き虫だからな」
「そんなこと……あったかもしれないけど! 最近はあんまり泣いてないもん」
「そっちの方が心配になるぞ」
「もー!」
軽口を叩きあえば、湿っぽい感情が吹き飛んでいく。冴は私をなぐさめるのが上手なのだ。
「責任の一端は俺にもあるからな。兄としてしっかり愚弟を殴ってやるよ」
「責任だなんて、そんな……。冴くんが気にすることじゃないよ」
私はそう言ったけれど冴は真顔のままで、どうやら本気のようだった。
「なんにせよだ。アイツのことだから執着されてんだろ。お前にも殴らせるとしても、なんかあったらすぐに言え。どんな形にしろ俺からも制裁を加えてやる」
「あはは、頼もしい。ありがとね、なにかあったら相談させてもらうかも。……でも、執着って?」
心当たりのない言葉に首を傾げる。そんな私の反応に、冴は少しばかり眉をひそめた。二人の間でなにかの認識がズレている証しだった。
「凛に執着されてるだろ。アイツの性格を考えれば、そうなってるはずだ」
「えー、されてないよ。全っ然。むしろ素っ気ないかも? ちょっとわがままで傍若無人なことされたりはするけど……そういうんじゃ、ないと思う」
過去、学校の先輩との連絡を咎められたことはある。あれは理不尽で傍若無人だった。結構言い合ったような記憶もある。でも「執着」という言葉と結びつくような出来事は起こってない。
「……お前も大概ぬるいな」
「えー、なにそれ。もしかして悪口言われてる?」
「悪口じゃねーよ。そうだな、ある意味褒めてるぞ」
「ある意味って、なんだか含みがあるなあ。でも褒めてるんならいっか」
納得していません、というポーズだけをとって見せて、放置されているケーキを構ってやる。冴はコーヒーで唇を湿して話を続ける。
「ただの兄弟喧嘩にお前を巻き込んで、悪いとは思ってる。ほんとガキくせー話だ」
その声はどこか自嘲的で、彼らしくなかった。冴は冴で、凛との関係に思うところがないわけではないのかもしれない。
私は口の中のスポンジを飲み込み、少し身を乗り出すようにして冴の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「ううん、本当にありがとう。気にしてくれるのうれしいよ。それだけで十分なくらい。でも大丈夫だよ。私、泣かされても泣かせ返すから。なんなら凛を殴るし。これでも私の方が年上だからね! 生意気な幼なじみに、序列ってやつをわからせてやるんだから」
力こぶを作って見せると「お前が殴ってもノーダメージだろ」と一笑される。たしかに特別運動をしていない私の拳だけれど、体重を乗せて思いきりいけばそれなりに痛いはずだ。もっとも、殴る以前に避けらる可能性はあるけれど。
でも、私のそんなアピールでも冴の責任感は多少ゆるんだようだった。小さくため息をついて、ソファに背を預ける。
「まあいい……俺の方からもアイツには釘を刺しておく」
「え、凛と連絡取れるの?」
「取れるに決まってるだろ。知ってんだから」
「それはそうなんだろうけど……てっきり凛は冴くんの連絡先ブロックしてると思ってたから」
前は仲のいい兄弟だったのだから、連絡先は知っているだろう。でも、凛の態度を見ていると、兄の連絡先を絶っているような気がした。
「だとしたら、お前んとこのおばさんに言っとく」
「私のお母さんに?」
「俺の親に言ってもアイツは聞かねーだろ。おばさんからお前と仲良くするように言わせた方が効く」
それは家族ぐるみの付き合いだからできる、強引な技だった。
私の両親は、凛だけじゃなく当然冴のこともかわいがっている。そんな息子に等しい彼からの頼みなら、母も父も二つ返事で聞き入れるだろう。
そして凛も凛で、うちの親から「園希と仲良くしてね」と言われたら嫌々ながらも従いそうではある。一時的なものにしかならないかもしれないけれど、冴の言う通り効果はあるはずだ。弟と、幼なじみ一家の両方をよく知っているからこそ出てくる策である。
「そんなことされたら、凛すっごく怒りそう」
「怒るようならそれも報告しろ。もっと嫌がることをしてやる」
「うわあ、意地悪だ」
「意地悪じゃなくて『教育』だ」
しれっとした顔をする冴に、私は笑う。
幼なじみの二人が兄弟ゲンカをしてから、凛との衝突はたびたびあった。これまでは冴を頼るという発想はなかったけれど、気にかけてもらえたことで随分心が軽くなった気がする。
冴に泣きつくのは、迷惑をかけると思っていた。スペインでサッカーをがんばっているのを邪魔したくなかったのもあるし、私と凛のいさかいなのに彼を引っ張り出すのはずるい、とも思っていた。
でも冴は気づかいを向けてくれる。凛には触れない方がいいのかな、と考えいてたことも見抜いて。
それになにより、冴にとって弟がタブーになっていないことが、うれしかった。
凛にとって、冴は禁忌、地雷だ。私が少しでも彼のことに触れようものなら、激しい感情を顕にする。今や、兄は弟にとって逆鱗のようなものになっている。
でも冴はそうじゃなかった。凛という弟は、話題に出してはいけないキーワードではなかった。どんなケンカがあったのかはわからないけれど、二人はまだ、手遅れなほどに断絶していない。そう思えた。
なにも知らない部外者が能天気にそう思うだけかもしれないけれど、私はやっぱり、二人に仲直りをしてほしいのだ。ささくれだってる凛はともかくとしても、冴にはまだその余地があることがうれしい。
いつかまた、三人で過ごせる時間が来るかもしれない。それがいつになるかわからないけれど、可能性がゼロではないというだけでも、望みはある。どれだけ時間がかかったっていい。いくらでも待てる。私は冴と凛、二人のことが大好きなのだから。
「冴くん」
「なんだ」
「今日は本当に、時間作ってくれてありがとう。会えて、お話しできて、本当によかった。うれしい」
「……そーか」
多分、私の顔はだらしなくゆるんでいるのだろう。向かいに座る幼なじみの表情が、そう言っていた。
楽しい時間にも、終わりがある。当たり前で、ありふれた言い回しを実感したのは、ダバディに呼び掛けられた時だった。
「冴ちゃん、桑染ちゃん、そろそろ……」
耳から外したイヤホンを手に、彼は心苦しそうにそう言った。冴から彼に意識を向けさせられて初めて、隣にマネージャーがいたこと思い出す。幼なじみとの会話に夢中ですっかり忘れていた。
「あ、もう時間……」
ぽつりとつぶやいた声は名残惜しげな音をしていて、ダバディが困ったような表情を見せる。私は慌てて、足元の荷物入れに置いていた紙袋を引っ張り出す。
「あの、冴くん、これお土産。大したものじゃないけど……」
「ん」
「日本食とかそういうのにしようかとも考えたんだけど、おばさんたちが送ってるかなと思って、クッキーにしたよ。でも……もしかして、食事制限とか、あったりする……?」
甘さは控えめにしたけれど、今さらになってトップアスリートの食事事情のことを考えていなかったことに気がついた。
「問題ねーよ。手作りは久しぶりだな」
受け取った紙袋をのぞく冴を、隣に座るダバディが目を見開いて見ている。冴は問題ないと言ってくれたけれど、やっぱり食事制限があって本当は甘いものを食べちゃダメなのかもしれない。
「あの、一応甘さは控えめにしてるから! だから、カロリーとかも、そんなに高くはない……と思う……」
二人に向かって言い訳をするように説明する。決して、彼のサッカーの邪魔になるようなことをしたかったわけではないのだ。冴がまだ日本にいるころは毎年バレンタインにお菓子をあげていたのもあって、ついその感覚で作ってしまっただけで。
「なに気にしてんだ。問題ないって言ってんだろ」
「……そう? それならいいんだけど……お口に合ったらうれしいな」
「お前が作る菓子はいつもうまいだろ」
うれしいことをさらりと言うせいで、むずがゆさを感じる。私に気をつかわせないためもあるだろうけれど、冴はお世辞を言うようなこともないのだ。
「ありがと。えへへ、うれしい」
「でも悪ぃな、俺はなにも用意してねぇ。次に期待しとけ」
「ううん、気持ちだけでうれしいよ。ケーキと紅茶もごちそうになるし。とってもおいしかった」
「そういえば結局追加注文はしなかったな。自制したのか?」
冴が卓上を見る。カロリーオーバーを気にしたことをからかっている、少し意地悪な口調だった。
「冴くんとのおしゃべりに夢中になって、注文を忘れてたんですー!」
言い訳ではなく、事実そうだった。食べたり飲んだりすることよりも、彼とたくさん話がしたかった。会って話すのは実質五年ぶりなのだから、聞きたいこと、話したいこと、聞いてほしいたいこと、話してほしいことなら山ほどある。
──でも、タイムリミットだ。
名残惜しさを振り切るように勢いをつけて立ち上がる。そうしないと、ますます腰が重くなるような気がした。
「いつスペインに戻るの? ……もう一度くらい、会えたりする?」
わがままで、甘えていることはわかっていた。でも聞かずにはいられなかった。次はいつ会えるのかわからない。来年かもしれないし、数年後かもしれない。
「スケジュールに空きがあれば会える。あまり時間は取れないかもしれないが」
「──ほんと? それでもいい、もっとお話ししたい!」
「確認して連絡する。期待はすんなよ」
「──うん!」
冴くんの発言にダバディがぽかんと口を開けていることには気がついていたけれど、私はそれを見てないフリをした。
──ごめんなさい、ダバディさん。スケジュールの調整に大変な思いをさせてしまうかもしれないです。もし次会えた時は、あなたにも手土産を持ってくるので、私と幼なじみのわがままを許してください。
胸の中で謝ってバッグを手にすると、冴も立ち上がった。
「英語はしっかり勉強しとけよ」
「英語? 受験もあるからもちろん勉強するよ。得意教科と言えるほどではないけど、そこはまあ、がんばります」
来年は受験生である私へのアドバイスだろうか。このまま行くと進学は文系になるため、冴の言う通り英語の勉強はしておくに越したことはない。
「受験もそうだが、スペイン語を話せなくても英語が話せりゃなんとかなるからな」
けれど、冴が考えていたのは違う理由のようだった。
「スペイン? スペインにはたしかに行ってみたいけど、観光ならそこまで勉強しなくてもなんとかなるんじゃない? 冴くんも近所を案内してくれるんでしょ?」
「そうじゃねーよ。お前になにかあった時、スペインに呼べるって話だ」
「私になにかあった時? ──あはは、なにそれ」
「凛から逃げたくなる時が来るかもしれねーだろ」
──笑う私に、冴は真顔でそう言った。
たしかに私と凛は幼なじみで、以前ほどではないにしろ距離は近いままだ。言い争いはしばしば起きるけれど、それでも今のところ致命的な出来事は起きていない。数日すれば元通り、だ。冴は純粋に心配してくれているのだろうけれど、国外逃亡を企てるようなことにはなるとは思えなかった。
「心配してくれてありがと。でも、さすがに絶縁するようなことにはならないって。それに、逃げたくなったら北海道とか沖縄に行くよ。北海道は雪が大変そうだし、沖縄がいいかな?」
冴は私に「責任」を感じているようだけど、彼が気にする必要はないのだ。私が冴と凛の兄弟ゲンカを二人の問題と思っているように、私と凛のことは、私と凛の問題なのだから。
それに、私が逃げたりしなくても、凛の方がきっと遠くへ行ってしまう。サッカーで世界一になることしか考えていない彼は、そのうちにこの国を飛び出して行く。
それは喜ばしいことで、私にとってはさびしいことでもあるけれど。冴だけじゃなく、凛もいつか、私のそばからいなくなるのだから。
「──俺は、お前のことを手のかかる妹と思ってんだ」
おもむろに冴の腕が伸びて、私の頭をなでる。
「いまさら他人になれっか。だから、んな顔すんな」
大きな手のひらは、あたたかかった。私はしっかりと顔を上げて、大好きな幼なじみと目を合わせる。
「じゃあ、もっと連絡くれる?」
「……約束はできねー」
「そうだよね、冴くん連絡不精だもん」
それでも、会えばこんなにもやさしくしてくれる。彼が私のことを妹のように思ってくれていることは、嘘でも偽りでもないのだ。
「サッカー一番な冴くんが、冴くんって感じがするよ。そういう冴くんが好きだから気にしないで」
私が見てきた彼は、ずっとそうだった。自分のしたいことに向き合っている彼が、一番かっこいい。
「……最後にもう一回、ぎゅってしていい?」
「ぬるいな。相変わらず甘えたかよ」
「そうだよ。それは冴くんがよく知ってるでしょ」
やれやれといった冴くんに、ぎゅっと抱きつく。背が伸びて、鍛えられた身体。いつまでたっても彼に甘える私を受け止める体温は、一万キロ以上離れた場所へ行っても変わっていない。
──私のことを、妹のようにかわいがってくれてありがとう。ずっとずっと大好き。
そんな気持ちが伝わればいい。そう願いながら、ぎゅ、と腕に力を込めた。
身体を離し、後ろ髪を引かれる思いを断ち切るように笑う。
「じゃあ、もう行くね」
「駅まで送る」
忙しいはずなのに、そんなことを言い出す年上の幼なじみに笑ってしまう。冴の言う通り私は甘えただけど、私をそんな風にした原因は彼にもあるはずだ。
「今日はもういっぱい時間もらったから、大丈夫! 本当にありがとう。久しぶりにお話しできてうれしかった!」
「そんなこと言って、帰りに泣くんじゃねーか」
「泣、か、な、いっ! ──それじゃあ、またね!」
最後にからかって来た彼に手を振って、ラウンジを後にする。出入り口のあたりで振り返ると、幼なじみはまだ立ったままこちらを見ていた。もう一度大きく手を振る私に、彼は軽く手を挙げて返してくれた。
ジローラン・ダバディは、目にした光景を信じられない気持ちでいた。かれこれ五年ほどの付き合いになる男の子の、見たことのない──想像すらできなかった──姿を目の当たりにしたからだ。
齢十三歳でスペインへサッカー留学をした「日本の至宝」糸師冴。よく言えばクール、悪く言えば冷めた彼は、裏打ちされた実力も伴い傲岸不遜な性格をしている。対外的な態度を一切考慮しない彼に、胃が痛くなる思いをしたことは一度や二度ではない。
けれど、どうだろう。子どものころからの付き合いで、家族同然だと言う幼なじみへの態度は、ぶっきらぼうでありながらもあたたかみがあった。
抱きついてくるのを許し、頭をなでてやり、手作りだと言う菓子をすんなりと受け取る。幼なじみの女の子をかわいがる姿は、今まで見たことがない彼の一面だった。
「……かわいい子ね、幼なじみちゃん」
「あ?」
会計を待つ時間を埋める、ただの雑談のつもりだった。けれど、隣のソファで足を組む冴はこちらを殺しそうな目つきで睨んだ。
「そーいう趣味してたのかよ。同席させろっつったのも、パパラッチ避けじゃなくてそれが目的か? 最悪だな。今すぐマネージャー辞めろ」
「ち、違うから! そういう意味で言ったんじゃなくて、素直でいい子ねって話!」
二人の会話を最初から最後まで聞いていたわけではない。けれど、パパラッチ避けにマネージャーが同席すると聞いた時に、彼女は気をつかう素振りを見せた。
帰り際には、知り合ったばかりの人間の目にもわかるほど、冴への好意と別れのさびしさがあふれていた。彼女が素直でかわいらしい子であると判断するには十分なほどだった。そんな彼女だから冴がかわいがるのか、冴がかわいがるからそんな彼女になっているのかは、判断が難しいところだけれど。
「俺の妹分なんだから当然に決まってる。ただ、弟の前で同じことは言わない方がいい。殺されるぞ」
「そんな大袈裟な……。凛ちゃんて、あの子でしょ? 空港でお見送りに来てくれた。挨拶くらいしかしなかったけど、あの子も素直そうだったじゃない」
五年ほど前だ。冴がスペインへ経つその日、家族そろっての見送りで凛の姿を見ている。二つ年下の弟だという凛は、幼なじみの桑染園希と負けず劣らず冴に懐いているように見えた。殺される、という言葉とは到底結びつかない。
そんな彼も「ブルーロックプロジェクト」に参加しているという話だった。
──日本サッカーを壊し、新しい英雄を作る。スペインへ戻る予定の冴に飛行機をキャンセルさせた、一大プロジェクトだ。十八歳以下のフォワードを三百名集めたというのだから、強化指定選手に選ばれた弟も優秀な選手のはずだ。
「アイツのこと知らないから、んなぬるいことが言えんだ。弟はガキのころから園希にこだわってるぞ」
そう言った冴は、面倒そうな表情をしていた。空港での見送りの時は弟のこともかわいがっているようだったが、もしかすると今の兄弟仲はあまりよくないのかもしれない。
「……園希に八つ当たりしてるみてぇだし、ガキでぬるい愚弟に発破でもかけとくか」
手土産として受け取った紙袋に目を向けながら、冴はそうつぶやいた。
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