初恋は、男の一生を左右する。
――アンドレ・モーロワ(1885〜1967)
選手データを確認する視界の隅で、ベッドの上に放り出しているスマートフォンが通知を受け取るのが見えた。
それが誰からのものなのかはわかっているため、視線を向けることなくそのままタブレットを操作する。一日のトレーニングと入浴と夕食を終えた後、消灯時間の間際までデータの確認と分析をするのがすっかり習慣となっていた。
――日本サッカー界に英雄を誕生させる。
十八歳以下のフォワード三百名を競わせ、その中から世界一のストライカーを生み出すことを目的としたイかれたプロジェクト「ブルーロック」に参加している俺は、今現在、サッカー中心の生活を送っていた。
山の上の専用施設に閉じ込められてふるいにかけられ、プロジェクトの存続を賭けたU-20日本代表チームとの試合を経て、ブルーロックプロジェクトは第二段階へと移っている。
ネオ・エゴイストリーグと称される今のステージでは、欧州五大リーグが再現された大規模なものだ。
運営者である絵心甚八は、プロフェッショナルの通過儀礼を受けることになると言った。ワールドクラスの同年代フットボーラーたちと相対した時に、何を感じ、信じるか試される、と。
その上で求められる、己の価値の証明。――チームにとって有用であることを示さなければ、スポーツという椅子取りゲームに勝つことはできない。
それはまさしく、プロが身を置くことになる環境そのものだった。
「……ふう」
一通りデータの確認を終えて、タブレットのバックライトを消す。数値に大きな変化はなかったけれど、そういうものだということも理解していた。
たとえ練習で自己ベストを出せたとしても、それが劇的な変化をもたらすわけではない。それでも毎晩データを確認するのは、自分の現在地と、ライバルとなる相手の現在地を正しく測るためだ。
タブレットと入れ替えるように、放っておいたスマホに手を伸ばす。第二フェーズへと移ったブルーロックでは、個人のスマートフォンの使用が自由になったのだ。私物をすべて取り上げられ、文字通り「監獄へ収監」された状態だった頃に比べると、環境も随分マシになったと言えるかもしれない。
その時の不自由な環境は「サッカーのことだけ考えろ」という理念からだったけれど、今の環境は多分、もっと現実的なことを試されている。
強制的にサッカーをさせられていた頃と比べて自由度が高いということは、自分を律する能力も問われるのだ。
そこらに自分を誘惑するものがある環境の中で、どういう風に過ごすのか。それは多分そのまま、プロになった時の自分の姿になる。どれだけの時間をサッカーに費やすかは、自分の裁量なのだ。
子供の頃からの憧れの存在は、一分一秒、三百六十五日全ての瞬間をサッカーに費やしているか、と尋ねた。それは、世界一のストライカーの圧倒的な哲学だった。
とはいえ、その哲学を参考にするためには、気分転換、息抜き、ストレス発散も必要だ。人間はずっと集中し続けてはいられない。集中は張り詰めるということで、張り詰めっぱなしではいずれぷつりと切れてしまう。緩める時間というのも必要なのだ。
俺にとってのそれは、就寝前に少しだけ取る余暇の時間だった。それが、ここでの生活の中でほとんど唯一と言える、サッカー以外の楽しみだ。
受け取っていた通知はメッセージアプリのものだった。日に数件、時間はまちまちに――でも大抵は、日付が変わる少し前のこの時間に届く、メッセージ。
浮かれだす心を押さえこみながら確認すると、二枚のピザの写真が真っ先に目に入った。トマトとバジルが乗ったスタンダードなものと、エビとイカとアサリのシーフード。その後に、
〈今日の晩ご飯は母さんの希望でピザでした〉
〈久しぶりでちょっと食べすぎちゃったかも〉
というメッセージが続いている。
――寝る前に送ってくるとか、飯テロかよ。
脳内でつっこみながら、ピザを頬張る姿を想像する。おだやかに笑う子だ。きっと、この晩ご飯にもニコニコしていたに違いない。ピザ生地と唇の間で伸びたチーズ。汚れた口元を拭うのもそこそこに、おいしいと目を細めるのだ。
簡単に想像できる姿に、俺の顔までゆるんでしまう。
「潔」
「ん、なんだ? 黒名」
呼ばれて顔を上げると、赤っぽい猫眼がらんらんと俺を見ていた。ルームメイトの黒名蘭世だ。
「もしかして彼女か?」
「えっ」
「潔くん彼女おったんや」
黒名の言葉に、スマートフォンを操作していた氷織羊も顔を上げる。もう一人のルームメイトだ。水色の大きな眼には好奇心がちらついている。
「詳しく詳しく」
「僕もその話気になるなぁ」
二人から、興味津々という視線が向けられる。
「いや、はずかしーから勘弁してくれ」
人の恋バナなら聞きたいが、自分の話はしたくない。照れくさいし、自分のそういう話を他人にするのもはずかしい。
――それに、彼女のことを話して興味を持たれたくない。
あまり話をしたくない一番の理由は、これだ。俺以外の男が彼女を好きになるようなことは、万に一つの可能性だろうと摘んでおきたい。彼女を見つけたのは俺で、彼氏彼女という関係までこぎつけたのも俺だ。後から出てきたやつなんかにに獲られたくはない。もっとも、獲られるつもりもさらさらないが。
「――優遇出場の上に、一千七百万円のオファーまでもらった人は余裕だね。サッカー以外のことを考える暇があるなんてうらやましいよ」
なごやかだった四人部屋の空気を、トゲのある言葉が変えた。雪宮剣優だった。俺の方へ赤橙の眼を向けることもせず、それでいてきっぱりと言い切った声だった。
「んだよそれ。嫌味か?」
「どう受け取ってくれても構わないよ。あくまで俺はそう思った、って話だから」
むっとしたまま返すと、雪宮も顔をこちらに向けないまま返した。言葉の内容も態度も、どう考えても嫌味を言っているようにしか思えない。なにが「あくまで俺はそう思った」だ。
「まわりくどいな。言いたいことがあんならはっきり言えよ」
雪宮の態度が悪い理由はわかっている。ネオ・エゴイストリーグのスペイン――FCバルチャ戦が原因だ。
俺が所属先に選んだドイツのバスタード・ミュンヘンは、超合理主義だ。スタメンの起用はトレーニングで算出された数値を元に選ばれる。数値が示す能力が、絶対的な評価なのだ。
そんな中、俺は例外的に出場を許された。より数値の高い選手――雪宮を差し置いて。
ブルーロックのネオ・エゴイストリーグはリアルタイムショーとして世界中に配信されている。同時に、サッカークラブのオーナーたちによるオークションの場でもある。
数値上では試合に出られない俺に交代の機会が与えられたのは、U-20日本代表戦で逆転ゴールを決めたおかげだった。実力ではなく、ただのファンサービスだったのだ。チームメイトの雷市陣吾に言わせれば「エコひいき」の出場だ。
それに加え、俺が自分の得点ではなくアシストを選んだことを雪宮は認めていない。試合に勝つため、チームをぶち壊すため、俺のフローのためにした選択だというのに。
俺が欲しいのは、あくまで俺のゴール、俺の得点だ。それに変わりはない。ただ、現状ではそれが叶わないのが事実なのだ。だから、俺にとって最適な挑戦的集中をしただけで、雪宮に難癖をつけられるいわれはない。
視線は交わらないまま、俺と雪宮の間で不可視の火花がパチパチと散る。
「はい、二人ともそこまでやで」
「落ち着け落ち着け」
険悪な空気を変えるように、氷織と黒名が割って入る。最後にひと睨みして矛を収めようとしたところで、雪宮が顔を上げた。ひたと俺を見据える。
「潔くんがなにを考えているのかは知らないし、俺には関係のないことだけどね。ここは世界一のストライカーを目指す場所だろ。恋愛なんかにうつつを抜かしてる余裕はないんじゃないか。少なくとも、俺にはそんな余裕はない」
丸い眼鏡の奥で、瞳が炎に燃えている。
「そーかよ。だったらなおさらお前には関係ねーな」
俺はその業火に水をかけるどころか、ふいごで風を送るように雪宮へ返した。別に恋愛にうつつを抜かしたりはしていないし、余裕があるわけでもない。俺がなにを考えているのか知らないし、関係がないというのなら黙ってろという気持ちだった。
「もぉ、二人とも売り言葉に買い言葉はやめてや。僕、気持ちよう寝たいわ」
「そうだそうだ」
たしなめる氷織に、黒名がうんうんとうなずく。俺と雪宮は無言で睨みあい、それからどちらからともなく視線を外した。ギスギスとしていた空気が、少しだけ緩む。やれやれという風に、氷織と黒名が息をついた。
俺と雪宮の板挟みになる二人には悪いと思う。俺だって、雪宮と衝突したいわけじゃない。ライバルとはいえ、チームメイトでルームメイトなのだ。仲良しこよしがしたいわけではないが、無闇に対立したいわけでもない。ただ、言われっぱなしで黙ってもいられないだけだ。
「二兎を追う者は一兎も得ず、ということわざがあるだろう。サッカーも恋愛も中途半端にならないことを祈るよ」
眼鏡を外した雪宮が、やっぱりこちらには目を向けずにそんなことを言った。予言か忠告でもするような言い方で、鼻につく。第一印象は穏やかな優男だったけれど、今ではすっかり、いけすかないやつという評価だ。
「そこまでやで。もう消灯時間も過ぎてんで」
「就寝、就寝」
寝る体勢に入った二人の言葉で、俺と雪宮の睨み合いは半ば強制的に終了した。俺はスマートフォンを手に取り、彼女からのメッセージをもう一度確認する。少し前のやりとりまで遡って見ると、トーク欄は彼女から送られてくる写真やメッセージばかりで、俺からの返信は少なかった。
スマホのディスプレイに指を滑らせ、文字を綴る。
〈ピザうまそうだな!〉
〈今度俺も一緒に食べたい〉
〈あまり返信できなくてごめん〉
〈メッセうれしいよ〉
〈いつもありがと〉
〈好き〉
これまでの分を返すように立て続けに送って、スマホを枕元に伏せて置く。言いたいやつには言わせておけばいい。俺が一兎も得られず中途半端に終わるのかどうかは、最後までやってみなければわからないのだから。
俺は絶対に世界一のストライカーになるし、ここから出たら絶対に彼女とピザを食べる。単純明快。ただそれだけだ。
◆ ◆
枕元で唸るスマートフォンで、意識が浮上する。起床の時間だった。スマホのアラームを止め、布団の中で大きく伸びをする。目を開けて身体を起こすと、黒名も布団から這い出すところだった。雪宮のベッドはすでに空で、氷織はベッドの上にあぐらをかいて、スマホを見ているところだった。
「あかん、昨日のログボもらい忘れてたわ。連続ログイン切れてもぉた」
「おはよー……ソシャゲか?」
「おはよう、氷織、潔」
「おはようさん、潔くん、黒名くん。そやねん、ソシャゲのログボもらい損ねてもぉた。まぁしゃあないわ、最近はログボもらうので精一杯て感じやったし」
そう言う氷織は思ったより残念そうではなかった。氷織もストライカーを目指す一人なのだ。ゲームが趣味だとは言っていたけれど、優先度はサッカーに劣るのだろう。
俺もスマホを手に取り、画面に目を落とす。アラームを止めたばかりのそれには、メッセージアプリの通知が届いていた。昨夜のあの後、彼女から返信があったらしい。
すぐにトーク画面を開くと、未読のメッセージが並んでいた。
〈どうしたの急に〉
〈気にしなくていいよ〉
〈がんばってる潔くんを応援してるから〉
〈怪我とかには気をつけてね〉
〈メッセージ私もうれしかったよ〉
〈ありがと〉
〈私も好き〉
まだ少しぼんやりとしていた頭が、一気に覚醒する。一番最後の言葉に、口元がゆるむのを抑えきれない。こんな文字でのやりとりなんかじゃなく、直接、顔を見ながら聞きたい言葉だった。きっと、はにかんだ笑顔を浮かべていただろう。絶対にかわいかった。
雪宮に「二兎を追う者は一兎も得ず」と言われて、少なからず思うところがあったのはたしかだ。自分に余裕があるわけではないことは、自分自身がよく知っている。
ドイツチームの指導者、憧れのノエル・ノアにも、一分一秒すべての時間を世界一になるために費やせと言われた。その言葉を忘れたわけじゃない。サッカーで一番になるという夢――目標に変わりはない。世界一のストライカーになること、ワールドカップでの優勝、その夢を叶えることは絶対だ。
でも、その上で彼女ともちゃんとやっていく。いい関係をずっと続けていく。それもまた、絶対なのだ。俺は、彼女と別れるつもりはこれっぽっちもない。
もう一度、スマホの画面に目を落とす。〈私も好き〉。四文字の言葉なのに、あらためて気合が入るのを感じる。顔を洗いに行く準備をしている氷織と黒名に混ざるように、俺も部屋を後にする。
彼女からのメッセージを頭の中で思い浮かべる。「応援してるよ」「私も好き」。彼女にそう言ってもらえたら、いくらでもがんばれる。
俺にとっての彼女は――恋は、多分そういうものなのだ。浮かれてそれ以外のことが疎かになるようなものなんかじゃない。きっと、背中を押して、奮い立たせて、力をくれるようなものだ。
寝起きの頭に喝を入れるように、両手で頬を叩く。じんわりとした熱と痛みが、今日一日のやる気に変換されるような気がした。
◆ ◆
ドイツ棟のモニタールームで昼間の練習試合の映像を見ていると、背後の扉が開く音を耳が拾った。振り返ると、俺と同じくスウェット姿になった黒名が立っていた。
「おつかれー」
「おつかれ。俺も一緒にいいか?」
「おー」
ブルーロックのマークがプリントされたクッションを投げて渡す。それをキャッチして黒名は俺の隣に腰を下ろした。
「何見てたんだ」
「今日のミニゲームの映像。最初から見るか?」
ミニゲームには黒名も参加している。練習内容を振り返るなら最初から再生したほうがいいだろう。
「見る見る。悪いな」
「いーって」
映像をミニゲームがスタートするところまで戻し、再生する。三対三のワンタッチゲームだ。反応と冷静さ、ショートパスとシュート精度のトレーニングだ。
映像の中では、六人の人間が駆け引きをしながら動き回っている。
映像を確認するメリットは、客観視して分析することができる点だ。自分の動きの良かったところや悪かったところはもちろん、相手の動きの意図も俯瞰で見ることができる。全体の流れを引いて見られるため、最中に判断したことが最適だったかどうかの答え合わせにもなる。
画面の中では、昼間の俺がオフ・ザ・ボールの動きをしていた。ブルーロックに来てから意識するようなったプレーの一つだ。ボールを持っていない間に、どう動き、どう位置取りをするか。プレーは流動的で、繋がっているのだ。
映像の俺がドイツのエリック・ゲスナーが蹴ったボールに反応したところで、脇に置いていたスマートフォンのディスプレイが灯った。ロック画面にメッセージアプリの通知が表示される。俺はそれにちらりと目を向けて、スマホよりももっと大きなディスプレイの方へ視線を戻した。
ミニゲームが終了したところで、映像を一時停止する。
「黒名、意見交換しよーぜ」
「おう。でもその前に、それいいのか」
黒名が俺のスマートフォンを指差す。通知が来ていたことに気付いていたらしい。
「あー、大丈夫。後で見るから。で、今日のミニゲームどうだった? 俺は序盤でさぁ――」
気になったシーンまで映像を戻し、黒名の意見をあおぐ。
徹底した数値主義のバスタード・ミュンヘンでは、トレーニングの結果が細かく計測され選手の能力値として反映される。今日のミニゲームでの動きも例外ではない。
人間の能力を数値で見るという超合理的な思想は、否定しようのないものさしで暴くという残酷さがある。でもそれは、自分の現在地がわかるということでもあるのだ。
正しく受け止めることができれば、より伸ばすべき強みも、不足しているところ――欠点も見つけることができる。
努力は数値に表れ、その数値が上がれば試合に出られる可能性が高くなる。残酷なものさしも、使い方によっては指標や手がかりにもなるのだ。
俺にはテクニックもフィジカルも、他の選手より秀でたものはない。ドリブルでは蜂楽廻に敵わないし、フィジカルに至っては生まれつきのものでどうしようもない部分もある。牛乳を飲んで筋トレをしたからといって、外国人のような体格になれるわけではないのだ。
そんな俺の武器と言えるものは、ダイレクトシュートと空間認識能力だ。俺の場合、その二つをもっと磨き、より的確に使いこなせるようになることがレギュラー獲得への道につながる。
そのためにするべきことは、毎日のたゆまぬ練習と分析だ。結局地道に一歩一歩進んでいくしかないとも言える。一朝一夕でフットボールが上達することはない。劇的なレベルアップというものはただの幻想だ。
積み重ねた練習の成果が、突然実を結ぶことはある。けれどそれは積み重ねがあったからこその話で、結局のところ努力なしに成長することはありえないのだ。
俺は「天才」ではないのだから。そのことを、誰より俺自身がよく知っている。
映像を早送りしたり戻したりしながら、黒名の考えを聞かせてもらう。他人の視点も、分析の重要な手掛かりになる。
次に控えている試合相手はイングランドだ。――マンシャイン・シティ戦でレギュラーを獲得する。まずはそこからだ。
◆ ◆
就寝前に個人データを確認するのが、ほとんど習慣のようになりつつあった。その日のトレーニング結果は、その日のうちに評価データとして更新される。自己分析の手掛かりとなるデータのため、反映も早いのだ。
ブルーロックのドイツ棟、割り振られた四人部屋のベッドの上で自分のデータを開き、各数値に目を通す。ネオ・エゴイストリーグが始まった直後に比べ、攻撃力が大きく伸びている。これはスペインのFCバルチャ戦でのプレーによるものであることは間違いなかった。
次点で伸びているのはパスだ。これは國神錬介の得点――勝敗を決する三点目に絡んだアシストが評価されているはずだ。
他の数値にはそれほど大きな変化は見られない。やはり一朝一夕とはいかないようだった。
けれど、バルチャ戦に出られたことは確実に評価に加味されている。例え「ファンサービス」だとしても、チャンスをものにして試合に出られたことはかなり大きかった。数値によって表されると、余計に実感できる。
イングランドのマンシャイン・シティとの試合はあと二日後まで迫っている。残りの日数は少ないが、油断せずに詰められるところは詰めておきたいというのが、俺の考えだった。
絵心が言っていた、スポーツは椅子取りゲームだという言葉の意味が、今ならよくわかる。ポジションを奪うチャンスを常にうかがうのだ。そのチャンスが来た時、逃さず掴めるように。「幸運」の仕組みにも通じる話だ。
その時、その瞬間まで全力を尽くしたか。運や偶然と言われるものは、自分の行動によって引き寄せた結果であるということを、糸師凛との対決で学んでいる。
とはいえ、試合も近づきバスタード・ミュンヘンの練習はマンシャイン戦に向けた調整に入っている。残りの練習で大幅に数値を伸ばすことは難しいだろう。試合までのあと二日は、分析を主軸に進めるのがいいかもしれない。
自分のデータから、他のやつのデータに移ろうとした時だった。ベッドサイドテーブルに置いていたスマートフォンに、パッと明かりが灯る。手にしているタブレットで時間を確認すると、二十三時半を過ぎたところだった。
一旦タブレットを置いてスマホに手を伸ばす。届いていた通知は、予想と期待を裏切らず彼女からのものだった。
メッセージアプリを起動して確認すると、ぽつぽつと花をつけた木の枝の画像が数枚送られてきていた。〈通学路で梅が咲き始めてるよ〉というメッセージも添えられている。赤い花と、黄色っぽい花だ。梅といえば赤いイメージだけれど、この黄色っぽいやつも梅なのだろう。
どうやら世間的には梅の花が咲くような時期らしい。ずっと青い監獄の中で過ごしているせいで、すっかり季節感がなくなっている。なんなら日付の感覚も薄れてきているくらいだ。平日も休日もなくサッカー漬けの生活を送っているのだから、仕方ないのかもしれないけれど。
色くらいしか違いがわからない梅の花を見ていると、新着メッセージが届いた。そのまま確認すると〈今日は数学の小テストがありました〉というメッセージ。添えられた画像はテストの点数を撮った写真だった。悪くはないが、いいとも言えない絶妙に微妙な点数だった。
間をおかず〈次はもう少しがんばります〉というメッセージが画面の最下部に届く。言い訳をするような言葉に小さく吹き出してしまう。短い文面なのに、はずかしがっているような、自分を情けなく思っているような雰囲気が伝わってくる。
胸のあたりがじんわりとあたたかくなるようで、たまらなかった。寒い日にあたたかいスープを飲んだ時のように、内側から広がっていく熱だ。
あまりいいとは言えないテストの結果を、わざわざ教えてくれた。黙っていてもいいことなのに。俺だったら見栄を張って隠してしまいそうなことを教えてくれたのが、めちゃくちゃにうれしかった。ありのままの彼女を、見せてくれたようで。
「……潔」
「ん?」
「顔、顔。デレデレだぞ」
「……見んなよ。てゆーかほっといてくれ」
「あんまり幸せそうで、ついな。彼女だろ」
「……まあ」
顔がゆるんでいた自覚はあったけれど、はっきり指摘されると少しはずかしい。あまり突っ込まれたくない話題なのもあり、素っ気なく答える。
もう少し彼女からのメッセージを眺めていたかったけれど、そんなことをしていたら「デレデレ」の顔をさらし続けることになるかもしれない。名残惜しさを感じながら、引き剥がすようにスマートフォンを伏せると今度は氷織が口を開いた。
「潔くんの彼女は、連絡マメじゃなくても大丈夫タイプなんやね」
「あー……多分。なんか言われたりしたことはないな」
数日前、雪宮と少し言い争った時にはじめて意識したことだけれど、彼女から連絡頻度について不満を聞いたことはない。俺が返信するのは相変わらず少ないままだけれど、彼女からの連絡は内容も回数もこれまでとそう変わったところはない。今日だって、梅の花とテスト結果を送ってくれたのだ。
「ならよかったなぁ。ほら、僕らサッカー漬けやん。すぐに返信もできひんし、潔くんだって既読だけで終わる日もあるやろ?」
まったく氷織の言うとおりだった。俺は頷く。
「ちょいこないだの話の続きにはなってまうんやけど……大体の女の子は、連絡取りたがると思うんよ。付き合うって、そうゆうんが醍醐味なとこもあるやろし。けど、こないな環境におるとそうもいかへんやろ。だから、僕は潔くんが彼女と上手くやれてるんはええことやと思うんよ」
「氷織にそう言ってもらえるとホッとするわ。ありがとな。……けど、やっぱ、女の子って連絡マメなほうがうれしいもんなのか……?」
第三者に、俺たちの関係はうまくいっていると思うと言ってもらえたことには素直に安心できた。けれど、拭ったはずの不安も再び広がってくる。
メッセージの頻度や文章の雰囲気から大丈夫だと判断しているけれど、俺が都合よくそう受け取っているだけなのではないか。
本当は連絡不精の俺に対して不満があって、それを隠しているだけなのではないか。
雪宮に植えられた疑心の種は、癪なことに完全には取り除けていないようだった。彼女本人に確認を取ったわけじゃないのもあわさって、自信を持てない。
俺にとってははじめての彼女なのだ。女の子との付き合い方をまったく知らないと言ってもいい。なにからなにまで、とにかく手探りの状態だ。
スマホのトーク画面は、ほとんど彼女からのメッセージで埋まっている。俺からの返信は少ない。氷織の言う通り、マメな連絡をもらえなくても大丈夫なのであれば問題はないけれど、もし、そうじゃなかったら――。
「もしかしてこれ、恋愛相談始まっとったりする?」
氷織が丸い目をさらに丸くし、黒名が茶化すように乗っかってくる。
「質問者、潔世一。回答者、氷織羊。ブルーロック恋愛相談コーナーのはじまりはじまり」
「えぇ、僕そない大層な恋愛経験あらへんで。荷ぃ重いわぁ。黒名くん、回答者変わってもらえへん?」
「無理無理」
「だって僕、一般論を話しただけやで。それに潔くんの彼女さんは、特に不満言うてきたりはしぃひんのやろ? なら問題あらへんのとちゃう?」
首を傾げる氷織に、俺は即座に反論する。
「でも、彼女が不満を隠してる、ってこともあるだろ?」
「うーん、たしかにそうゆうことはあるやろなぁ」
言いにくそうに、氷織は俺の説を肯定した。やっぱりそうなのか、という焦りが表情に出ていたのか「でも」とフォローする言葉が続く。
「実際、プロ選手の恋人やら結婚相手は、相手への理解があらへんと難しいやろ。多分だけど」
「それは……競技が一番だから?」
言われてみれば確かに、スポーツ選手同士が結婚したニュースを時々耳にする。
「そやね。どうしても優先したいことがあるやん。それに納得できな、付き合うてられんくなると思うんよ。スポーツ選手同士で付き合うのは、お互い優先するものに理解があるからとちゃう?」
神妙な顔で話を聞く俺と黒名の視線を受け、氷織は眉尻を下げながらも回答者の意見を口にする。
「もちろん、スポーツ選手じゃなくても、相手のことを理解して寄り添えるんなら、どんな相手でも上手くいくとは思うで。だから、連絡のマメさがどうこうは関係なくて、結局のとこ相手次第なんとちゃうかな」
試合中でも冷静な氷織らしい、納得のいく考えだった。要するに、相手の立場や重視していること、価値観――をどう思うかが、肝心なのだろう。
「なるほどなるほど、勉強になるな」
「マジそれな」
「いややわ二人とも、おちょくるんはやめてや。ただの一般論なんやから。――とにかく、潔くんのやりたいことに理解があって、尊重してくれる子ならきっと大丈夫やって」
「だそうだぞ、潔」
氷織がまとめ、黒名が背中を押す。二人のおかげで、ようやく肩の力が抜けた心地だった。ほっと息をつくと、
「その『理解』にあぐらをかいてたら、いずれ破綻すると思うけどね」
答えが出た問題を、もう一度蒸し返すような声が発された。こちらには顔も向けない雪宮からだった。
瞬時に、俺たちの間に静電気のようなぴりりとしたものが走る。張り詰めた雰囲気を和らげることなく、俺は「あ?」と低い声で雪宮を問いただした。物言いが嫌味ったらしく、わざと神経を逆撫でしようとしているとしか思えず、腹が立つ。
「サッカーも恋愛も両立できる潔くんには関係ない話だよ。ただ、相手がなにも言ってこないからと慢心していたら、向こうから別れを切り出されることもある。違う? 氷織くん」
水を向けられた氷織が板挟みの状態になり、答えを待つ居心地の悪い沈黙が部屋に広がる。回答を求められた氷織は困ったような表情を浮かべたが、
「……まあ、雪宮くんが言うことも一理あるわ」
と雪宮の説を認めた。その言葉を受け、ほら見ろとばかりにクソ眼鏡が持論を展開する。
「人間は、会えない人より身近な会える人ことを好きになるものだしね。遠距離恋愛なんか、その典型だよ。デートもろくにできないような恋人、いつフラれるかわかったもんじゃない」
「オイてめぇ、俺がフラれるって言いてーのかよ」
「俺はそんなことは言ってないよ。一般論、だろ。自分にその気はなくても、相手の方が心変わりをする可能性がある、って話じゃないか。彼女に浮気されたり別れたいって言われないよう、せいぜい頑張って」
好き勝手言いたいことをべらべらと喋り、雪宮は涼しげな顔で一方的に会話を終わらせやがった。
――お前に俺たちのなにがわかるんだ。怒りが、腹の奥底のほうでふつふつと沸く。俺と彼女がどんな話をして、どう接しているか知りもしないくせに。一般論だなんだと言って、ただ引っ掻き回したいだけだろう。
氷織の論で言うのなら、彼女は俺のことを尊重してくれているのだ。少なくとも俺からは、我慢をしたりしているようには見えない。
不満を隠している可能性がなくなったわけではないというのはその通りだが、それも腹を割って話し合えばわかることだ。実際のところ本音はどうなのかはっきりすれば、対応はいくらでもできる。
部外者のクソムカつくありがたいご意見をへし折ってやろうと口を開きかけたところで、割り込んでくるように氷織が手を叩いた。柏手のような乾いた音が、淀んだ空気をパッと散らす。
「もぉすぐ消灯時間やし、恋愛相談コーナーもこれで終了な」
「店じまい、店じまい」
強制的に場を終わらせる氷織と黒名の言葉で、お開きというムードが漂う。いけすかない優男は最後まで視線を合わさないままだった。俺はその澄ました横顔をきつく睨みつける。
何日か前もそうだったが、雪宮は俺と彼女がすぐ別れると言いたげだ。気に食わないならはっきり言えばいいものを、遠回しにチクチクと刺してくるせいでとにかくムカついてしょうがない。
ただ、雪宮の言葉にいちいち反応してしまうのも、納得する部分があるからだということはわかっていた。だから余計に心が波立つのだ。
もし、自分の立場が逆だったら。
メッセージを送っても、彼女からの返信はほとんどなく、既読はつくけれど、反応があるのは数日に一回程度。
会うどころか、通話すらほとんど機会がない。
そんな状態、俺には耐えられる気がしなかった。
もしも、万が一、仮定ではあるが、彼女に「別れたい」なんて言われたりしたら絶対に平静ではいられないだろう。メンタルの状態がサッカーにも影響を及ぼすのは確実だ。そうなったらまさしく「二兎を追う者一兎も得ず」になってしまう。
世界一のストライカーになり、ワールドカップの日本代表になり優勝するという夢を失い、彼女まで離れてしまう。これは考えられる中で一番の最低最悪地獄の展開だ。
それだけは――それだけは絶対に、なんとしてでも断固避けなければ。
たとえ別れを切り出されたとしても、受け入れる気はこれっぽっちももない。一ミリも、爪の先、毛ほどもだ。
今後なにがあっても俺は彼女を手放すつもりはないし、考えたくはないけれど――もし浮気されたとしても、その時は相手を潰して絶対に取り返す。
とはいえ、そもそもそういう事態にならないのがベストだ。そのためには、彼女が俺と別れると言う発想を持たないようにするのがいいだろう。「別れる」という考えの芽を摘み、根から徹底的に取り除くのだ。もしくは、俺と同じように絶対に離れられないようにするか。
もちろん、彼女は浮気をするような不誠実な子ではない。信じているというよりほとんど断定的に、事実としてそうだと認識しているけれど、念のために打てる手があるのなら打っておいた方がいい。たとえ俺に別れるつもりがなくても、心変わりをされたらショックが大きいことは明らかなのだから。
なにか、彼女を自分の側に留めて置けるような、縛っておけるような方法さえあれば。そういう、鎖とか檻のような手段があれば、この問題はクリアする。簡単には俺たちの関係を終わらせられなくなる、そんな手立てだ。
「……一個だけ、あるじゃねーか」
視界がざっと大きく開けた気がした。一つだけある。「契約」にも等しいものが。完全完璧というわけではないが、これならば少なくとも事実上のものとしては彼女をつなぎ止めておくことができる。
引ったくるようにスマホを掴んで、ベッドから飛び降りる。監獄支給のサンダルを突っかけて、扉に向かって飛びついた。
「どうしたどうした」
「潔くん? もぉ寝る時間やで」
「ちょっと野暮用! すぐ戻るから先寝ててくれ、おやすみ!」
就寝の挨拶を大雑把に投げて、部屋から飛び出した。就寝時間を迎え、人気がなくなった廊下を疾走する。スリッパの底が床を叩く音が、静かな空気をかき乱す。
駆け込んだ一番手近なモニタールームは、狙い通り無人だった。扉が閉まるのも待たず、スマートフォンのアプリを立ち上げる。
メッセージアプリのトーク画面から通話へ移り、彼女を呼び出す。
コール音が、一回、二回、三回――。
――頼む、出てくれ。祈るような気持ちでそう願った時、不意にコール音が途切れた。
「園希!」
『――わぁ、どうしたの、潔くん』
叫ぶように名前を呼んだ俺に、驚いた声が返ってくる。機械を通した声なのに、ひどく懐かしく聞こえた。気管が詰まったように、苦しくなる。
「園希、園希だ……」
『うん、園希ですよ。……なにかあった? どうしたの?』
心配するような声が、耳をくすぐる。やさしくてやわらかな音が、鼓膜から全身を包むように広がっていく。強張っていた筋肉が、思い出したように弛緩した。苦しくなったり、楽になったり、心と身体がいそがしい。
「ん、や、園希の声聞いたらなんかほっとして。ちょっとテンパりすぎたな、はっず」
『そっか、それならいいんだけど。……なんか、声聞くの久しぶりで、ちょっと照れちゃうね』
気遣うようなものだった声音が、はにかんだものに変わる。今度は心臓を握り込まれたような、胸のあたりがきつく収縮したような、甘い締め付けに襲われた。声だけでもわかる。今のは絶対、かわいい照れ笑いの顔をしていた。絶対そうだ。
こんなことになるなら、音声通話ではなく、ビデオ通話にしておけばよかった。とにかく話をすることしか考えていなかった、数分前の自分の詰めの甘さが憎い。でも、声を聞いてしまった今は繋ぎ直す数秒の時間さえも惜しかった。
『元気そうならよかったよ。サッカーのほうはどう?』
「まあ、それなりって感じかな。――それで、なんだけどさ」
『うん』
「俺たちが十八歳になったら、結婚しよう」
『――え』
本題を切り出すと、彼女の声が短く途切れた。息を呑むとはこのことだろう。俺は慌てて説明を付け加える。
「収入の心配ならいらないから! 俺、この間ドイツのクラブチームから年俸一千七百万の入札――オファーがあったんだ。まだ正式な契約オファーではないけど、一千七百万って言ったら、それなりのサラリーマン並みの年収だよな?」
女性が結婚相手に求める収入の相場はわからないけれど、一千万円台はそれほど悪くはないはずだ。トッププレーヤーの年俸はこんなものではないが、そこに関してはこの先の試合で活躍して入札額を上げればいい。数日後に迫ったイングランド戦に出場できれば、オファー金額を上げるチャンスにもなる。
「な、だから俺と結婚してよ」
『ちょ、ちょっと待って、なんで急にそんな話が出てくるの? やっぱりなにかあった?』
「急かもしれねーけど、急じゃねーよ。元々園希とは結婚するつもりだったし」
遅いか早いかの違いだけだ。だったら、早くたって問題はないだろう。収入という問題をクリアしているのであれば、生活だってなんとかなるはずだ。多分。なにかあったとしても、なんとかすればいいだけだ。というか、なにが起きても絶対になんとかする。
『そ、そっかぁ……。でも潔くん、自分がいまなに言ってるか、ちゃんとわかってる……?』
「わかってるよ。俺たちが十八歳になったら結婚しようって言ってる」
法的に関係性を結ぶには、あと一年と少しの時間が必要だ。早生まれの俺が再来年の四月一日に十八歳になるまで、彼女と結婚はできない。今すぐにとはいかないのがもどかしいけれど、待っていればいずれ必ず誕生日はやってくる。その時までの辛抱だ。十八歳になれば晴れて成人、結婚が可能になる。
『わかった上で言ってたかぁ……』
「……なに、俺じゃだめ?」
自分でもわかる、露骨に拗ねた声だった。子供っぽくてダサくてかっこ悪い。
それでも「いいよ」という言葉がほしかった。お願いだから、断ったりしないで。頭の中は、なりふりかまっていられない必死な気持ちでいっぱいだった。
「あ、やっぱりこんなプロポーズいやだった? そうだよな、通話でとか、ムードもなにもないよな。もっとちゃんとしたプロポーズは改めてするから。それまでに指輪も用意するし」
『ちが、違う、そうじゃなくて……! 結婚は、その、もちろん、いい、よ』
「ッシャア!」
――言質を得た! モニタールーム中に、俺の声が大きく響き渡る。録音はしていなかったが今、間違いなく「いい」と言った。言質は得られた!
『でも――』
ガッツポーズを決めて喜ぶ俺を引き戻すように、彼女の声が続く。
『そういう話は、やっぱりちょっと早いんじゃないかな……? 私たち、まだ高校生だよ。もうちょっと――』
「いやだ」
ぴしゃりと彼女の言い分を遮って、俺はまくし立てる。
「俺これ以上待てねーよ。ほんとは今すぐ籍入れたいくらいなのに。これからもずっとずっと一緒にいたい。俺の一番近くに園希がいてほしいし、園希の一番近くにいるのは俺がいい。そうじゃなきゃやだよ。だから、早く園希と結婚したいんだ」
ここで引き下がったりしたら、改めてプロポーズするまでの間になにがあるかわからない。是が非でも今、園希に結婚を了承させる。口約束だとしても、十八歳になったら結婚するという確約を得るまで俺は絶対にあきらめないからな。
この際、使える手段はなんだって使うつもりだ。同意をもらえるならいくらでも頼み込むし、泣き落としをしたっていい。情けなかろうが、その程度のことで彼女が手に入るのなら安いものだ。
『うぇ、ちょ、ちょっと待って』
「てゆーか、園希以外と結婚とか考えらんねーし。ちょうどいいからこの際言っとくけど、園希が他のヤツと結婚したいって言っても俺、はいそーですかわかりましたって大人しく身を引いたりしないからな。それくらい園希のことが大好きなんだ。なあ、わかってよ」
『あぅ――わ、わかった、わかったから! ちょっと、ちょっと待って、ストップ……!』
悲鳴のような声が上がり、ひとまず彼女の要求通り口をつぐんでみる。
『あの、潔くん……これ以上はちょっと、許容オーバーというか……』
「許容オーバー?」
『一日の限度を超えているといいますか……』
「え、俺なんか変なこと言った?」
『変なことは、言ってないけど……』
機械越しの彼女の声が、尻すぼみになる。言いにくそうにする言葉の続きを、急かさずにじっと待って促す。
『あの、その……』
――熱烈な、愛の言葉、て感じで――。
ためらいがちに、か細いつぶやきが紡がれた。その音を、意味を頭が理解した瞬間、全身がカッと熱くなるのがわかった。身体の内側と外側から炎で炙られているようだった。
「ご、ごめん! そういうつもりじゃ、いや結婚したいのも好きなのも本当だし、それであってるけど!」
彼女に向けた言葉に嘘も偽りもない。けれど、照れる彼女に感化されたのか、俺まで過剰な照れに襲われる。やっぱり、ビデオ通話じゃなくてよかったかもしれない。
『そっかぁありがとね! とってもうれしい! 私も潔くんのこと大好きだよ!』
「マジ? 俺も大好き! めっちゃうれしー!」
はずかしさをごまかすように、大きな声で言い合う。わざとらしいほどの応酬は滑稽で、掛け合いが一瞬途切れたそのタイミングに、どちらからともなく吹き出した。零時を過ぎた夜に、軽やかで明るい笑い声が二つ重なる。
『あはは、なにこれ、もう――。でも、ほんと元気そうでよかったぁ』
「それはこっちのセリフだっての。その……いつも、メッセの返信してなくてごめん。言い訳っぽくなってダサいんだけど、あんまり返す時間なくって。でも園希からの連絡、めちゃくちゃ楽しみにしてんだ。ほんと、マジで。だから、これからも今までみたく送ってほしいんだけど……いい?」
『うん、もちろんだよ。役に立ててるならよかった。前にも言ってるけど、返信は気にしなくていいよ。潔くんのペースで返してくれたら、それで十分うれしいから』
「……でも、我慢とか、そういうのしてんじゃねーの?」
確かめるチャンスだ、と踏み込んでみると、受話口からは『我慢?』ときょとんとした声が返ってきた。心配や不安、緊張といったものの芯を引っこ抜くような声音だった。
「……もっとかまってほしーとか、そーゆーの、ねーの?」
『うーん、潔くんががんばってるの見てるからなぁ。応援したい気持ちの方が強いから、あんまりさびしくはないかも』
「……んだよそれ、少しくらいさびしがってくれてもいーじゃん」
随分とさっぱりした彼女の態度に、また拗ねた声が出てしまった。これじゃあ、かまってほしいのもさびしがっているのも俺の方だ。彼女に会いたいという気持ちは否定できないけれど。
『……内緒にしてたんだけど、実はね』
内緒、実は、という言葉に、さっと緊張が走る。どうしよう、連絡が少ないから別れたいと思ってた、なんて言われたりしたら。
どんなショックなものでも受け流せるよう、一瞬で心の準備をして覚悟を決める。そんな俺に、
『私、ブルーロックTVの会員なんだ』
彼女はそう打ち明けた。
「えっ――それって、もしかして……」
『うん。ブルーロックTVで、潔くんのこと見てます。だからオファーのことも知ってたんだ。言うのが今になっちゃってごめんね。本当におめでとう!』
「うっわ、サンキューな、めちゃくちゃうれしい――って、見てるって、カメラで撮ってるとかいう映像?」
ブルーロックのリアルタイムショーは、試合の生配信だけに限っていない。プライベートな場所を除き、監視カメラに映った映像は編集され配信されると絵心は言っていた。彼女が会員だというならば、それは。
『うん。公開されてる動画に結構潔くん映ってるんだよ。練習風景とか、食堂での映像とか。もちろん人気投票も潔くんに入れてるよ!』
「マジかよ……」
今度は俺が照れる番だった。知らないところで見られていたこと、応援してくれていたことがはずかしくて、でもそれ以上のうれしさがあった。別れたいと言われるのかと、変に身構えた自分がバカすぎる。
『マジだよー。だから、がんばっててすごいなとは思うけど、あんまりさびしいとは思わないんだよね。潔くんが、あまり返信できないけどメッセージほしいって言うのと同じかも。リアクションをもらえなくても、どういう風に過ごしているのかがわかるとそれほど不安にはならないみたい』
状況は多少違えど、彼女も俺と同じようなものだったらしい。
さびしいと思われたい気持ちがないわけではない。彼氏なのだから、そりゃあ、好きな子に必要とされたいし、求められたい。
でもそれは多分、男としてのプライドみたいなものだ。実際そういう状況になった時、俺はきっと困ってしまう。サッカーと恋愛を両立させると息巻いているけれど、現実問題として、彼女にしてやれることには制限があるのだ。
この環境では、直接会ってゆっくり話すとか、デートをしたりとか、そういうことも叶えられない。返信の少なさもそうだが、俺は彼女を蔑ろにしていると思われてもおかしくないのだ。どれだけ気持ちがあっても、それを明確に相手に伝える方法が少なすぎる。
今は、どうしたって、こんな付き合い方しかできないというのに。
「俺の彼女、マジでサイコーじゃん……」
理解、尊重といった言葉が、理屈や論理としてではなく、実感として頭の中に入ってくる。もしかしたら、引っ掻き回されていちいち気にしたり、相談に乗ってもらったりする必要もなかったのかもしれない。あれこれと悩んだことをムダだったとは言わないけれど、簡単な話だ。最初からこうして、直接確かめていればよかったのだ。
「あーもう、マジで好き。ほんっと好き。大好き」
『……もう、今日そればっかり。一日の限度超えてるって言ったでしょ』
ちょっと怒ったような口調が、ただの照れ隠しだということはバレバレだった。そういう態度も声も、俺だけのものにしたい。
彼女とずっとずっと一緒にいたい、という気持ちが、さらに強くなる。こんなにかわいくて、最高な彼女なのだ。俺でなくても手放せないだろう。
サッカーと、恋愛。
二兎を追う者。
誰になにを言われようと、俺は絶対にどちらも手に入れて見せる。二兎を得られるということを、これから証明していけばいい。
当面の目標としては、イングランドのマンシャイン・シティ戦だ。この試合に出ること。そして、俺のゴールを決めること。入札額をもっと上げて、U-20ワールドカップの日本代表メンバーに入る。
そして、十八歳の誕生日を迎えたら。
「な、園希」
『うん?』
――絶対絶対絶対絶対絶対結婚するからな!
私の業績の中で最も輝かしいことは、妻を説得して私との結婚に同意させたことである。
――ウィンストン・チャーチル(1874〜1965)
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