ミヒャエル・カイザーは、ダイニングテーブルで向かい合って座る恋人の様子を慎重に窺っていた。
いつも通りの夕食の時間のことだった。食事をしながら話す彼女の声が曇っているように感じられたからだ。
そしてその予感は的中した。彼女はメイン料理のヒレ肉に少し手をつけたところで静かにナイフとフォークを置いた。カトラリーと食器がぶつかるかすかな硬質な音は、ダイニングの雰囲気を表すようだった。
「日本に帰りたい……」
思わず口からこぼれ落ちた、というような小さなつぶやきは、これまでの会話の流れを無視した唐突な切り出しだった。会話というよりも、ひとりごとに近いものがあった。
カイザーは、それを拾い上げるために彼女と同じようにナイフとフォークを置いて食事を中断した。
立ち上がると、無垢材のテーブルを回り込んで彼女の隣の椅子に腰をおろす。力なく膝に置かれた手をそっと握ると、陰った横顔を覗き込んだ。
「生活上での困りごとでもあったか? 何かあったなら話してくれないか」
うつむき加減の恋人――桑染園希は、じっと黙ってテーブルの上の料理を見つめている。顔を上げて、こちらを見てほしかったが、カイザーは彼女から口を開くまでいくらでも待つつもりだった。
押しに弱く流されやすいところがありながら、彼女には意思が固い部分もある。話したくないと思っているのであれば、根比べになることは予想できた。
しばらく顔を伏せて口をつぐんでいた彼女は横目でちらりとカイザーへ視線を向けると、すぐにまたうつむいて、ぽつぽつと話を始めた。
「……その、ドイツの生活には、だいぶ慣れたと思うの」
「そうか。よかった」
「ただ、なんていうか、ちょっとの間だけでいいから、日本に帰りたいなって……」
遠慮がちな声だった。歯切れの悪さを日本人の彼女らしいと思いながらも、カイザーは叶えてやれない望みだな、とすぐに結論を下した。
「こっちでの生活には慣れたけど、やっぱり、色々日本と違うから……。食事もそうだし、言葉も」
「言葉なら、問題ないだろう?」
ドイツ語で話すカイザーと日本語で話す園希の間では、問題なく言葉が通じている。異なる言語を使う彼らの会話を成立させているのは、二人の耳に収まっているイヤホンだった。
リアルタイム同時通訳イヤホン。日本の企業が開発したそのアイテムによって、この恋人たちは言葉の壁を乗り越えている。
「ミヒャは問題ないよ? イヤホンがあるから。でも、外に出たらさ……。私は言ってることがわかるけど、まわりの人たちは、私の言ってることがわからないから……」
「それは確かにそうだな」
御影コーポレーション製作の同時通訳イヤホンがあれば、ドイツ語を彼女の第一言語である日本語に通訳してくれる。リスニングに不都合はない。
けれど、トーキングとなると話は別だ。相手が同じように通訳イヤホンを使用していなければ、彼女はドイツ語あるいは英語で話す必要がある。
「挨拶とか、簡単な言葉は喋れるようになったと思うよ。ちょっとした買い物とかなら一人でもできるし。でも、雑談とか、そういうのは全然だめで……」
「ああ」
「それに、イヤホンの充電が切れたらどうしようって思うと、あんまり外にも出られなくて……」
彼女に外を出歩いて欲しくないためそれは都合がよかったのだが、そんな考えをおくびにも出さずカイザーは彼女の悩みの続きを促した。
「もちろんね、ドイツ語の勉強はしてるの。でも、一人だとあんまり楽しくないし、がんばれなくて……」
そう言って、彼女は再び黙り込んでしまった。カイザーはできうる限りの優しい声音で「他に困っていること、悩み事はないか?」と尋ねた。どうやらホームシックを発症したらしい日本人の恋人は、子供のようにふるふると首を横に振る。
カイザーは大袈裟なため息をついて、横顔を見せる彼女の頬を指の背で撫でた。
「理由がそれだけでよかったぞ。別れたいと言われたらどうしたものかと思っていた」
「え、そんなこと思ってないよ!」
そこでようやく彼女が顔を上げ、カイザーを見た。アジア人らしい色素の濃い目が丸く見開かれている。
カイザーは、天使の名に違わない形のいい唇に弧を描いて恋人の額に口付けを贈った。日本から遥々ドイツへと連れてこられた彼女だが、この生活を続ける気はあるようだ。
「寂しい思いをさせてしまったなぁ、俺のかわいいすずめちゃん。不甲斐ない俺を許してくれ」
「み、ミヒャは、悪くないよ……!」
額に、目尻に、頬にと降らすようにキスをすると、園希は恥ずかしがるように少しばかり身をよじった。いまだに愛情表現に慣れていない。いつになったら慣れるものかとも思うけれど、いつまで経っても初心なままである。もっとも、カイザーは彼女のそういうところも可愛らしいと考えているのだから、なんの問題もないことではある。
「園希の気持ちはよくわかった。俺の方でも少し考えてみよう。話してくれてありがとう」
「うん……。私の方こそ、聞いてくれてありがとう」
素直にうなずいた恋人を抱き寄せて髪に唇を寄せると、ヘアコンディショナーの香りがした。カイザー好みの匂いのそれは、彼が選んで彼女に使わせているものだ。
――かわいそうになぁ。
信頼しきったように預けてくる身体を抱え込みながら、カイザーは笑みを浮かべた。
彼女の悩みや困りごとは、どんな小さなものでも取り除いてやるつもりである。不都合や不満なく生活できるようにしてやろうという考えは、嘘偽りない本心だ。叶えられる彼女の望みはすべて叶えてやろうと、そう決めている。
――けれど、日本へ帰るというその願いについては、叶えてやることはできない。叶えるつもりは、一切なかった。
口説きに口説き、あの手この手を使い、騙しすかして強引に押し流すようにして日本という島国から連れ出したのだ。そこまでして手にしたものを、たとえ一時だとしても手放すつもりはない。
それに、ホームシックを患っている今のタイミングで帰省させたことで、もうドイツへは戻らないと言い出したりしたら。彼女を連れ戻す――連れ去る――ために手段を選ばないだろうことを、カイザーは自覚している。
本人の意思を無視することは、培った信頼を失うことに繋がる。カイザーはできることならずっと「やさしい恋人」の顔をしていたいのだ。無理やり閉じ込めるようなやり方では、カイザーが愛でている「桑染園希」の姿が損なわれてしまうだろう。手元から逃さずに飛ぶ姿を見たいのならば、鳥籠は広く高くなければならないのだ。
「愛してるぞ、俺のかわいいすずめちゃん」
耳元でささやいて、閉じ込める腕に力を込める。
疑心を持たない素直な小鳥は、はずかしそうにみじろぎをしたものの、やさしい檻の中に収まっていた。
◆ ◆
「ホームシックになったことはあるか」
ロッカールームで脈絡なくそう声を掛けられた時、潔世一はいつもの嫌味や皮肉でも始まるのかと、うんざりした気持ちになった。
けれど、ミヒャエル・カイザーの表情が予想外に真面目なものだったため、潔は少しばかり驚いたのだった。
「……急にどうした?」
「いいから質問に答えろ」
様子見を兼ねて質問で返してみたが、カイザーは苛立たしげに返答を急かすだけだった。それはやはり常とは違う態度で、彼に何かがあったことは明確だった。
「……そうだなぁ。言うほどホームシックらしいホームシックになったことは、ないかもしれないな」
思い起こせば、ドイツのクラブチームに所属して海外で生活するようになっても強く日本を恋しく思うことはなかった。
「ハッ。世一は鈍感だな」
「適応能力が高いんだよ!」
ホームシックになっている暇がなかったということも、理由の一つだった。プロのサッカー選手として日々を過ごすことに精一杯で、故郷のことを考える余裕がなかったのだ。
「それに、思ったより日本には帰ってるからな」
日本サッカー界に世界一のストライカーを誕生させるという一大プロジェクト――ブルーロック。そこで一躍有名になった潔世一は、今や日本を代表する選手となっている。ありがたいことに、ナショナルチームのメンバーとして招集されることも少なくない。その時の国際戦の試合会場が日本であれば、当然母国へ向かうことになる。
「だがあくまで生活の拠点はここだろう。試合の開催が母国といえども、遠征とそう変わらないんじゃないのか」
「まあそうだけど、帰国していることには変わらないからな。帰って来たーって気分になるよ」
気温や湿度の違いによるものか、飛行機を降りて気候の違いを感じた時に「帰って来た」と感じることは少なくない。実家でゆっくり過ごすというようなことはできなくとも、故郷の空気を肌で感じるだけでも肩の力は抜けるものだ。
「……ハア。まったく役に立たないな。世一なんぞに聞いた俺が間違いだった」
「はあ? 答えてやったのになんだよその言い草」
期待外れだ、と肩を竦めたクソムカつくライバルを睨み付ける。常ならばここで余計な一言や二言が続けられるところが、カイザーはすっと表情を落として横顔を向けた。
「……なんかあったん?」
ただのうざったい絡みであればお断りだったけれど、見ない態度は世界を代表するフォワードに何かがあったことを窺わせた。
しかしカイザーは無視するように黙っている。なにかがあったことは明らかであるのに、話すつもりはないらしい。
悩みや相談事は、話す相手を選ぶものだということもよくわかる。ぶつかることが多かった潔が、その相談役に選ばれないだろうことも。
話したくないのであれば無理に聞き出すこともない、と潔が再び荷物をまとめ始めたところで、
「……恋人がホームシックになった」
低い声で、カイザーがぼそりとつぶやいた。白人らしく鼻筋の高い横顔からは、苦々しいものが滲んでいた。
「お前の恋人って――」
「日本人だ」
ミヒャエル・カイザーの恋人が日本人ということは、噂には聞いていた。どうやらその話は本当のことだったらしい。そういう背景から、ドイツで生活する日本人として潔の経験を聞きたかったようだ。
潔は憎たらしいほど整ったカイザーの顔をまじまじと眺めながら、意外な面を見たような気がした。
カイザーにしては遠回しでわかりづらかったけれど、藪から棒な問いこそ相談だったのだ。
ファーストコンタクトも、その後の振る舞いも最悪だった人間からはとても考えられないような気遣いだった。傲岸不遜、唯我独尊を体現したような人間でも、恋人という特別な存在に対してはやさしいというわけである。
たまたま恋人と同郷だったからだとしても、まさかカイザーが自分に相談などをしてくるとは思わない。いちゃもんや難癖をつけてくるならまだしも、意見を求めてくるなんて。
けれど、裏を返すとそれだけ恋人を大事にしていることを表してもいた。ホームシックの恋人になにかしてやりたいという心から、らしくない相談なんかに至ったのだろう。
顔を上げたカイザーは、不機嫌そうな表情をしていた。いやいや渋々お前に相談している、という雰囲気を隠そうとしていない。
「お前、それが相談する側の顔かよ……。でもホームシックっていうんなら、少しの間帰国させてあげたらいいじゃん。簡単な話だろ」
「それは却下だ」
単純なことだ、と口にした潔の提案は、間髪を入れずに差し戻された。検討の余地もないほどの早さだった。
「なんでだよ」
「帰してみろ、やはり日本がいい、と言って戻って来ないかもしれないだろう」
「そうか? まあ海外生活に本当に馴染めないんであれば、そういうこともあるか……? そのコイビトさんはの友達の中に、日本人はいねーの」
「いないな。そもそも友人らしい友人がいないはずだ」
同郷の友の一人でもいれば寂しさも紛れるのではと思ったけれど、その考えもまた即答で否定されることになった。より深刻そうな状況とともに。
「マジか。友達がいないのはキツいな。そりゃホームシックにもなるって」
「なぜだ。友人はいなくとも俺がいる」
本当にわからない、という反応だった。表情も声も、本心から「自分さえいればいい」と考えているものだった。
「いや、だって恋人と友人は別だろ」
恋人と友人では、立場が異なるはずだ。恋人とは恋人としての関係になり、友人とは友人としての付き合いになる。恋人としかできない話もあるし、逆に友人相手だからこそ話せることがある。優劣があるわけではなく、そういうもののはずだ。
だから、異国の地で頼りにできるのが恋人だけではホームシックになるのも必然なのではないだろうか。友人、特に同じ国出身の知り合いでもいれば、その寂しさも少しは変わるのではないかと思う。
「うーん……俺はやっぱり一回帰国させたほうがいいと思うけどな」
「それはナシだと言ってるだろう。ハア……日本人という繋がりで聞いてみたが、やはり役には立たなかったな」
「おい、それが相談する側の態度かよ!」
わざとらしく落胆して見せるカイザーに、潔が吠える。少し印象が変わった気がしたけれど、まったくそんなことはなかったようだった。大天使と皇帝を意味する大仰な名を持つこの男は、やはり性根が悪い。
潔は付き合ってられないと、投げやりに会話を終わらせようとする。
「日本には帰さない、こっちに友達はいない、その状況でホームシックを解決させるのは無理なんじゃねーの。あと考えつくのはご飯くらいだし」
「ご飯?」
潔の言葉を拾ったカイザーが追求するように尋ねた。
「故郷の味ってやつだよ。ドイツと日本の食事は結構違うからな。食事は毎日のことだし、環境の違いを感じるポイントになりそうだろ。コイビトさんは自宅で和食――日本料理は作ってねーの」
「日本料理というと、スシとかテンプラか? 作ってないな」
「外国人のテンプレ的な例だな……そういうんじゃなくて、もっと簡単なやつでいいんだけど。米とかさ」
「米? ミルヒライスか?」
カイザーの言葉に、パッケージにドイツ語が書かれた米の袋が頭に浮かぶ。
「そういえばあれをご飯の代わりにできるらしいな。普段ミルヒライスは食べてねーの?」
「……一度だけ買ったようだったがあったが、それきり見たことははないな」
「あー……それは米の代わりにしようとしたけど口に合わなかったんだろうな。日本米に近いといっても、やっぱ日本の米とは違うだろうからなぁ」
同じ「ライス」と言ってもミルヒライスはあくまでライスプディング――米を牛乳で炊いて香り付けや砂糖を加えて甘くした料理――向けのものである。日本人向けに作られた日本産の米とは用途も品種も違う。
「日本人にとって、米はそこまで重要なのか? 俺にはわからんな」
「人によるとは思うけど、大体の日本人にとって米はソウルフードだろうな。身近で当たり前すぎて、あんまり意識されてないかもしれないけど」
アレルギーの有無や育った家庭にもよるだろうが、日本人であれば基本的には米を食べて育つものだ。そして食事は生活に大きく関わるものでもある。それの変化は馬鹿にできないだろう。
「そう考えたら、俺がこっちでも日本米を食べてるのはホームシック対策になってたのかもしれないな」
自宅にある炊飯器と日本語がプリントされた二十キロの米袋を思い出しながら納得する。
「――待て世一。お前はわざわざ日本米を食べているのか?」
「そうだよ。毎食ってわけでもないけど、やっぱ米が食べたくなるから。俺は日本からの海外発送で買ってるから割高なんだけど、こればっかりはしょうがないからな。でも米食べると調子がいい気がするんだよ。試合前は絶対米だな」
つらつらと語った潔に、カイザーが呆れたように首を振った。
「本当に日本人は米が好きねぇ。ここまできたら異常だぞ」
「お前、その発言は日本人を敵に回すぞ」
ドイツで例えるならば、カツレツ風の肉料理シュニッツェルやブルスト――ソーセージ――を否定されるようなものではないだろうか。
「でもまあ、ミルヒライスが口に合わなかったって言うなら、米ちょっと分けてやろうか。深刻そうだし」
カイザーのためというよりも、同郷のよしみだった。顔も名前も知らないけれど、異国の地での生活に苦労があることは知っている。
「いや、話は大体わかった。そういうことなら日本料理の店へ連れて行く」
「それでもいいと思うけど、中途半端なところに連れて行ったら多分逆効果だぞ。ちゃんと下調べして店探せよ。なんちゃって日本食だったら逆にキツいだろうから」
ドイツ人の舌にローカライズされた日本料理では、故郷の味とはいえないだろう。アメリカのカリフォルニアロールのようなものだ。あれは今となってはしっかり寿司としての地位を確立している気もするけれど。
「それならお前のおすすめの店を教えろ」
「え。俺こっちの日本料理の店よく知らないから無理だぞ」
「まったく……世一はここでも役立たずか。いっそ無能だな」
「俺は日本料理が食べたくなったら自炊してるんです!」
外食は栄養管理も難しくなる。すべて自炊というわけではないものの、栄養士のアドバイスを参考に自分で作った方がいい場合もあるのだ。
「もう日本米と炊飯器をセットで用意したほうが早いんじゃねーの。金ならあるだろ」
初めて会った時点で年俸三億の選手だったのだ。日本のブランド米と高機能炊飯器を揃えても端金のはずだ。そこまでのものを用意しようとなると、入手に多少の時間はかかるかもしれないが。
「スイハンキとはなんだ」
「米を炊くための家電だよ。普段米食べないなら使わないだろうけど」
「米を炊くための家電? 米を炊くためだけの家電なのか。他に機能はないのか」
「基本的には米を炊くための家電だよ。鶏ハムとか煮物も作れるらしいけどな」
「米を炊くためにわざわざ専用の家電を作るなんて日本人はイカれてるな。米に取り憑かれてるぞ」
「ハイハイ言ってろ言ってろ」
いちいち言い返していては話が進まず、潔はカイザーの皮肉を受け流す。
「とにかく、帰省させたくない、友達もいないって言うんなら、せめて米を食べさせてあげた方がいいんじゃないかと思うぞ。日本米はアジア系のスーパーでも売ってるから。炊飯器はあったほうがいいだろうけど、なくても鍋で炊けるし」
潔なりの意見をまとめると、
「……炊飯器と鍋、両方での米の炊き方を教えろ」
カイザーは非常に嫌そうな顔と耳を疑うセリフでそう要求して来た。
「は? え――え? は? お前が米炊くの? 米?」
「そう言っている。お前の耳は節穴か?」
「いや、お前……え? 本気? マジで言ってる?」
しつこく繰り返すと、カイザーの表情がますます不愉快そうなものになった。潔には「米を炊くミヒャエル・カイザー」の姿がまったく想像できないけれど、どうやら本気であるらしい。
「炊飯器を使えば米炊くのは簡単だし、鍋を使った方法もそんな難しくはないけど……コイビトさんに炊いてもらったほうがいいんじゃねーの」
炊飯初心者のカイザーよりは、日本人の彼女の方が勝手をわかるだろうというアドバイスだった。けれどカイザーは小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「世一はお子ちゃまねぇ。恋人のために何かしてやりたいという気持ちが分からないのか。経験に乏しいんだな」
「お前はいちいち煽るかマウントとるかをしないと気が済まないのか?」
恋愛経験豊富とは言い難いが、それは他人にとやかく言われるようなことではない。ただ、そこまでするほどミヒャエル・カイザーは恋人のことを考えているらしい。意外に思えたけれど、鼻持ちならない男は予想を遥かに上回るレベルで恋人のことを大切にしているらしい。
「しょうがねーから米の炊き方について説明してる記事を送るよ――って、日本語じゃ読めないか。翻訳……だとニュアンスが変わることもあるよなぁ。うーん、俺が説明するから、お前メモ取れ」
荷物の中からスマートフォンを取り出し、ウェブ検索サイトで「ご飯 おいしい 炊き方」とワードを入力して記事を探す。ヒットした結果の一番上に表示されたリンクをタップしたところで「――待て」とカイザーがストップをかけた。潔が顔を上げると、カイザーは奥歯でも痛むような表情を浮かべていた。
「……世一。俺と彼女をお前の家に招待しろ」
「――は?」
「ホームパーティーだ。そこで米を振るまえ」
「――はぁ?」
――突然何を言い出すんだこいつは。
潔世一は、ミヒャエル・カイザーが言い出したことの意味がわからなかった。
「お前に彼女を会わせるのはクソほど嫌だが、背に腹は変えられない」
「俺だってお前をうちに呼ぶのは嫌だっつーの! てゆーかなんでそんな話になるんだよ」
「日本人のオトモダチがいれば、ホームシックは改善されるんだろう」
「おい、まさか俺に友達になれってのか」
「それこそまさかだ。天と地がひっくり返ってもありえない。あいつとお前を親しい関係にさせるわけがないだろう。同郷の人間と話すことで、気を紛らわせられれば十分だ」
「んだよそれ、めちゃくちゃだな……」
正直に言うならばお断りだった。因縁がある相手を自宅に招くなど嫌に決まっている。潔とカイザーはチームメイトであっても、友人ではないのだ。
ただ、そのチームメイトの思い人のことを考えると、断るのも良心が咎めそうだった。同じ日本人であるという共通点と、外国暮らしの苦労を知っていることが、少しくらいならなにかしてやりたいという気持ちにさせるのだ。
「……わかったよ。お望み通りホームパーティー開いてやる。ただ勘違いすんなよ。お前のためじゃないからな、お前のコイビトさんのためだかんな」
「ハッ、余計なお世話だ。あいつのために何かをしてやるのは俺だ。俺だけが、あいつのことを考えていい。いいか世一、お前はただの舞台装置でしかない。舞台装置は舞台装置として自分の立場と役割を弁えろ」
そう釘を刺すカイザーの表情は、試合の時に見せるものと似ていた。つまり、本気で言っているのだ。
「もうそーゆーことでいーですよ……」
潔は疲れたようにため息をついて、なるようになれとすべてを受け入れることにした。カイザーは解決に一歩近づくことができたためか、満足そうに口角を上げてスマートフォンをいじっている。相談を持ちかけた時とは打って変わって、機嫌の良さそうな横顔だった。
客観的に見ても整った顔立ちに、疑いようのないサッカーの才能。天から与えられたような生来のそれらを、すべて台無しにするような最悪の性格。それが、潔世一から見たミヒャエル・カイザーだ。
そんな男にここまでのことを言わせ、行動させる恋人の姿を、潔は想像することができなかった。
◆ ◆
インターフォンのチャイムが鳴ったのは、約束の時間ちょうどだった。玄関のドアを開けて出迎えると、ジーンズにジャケットという格好のカイザーが立っていた。シンプルなスマートカジュアルだというのに、様になっているのが憎らしい。
「やあ世一。今日はホームパーティーへの招待ありがとう」
カイザーは挨拶もスマートに、にこりと微笑んだ。潔はその爽やかな笑みを前に、とてもよく似た別人が来たのではないかと疑ってしまった。雰囲気も口調も、潔が知るものではない。
あっけに取られて扉を開いたままの姿で固まっていると、カイザーが隣を示すように手を動かした。そこでようやく、本日の主役とも言える連れ合いがいることを思い出した。
「俺の恋人の桑染園希だ。園希。彼がチームメイトの――園希」
「――えっ」
カイザーによる紹介は、切断するように途中で止められてしまった。紹介された恋人――桑染園希が、濃褐色の目に涙をたたえて泣き出すのを堪えていたからだ。
「え――え?」
「どうした園希。なぜそんな顔をしているんだ」
驚いたのは潔だけではなかった。カイザーは潔から恋人の姿を隠すようにして、気遣わしげに声をかけている。
紹介されそびれた潔が困惑と動揺に包まれながらその様子を見守っていると、
「ごはんが、炊ける、においがぁ……」
ぐずぐずに湿った声が、そう答えた。
「――ご飯?」
「――ああ」
その言葉に、潔の困惑と動揺が納得へと変化する。彼女は、玄関先まで漂ってくる米が炊ける匂いに涙を浮かべているのだ。
「ちょうどご飯が炊けるところだから、匂いでわかりますよね。――えっと、桑染さん。初めまして、潔世一です。挨拶もそこそこになっちゃいましたけど、こんなところで立ち話もなんなので中、どうぞ」
本日のホストである潔は玄関の扉を大きく開ける。戸惑いと心配を混ぜたような複雑な表情をする皇帝と、ぽろぽろとこぼれる涙をハンカチで拭うその恋人は促されるまま玄関の内へと入った。
「お見苦しいところを見せて、すみませんでした……」
グラスに注いだミネラルウォーターを半分ほど飲み干して、桑染がようやく口を開いた。涙で湿っていた声も、少しばかり乾いている。
「えっと、改めまして、桑染園希です。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
テーブルに座ったまま、桑染が仕切り直すようにぺこりと会釈する。申し訳なさと恥ずかしさが合わさった、弱々しい声だった。
「これは手土産だ」
続いて、カイザーが手にした小さな紙袋を差し出す。
「つまらないものですが……」
「俺と園希の二人からだ」
「気ぃ遣わなくてもよかったのに。でもわざわざサンキュー、いただきます」
紙袋を受け取って、ダイニングテーブルの端に避けておく。桑染の日本人らしい決まり文句が、やけに新鮮で懐かしい感じがした。
黒髪に、同じような濃い色の瞳。欧米人に比べると彫りの浅い桑染の顔は、典型的な日本人のものだった。カイザーは本当に日本人と付き合っているのだと、ようやく信じられた気がした。
「落ち着いたか?」
穏やかな声で、カイザーが尋ねる。それに桑染は小鳥のような仕草でうなずいた。
「うん……ありがとう、ミヒャ。潔さんも、本当にすみませんでした……」
「いや――」
「気にしなくていい。それより本当に無理をしていないだろうな。園希は我慢しすぎるからな」
潔の返事を奪うようにして、カイザーが隣に座る恋人の顔を覗き込む。その声色は普段からは想像できないほど甘いものだった。
桑染が泣き出すのはカイザーも予想していなかったらしく、彼女が泣き止むまでそれはもう甲斐甲斐しく声をかけ続けていたのだ。
肩を抱き寄せ、涙を拭いてやり、やさしくなだめる。献身的とも言えるその態度は、潔の目から見ると気色が悪いほどだった。
二重人格、猫被り――詐欺。どうしても、そういった言葉が頭に浮かんでしまう。それくらい、カイザーの態度は潔が知る姿とは別人のものだった。
「本当に、もう大丈夫だよ」
「それならいいんだ。さあ笑って見せてくれ、俺のかわいいすずめちゃん」
恋人に向かって「涙は似合わない」なんてキザったらしいセリフを現実で言うやつがいるとは思わなかった。しかもこれがまた演技のようには見えないのだ。本心から口にしていると思うと、潔は砂糖の塊を吐きそうだった。
ホームシックの相談をされた時、恋人を大事にしているのだなとは思った。しかし、実際の二人を見てみるとそれは想像を遥かに超えるものだった。ここまでくると溺愛という言葉が浮かんでくる。カイザーのこんな姿など見たくなかったというのが、潔の本音だった。
「落ち着いたならよかったです。それで早速ですけど――食べますか?」
炊き上がった米は保温に移っている。炊飯器の方へ視線を向けると、桑染の視線もつられるようにそちらへ向けられた。
もう少し歓談でもして親睦を深めてから、とも考えたけれど、米が炊ける匂いで泣いてしまうほど限界が近いのであれば先に食事を済ませたほうがいいだろう。
案の定、桑染は恥ずかしそうにしながら「いただきたいです……」と素直に答えた。
「じゃあ用意するんで、ちょっと待っててくださいね」
「あ、手伝います……!」
「ありがとうございます、でもお客さんなんだから座っててください」
「でも……」
「ホストがこう言っているんだ、ゲストの俺たちは従おう」
――何がゲストの俺たち、だ。半ば強制的にホームパーティーを開催させておいて。
カイザーの言葉にはそう思ったものの、いかにも日本人的な気遣い、空気読みを備えていそうな彼女を考えるとちょうどいい言葉でもあった。桑染はカイザーと潔を見比べて「それなら……」と大人しく引っ込んだ。
しかし、あまりにすんなりとカイザーの声を聞き入れる姿を見ると、やはり騙されているのではと疑ってしまう。探るような眼を向けても、カイザーはしれっとしているし、桑染はどうかしたのか? というような表情をしている。
真偽の程はともかく、今はこっちか――。
詐欺の疑いを一旦保留にし、炊飯器に向き直る。
蓋を開けると、湯気と共に炊きたてのご飯の香りがダイニング中に広がった。ちらりとテーブルの方へ目を向けると、桑染がじっとこちらを見つめていた。待てをされた犬。そんなイメージが浮かぶ。お腹がぺこぺこの子供、というイメージも。
女性に対して失礼だとは思うものの、そういうものを想像させるには十分すぎるほどの期待に満ちた眼差しだった。
苦笑を隠して、しゃもじで炊き上がっている米に十字を入れてひっくり返す。米の一粒一粒をつぶさないように混ぜるのは、普段よりも丁寧に行う。あそこまで「食べたい」という顔をされたら、こちらもできるだけそれに答えたくなってしまうものだろう。
米をほぐすように混ぜ合わせ、茶碗によそう。どれくらい食べるのかわからないので、少なめに。スポーツをしている感じはしないし、女性だ。見た目以上に食べる可能性もあるけれど、様子を見て足りないようであればおかわりをよそえばいい。
「――お待たせしました」
箸置きに、揃えた箸を一膳。それからご飯茶碗によそった炊きたての白米を並べて差し出すと、桑染の目はもうそこに釘付けだった。やっぱり、待てをする犬や腹ぺこの子供を想像させる。
「お口に合うかわかりませんが……どうぞ召し上がれ」
飛びつくように手をつけると思ったけれど、実際はそうではなかった。桑染は緊張したような面持ちで顔を上げると、潔をしっかりと見つめ、ぺこりと頭を下げた。再び顔を上げたとき、唾を飲み込む喉の動きがはっきりと見えた。
「……いただきます」
静かにそう言って、桑染がご飯茶碗と箸を手に取る。どこか緊迫した空気の中、一口分救いとられた白米が、ぴかぴかに光っている。
潔とカイザーに見守られる中、桑染はぱくりと炊きたてのご飯を口に含んだ。一回、二回。噛み締めて味わうようにゆっくりと顎が上下し、三回目で、瞳から涙があふれだした。決壊、という言葉が最適なほどの勢いだった。すぐにハンカチを取り出したカイザーが、頬を濡らす涙を拭う。
「おい世一。園希を泣かせるな」
「え、これ俺のせい?」
切れ長の碧眼を冷たく光らせて、カイザーが潔を睨む。
「世一が振る舞った米を食べて泣いてるんだから、世一のせいだろう。不味かったか、園希。無理して食べる必要はないぞ」
「はぁ? いい炊き上がりだったっつーの。大体、食べてもないお前に味がわかるわけないだろ。ね、桑染さん、どう? おいしい?」
この号泣は、どちらかといえば「おいしくて泣いている」の方に決まっている。訪問時間に合わせて炊き上がるように、浸水の時間なども逆算して準備をしたのだ。
炊き上がった時の匂い、色、艶、水分量も不足はなかった。炊飯メニューや水の量を間違えたわけでもない。「泣くほど不味い」という失敗はありえない。悪くても「普通」に収まる範囲の出来だ。
「お、おいっ、しい、です……」
「ほら」
肯定の言葉を突きつけるようにして、カイザーへ得意顔を見せる。反面、カイザーはというとおいしくて涙する恋人の姿に戸惑っているようだった。普段は見られないその態度はめずらしい。おそらく、食事がおいしくて号泣する恋人の姿を見るのは、この青薔薇の皇帝も初めてなのだから。
「おいしいならよかった。人にご飯を振る舞うのなんて初めてだから、ちょっと緊張してたんだよね」
「いままでたべてきた、ごはんのなかでっ、いちばん、おいしいですっ……! わたし、おこめと、けっこんします……!」
桑染が泣きながらそう言った瞬間、カイザーの目つきが潔を射殺さんばかりに鋭くなった。目尻に引いた朱に縁取られた瞳が、怒り、苛立ち、不愉快――を煮詰めて出来上がった殺意――を帯びている。赤い炎より青い炎の方が温度が高いということを思い出させる、苛烈な色だった。これほどまであからさまな敵愾心は、青い監獄で張り合った時にも見たことがなかった。
もっとも、どれだけ睨まれようと米と張り合っている時点で恐くはない。潔にはむしろ笑えるくらいだった。対抗するべき相手は潔ではなく、日本産の米なのだ。
「そうだ、ご飯のお供もいりますか? ご飯が久しぶりみたいだから、シンプルにお米だけにしちゃったんですけど。海苔と、梅干しと、鮭フレークと、たくあんならありますよ。納豆はないですけど」
尋ねると、白米に箸を伸ばしかけていた彼女の手がぴたりと止まった。反対に、どうにか栓を閉めていた涙腺は再び緩んでいた。
「そこまでしてもらって、いいんですかぁ……」
「同じ日本人同士、これもなにかの縁ですし」
大袈裟な反応を見せる彼女に苦笑が漏れる。会って早々泣かれ、ろくに話すこともなく今に至っているけれど、ここまでの反応をされると人となりをよく知らなくても好ましく思える。もっとも、それを言葉にしようものなら彼女の恋人に何をされるかわかったものではないので、黙っておくのが賢明だが。
会話に入っていけないカイザーはというと、むっつりと黙ったまま、ホストを睨み続けている。潔はそれを無視して、冷蔵庫から取り出した海苔と梅干しと鮭フレークをテーブルの上に並べた。焼き海苔と、南高梅の梅干しに、瓶詰めの北海道産の鮭フレークだ。どれも通販で日本から購入したものである。
「好きなだけ使っていいですよ。ご飯もおかわりがあるんで、遠慮せずにいっぱい食べてください」
「あ、ありがとうございますぅ……」
目を潤ませる彼女に笑って、それからその隣で悪鬼のような顔をしている男に目を向ける。
「じゃ、俺たちも食べるか。カイザーは箸使えないよな。おにぎりにするか。準備するからちょっと待ってろ」
元々はランチパーティーである。炊きたて熱々のご飯を食べるのは彼女だけではない。一旦席から離れ、ボウルに白米を移す。小皿に水と塩、出来上がったおにぎりを乗せるための皿を用意。しっかりと両手を洗えば、準備は万端だ。
指先を小皿の水で湿らせ、ボウルからしゃもじでご飯をすくって手のひらの上にのせる。あいた方の手の指の腹に塩を軽くつけ、米がまとまるように軽く握って形を整える。
「あちち」
「おい待て、素手なのか」
カイザーが、あり得ないという顔で俺を見ていた。
「ちゃんと手は洗ったよ。それにおにぎりって言ったら手で握った方がおいしいだろ。……多分。気分的に。あ、もしかして手料理ダメなタイプだった?」
確かに衛生的にはラップや茶碗を使うのがいいだろう。でも「おにぎり」というならやっぱりこうではないだろうか。ドイツ人相手にこの感覚が通じるかどうかはわからないけれど。
「おにぎりが嫌だったら茶碗とスプーン用意してやるから、ちょっと待ってろ。先におにぎり終わらせるから」
桑染のために出していたご飯のお供から焼き海苔を一枚取り、手の中のおにぎりに貼り付ける。これで塩むすびの完成だった。
同じ手順で、今度は米を握る前に鮭フレークを乗せる。米で鮭フレークを包むようにして三角形に形を整えて海苔を貼れば、次に出来上がるのは鮭おにぎりだ。
「梅干しは酸っぱいし、お前のご飯のお供は鮭フレークか海苔がいいかもな。でも外国人からしたら海苔もあんまりおいしそうには見えないんだっけ?」
梅干しを具にしたおにぎりを作りながらそう言うと、
「おにぎり、いいなぁ……」
いつの間にかご飯を完食していた桑染が、皿に並べられたおにぎりをじっと見つめながらそうつぶやいた。
「あ、おかわりこっちがいいですか?」
梅おにぎりを皿に置いて訊くと、桑染は遠慮がちに、でもこくりと頷いた。
「待て園希。それは世一が素手で触った米だ」
「うん。だっておにぎりだし……?」
止めに入ったカイザーに、桑染はそれがどうかしたのか、というような返事をする。素手で触れられた料理に抵抗を感じないどころか、理解を示すような反応にカイザーは戸惑ったようで、続く言葉を失っていた。
「だから、おにぎりはそういうもんなんだって」
文化の違いはなかなか理解できないだろうし、二対一の分、カイザーの戸惑いは大きいだろうけれど。
「桑染さんは、遠慮せずおかわりどーぞ」
「ありがとうございます……! いただきます!」
感無量、というような弾んだ声からは、もう湿っぽさは感じられなかった。最初の一杯がよく効いたらしい。
ところが、
「――待つんだ園希、その棒は使わないのか」
伸ばした桑染の手とおにぎりの間に割り込むように、カイザーが声を発した。
「棒? お箸のこと? せっかくのおにぎりだし、海苔も巻いてあるから手でいいかなって」
「そんなに素手が気になんの? 別に潔癖じゃないだろ」
度合いにもよるのだろうけれど、潔癖症だったら他人との接触が多いサッカーなんてできないだろう。第一、初対面で断りもなく人の顎を掴んできたやつが潔癖なわけがない。
「そうじゃない。そうじゃないが……」
歯切れの悪いカイザーは何か言いたげだったけれど、結局おかわりを心待ちにしている恋人に折れたようだった。「いや、いい、それが日本の作法なんだろう」と言うと、肩を竦めて椅子の背もたれに身体を預けた。
途端に桑染はぱっと表情を明るくし、皿の上のおにぎりに手を伸ばした。選んだのは鮭フレークだった。
「……ん〜!」
両手でおにぎりを手にし、口を大きく開く。予想以上に豪快にかぶりついた彼女は、頬をぱんぱんに膨らませた状態で唸り声をあげた。至上の幸福、と言うような声色だった。
「……そんなにうまいのか、米は」
恍惚さえにじんでいるような彼女を見て、カイザーは低い声で潔に尋ねた。これまでの様子を見ていれば、もうわかる。カイザーはおそらく、彼女をここまで喜ばせる米に対して嫉妬のようなものを持ち始めている。
「どうだろうなぁ。日本人の俺はうまいと思うけど、お前はドイツ人だし」
――ただ、少なくともお前の恋人は泣くほどおいしいと思っている。
においをかいだだけで泣き、一口食べれば号泣するほどには、彼女にとって懐かしい味なのは間違いない。
米に対して対抗心を持つようなやつにそんなことを言うのは、ガソリンを撒くようで口には出せな買ったが。
海苔を貼ったおにぎりを皿の上に乗せてちらりとカイザーの様子をうかがうと、仇を前にしているような目つきで皿の上を見ていた。到底料理に向けるような視線ではないのがおもしろくてたまらない。
「カイザーの分は今お茶碗によそってやるから」
「……いや、不要だ」
潔が腰を上げかけると、カイザーは腹を括ったような覚悟を決めたような、これから殴り込むような、そういった声音でそれを断った。
短く切って整えられた爪が並ぶ長い指が、皿の上の三角形に向かって伸ばされる。ミヒャエル・カイザーは、素手でおにぎりを食べると決断したらしい。
「あ、ミヒャ、おにぎりを食べる時はね、海苔の部分を持つといいよ。お米のほうを持っちゃうと、手にご飯粒ついちゃうから」
「海苔? この黒いシートのことか」
「あはは、シートって。でもそっか、海苔食べたことないんだ。そう、その黒いシートが海苔って言うの。ミヒャには見慣れないと思うけど、ご飯とよく合うんだよ」
横からアドバイスを挟んだ桑染が、皿の上のおにぎりを手にして「こう持つの」と見本を見せてやる。カイザーはそれを真似るようにして、両手でおにぎりを手に取った。
潔の目から見れば、傲慢、不遜、自信家のミヒャエル・カイザーが両手でおにぎりを持つ姿は滑稽だった。けれど、恋人のアドバイスに素直に従うその姿は、こいつにも案外かわいいところがあるんだなと思わせる部分がある。
桑染はそんなカイザーの姿に笑顔を見せて、ぱくりとおにぎりを口にした。さっき見せた豪快なほどの大きな一口とは違って、今度は普通の一口だった。
場で唯一のドイツ人であるカイザーは、潔と桑染の日本人二人に注目される中、恋人が実践して見せたようにして手にしたおにぎりを口元へ運んだ。
「……どうよ」
「おいしい?」
喉仏が上下するの見届けてから二人が尋ねると、
「……確かに、ミルヒライスとは別物だな」
そうカイザーは答えた。
「米は少し甘味があるのか? 塩気とのバランスは悪くないな」
「うまいなら、素直にうまいって言えよ」
「ミヒャが日本のお米を気に入ってくれたなら、うれしいな」
カイザーとは真逆の、素直な恋人はニコニコと笑っている。
「園希の故郷のスタンダードな食材なんだろう。俺には馴染みがないが、園希が好きなものなら俺も好きになりたいと思っている」
ミヒャエル・カイザーの口から出たとは思えない言葉に、潔は桑染園希という恋人を前にしたこいつは自分が知るそいつとは別人だ、と考えることにした。
違う人間とでも考えなければ、ひどい違和感に脳が停止しそうになる。潔の中のカイザー像は、他人にここまで共感や同調を示すような人間ではないのだ。
「ありがとう、でも口に合わなかったら無理しなくてもいいからね。苦手なものを我慢してまで食べてほしくはないから。食事は楽しくおいしく! が一番だよ」
――まるで別人、なのは、この桑染園希もそうだ。
食卓を明るくするような笑顔を浮かべる彼女を見て、潔はそう思った。今の桑染からは、もはやホームシックによる涙の気配は微塵も感じられなかった。玄関先でのファーストコンタクトも、最初の一杯のご飯を提供したときの涙も、この綻んだ表情からは想像できない。
素直で明るく、他者の気遣いができる。恐らくそれが彼女の本来の性質なのだろう。センシティブな状態の方が例外だとすれば、カイザーも気に掛けるはずだ。
「……お前って、本当に彼女のことが好きなんだな」
「えっ」
急に話題に取り上げられ、桑染が驚いたように短く小さな声を出した。
「わざわざ言うまでもないことだな。当然だろう」
「えっ、えっ――み、ミヒャ?」
「まあ、そうでもなきゃ俺にホームパーティーを開催しろなんて言わないよな」
「おい世一」
それ以上は言うな、とばかりに威圧的な視線を向けられる。
溺愛、偏愛、寵愛というような言葉が合う態度と発言を見ていればわかる。この男は完璧な恋人を演じている。このホームパーティーが開かれた理由を本人には伝えていないのだろう。
言葉と態度で気遣い気配り愛情を示した上で、それ以外はあくまでスマートに進める。そういう接し方をしてきていることは、見ていればわかる。それなら、この食事会も桑染のホームシックとは無関係を装って伝えているはずだ。背景をバラされたくはないのだろう。
「それより『食事は楽しくおいしく』だ、世一。ホストだからと遠慮する必要はない。ホームパーティーは参加者全員で作り上げるものだからな」
「――あ、そ、そうだ! 私ばっかりご馳走になっていっぱい食べちゃってた……! すみません、潔さん……。久しぶりのお米が本当に本当においしくって……初めて会う人の前なのに、がっついちゃってはずかしいな」
縮こまって、照れたようにはにかむ姿は好ましかった。飾ろうとせず、変にすれたりしていない等身大の姿は、その人の美点になる。カイザーが彼女を溺愛する理由の中には、こういうところも含まれているのだろうなと思わせる。
「桑染さんて、ほんとカイザーにはもったいない人ですね」
「えっ」
「おいおい世一、園希を口説いているのか? だが残念だったなぁ、園希はすでに俺の恋人だ。諦めろ。第一世一には不釣り合いだ。勝ち目がゼロのな勝負に挑むのは利口とは言えないな」
「そういうつもりで言ったんじゃねーよ! 言いたい放題言いやがって。いい人ですね、って言いたかったんだよ俺は」
俺への態度は相変わらずである。呆れるほどの二面性だ。いつか恋人の前でボロが出ないといいが、いっそボロが出てしまえとも念じてしまう。
「潔さんの方がいい人ですよ……! 実は、ミヒャから潔さんのことはあまり聞いたことがなかったので、どんな人なのかなって思ってたんですけど……本当に、やさしい人でよかったです。ありがとうございます!」
「はは……そこまで言われると照れるなぁ。こちらこそ、ありがとうございます」
まるで張り合うかのように桑染が潔を褒める。裏表もお世辞もない率直な言葉に、今度は潔がはにかむ番だった。
そんな二人に、カイザーは穏やかな微笑を浮かべた。しかし潔はその顔から冷ややかなものを敏感に感じ取り、話題を変えるように「そうだ」と思いついたような声を上げた。
「米もう一回炊いて、お土産に持って帰ります?」
我ながら、話題変更としても提案としてもいい考えだと思った。けれど、桑染は両手のひらを向けて首をぶんぶんと横に振った。
「そんな! 悪いです……!」
「でも、こっちで日本米を食べる機会ってほとんどないんじゃないですか?」
「それは……そうですけど……」
一度ミルヒライスに挑戦した話は聞いている。それを米の代用にできなかったらしいことも。今日の喜びようを見た限りでは、彼女は日本米を食べられる機会が多い方いい。
「二人からのお土産、あれチョコレートでしょ? お茶でも飲みながらご飯が炊けるのを待てばすぐですよ。浸水と炊飯、合わせても二時間くらいだし。それに実は……うちには緑茶があります。フレーバーじゃなくて、純粋な緑茶が」
重大情報を打ち明けるように告げると、桑染の目がまん丸に見開かれた。こぼれ落ちそうな瞳が、隠しようもなくきらめく。
「純粋緑茶……!」
「チョコと合うかはわかんないですけどね。一応紅茶もありますし、緑茶は緑茶で飲んだらいいですよ」
和菓子があれば(特にきんつば)最高なのだが、そこまでの贅沢は言えない。それにカイザーの口に緑茶が合うかもわからない。紅茶と緑茶、両方用意すればチョコレートをお茶請けにしても問題はないだろう。
「で、でも、白米だけじゃなくて、緑茶までいただくなんて、そんな……」
しかし、そういう桑染の声は明らかに「緑茶を飲みたい」という顔をしている。口では慎んでいるけれど、表情はかなり我慢をしているものだ。誰がどう見ても、節度を気にしている。にじみ出るどころか丸見えの、日本文化への飢えに笑ってしまいそうだった。
「ほんと、遠慮とかいらないですって。俺にも日本の料理とか飲み物が恋しい気持ちわかるんで。日本米もそうだけど、こっちで緑茶はなかなか飲めないでしょ」
紅茶ならばどこのスーパーマーケットでも買うことができる。けれど、緑茶となるとそうもいかない。ドイツで販売されている緑茶はレモンやバニラといった香り付きが多いのだ。ノーマルの緑茶を見かけることは少ない。紅茶と違い、手に入れにくいものなのだ。
飲みたい気持ちと遠慮のはざまでぐらついている桑染は、眉間にシワを寄せて悩ましげに唸っている。あと一押しがあれば、きっと誘惑に負けるだろう。
「……緑茶というのは、紅茶とは違うのか」
そんな彼女の遠慮を潰しにかかったのは、案の定ミヒャエル・カイザーだった。
「えっと、日本では定番のお茶……かな? こっちでの紅茶の位置づけに近いかも? でも紅茶より苦くって、甘いものを食べたりしながら飲むの」
「そうか。――世一。俺は緑茶を飲んだことがない。せっかくだ、緑茶という日本のお茶の味見がしてみたい」
「オッケーオッケー。カイザーもそう言ってるし、桑染さんもいいですよね」
「うぅ……。ミヒャもそう言うなら、お言葉に甘えて、いただきます。でも本当に、本当に何から何までありがとうございます潔さん。今度また、改めてお礼をさせてください……!」
「はは。ほんと気ぃ遣わなくていーんですけどね」
律儀な桑染に笑って返しながら、さすが完璧な恋人として振る舞っている男だ、とカイザーに感心してしまった。今のカイザーは、遠慮がちな恋人の願いを叶えるのが実に上手かった。自分の希望にすり替えてしまえば、彼女の申し訳なく思う気持ちが軽くなるとわかっていて話題を操作したのだ。
桑染が頑なに遠慮をすればカイザーの緑茶を飲んでみたいという希望は叶えられなくなるし、場の空気も悪くなる。そんな彼女の考え、行動も計算した上での誘導である。策士、という言葉が頭に浮かぶ。
「じゃ、食後は緑茶でゆっくりということで。二人もおにぎり好きなだけどーぞ」
話がまとまったところで食事に戻す。「これは……魚か?」とおにぎりの具について尋ねるカイザーに、桑染が「そう! 鮭だよ。おいしいよねえ」と笑顔で答えている。
「園希はどのおにぎりが一番好きなんだ」
「具? うーん悩むなあ……」
あれもこれもおいしい、と手振りを加えながら挙げていく桑染を見るカイザーの目元は、信じがたいほどに柔らかい。
――ミヒャエル・カイザーは、恋人に対しては溶かした砂糖以上に甘い。それはもう疑いようもない事実である。
そんなことを考えながら、潔もおにぎりへ手を伸ばした。
「今日はホームパーティーにご招待していただいて、本当にありがとうございました!」
玄関先でぺこりとお辞儀をし、桑染は顔を上げた。
「ご飯もとってもおいしかったし、本当に今日は楽しかった! お土産におにぎりもいっぱいもらっちゃって……絶対に、今度お礼させてね」
紙袋に入れて持たせたおにぎりを大事そうに抱え、ホームシックを患っていたはずの日本人は意気込んでいる。潔はそんな桑染の隣に立つ男にちらりと視線を向けて、
「や、本当気にしなくていいんだって」
とやんわりとその申し出を断った。
ミヒャエル・カイザーの「恋人のホームシック解消作戦」は大成功に終わった。米が炊ける匂いで泣く、というところから始まったホームパーティーだったものの、桑染は最終的には振り撒くように笑顔を見せていた。
――つまり、大成功し過ぎたのである。
潔と桑染は同じ国、同じ文化で育った日本人だ。外国の異文化あるあるで大いに盛り上がり、慣れない土地での生活の大変さを分かち合った。
言葉から始まり、気候、食事。生活環境に、価値観の違い。話が尽きないほど、二人には共感できる苦労があった。
さらに年齢が同じということも発覚し、話すうちに互いの口調も自然と砕けたものへと移っていった。それは二人が親しくなっている証明でもあり、帰宅の時間が迫る頃には友人と言えるほどの仲になっていた。
そして、桑染の後ろに控える男が潔に対して不機嫌な視線を投げ続けているのは、まさにそれが原因だった。
日本とドイツの違いで盛り上がる日本人たちの話に、その場唯一のドイツ人が混ざれなかったわけではない。むしろ、積極的に日本について尋ね、ドイツの文化を説明し、話題を盛り上げ維持し加速させていた。
それだというのに恋人の目を盗んで潔を睨みつけているのは、二人が親しくなったことが気に入らないからなのだ。
カイザーからしてみれば、この食事会はあくまで恋人のホームシックの解消が目的である。久しぶりに日本の食事をさせ、同郷の潔相手に少し話をさせて鬱憤を解消させる。当初の計画ではそれだけのつもりで、それだけで十分だったのだ。
けれど、その算段は大きく崩れたのである。恋人と潔世一はカイザーの予想を大きく上回って意気投合した。――してしまった。結果、桑染と潔の二人は友人と言えるほど親しくなった。
カイザーは、桑染には自分がいる、潔と親しい関係にさせるつもりはない、そうはっきり口にするほど彼女へ独占欲を持っている。この結果に納得がいくわけがないのだ。
――恋人の前では完璧な姿を見せるから、こうなるんだよ。威圧と牽制が込められたカイザーの視線に呆れながら、潔は内心で呆れていた。
一言「嫉妬するから仲良くしすぎないでほしい」とでも言っていれば、桑染ももう少し潔との距離を考えたはずだ。それを、まるで二人が親しくなると自分も嬉しいとばかりに盛り上げていれば、こういう結果にもなる。
たとえそれが彼女のことを思ってなのだとしても、結果が自分の意に沿わないものになれば世話がない。自分が撒いた種、自業自得とそう変わらない。潔からしてみれば、恨まれても困るという話だ。もっとも、潔の方も少し桑染との距離を詰めたすぎた部分があることは自覚してはいるのだが。
二人の考えなどまったく知る由もない桑染は、名残惜しそうな顔を友人へと向ける。
「でも潔くんには本当によくしてもらったから、やっぱりお礼させてほしいよ。――そうだ!」
閃きました、とばかりに、文字通り表情と声を明るくした桑染に、嫌な予感がした。それはカイザーも同じだったようで、何を言い出すのかと恋人の方へ目を向ける。
「ミヒャ、今度は潔くんをうちにお招きするのって、どうかな?」
悪い予感は見事的中した。潔とカイザーは一瞬視線を交わし合い、同じ結論――着地点を目指すことで意見が一致した。
「いや、二人のお邪魔はできないって。一緒に住んでるんでしょ」
「でも、潔くんとミヒャはチームメイトなんでしょ? 私も潔くんとお友達になれたと思ってるし、全然お邪魔とか思わないよ!」
カイザーが猫を被り続けたせいで、桑染はすっかり潔とカイザーはいい関係のチームメイトと思い込んでいる。その二人が「断固それだけは回避したい」と考えていることも知らずに。
「園希、世一にも予定や都合があるだろう? 今日の礼はするとして、二回目のホームパーティーについてはもう少し考えることにしよう」
「そっか、そうだよね、潔くんも忙しいよね……。うん、わかった」
残念そうではあるものの、桑染はカイザーの言葉に納得したように頷いた。素直さ、聞き分けの良さに助けられた形だった。ひとまずのところは二度目のホームパーティーを見送ることができて、潔は内心でほっと息をついた。
桑染園希という人間のことは好ましく思う。素直で屈託がなく、人好きのする性格をしている。けれど、彼女にはミヒャエル・カイザーという人間がついて回るのだ。
彼女とだけ友人関係を築くことは不可能だ。カイザーが、自分の知らないところや目の届かない場所で他の男と親しくすることを許すわけがない。桑染園希との付き合いは、問答無用でミヒャエル・カイザーがセットになる。それは、この数時間の食事会で見て取れるものだった。
けれど、桑染はそんなことには気が付かないらしい。名残惜しそうにありがとうと楽しかったを繰り返し、最後にこの日一番の明るい笑顔を見せた。
「今日は本当に、ありがとう! お邪魔しました、またね!」
何度も振り返って手を振る桑染と、速やかな帰宅を促すカイザーを見送る。笑顔で去る桑染は、数時間前に玄関先で出迎えた時とは別人だった。
「……やっぱ、ご飯は大事だよな」
二人の姿が見えなった頃、潔が一人つぶやく。
今日の桑染の姿を見れば、たかが米、とは言えなくなるはずだ。日本人にとって米がどれだけ重要なのかは、ドイツ人にもよくわかったことだろう。
持たせたおにぎりが、少しでも彼女のドイツ生活を楽しいものにしてくれればいい。新しい友人に向けて、潔はそう祈った。
◆ ◆
ミヒャエル・カイザーは、ダイニングテーブルで向かい合って座る恋人の様子を慎重に窺っていた。
いつも通りの夕食の時間のことだった。食事をしながら話す彼女の声が曇っているように感じられたのだ。
以前にも同じようなことがあった。その時と今回のシチュエーションはよく似ている。前回の彼女は「日本に帰りたい」と言い出した。言語や生活様式の違いなどを理由にして。
しかし、今回は前回と決定的に違う点がある。食卓には、茶碗に盛られた白米があるのだ。
彼女と同じ日本出身で、チームメイトでもある潔世一にホームパーティーを開催させ、そこで米を食べさせた。ホームシックの解消を目的としたその食事会は、カイザーが考える以上の――求める以上の――効果を出した。
満腹になるまでおにぎりを食べ、緑茶を飲み、同郷の潔と共通の話題で盛り上がり、帰る頃にはすっかり明るさを取り戻していた。たかが米と侮っていたが、炊ける匂いをかいだだけで泣き出し、一口食べて号泣する姿を見ればいやでも食事の影響力を知らされる。
お土産にと持たされた潔手製のおにぎりを冷凍し、大事に大事に少しずつ食べる姿は健気なもので、同時に激しく妬ましさを掻き立てるものだった。潔の作った料理をありがたがって食べる姿など、見たくもなかったのだ。
彼女の中から潔の存在を消したく思い、カイザーはすぐさま炊飯器と日本米を購入した。それを知った園希は申し訳なさそうに眉尻を下げたが、炊飯器と白米を前にすると大いに喜んだ。「ありがとうミヒャ、とってもうれしい」と笑った時の顔もよく覚えている。
それからは、毎食ではないものの白米を食べるようになり、彼女の顔に翳りが差すことはなくなっていた。
潔世一と親しくなるという望まぬ成果まで得ることにはなったものの、食事の内容を日本のものに寄せることでホームシックは解消されたはずだった。
けれど、カイザーの予感は的中した。彼女はメイン料理の鶏ささ身のグリルに少し手をつけたところで静かにフォークを置いた。
カイザーは手にしていたフォークを同じように置いて食事を中断すると、無垢材のテーブルを回り込んで彼女の隣の椅子に腰をおろした。膝に置かれた手をそっと握り、陰った横顔を覗き込む。
「俺の愛しいすずめちゃん。一体どうしたんだ、かわいい顔が曇っているぞ」
うつむき加減の恋人は、じっと黙ってテーブルの上の料理を見つめている。その横顔を見つめながら、カイザーは彼女の口から出てくる可能性のある言葉を予想する。
食事の問題はある程度解決できたはずである。生活面でも、少なくとも金銭での不自由はさせていない。もっとも、欲があまりないのか、物品などをねだられること自体少ないのだが。カイザーとしてはもう少し要求してくれてもいいと思っているくらいである。
――となると、人間関係か。
忌々しい気持ちを押し込めながら、チームメイトの日本人を思い浮かべる。
故郷を離れて寂しいのかと、気を紛らわせるための相手にさせた男と、恋人は会ったその日で意気投合した。親しくさせるつもりはなかったというのに、いつになく楽しそうに話す姿を見ていると、どれほど憎らしく思っても止めることはできなかった。
その結果、すっかり潔になついた園希はカイザーに友人の様子を尋ねてくるのだ。他の男の名前が出てくるだけで、カイザーの腹の底がぐらぐらと煮えたぎることに気づきもせず。
抱えた執着、嫉妬を隠しているのだから知るよしはないとはいえ、他意がないのがたちが悪い。園希はただ、親しくなったばかりの友人の話が聞きたいだけなのだ。
――自分が籠の中にいることに気がつかないように。籠から出たいと言い出さないように。
そう考えて執った行動は、籠の中の鳥に仲間がいることを教えることになってしまった。少しでも外を見せてしまったその出来事は、園希と恋仲になってからこれまでの行動の中で、唯一と言える失敗だった。
それでも、カイザーには恋人を手放す気はない。自分だけがいればいいという考えに変化もない。ミヒャエル・カイザーという鳥籠の中で一生を終えればいいと思っているし、そうさせるつもりでもある。
けれど、耳に心地よいさえずりが聞こえなくなるのは本意ではない。自由を奪うことは簡単だ。反面、そうすることで失われたものを取り戻すのは難しい。信用や信頼、好意――愛情――は、損ねると挽回にそれまで以上のものを要する。二度と出られないように閉じ込めるかは、慎重に判断する必要があるのだ。
妥協点としては、潔を招いたホームパーティーの開催である。潔世一であればまだ目が届く。どこぞのコミュニティに所属されるくらいならば、管理が利く相手と交友させたほうがよほどマシである。
友人が増えれば把握できなくなる。それに伴い行動範囲が広がれば、さらに目が行き届かなくなる。それらの不都合を考慮すれば、牽制ができる分潔はまだ都合がいいとも言える。
――連絡先を交換するところまでは、許容しなければならないかもしれないな。
カイザーは表情には出さず、内心で吐き捨てるような気持ちでそう結論を出した。
とても納得したわけではないけれど、ここは友人一人だけで手元に留めて置けるのであれば安いと考えるべきだろう。
それに、桑染園希は嘘がつけない女である。万が一潔へ心変わりをしても、すぐに気が付く。もっとも、その時はあらゆる手を使って捕まえ、縛り、二度と外には出してやれないが。
そんなことを考えていると、
「――お味噌汁が、飲みたい……」
か細い声で、園希がつぶやいた。
「……は?」
てっきり、寂しいだとか、潔に会いたいだとか、そんなことを言われると予想していたカイザーは、ぽかんとした相槌を返すことしかできなかった。
――オミソシルが、飲みたい――?
「すまし汁でも、いいの……お出汁が、お出汁がなつかしくて……」
「スマシジル? オダシ?」
何を言っているんだ、と戸惑うカイザーをよそに、園希は「お豆腐……わかめ……ネギ……」と食材を挙げていく。
呪文のような言葉を聞きながら、カイザーは再び脳裏にチームメイトの顔を思い浮かべた。業腹ではあるけれど、自分ではこの状態の恋人をどうにかすることはできないと察したからだ。――桑染園希、二度目のホームシックだった。
そして、ミヒャエル・カイザーは日本人の食への執着の強さを知ることになる。
購入した炊飯器に白米。それに続いて、冷蔵庫には味噌と鰹節が常備されることになるのであった。
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