「好き」
子供みたいな顔で喜んでいるトレーナーへと、ぽろりと言葉が落ちていた。あ、と思った時には、彼女の笑顔がぽかんとした表情へと変わっていた。その顔を見て、隙だらけでかわいいな、と思った。大人でもこんな表情をするんだ。
でも、その初めて見た表情はすぐにいつもの顔に戻ってしまった。
「凪でも、やっぱり勝つとうれしいんだね」
「……え?」
「え?」
トレーナーが、俺を見上げながらぱちぱちと瞬きをする。二人の間で話が噛み合っていないのは明らかだった。
「なんの話してるの?」
「勝つのが好きって話でしょ?」
「全然違うし……」
肩透かしをくらった気分で否定すると、トレーナーの表情が戸惑ったものへと変わった。
たしかにミニゲームに勝ったばかりではある。前日に考えていたやり方を試して、それが上手くいった実感もある。サッカー歴半年の俺と、サッカー知識のない社会人トレーナーのコンビにしてはよくやっている方だろう。でも、そういうことを言っているんじゃない。
「そうじゃなくて、君のことが好き、って話」
面倒くさく思いながらも訂正すると、トレーナーはまた目をしばたたかせた。それからにっこりと笑って——。
「ありがとう」
と答えた。
さっき見せた無邪気な笑い顔とは違う。社交辞令的なその表情を見た瞬間、俺はこれ以上ないほどがっかりしてしまった。
俺が言ってることが、ちっとも伝わっていない。自分の意思とは関係なくこぼれ出たような言葉だったけど、こうも思うように受け取ってもらえないと、わかってもらおうとする気もなくなってしまう。
「もーいいや……今日の練習は終わり。萎えたー」
「あ、ちょっ凪……!」
引き止めるトレーナーに手を振って、練習場を後にする。午後のスケジュールはミニゲームとその結果の分析の予定だったけれど、勝てたのだし分析は明日でもいいだろう。
今日はもう、部屋に戻って寝る。勝てたうれしさがなかったわけではないのに、すっかり気を削がれてしまった。もっと気分よく終えられそうな気がしたのに。
「……はあ……。めんどくさ……」
無気力につぶやいた声は多分、トレーナーの耳には届かなかった。
◆ ◆
「おはよー……」
「おはよう。体調はどう? よく眠れた?」
のろのろと練習場に顔を出すと、既にいたトレーナーがタブレットに落としていた視線を俺へと向けた。にこりと笑った顔は、これまでのものと変わらなかった。
「まあまあ、かな」
「調子が悪くないならよかったよ。昨日は練習を途中で切り上げちゃったから。それで早速なんだけど、ミニゲームのフィードバックをしてもいいかな?」
「うん」
「まず、私たちが考えていた作戦が——」
手にしたタブレットの画面を俺に向けるようにして、トレーナーが隣に身を寄せる。その距離感も、昨日と何も変わりがない。液晶画面に表示されたデータをスクロールする彼女の頭のつむじを見て、その無防備さを好きだな、と思った。
昨日の反応を見て、がっかりして面倒くさくなって、一日寝たらもう彼女のことを好きじゃなくなっていると思った。でも、そんなことはなかった。やっぱり、好きだな、と思う。
「——という風に私は考えているんだけど、凪はどう思う?」
データを示しながら一通り話したトレーナーが、不意に顔を上げる。その表情からは、俺のことを意識している様子はまったく窺えなかった。
「うん、大体同じ意見」
「了解。じゃあ、これを踏まえて組み直した練習メニューを確認してもらえる?」
もう一度タブレットに目を落としたトレーナーが、画面を切り替える。接し方にも声音にも変化は見られなく、昨日のやりとり自体ががなかったかのように思える。どう考えても、俺が言ったことをまじめに受け取ってはいない。思わず漏れた言葉だったから、自分でもまじめに言ったとは思ってないけれど、それでもこの態度には面倒くさくなってしまう。
「——という感じなんだけど、どうかな?」
「……めんどくさ」
つぶやくと、トレーナーが困ったように眉尻を下げた。返答は練習に対するものだけじゃなかったけれど、もう一つの意味はどうせ伝わっていないのだろう。
「そんなこと言わずに、さ。ここまでやって来たんだし、凪ならもっともっと出来るよ」
励ますように、トレーナーが言う。その目は真っ直ぐに俺を見ていて、やる気を出させるためのおだてではなく、本心からなのがわかる。選手の成績が指導者の評価にも繋がるそうだけど、思えばこの人は最初から自分の実績や結果よりも俺のことを考えていた。玲王とはまた違う形で、俺のことを見ている。
「俺に、頑張ってほしいの?」
「うん。もちろん、凪が頑張りたいと思うのなら、だけど。私にできるのはあくまで凪のサポートで、強制はできないからね」
「じゃあ、今日のトレーニングが終わった後、俺の話聞いてくれる」
「それで凪がやる気を出してくれるなら」
トレーナーは、即答で頷いた。面倒くさい駆け引きを持ち出したつもりだったのに。俺が何の話をするのか、考えていないのだろうか。こっちとしては、好都合ではあるけれど。
「……約束だからね」
「うん。それじゃあ今日も、よろしくお願いします」
タブレットを胸に抱いたトレーナーが、ぺこりと頭を下げた。会った時から続いている、恒例の挨拶だ。
「……よろしくお願いしまーす」
俺もぺこっと首を倒し、面倒くさい気持ちに鞭打って青い芝の中に踏み込んだ。
蹴ったボールがゴールネットに吸い込まれたところで、高々とホイッスルが鳴り響いた。
「そこまで!」
すっかり聞き慣れた声が、鼓膜を揺らす。ミニゲームの相手は、悔しそうに顔を歪めてフィールドを後にした。俺はその場に寝転んで、両手足を投げ出す。高い天井のに並ぶ照明の眩しさに目を細めていると、そこに影が落ちた。逆光で翳りながらも、顔がうれしそうにほころんでいる。
「お疲れ様、凪」
「ほんとつかれたー、もう動けないー」
「その割に、余裕そうな感じだったけど」
「それでもつかれたー」
トレーナーが指摘した通り、午後の最後のミニゲームは簡単に勝ててしまった。四ゴール先取の1on1だったけれど、ストレート勝ちだった。
トレーナーが組んでくれた対戦相手の手応えがなかったのもあるけれど、試してみたアプローチが噛み合ったのもある。あっさりと練習メニューが終わってよかったけれど、そもそも練習自体が面倒くさくてつかれるのだ。
「あと一踏ん張りだよ。フィードバックしようか」
「……起こして、起きれないー」
出来心で駄々を捏ねてみたのは、どんな反応をするのかが知りたかったからだった。玲王なら起こしてくれるし、なんならおんぶで連れて行ってくれる。この人だったらどうするのだろう。
「しょうがないなあ……」
トレーナーは苦笑して、俺に右手を差し出した。その手を握ると「よいしょっ」という掛け声と共に腕を引っ張られた。——けれど、俺はびくともしなかった。
「んん〜……!」
唸りながら俺の腕を引くトレーナーの手にも顔にも、ぎゅっと力が入っている。
「え、本気で起こそうとしてこれ? 全力?」
「——はあ……。全力だよ……凪は体格がいいから、私じゃ起こせないみたい」
諦めたトレーナーが脱力する。力のゆるんだ手を掴んで離さないまま、もしこの手を逆に引っ張ったら彼女は倒れ込んでくるのだろうか、と思った。もう一方の手にはタブレットを持ったままだし、危ないから試せないけれど。
「悪いけど、自力で起きてくれる?」
「えー……しょうがないなあ」
トレーナーの言葉を真似して、渋々手を離して身体を起こす。人工芝に座り込むと、トレーナーも俺の向かいで膝をついた。
「まず、ミニゲームの勝利、おめでとう」
「相手弱かったんだけど」
「それはごめん。私のマッチミス。データを元に試合を組んでもらったんだけど、想定よりずっと凪が強かったみたい。本当に成長が著しいね」
「ありがと」
褒められるのは、悪い気はしない。彼女もうれしそうにしているし。練習は疲れるから、なるべくやりたくないのに変わりはないけれど。
「それで、本題は私たちが立てていたアプローチなんだけど——」
タブレットで簡易的に録画していた動画を、トレーナーが再生する。シークバーを進めて「ここの動きが」と説明する声に耳を傾ける。
「——で、上手く行ったから、明日のメニューを少し変えてもいいかな?」
一通り説明を終えたトレーナーの提案に頷く。特に異論はなかった。そういうことを考えるのが彼女の仕事なのだ。考えるのが面倒くさいとかではなく。
「いーよ。でも簡単なのにしてね」
「うーん、それは難しいかも。凪からは、何かある? 気づいたこととか、意見とか、なんでもいいよ」
苦笑して尋ねたトレーナーに「あるよ」と即座に答える。
「今日の練習が終わった後、俺の話聞いてって言ったでしょ」
「ああ、うん」
「好き。君のことが」
真っ直ぐに目を見て言うと、トレーナーが硬直したように動きを止めた。でもそれは一瞬のことで、彼女はすぐに笑顔を浮かべた。
「ありがとね」
取り繕ったような、余所余所しい顔だった。その表情を見れば、昨日と同じように受け流されたことはすぐにわかる。俺はそこまで鈍感じゃない。
「ねえ、俺が言ってる意味わかってるでしょ」
責めるような声音になってしまった。でも、彼女は明らかにとぼけている。
「意味って」
「君のことをレンアイ的な意味で好きってこと。本気にしてないでしょ」
問い詰めると、彼女はタブレットを両手で抱きしめて、それから観念したように答えた。
「だって、凪って恋愛とかそういうのを、それこそ面倒くさがるでしょう」
「めんどくさいかで言えば、めんどくさそうだなとは思うけど」
否定できないくらいには、自分の性格は自覚している。レンアイなんて、自分には縁がないものだと思っていた。今まで誰かをそういう風に好きになったことはなかったし、学校で耳にする恋バナというものも、他人事でしかなく興味も共感もなかった。
「ほら」
「でも、君のことが好きなのは本当。こんな嘘つく方がめんどくさいよ」
自分が誰かを好きなるイメージを持てなかったし、それで不都合することもなかった。でも、今は確かにこの人のことが好きなのだ。少なくとも好きだと思っていることに偽りはない。
「確かにそうだ、私が決めつけるのは違うね、そっか、うん、ありがとう」
半分自分と喋るように頷いた彼女が、にこりと笑う。コピペしたような、笑顔だった。
「……ねえ、そうやって『ありがとう』だけで有耶無耶にするつもりなの?」
ここまで言っても、流されるということは、やっぱりまじめに受け取る気がないのだろう。そう思うと、なんだか無力な気持ちになってくる。
それなのに、ちゃんと俺と向き合ってほしかった。彼女にそれを望むのはこの上なくめんどくさいことだろうなと、感じているのに。
「どうしたら、本気ってわかってくれるの」
「本気だったらわかるよ」
「じゃあわかるでしょ。俺本気だよ。君が好き」
芝生に手をついて迫ると、トレーナーは小さく肩を跳ね上げて少しだけ身を後ろに引いた。
「いやいやいや」
「何がいやいやいやなの」
「だって、それどころじゃないでしょう。何のために凪はここにいるの? 世界一のストライカーになるためなんでしょう」
「それはそうだけど、それとこれは関係ないでしょ」
日本サッカー界に世界一のストライカーを誕生させる。そんな目標を掲げるプロジェクトに参加はしている。でも、それがなんだというのだろう。ブルーロックでサッカーをすることと、この人のことを好きなことは両立するだろう。
「確かに凪には才能があるし、これからもっともっと伸びていくよ。だからこそ、今はサッカーに集中した方がいいんじゃないかなと私は思うんだ。恋愛とかそういうのは、ここを出てからだってできるし、遅くないよ」
選んで並べたような、言葉たちだった。それらしくて、いかにも大人が考えそうな理屈だ。言ってることがわからないわけではない。でも、丸め込んで方向を変えようとしているのが透けて見えている。
――それなのに。
「私は凪に結果を出してほしいんだ。本当に、世界一のストライカーになってほしいと思ってる。凪ならできるって、信じてもいる。だから、今はそういうのは置いておいて、目の前のことを考えようよ」
トレーナーが、俺の顔を真正面から見つめる。その瞳の真っ直ぐさからは、俺のことを考えてくれていることが伝わってくる。
――ああ、多分、この人の、こういうところが好きなのだ。なんとなくだけれど、今わかった気がする。
こんな風に俺に向き合う大人はいなかった。めんどくさがりの俺に付き合いきれなくなるのだ。最初こそ色々言ってきても、その内呆れて去って行く。
でも前の自分だったら気にもしなかった。こういう期待を面倒くさく感じてすらいた。なのに、どうしてしまったのだろう。ここでボールを蹴っているうちに、変わったのだろうか。玲王との約束もあるけれど、この人のこの眼差しに応えたい、と思ってしまう。
「……ひとまずわかったよ。けど、俺はやっぱり君のことが好きだからね」
折れる形で引き下がると、彼女は安心したように表情をゆるめた。
「じゃあ、今日はこの辺で終わろうか。クールダウンのストレッチはしっかりね」
「え、今日は付き合ってくれないの」
昨日は萎えてサボタージュをしたけれど、いつもなら俺がストレッチを終えるまで一緒にいてくれるのに。
「そうしたいのは山々なんだけど、明日以降のメニューをまた組み直そうと思うんだ」
「それなら、ここでやればいいじゃん」
「練習相手も探しておきたいんだ。今日のミニゲームは手応えがなかったでしょう。早めに声を掛けておかないと、相手にもスケジュールがあるから」
俺を避けるための口実なら、きっと態度や視線からわかる。でも、彼女は本当に仕事のこと——俺とのトレーニング——のことしか考えていない顔をしていた。それでも駄々をこねれば最後まで側にいてくれるだろうけれど、そんなことをするのも格好が悪いだろう。ただここにいて欲しいだけで、彼女の仕事の邪魔をしたいわけでもない。
「……わかった」
「ありがとう。あ、私が見ていないからって手を抜いちゃダメだよ、ストレッチは怪我の防止もあるから。じゃあ、また明日もよろしく。今日も一日お疲れ様でした」
トレーナーは立ち上がると、タブレット抱えてお辞儀をした。それから真っ直ぐ出入り口へ向かい、最後にこちらを振り返って小さく手を振る。片手を上げて応えると、笑顔を見せてから練習場を出て行った。
「……行っちゃった」
ポツリとつぶやいた言葉が、練習道具やボールの転がるトレーニングフィールドにすっと消える。
もう少し一緒にいたいと思うこの気持ちが「好き」じゃないなら、何を「好き」と言うのだろう。こんな風に思う人は、今までいなかった。
それなのに、教えてほしい人からは、答えを聞ける気がしなかった。
◆ ◆
トレーナーに「好き」とこぼしてから、数日が経っていた。俺もトレーナーも特に何も変わらず、走らされて、筋トレをさせられて、ボールを蹴って、フィードバックをもらって、の日々を送っている。
あきらめたとか、面倒くさくなったとか、そういうのではない。彼女を見ていると、やっぱり好きだなと思うのだ。
でも、彼女が俺のことを相手にしていないのも確かだった。
このまま有耶無耶にされて、終わるのかもしれない。態度も距離感も何も変わらないトレーナーを見ていると、そんな風に考えてしまう。
今の俺の評価について話すトレーナーの声をぼんやり聞きながら、タブレットを持つ手が小さいな、と思う。男だって大抵のやつは俺より小さいけれど、彼女はもっと小さい。
「——ここまでで、気になることとか質問とか、ある?」
つむじを見せていた彼女が、パッと顔を上げる。下から覗き込まれるような格好になり、俺は思わず「好き」と答えていた。
的外れな返事に、トレーナーが目を瞬かせる。でも彼女が驚いた顔を見せたのはほんの数秒で「ありがとう」と笑顔を見せた。いや、作った。何度か見ているから、わかる。この表情は「こういう顔をしよう」と意図して浮かべているものだ。この人が見せる本当の笑顔は、もっと自然でやわらかい。
不満を抱きながらじっと見つめていると「質問はない?」と話を元に戻される。
「……ない」
「わかった。じゃあ、午後は昨日と同じメニューをやっておいてくれる? 内容は覚えてるよね」
「覚えてるけど、何、午後いないの?」
まさかとは思うけれど、避けられているのかと勘繰ってしまう。そんな人ではないはずなのに。仕事には責任を持っているのが感じられるし、感情で態度を変えるような人ではないということは、この数日でよくわかっている。
「凪はすごく飲み込みがいいでしょう。成長速度も速い。やったことをやった分だけ吸収してる」
「それって、褒めてる?」
「褒めてるよ。すごいことだよ。他の選手はもう少し行き詰まったり、伸び悩んだりしてる」
「ふうん。ありがと」
褒められるのは、やっぱり普通にうれしい。面倒くさいことは多いけど、この人からだったらデイリーのノルマをこなした甲斐はあると思えるのだから不思議だった。
「それで、もう一人の選手を見ることになって」
「——は?」
でも、彼女が続けた言葉に、いつもより大きな声が口から飛び出していた。
「今、なんて言ったの」
「もう一人、選手を見ることになったんだ」
「俺以外のやつの面倒を見るの? どうして」
「面倒って……。その子のトレーナーが諸事情でちょっと不在になってね。でも練習メニューは作ってくれてあるし、私が対応するのはデータ分析とか共有とか、ちょっとした調整とかだよ。掛け持ちになるのは、あくまで一時的なもの。だから、私の担当は凪のままだよ」
安心させるかのように、彼女はそう説明した。でも、俺はちっとも納得できなかった。どうしてその代打が彼女なのだ。トレーナーなら他にもいる。彼女である必要はないはずだ。俺のトレーニングや成績が順調だからといって、彼女のリソースを他に使っていいということにはならないだろう。
不満が表情に出ていたのか、彼女が眉尻を下げて「ごめんね」と謝った。
「謝ってほしいわけじゃないんだけど」
「でも、凪にも相談して了承してもらうべきだった。私は凪の指導者なのにね……だから、やっぱりごめん」
弱ったように謝られると、これ以上は追求できなかった。いじめているみたいだし、彼女にこんな顔をさせたいわけじゃないのだ。
「……めんどくさ……。その掛け持ちは、どれくらいなの?」
「予定では一週間だよ」
精々二、三日程度だと思ったら、一週間もだった。でも、文句を言ったところで、彼女が他のやつを見ることは変えられないのだろう。この人が、一度請け負った仕事を降りるとは考えられない。
「……いいよ、わかった。でも、他のやつを構うのは最低限にしてね」
「構うって……。でも、ありがとう。凪のトレーナー業務はしっかりやるから」
表情を引き締めた彼女を見て、好きだな、と思う。でも、それとは別に、やっぱり納得いかない気持ちは消えなかった。
◆ ◆
あくびを噛み殺しながらトレーニングフィールドに到着すると、トレーナーはすでに居てタブレットに目を落としていた。まじめな横顔を見ながら近づくと、気がついたのか彼女がこちらに視線を向けた。
「凪」
俺を見上げて笑う顔を見て、好きだなと思った。それはそのまま口からこぼれ落ちて、彼女へ向けて「好き」と言っていた。
「ああ、うん、ありがとう。それからおはよう」
「……おはよ」
彼女は表情を少しだけ苦笑に変え、挨拶で上書きするように受け流してしまった。やっぱり、まじめに受け取っているようには思えない。
どうしたら、好きだと伝わるのだろうか。今はここで結果を出すことに集中しようという話はしたけれど、それでもやっぱりこうして好きだと思うのだ。このまま「好き」と言い続けても、のれんに腕押し、糠に釘が続くだけなのは明らかなのに。
でも、他にどうしたらいいというのだろう。今だって手応えがないのだ、彼女が「ありがとう」以外のことを返してくれる姿をイメージできない。
面倒くさく思っていると、彼女はそんな俺を置いて今日の一日のメニューの共有をし始めた。
「――桑染さん、すみません」
――そいつが現れたのは、午後の練習についての話に入ろうとしたところだった。別の棟にいるやつなのだろう、見慣れない顔だった。同じ棟だったとしても記憶に残らないような、パッとしない雰囲気のやつだった。
「佐藤くん」
目を丸くした彼女が、そいつの名前を呼んだ。俺の頬が、小さくぴくりと動いた。
「今ちょっといいですか」
「――凪、ごめん。ちょっと外すね。——どうしたの?」
俺に一言置いてから、彼女はそいつの方へ駆け寄った。じっと目で追って耳をそば立てていると、佐藤とかいうやつは「少し試したいことがあって」と相談をしているようだった。
その様子を見て、そいつが彼女が「諸事情」で掛け持ちしているやつなのだとわかった。確かに、一週間ほど他の選手を見るはと言っていた。でも、あくまで一時的なもので、俺のトレーナーのままだと言っていたのに。こうやって邪魔されるとは思わなかった。
「ううん……」
「お願いです、どうしても試してみたくて」
「でも、そのメニューは――」
聞こえてくる二人の会話の内容は、練習メニューの大幅な変更のようだった。無理を押しつけるそいつに向かって、臨時トレーナーである彼女は、難色を示している。
彼女が渋るのも当たり前だ、あくまで代打である彼女にそこまでの権限はないはずなのだから。ちょっとした調整のメニュー変更ならともかく、スケジュールまで変わるようなことは引き継ぎでも想定していないだろう。そんなこともわからず、無理を通そうとしているそいつに対して嫌な気分になる。鳩尾のあたりがずんと重くなり、だるい。――本当に面倒くさい。鬱陶しい。
「……ねえ、出来ないことは出来ないってはっきり言ったら?」
トレーナーの背後に立って口を挟むと、彼女がバッと俺の方を振り向いた。見上げる瞳の瞳孔が大きく開いているのがわかる。驚いたことがわかるその目を見て、うんざりした気持ちと同時に、好きだなと場違いなことも思った。
「あんたも、あんまり俺のトレーナー困らせないで。めんどくさい」
「凪」
「担当トレーナーが不在か何か知らないけど、練習メニューは残してるんでしょ。大人しくそれをやってればいいじゃん。この人はあくまで俺の担当なんだけど」
「――凪」
たしなめるように俺の名前を呼ぶ声を無視する。練習に割ってきたそいつは、気まずそうな顔をしながらも、立ち去る素振りは見せなかった。それがまた、面倒くささに拍車をかける。
「あのさ――」
「ごめん佐藤くん」
言い募ろうとした俺の言葉を、申し訳なさそうに謝る彼女の声が遮った。
「後でまた話そう。ひとまず今のメニューを進めててくれる?」
「……わかりました、すみません。また後で、よろしくお願いします」
「うん、ごめんね、ありがと」
佐藤と呼ばれたそいつはそこでようやく大人しく引き下がり、頭を下げて出て行った。やっといなくなった、と思って俺の指導者へ向き直ると、彼女は何か言いたげな顔でこちらを見上げていた。
「……中断させてごめん。さっきの続きに戻ろう」
一度目を伏せた彼女が、仕切り直すように声を改めた。無理に何かを飲み込んだような態度に、胸のあたりがざらりとした。
「俺のトレーナー業務はしっかりやるって、言ったじゃん」
自分でもわかる、尖った声が出ていた。子供っぽいことを口走ってることはわかっているのに、彼女を責める気持ちが治まらなかった。
「俺より、あいつを見る方がいいの?」
「そんなこと、言ってない。私は凪の指導者だよ」
「じゃあ、俺だけ見てよ」
俺の指導者と言うのなら、他の男なんか構わないで。俺だけを見て、俺のことだけ考えて。俺の指導者なら、俺に思ってることを全部言ってよ。
「俺は、君のことが好きなのに」
何度も言っているのに。どうして俺のことをちゃんと見てくれないの。どうしたら、俺が言っていることを本気にしてくれるの。苛立ちのまま口を開きかけたところで、彼女がきっぱりとした響きで俺の名前を呼んだ。
「凪」
低く、重たい声音にぎくりとした。何、その声、は。
「それは、トレーニングとは関係のないことでしょう」
ぴしゃりと跳ね除ける、聞いたことのない声だった。硬い表情も、初めて見るものだった。これまで知らなかった彼女に触れたというのに、全然うれしくなかった。
「あまり私情を持ち込んだことを言わないで。目に余るようだったら、本当に凪の担当を外れないといけなくなる」
それは、明確に引かれた一線だった。「好き」と繰り返しても変わらなかったのに、今彼女は明確なノーを俺に突きつけた。
「この間、話したよね。凪には世界一の選手になれる才能があるって。信じてるって。あの時私が言ったこと、凪は忘れたの?」
「——ッ——……」
言い返そうと口を開きかけて、寸前でぐっと言葉を飲み込んだ。反論したところで、自分が出す言葉はどれも「私情」でしかないのがわかったからだ。
彼女はあくまで仕事として俺のトレーナーをしていて、仕事で他の選手も見ることになったのだ。
それに対して俺は、請け負った仕事をするなと要求したのだ。
私情も私情だろう。他の男に取られるのが嫌だった、なんて。
俺の都合しかないのだから、彼女が注意するのは当然だ。彼女は俺にちゃんと説明もして自分の仕事を全うしようとしているのに、わがままを言われているようなものなのだから。
それに何より、彼女の期待を裏切るような振る舞いだった。
「……ごめん」
絞り出すように答えると、彼女の肩から力が抜けるのがわかった。申し訳なさそうな表情で「ありがとう」と言われる。
めんどくさ、とこぼれそうになった言葉を唇をきつく引き結んで堰き止める。自分が悪いことはわかっている。わかっているけど、それでも本音は謝りたくなんかなかった。これが他の人間だったら、ごめんなんて言わなかったと思う。謝ったのは、相手がこの人だったからだ。
やっぱり期間限定だとしても他のやつのトレーナーなんかしてほしくなかった。百パーセント俺だけの指導者でいてほしかった。自分の非を認めても、その考えは変わらない。
ただこの人を好きなだけなのに、好きなせいで、面倒くさいことになる。彼女のことを好きだと思う前の自分は、こうではなかったのに。
じゃあ、好きなのをやめればいい。彼女のことを以前のようにただのトレーナーとして見れば、面倒くさいことは無くなる。少なくとも、注意をされて不満を感じることはなくなるだろう。――そう思うのに、できそうにもなかった。この人を見ていると、好きだな、と実感するのだ。
「うん、じゃあこの話はこれで終わりね。練習の続きしようか」
彼女は今までのやりとりがなかったかのようないつもの声音に戻って、俺を促した。
多分、今日はこのまま最後まで俺の練習を見るだろう。でも、俺がいない、俺の知らないところで、さっきのやつのところに行って中断された話の続きをするのだ。それが昼の休憩時間なのか、夜なのかはわからない。ただ、俺の知らないところでこっそり会うことだけはわかる。そういう人だからだ。
何をどうしたって無意味なのかな、と思えてくる。私情を持ち込むなと言われたら、どうすることもできない。彼女を好きだと思うこれは「私情」でしかないのだから。
――めんどくさ……。
誰かを好きになるということは、こんなにも面倒くさいことなのか。ちらりと彼女に視線を向ける。低い位置にある頭のつむじが見える。
彼女も、こんな風に誰かを好きになったことがあるのだろうか。きっと、あるのだろう。俺より年上だし、ないわけがない。
「凪?」
タブレットを胸に抱えた彼女が、どうしたの、という風に俺の名前を呼ぶ。彼女が俺を見ていること、名前を呼ばれること、それには満足するのに胸のあたりは重いままだった。
「――はあ――……」
ベッドに倒れ込むと、身体が萎むような深い溜息が漏れた。もう指一本動かしたくなかった。日中のトレーニングがハードだったというわけではない。面倒くさい気持ちはあるものの、身体を動かすことには随分慣れてきている。
枕に顔を埋めたままじっとしていると、マットレスの端が沈む感覚がした。
「疲れてるな、凪」
聞き慣れた声に首を捻って顔を横に向けると、ベッドに御影玲王が腰掛けていた。
「練習ハードなのか?」
「……練習は別に……」
「じゃあいつものめんどくさがりが出てんのか」
「そんなとこー……」
疲れているのだとしたら、身体というより心だった。肉体の疲労は休めば回復するけれど、心はどうしたらいいのかわからない。こんなの初めてなのだ。
「……玲王ってさ」
「うん?」
「女の子からモテるよね」
「は? なんだよ急に、どうした」
「好きな人が全然相手してくれない時って、どうしたらいーの?」
文武両道、容姿端麗、加えて大企業の御曹司。学校の有名人で人気者の御影玲王なら、当然恋愛経験も豊富だろう。俺ではわからなくてどうしようもないことも、解決策を教えてくれるかもしれない。
そう考えて尋ねると、玲王は紫色の丸い目をもっと丸くし口を開けて固まってしまった。
「……玲王?」
呼びかけると、ハッと意識を取り戻した玲王がベッドに乗り上げて迫って来た。
「凪、お前好きな人がいたのかよ。聞いてねーぞ。どこのどいつだ? 学校のやつか? 先輩か? 後輩か? いやお前のことだから上も下も接点ないよな。それなら同級生か? 名前は? クラスは」
低く抑えた小さな声で畳み掛けるように質問が飛んできて、うわ、と枕に顔を埋め直したくなった。いちいち答えるのがめんどくさすぎる。でも何か返事をしない限りどんどんと質問を積み上げられていく勢いだった。
「言ってないし、学校の人でもない」
「じゃあ誰なんだよ」
仕方なく簡潔に答えたのに、すぐに次の質問が飛んできてうんざりしてしまった。玲王ならいい相談相手になってくれると考えたのは、間違いだったのかもしれない。
「もういーよ……やっぱ聞かなかったことにして」
「それは無理だって。悩んでるから相談してきたんだろ。人に聞いてもらうだけでスッキリする場合もあるんだから、まずは話してみろよ」
ベッドに乗り上げた玲王はあぐらをかいて、話を聞く体勢になった。
これを「相談」と言うのなら、そうなのだろう。悩んでいる、というのも、多分そうなのだと思う。胸のあたりにもやもやとしたものが詰まっていて、落ち着かないのは確かだ。
「……じゃあ、質問攻めはやめて」
「あー悪かった、びっくりしてつい、な。凪はそういう浮いた話とは縁がないタイプだろ」
「それはまあ、そーだけど」
レンアイとかそういうものは、トレーナーに言われた通り、面倒くさそうとしか思っていなかった。だから今、何もわからなくて困っているのだ。
「で、相手はどこのどいつだ」
「……それって、必要な情報?」
「必要に決まってるだろ。年齢とか所属や属性によって考え方は変わってくるんだから。そいつは凪を相手にしないんだろ? でも、どんなやつか分かればアプローチ法が見えてくる。お前の好きなゲームに例えると、攻略法とも言えるかもしれないな」
「……なるほど」
玲王が言っていることには一理あると思えた。少なくとも、俺と彼女の立場は関係しているはずだ。彼女は今日、それを理由に一線を引いてきたのだから。俺にはどうでもいいことだけど、社会人である彼女には重要なのかもしれない。面倒な話だ。
「好きな人って、トレーナーなんだよね」
「――トレーナーって、あのトレーナーか? ここで凪を指導してる?」
「うん。他にトレーナーなんかいないでしょ」
「――マジか。いや、学校のやつじゃないならそうなるか……」
口元に手を当てた玲王は納得したようにつぶやいて、それから短い眉を寄せた。
「……凪、トレーナーのどういうところが好きなんだ」
「どういうとこって……つむじとか?」
「はあ?」
「なんか、あの人のつむじ好きなんだよね」
いつか、あの無防備なうずまきの中心を押してみたい。押させてくれるかどうかはわからないけれど。
「おいおい、つむじって……それだけ?」
「それだけってわけじゃないけど……笑った顔とかも、フツーに好きだし」
俺のことを考えてくれるところも、好きだと思う。あの人が俺のために色々考えたりして時間を使っているのだと思うとうれしくなるし、ちょっとくらいはちゃんと練習をしてもいいかなという気にはなる。
「つむじと笑顔ねえ……」
難しい顔をした玲王は、大きく息を吸ってから神妙な顔を俺に向けた。
「凪、この際だからはっきり聞くぞ。本当にトレーナーのことが好きなのか? 思い込みとかそういうのではなく」
「……なんでトレーナーも玲王も、俺が『本当』かどうかを気にすんの? 嘘ついたってめんどくさいだけなのに」
どうして玲王がそんなことを聞くのかがわからない。好きなものは好きなのに。それに本当も嘘もないだろう。誰かを好きになることには、つむじや笑顔意外にも、もっと根拠や理由が必要なのだろうか。
つむじや笑顔、俺への指導以外にも、好きだなと思うところはある。例えば、タブレットを持っている手。小さくてかわいかった。俺が練習をがんばったりミニゲームに勝ったりしたら、褒めてくれるところも好きだ。俺より喜んでいるところも。
けれど、それがどうしたというのだろう。そういうことを置いておいても、彼女を前にするとただ「好き」と思うのだ。それだけでは、いけないのだろうか。
「……確かに、凪がそんなめんどくさい嘘つくわけねーな。ってことは、本気か……」
「最初からそう言ってるじゃん」
「世の中には、恋愛感情と他の感情を混同するやつもいるんだよ。凪に限ってはその線も薄いだろうし、じゃあまずは状況を整理するか。相手にされないって言ってたけど、それはつまり告白した……のか?」
「まあ、うん」
まったく本気にされてはいないけれど「告白」はしたと言ってもいいだろう。
「念のためで確認したけどマジかよ……展開はえーよ」
「なんか口からぽろっと出ちゃったんだよね」
「ほとんど事故じゃねーかよ……」
「そうとも言えるかも」
口をついて出て来た時と同時に自覚したようなものだった。「好き」という言葉が先に出て来て、あとから自分の気持ちが形になったような。
でも、形になったのがその時というだけで、好きという気持ちはその前からあったんじゃないかとも、思うのだ。あの瞬間、急に好きになった、とかでなければ。
「どういう風に告白したんだよ」
「どうって……フツーに『好き』って」
相談を聞いてもらうには必要な情報だと言われても、あれこれ尋ねられるのはなんだか落ち着かない。もう既に、めんどくさくなり始めていた。
「で、トレーナーはどんな反応してた?」
「ありがとう、って」
「あー……」
玲王が、微妙な納得を滲ませた。その反応になるのもわかる。
「全然相手にしてないでしょ」
「……そうだな。ぶっちゃけその反応だと眼中にない感じだな」
話を聞いただけの玲王でもそう思うのだから、間違いない。彼女は、俺が言っていることを本気だとは思っていない。いや、本気だとわかっていても、まじめに取り合うつもりはないのだ。
「ひとまず状況はわかった。それで凪はトレーナーと付き合いたいんだよな?」
「付き合いたい?」
「好きなら付き合いたいだろ」
「……付き合う」
――考えたこともなかった。トレーナーと俺が、付き合う? それはつまり、彼氏彼女という関係になる、ということだ。俺は、彼女とそういう関係になりたいのだろうか。
「……わかんない」
「はあ?」
「考えたこと、なかった」
ただ彼女のことを好きだと思っていて、それをわかってほしかっただけだった。好きの先のことを考えたりはしていない。もちろん、男女のそういう関係があることは知っている。でもそういう「付き合い」は別に望んでいなかった。というより、思いつきもしなかったという方が正しいかもしれない。玲王に言われた今だって、自分がそれを求めているのかはよくわからないくらいだ。
「マジかよ……」
「玲王、そればっかり」
「いや頭抱えるだろこんなん。俺の宝物、マジか……そこからかよ……」
玲王は本当に頭が痛そうに片手で顔を覆った。
「一旦まとめるか……。凪、お前は自分とこの指導者のことが好きなんだな?」
「うん」
「それは本気で間違いないと」
「うん、本気というか、本当」
「オッケー、本当な。で、お前はトレーナーに告白したけど、相手にされていない」
「……うん」
「ここまでが現状だ。で、ここからは分析と対策な。……まず、凪はどうしたいんだ? トレーナーにどうしてほしい、でもいいけど」
「トレーナーに、どう」
――一体、どうしてほしいのだろう。相手にされていないことに、不満があるのは確かだけれど。
「……ちゃんと話を聞いてほしい、かな」
まじめに受け取ってほしいのだ。ありがとう、で流したりせず、俺が言っていることをちゃんと受け取ってくれれば、こんな風にめんどくさい気持ちにはなっていない気がする。
「ちゃんと話を聞く、ね。具体的には? 態度なのか? それとも返答か?」
「……なるほど。どうしたら俺が納得できるのか、ってことでしょ?」
「そういうこと。理解が早いな」
さすが玲王、と言っていいのかもしれない。質問を重ねて掘り下げていくことで、一番の引っ掛かりに辿り着くのが目的らしい。チームメイトの剣城斬鉄が、考えることは全部玲王に任せると言うのもわかる気がする。
「……それで考えると、態度も返答も、なのかな」
彼女の態度は、あくまでも指導者と選手の距離感を固持したものだ。その関係に合わせた結果、否定も肯定もしない「ありがとう」という返答に繋がっていそうだった。
なら、俺は彼女にどういう風に接してもらいたいのだろう。好きという言葉に、なんと返してもらえれば満足するのだろうか。
「……やっぱり、俺のことをちゃんと見てほしいんだよね。……でも、それ以上のことは、まだよくわかんないかも」
考えるのが面倒くさいのではなくて、本当にわからなかった。俺のことを真っ直ぐ見てほしい。今の自分が彼女に望むことは、ただそれだけなのだ。
「それなら、逆で考えるか。トレーナーがお前に『好き』って言ってきたら、どうする」
「――トレーナーが、俺のことを」
彼女が、俺を――好き?
彼女の姿が頭の中に浮かび上がる。いつも見せているつむじ。そこから顔を上げて、俺に向かって笑う。そんな彼女が、俺のことを好きだとしたら。
「……うれしい、かも。うん、うれしい、すごく」
「うれしいだけか? お前もトレーナーみたいに『ありがとう』で終わるのか?」
「終わんないよ。終わるわけないでしょ」
あの人が俺のことを好きでいてくれたら、とってもうれしい。でも、ありがとうと受け取ってそれで終了になるものではない。
「――あー……俺だけのものに、したいんだ」
つっかえていたものがすとんと落ちて、胸のあたりのもやもやがさっと晴れたようだった。
彼女が「好き」と言う相手は、俺だけであってほしい。俺以外のやつに「好き」を向けないでほしい。それはつまり、彼女の「好き」という気持ちを自分だけのものにしたい、独り占めしたいということだ。
「玲王」
「なんだ?」
「さっきはわかんないって言ったけどさ。付き合ったら、あの人を俺だけのものにできる、ってことだよね」
誰かと付き合ったことはないけれど――そもそも好きになったのもこれが初めてだけど――コイビトという関係はそういうもののはずだ。相手は自分だけのもので、自分も、その人だけのものになる。
「まあ、そこまで間違ってはないかもな。要するに『お互い特別』っていう了承があって初めて成立する関係性だから。相手は特別だし、相手からも特別にされる。そこに、他の人間は入れない。複数恋愛って例外的ケースもあるけど、基本的には第三者が割り込んできたら浮気とか心変わりってことになる」
「……そういうことか」
トレーナーが別の選手を見るという話を聞いて不満に思ったのも、そいつに割って入られたのが嫌だったのも、全部納得がいく。特別にしたい相手との間に、関係ないやつが挟まって来たからだ。
「それで、お前のゴールは『付き合う』ってことでオッケー?」
「……おっけー」
付き合うということの内訳はまだわかっていないけれど、付き合えたら彼女を独り占めできるのであればそこを目指したい。どうしたいのかが分かれば、詳しい動機なんてどうだっていい。
だって、好きなのだ。好きだから、彼女を自分だけの特別にしたい。自分の欲求がはっきりした今なら、よくわかる。
「なら、分析はここまでだな。次は対策なんだけど、実際のとこ脈あるか?」
「……それは、ない。全然ない、と思う」
「だよなあ、話聞いた感じ俺もそう思った」
全然、響いている感じはない。ありがとうという返事に嘘はないかもしれないけれど、それを特別なものとして受け取ろうとしていないことだけはよくわかる。多分、彼女は「指導者と選手」という関係性からはみ出すつもりは一切ない。
「性格的にはどんな感じなんだ? 押しに弱そうとか――いや待て、その前に既に恋人いたりはしないよな?」
「――こいびと」
また考えたこともなかったことを言われて、一瞬思考が停止した。――こいびと――恋人。あの人に、恋人が、いる?
「聞いたこと、ない、けど」
「いてもいなくても、わざわざ言うことでもなかったりするからな。公私をきっちり分けてるなら余計に」
いやだ。それは、かなり、いやだ。玲王の言葉を聞きながら、胸のあたりにモヤモヤとしたものが広がっていく。
もう誰かのものになっているかもしれないなんて、仮定するのすらもいやだ。石でも飲み込んだように身体が重たくなり、何もかもがめんどくさく思えて来てくる。暗い気持ちになって枕に顔を埋めると、玲王がうつ伏せている俺の背中を叩いた。
「まだそうと決まったわけじゃねーって! それに、本気で欲しいなら奪えばいいだろ」
励ますような言葉に、え、と思った。
「奪っても、いいものなの?」
もう一度顔を横に向けて、玲王に尋ねる。そんな泥棒みたいなことをしても、許されるのか。
「結婚とか婚約をしてたら話が変わってくるだろうけど、付き合ってるだけならギリギリでアリだろ。今の恋人よりお前を好きにさせられたら、だけどな」
「……そうなんだ。玲王は? 玲王だったら、奪う?」
「それを俺に訊くか?」
笑った玲王に、まあ玲王ならそうだよな、と思う。欲しいものは全部手に入れてきたと豪語して、今はワールドカップの優勝トロフィーを得ようとしているのだ。好きな人に恋人がいようが結婚していようが、欲しいと思ったら何がなんでも手に入れるんだろう。
「じゃあ、恋人はいてもいなくてもいいや」
いないならそれでいいし、いたとしても、関係ない。彼女を俺の特別にすることが、ゴールなのだ。
「それで、どう対策したらいいの?」
ゴールが決まれば、あとはどうやってポストにボールを入れるかだ。
「そこでさっきの話に戻るんだけど、相手の性格によるんだよな。現状脈ナシだろ? で、公私混同しないまじめタイプ。多分押しに弱い感じでもないだろ」
「……そうだね、流されるようなタイプではないかも」
「流してる側だしな」
玲王が、腕を組んで目を閉じる。俺は寝返りを打って、うつ伏せから仰向けへと姿勢を変えた。
「……強引に手に入れる方法なら簡単に思いつくんだけど、さすがにそれはナシだよな?」
「何それ、怖いんだけど」
御影コーポレーションの力を持ってすればお金と立場にものを言わせることはできるのかもしれないけれど、俺はただの一般人だ。
「まあ、強引に手に入れても好感度の保証もないからな。何なら心を一生手に入れらなくなる可能性もある」
「絶対ナシ、それはやだ」
ほしいのはあの人の全部で、その心までだ。第一、特別なのは心もあげるからだろう。形だけ手に入れたって意味がない。
「そうなるとな……結構厳しそうなんだよな」
「どの辺が?」
尋ねると、玲王はちらりと俺の顔を見た。言葉を選ぶような、伝えてもいいのかと判断するような表情だった。
「遠慮しなくていーよ。どうせ今は相手にされてないんだし」
「ならはっきり言うけど、多分お前の指導者をしている間は絶対そういう関係にならねーと思うんだよな」
自分でも薄々予想していたことではあるけれど、実際はっきり言われると、それなりにへこむものがあった。第三者も同じ意見ということで、ますます否定しようがなくなるのかもしれない。
「どうしようもないじゃん……」
「今すぐ付き合う、って分にはな」
でも、玲王の声音はそこまで悲観的ではなかった。
「外堀を埋めることはできるからな」
「つまり、既成事実を作るってこと?」
「そこまでは言ってねーよ。それだと強引な方法になるだろ。俺が言いたいのは周りへの牽制とアピールだよ」
「うーん……でもそれ、逆効果かも」
「なんでだ?」
今日の出来事をかいつまんで話すと、玲王は顔をしかめて「攻略難易度が高めだな……」とつぶやいた。
「ガチガチに公私を区別してんな。確かに、やり方をミスったら担当外れそうだわ」
「そうなんだよね。でもそれはやだし」
多分、彼女が指導から外れたら、もっと距離を取られる。今だって仕事は仕事と線を引かれているのに、担当者じゃなかったらもっと遠くなるだろう。
「なんか、めどくさいな……」
仰向けになったまま、目を閉じる。天井の照明でまぶたの裏は明るい。そこに、彼女の姿が投影されるみたいに浮かぶ。頭の天辺のつむじ。俺を見上げる顔。
この人を、自分の特別にできたらうれしい。それだけなのに、上手くいくイメージができなかった。ワールドカップの優勝がかかった場面で、ゴールへ向かってシュートを撃ち抜く想像はできるのに。どうしたら、あの人は俺だけの人になってくれるんだろう。
「……玲王ー」
「うん?」
「今日はここまでにしよ……めんどくさくなってきちゃった」
目を閉じたら、もう難しいことを考える気がなくなってしまった。今日のところは寝て、明日また対策を練ってもいいだろう。頭を使いすぎて、煙が出そうだ。
「歯磨いたか?」
「磨いたよ」
今日はさっさと寝るつもりで、風呂も歯磨きも済ませていた。このまま寝ても支障はない。
「じゃあ、おやすみ。また明日な」
「おやすみー……」
ベッドが揺れて、玲王が離れたのがわかる。部屋のルームメイトたちが寝るのにはまだ早いのだろう、まぶたの裏は暗くならない。それでも頭が疲れ切っていて、すぐにシャットダウンできそうだった。
玲王に話してみたのは思いつきだったけれど、参考になることはいくつかあった。
俺は、彼女を自分の特別にしたくて、彼女の特別になりたい――付き合いたい――こと。
たとえ彼女に恋人がいたとしても、奪えばいいこと。
彼女は俺とそういう関係にはならなさそうなこと。
ここのやつら相手に外堀を埋めたり牽制はできるけど、やり方は慎重に考えた方がいいこと。
何かが進展したというわけではないけれど、状況やできることを整理できて、昼間の胸のモヤモヤは晴れた気がする。それだけで、収穫はあったと言っていいだろう。気分はずっとよくなっているのだから。
目を閉じていると、じわじわと眠気に包まれてきた。ぼんやりとしてくる感覚に身を委ね、息を吐く。寝ている間は、面倒くさいことは起きないし、考える必要もないからいい。
それに、起きたらトレーナーに会える。
――明日は、俺のことだけ見てて欲しいな。
間際に彼女の顔を思い浮かべてから、俺は眠りに落ちた。
◆ ◆
「おはよう、凪」
毎朝恒例の、聞き慣れた挨拶。にこりと笑ったトレーナーの態度は、出会った頃から変わらない。信頼関係は築けていると思うけれど、あくまで指導者と選手としてのものだ。玲王と話したことで、彼女のこの態度は強固なほどに立場を弁えた姿勢だということがわかる。接しやすさはありながら、踏み込ませないし立ち入らない。そういう距離感だ。
「……凪? どうしたの、調子でも悪い?」
黙ってじっと見下ろしていると、彼女が心配げに首を傾げた。それを、首を横に振って否定する。色々面倒なことを考えたからかよく眠れないかとも思ったけれど、昨晩もぐっすりしっかり八時間半寝ている。
「それならよかったけど、何かあったらすぐに言ってね」
彼女はほっとしたようなに表情をゆるめて、タブレットに目を落とした。俺は、早速仕事モードに入った彼女が向けたつむじを見て、ほとんど無意識に「好き」とつぶやいていた。
「あ」
口にするつもりがなかった言葉がこぼれ落ちていて、しまったと思った。私情を持ち込むなと言われたのはつい昨日のことだ。昨日の今日でこういうことを言うと、嫌がられるかもしれない。
「うん、ありがとう」
でも、どうしようと思っている俺に反して彼女は、さらっと返しただけだった。
「……怒らないの?」
「怒る? 何を?」
予想外の対応に戸惑いを感じていると、彼女は愛想笑いをきょとんとした表情に変えた。
「俺が『好き』って言うの」
「あー……」
そこでようやく、彼女の表情が少し崩れた。居心地が悪そうに、視線が泳ぐ。
「怒りは、しないよ」
「どうして? 昨日私情を持ち込むなって言ったのに」
一日寝て少しはマシになったけど、思い出すとやっぱりいい気分にはならない。トレーナーにというより、練習中に割り込んで来たやつに対してだ。
「言ったけど、なんというか、その……『好き』と言われるだけなら、私がどうすることもできないと思うんだ。それは凪の気持ちだから。もちろん私の仕事……凪の成績に影響が出るようなことを言われたら困るけど『好き』と言われるだけなら、気持ちを伝えているだけだから業務に差し支えはない、というか」
彼女にしてはめずらしく歯切れが悪かったけれど、言葉を選ぶというより考えをまとめながら喋っているようだった。ちゃんと説明をしようとしてくれているのだ。
それに、今の話を聞いた感じでは、彼女は俺の気持ちが本物であることをわかってくれていたのかもしれない。ありがとうという言葉だけを返して流していたのは、指導者とトレーナーという関係を超えないための態度だった、と考えることができる。
「じゃあ……俺が『付き合って』って言ったら、怒る?」
「怒りはしないけど、受けられないね」
一転してすぱっと即答した彼女の顔には、はっきりと「そこからは私情だ」と書いてあった。さっきの言葉から引用するなら「業務に差し支え」があるのだろう。
「ふーん……」
口が滑ったと思っていたけれど、もしかすると滑ってよかったのかもしれない。こうやって彼女の考えを聞くことができたのだから。
「てことはさ、俺が君に『好き』って言うのは許してくれるんだよね」
「許すっていうか、止める権利はないというか」
「そっか」
一歩、彼女へ近づいて距離を詰める。
「好き」
顔を覗き込むようにして言うと、俺を見上げていた彼女が明らかに視線を揺らした。
「君のことが、好き。本当に好き」
「ちょっと、ちょっと待って、凪」
繰り返すと、彼女は一歩後ずさって制止するように片手を挙げた。
「限度が、ある。さすがに」
「限度?」
「そんなに言われたら、さすがに困る……」
「業務に差し支えるの?」
「そんなとこ、かな」
弱ったような表情を見せる彼女に、もしかしてここが攻めるポイントなのか? と閃いた。鉄壁だと思っていたけれど、もしかしたら押しに弱いのではないだろうか。一発なら避けられても、絨毯爆撃は避けられない、みたいな。難攻不落に見えていた城砦は、実のところよく出来た張りぼてだった、というか。
「ねえ、好きなんだけど」
「凪」
「君が好き」
「凪ってば」
「好き」
「凪っ!」
彼女が強い口調で俺を呼んだ。とっても困った顔をしている。彼女でも、こんな風になるのか。今まで知らなかった、初めて見る表情を引き出せてうれしかった。
「それ以上は、本当にやめて」
「わかった、ごめんなさい。謝るから、嫌いにならないで」
素直に謝罪すると、彼女はきゅっと唇を引き結んで、それから小さくため息をついた。
「もうこの話は終わりにしよう。貴重な練習時間がもったいないよ」
「休憩時間をちょっと削ればいいでしょ。それにまだ、聞きたいことがあるんだよね」
あからさまに話を切り上げて逃げようとする彼女を、少しだけ引き止める。
「じゃあ、それで最後ね」
「うん。――ねえ、君って、結婚してる?」
「けっ――」
瞳が飛び出そうなくらい、トレーナーの目が見開かれた。唇が少しだけ開いたままで、すごく驚いているのがわかる。これもまた、初めて見た表情だった。この人は、こんな顔もするのか。――かわいい、な。
「ねえ、どうなの」
「――しっ、てても、してなくても、凪には関係ない、でしょう」
どうにか取り繕おうとしているようだけど、動揺しているのは見え見えだった。そんなに驚かせるような質問だと思っていなかったけれど、彼女にとっては相当な不意打ちだったのかもしれない。
「そうなんだけど、一応の確認? 結婚しててもしてなくても俺は関係ないけど、結婚してたらめんどくさいでしょ」
「か、確認とか、一体何を考えてるの」
「何って……君を手に入れること? 好きだから」
実際がどうなのかはわからないけれど、実際どっちだっていいのだ。めんどくさいことは嫌だけど、めんどくさくても彼女がほしいのだから。
彼女が、唇を震わせている。何か言いたいのに、言葉が出てこないようだった。気のせいか、頬がうっすらと赤くなっているみたいで、もしかしたら照れているのかもしれない。この表情も、見たことがないものだった。
かわいい。好きだ。
きっと、まだ俺に見せていない顔がたくさんある。それを全部、知りたかった。
「ねえ、好きだよ。本当に好き」
「――わかった、わかったから」
「本当にわかった? 話を終わらせようとしてない?」
「話は終わりだよ、もうおしまい」
「質問にちゃんと答えてもらってない気がするんだけど」
「――これ以上この話をするんだったら、もう練習見ないよ!」
めずらしく、彼女が声を荒げた。怒らせてしまった――と思ったけれど、なんだか違う気がする。彼女が注意をするときはもっと論理的で、こんな風に感情的に、脅すようなことはしない。
なら、この態度は、なんだろう。
「……もしかしてだけど、照れてる?」
やっぱりその可能性は捨てきれないと思いながら尋ねると、彼女が俺を睨んだ。髪の隙間から見える耳のふちが赤い。返事はなかったけれど、この態度だけで十分だった。
「……かわいー」
目を釣り上げたトレーナーへと、ぽろりと言葉が落ちていた。大人だと思っていたけど、思ったよりそうでもないのかもしれない。こんな、子供みたいに睨んでくるのだ。ちっとも怖くないのに。近づけそうにないと感じていた距離も見せかけで、実際は半歩で詰められるほどに近かったりして。
「好きだよ」
背中を丸めて、覗き込むようにして言葉を落とすと、彼女がわなわなと震えた。その口が何かを発する前に、俺は「練習しよ」と続けた。
これ以上はきっと、本当に彼女を怒らせる。彼女は練習を進めたがっていたし、面倒くさいけどそろそろやることをやった方がいい。休憩時間も短くなっていくし。
ちらりと見た彼女は、納得がいかなさそうな表情をしていたけれど、気を取り直すようにタブレットに目を向けた。こちらへ頭のつむじをさらしながら「今日のトレーニングは――」と説明が始まる。俺はその話を頭の半分で聞きながら、彼女が実は表情が豊かなことを考えていた。今まで俺に見せていたのは、仕事の顔だったのだろう。
「午後のメニューは――」
一日何回までなら、好きと言っても怒らないだろうか。俺としては、好きな時に好きなだけ「好き」と言いたいけれど、彼女の態度を見る限りでは許してくれないだろう。
今日はもうこの話題には触れられないから、明日にでも聞いてみよう。交渉次第では、一日一回までなら、許してくれるかもしれない。
昨日の出来事は、もうあまり気にならなくなっていた。邪魔してきたやつの練習を見るのはまだ数日残っているはずだけど、それくらいなら許してやってもいい。だって彼女は俺のトレーナーなのだし、渡す気もないし、他のやつにこんなにたくさんの顔を見せることは、多分ないだろうし。
「――っていう感じで進めようと考えているけど、いいかな?」
ぱっと彼女が顔を上げる。その表情は、随分落ち着きを取り戻しているようだった。でも、俺はもう知ってしまっている。この表情は仮面のようなもので、その下にはいろんな顔が隠されていることを。大人は意外となんでも受け流せるわけではないことを。
何度も好きと言われると、顔を赤くして照れることを。
「うん。――今日も一日、よろしくね」
俺のかわいい、指導者さん。
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