◆ ◆
――戦闘体、活動限界。
貫かれたお腹から、赤い血液のかわりに黒い湯気のようなトリオンがぶしゅうと漏れ出す。ぴきぴきと身体に亀裂が入るのがわかった。もう、私の身体が長くないとことをしめしている。
――桑染、ベイルアウト。
私のお腹に穴を開けた米屋がにやりと笑ったのを最後に、次の瞬間、身体は柔らかなマットの上に落下していた。機械的な音声が淡々と告げる。「4−2、米屋リード」
無機質な天井を見上げたまま、肺の中に貯まっていた空気をゆっくりと吐き出す。十本勝負の六本目を終えたところで、戦績は二対四。今の試合で引き分けに持ち込もうと思っていたのに、直前でしてやられてしまった。
残りの試合をストレート勝ちしなければ、私の勝ち越しはない。引き分けでも良しとするならばあと一回の負けは許されるけれど、やるからには勝ちたいに決まっている。私はそれほど消極的ではない。むしろ、負けず嫌いなほうである。
それにしても、今日の米屋の動きは良い。近ごろ調子がいいと噂に聞いていたけれど、受けてみてなるほど、納得の太刀筋だった。もしかすると、勝ち越されてしまうかもしれない。
――けれど、いつもだったら顔を出す年上としてのプライドや、年下の男子に負けそうだという焦りや悔しさは、わいてこなかった。
「……うー……」
緊急脱出で生身に戻ったとたん、待っていましたとばかりに下腹部を襲ってきた痛みにうめく。
「おなか……いたい……」
なんてことはない。月に一度、決まっておとずれる生理痛のせいだった。トリオン体になってしまえば関係がないと、騙し騙しランク戦をしていたけれど、どうやら限界が来たらしい。痛覚をオフにしていた反動なのか、痛みをひどく鮮明に感じる。
ベイルアウト保護用のふかふかしたマットの上で、胎児のように手足を丸める。気休め程度にお腹に手をあててみたけれど、ずくずくと響く鈍痛は、その程度でまぎれてやるつもりがないようだった。
はやく試合の続きに戻らなければ、と思うのに、マットの上から動けない。今の自分は生身なのだと、文字通り「痛感」する。本物の肉体に痛覚コントロールの機能が搭載されていないことが、忌々しい。
『――桑染さん?』
ブースの中に備えつけられているスピーカーから、米屋の声が響いた。――ああ、まずい。肘をついて上体を起こしてみるけれど、やっぱり、下腹部がきつい痛み投げつけてきた。内側から殴られているような痛みに、ほとんど怒りさえ覚える。私が何をしたというのだ。理不尽極まりない。
顔をしかめて、あきらめ混じりに保護マットへ身を投げ捨てた。これはもう、ランク戦の続きなどはやっていられない。米屋には大変申し訳ないけれど、鎮痛剤を飲んで、少し休んでおとなしくしてから帰るのが賢明だ。トリガーを握る手にも、情けないことに力が入らなかった。
「ごめん、米屋……残りの試合、棄権する」
『――は? え、なんでいきなり』
天井の隅に備え付けられているスピーカーに向かってギブアップを申し入れれば、予想通りの反応が返ってきた。まあ、いきなりの棄権なんて納得がいかないだろう。とても楽しそうにブースへ入っていった姿を思い出すと、良心が痛んでますます身が縮む。
「体調不良なの……ごめん。続きはまた、今度にできないかな。そのときまで、この勝負はおあずけにしようよ」
ジュース、おごるしさ。余計な心配をさせないように、つとめて明るい声を出してみたけれど、上手くできたかどうかはわからない。結構大変な状態だということを、悟られなければいいのだけれど。
もう成人をしていて、この身体のつくりに思春期の女子のような過剰なはずかしさはない。とはいえ、わざわざ教えるようなことでもないだろう。むしろ、男子高校生に生理だと告げたりするのは、逆セクハラになりそうだ。
「……米屋?」
静かになったスピーカーを見上げて、名前を呼ぶ。けれど、当たり前だがそこに米屋の顔が見えるわけもなく、黒い音響機器がこちらを向いているだけだった。
『……約束すよ。オレ、不戦勝とかぜってーいやだかんな』
「うん、私だって、不戦敗はいやだよ。――じゃあ、次までに飲みたいジュース、考えておいてね。今日は本当にごめん、ありがと。またね」
一方的に切り上げるように言って、私はぎゅっと目を閉じた。端末に戦闘終了のコマンドを送りたかったけれど、やっぱり動けそうにない。米屋が切ってくれるだろうと勝手に期待をして、痛みが楽になる体勢を求めて身じろぎをする。
一息ついたとたん、ますます痛みが増した気がする。信じがたいことに、この鈍痛にはまだ上があったらしい。気をまぎらわせるためにうなってみても、大した効果は得られそうにない。
もしかして。はた、と気がついてしまった。もしかして、今の私はピンチなのではないだろうか。
薬さえ飲んでしまえば、この痛みは嘘のように引いていく。それはもう、両手を挙げて小躍りするくらい、晴れ晴れした気持ちになれるだろう。ーーけれど、それはあくまでも「薬を飲めたら」の話である。
じとりと、いやな汗が浮いてくるのがわかった。ふかふかの保護マットの上で、這うようにして身体を動かす。下腹部からの容赦のない痛みが、私の手足から行動力を奪っている。
ろくな身動きができないのに、どうして薬が飲めようか? ほとんど絶望的な気持ちで、私はマットに顔をうずめた。
いっそ、気を失えたら楽なのだろう。しかし、残念なことに生理痛で失神ができるほど、私の神経は繊細ではないらしい。ただただ、内側からの、己によるボディーブローに耐えるしかない。
「うう――」
はあ、となるべく深い呼吸を意識する。この痛みがどれくらい続くかはわからないけれど、動けるようになるまで治るのを待つしかないだろう。不幸中の幸いとして、ここなら横になれる。ブースを一部屋つぶしてしまうことにはなるけれど、どれだけうめこうがうなろうが身もだえようが、人に聞かれたり見られたりすることはない。
じわじわと吹き出してきた汗が気持ち悪いけれど、どうする術もない。この肉体を呪うことも無意味だ。せめて携帯電話さえ手元にあれば、蓮ちゃんか望ちゃんに連絡をとって助けを求めたのだけれど、その携帯電話は端末の横の鞄の中である。たった数メートル向こうのそこまで行くことすらできないのだから、どう考えても詰んでいる。投了だ。お手上げだ。
次からは、携帯電話をベイルアウト保護マットの上に置いておこう。いや、それ以前に、生理の時はランク戦を控えるか、トリオン体だからと慢心せずにきちんと薬を飲むことにしよう。そうだ、それがいい。
この経験は、教訓として刻みこもう。痛みの中でそう考えた時だった。
「桑染さん大丈夫すか――って、まじかオイ」
「――え――」
スッと開いたブースの扉から、焦ったように米屋が駆けこんで来た。
「え、どうして、よねや……」
「うっわ、すげえ汗。桑染さん、まじで大丈夫か?」
いつものひょうひょうとした様子のない米屋が、私の顔をのぞきこむ。汗びっしょりではずかしい、と思ったけれど、顔を隠す気力もない。
「よねや……」
息も絶え絶え、といった感じで、私は彼の名前を呼ぶ。
「おねがい……かばん、もって、きてくれ、る」
「鞄? これ?」
すかさず目を配った米屋が、個人戦の設定端末の横に無造作に置かれた、私の鞄をつかんだ。
「なかに、けいたいと、ぽーちが、あるから」
「出せばいいのか?」
うなずけば、米屋はためらうように、鞄の中に手を入れた。こんなことをさせてごめん、と心の中で謝る。ひと段落ついたら、なにか飲み物でもおごらなければ。
「携帯と……ポーチって、どれだ? なんかでかいのと中くらいのとちっさいのと三つあるんだけど」
米屋はごそごそと中身を探ったあと、私の要望通り引っぱり出した携帯電話とポーチを目の前に広げた。
「いちばん、ちいさいほう……」
「こっちか」
取り出した大きいほうと中くらいのポーチ(大きいほうはメイク用品、中くらいのほうは生理用品が入っている。中を見られたわけではないけれど、少しはずかしかった。それどころではないのだけれど)をしまい直して、携帯電話と薬やその他こまごましたものを入れているポーチが、目の前に置かれる。
「桑染さん、まじで大丈夫かよ。医務室行ったほうがいいんじゃねえの?」
マットの横に膝をついた米屋が、真剣な顔つきでたずねる。私はそれに首を振って辞退する。
「だいじょうぶ……でも、さいごに、もうひとつ、おねがい、いい……?」
吐息に乗せるように、最後の迷惑を米屋に頼む。
「さいふ、もってって、いいから……おみず、かってきて……」
◆ ◆
ブースから出て行った米屋が戻ってきたのは、思ったよりもうんと早かった。「桑染さん、生きてる?」という軽口に、ほっとする。うっすらと目を開けると、米屋の手には、ミネラルウォーターのペットボトルが二つあった。
「ありがとう……たすかる……」
「いーっていーって。で、一応水買ってきたんだけど、こっちのほうがいいんじゃねえかな」
そう言って、目の前に差し出されたミネラルウォーターは、内容量が三分の一ほど減っていた。私が手で押さえているお腹をちらりと見て、
「オレの飲みかけがいやじゃなかったらだけど、冷たいのよりぬるいほうがいいんじゃねえの?」
一応、新しいのもあるけど。そう言って、米屋は未開封のペットボトルを軽く振った。
「う……たすかる……よねやのみず、もらってい……?」
「ドーゾドーゾ」
冷たい水は身体を冷やしてしまいそうでできるのなら避けたく、常温の水があるということが心底ありがたかった。飲みかけだとかを気にしている場合ではない。そういうことにはじらうような年齢でもない。
私はだらしなく横になったまま、のろのろとポーチを開いて鎮痛剤を取りだした。
「おっと」
「うう……ありがと……」
「どーいたしまして」
薬を飲むために身を起こそうすると、米屋が手伝ってくれた。一人で上体も起こせないなんて、もはや介護である。今日だけで、米屋には相当な借りができた。
「はい」
「うー……ありがと……」
ぱち、ぱち、と封を押して錠剤を取り出すと、丁寧にもペットボトルのキャップを開けた状態のミネラルウォーターを差しだされる。白い薬をまとめて二つ口の中に放りこむと、私はペットボトルに唇を押しあて、ぬるい水を傾けた。
ごくり、ごくり、と水を飲みこむのと一緒に、鎮痛剤も喉の奥へ流しこむ。ひどく喉がかわいていたらしく、そのまま水を飲み続ける。はあ、と唇を離したとき、ペットボトルの底に残っていたのは、もうたったの二、三口程度だった。
「落ちついたか?」
「うん……ありがと……」
するりと、米屋がペットボトルを取り上げた。私はもう何もかも任せることにして、再びマットの上に身を投げた。ぼすん、と上半身が沈みこむ。下腹部の鈍痛に変わりはないけれど、三十分もすれば薬が効き始めるだろう。それまでの辛抱である。
「ごめんね、よねや……たすかった、ありがとう……」
「もういーって。それよりまじで医務室行かなくていいのか?」
「うん、くすりのんだから、もうだいじょうぶ……」
しばらくすればこの鈍痛から解放されると思うと、随分気が楽になった。私はゆっくりと目を閉じる。
「桑染さん、個人戦の申し込み来てるけど断ってもいいすか」
「ああ……うん、そうして……」
米屋との十本勝負を中断して、そのままにしていたことを思い出す。例え薬が効いて元気が戻っても、今個人戦を受けるだけの気力はない。カタカタと端末を操作する米屋の後ろ姿をながめながら、何から何まで申し訳ない気持ちになる。
「よねや……」
「ん? なんすか」
「ありがと……よねやは、いのちのおんじんだよ……」
「はは、んな大げさな!」
キャスター付きのイスに座ったまま、床を蹴った米屋が私の目の前まですべってきた。
「いやでも、体調不良で棄権とかいうからびびったな」
「うん……」
「オレがブースから出ても、桑染さんは出てこねーし、モニターにはこの部屋番号表示されっぱなしだし」
「うん……」
「もしかしてなんかヤベえことになってんのかと思って来てみれば、すっげえ顔色で丸くなってるし」
「はい……」
「でもま、大丈夫ってんならよかったわ」
くるり、とその場でイスを一回転させて、米屋が笑う。大丈夫、と言う私の言葉を信じて、過剰に心配をしないでくれるのがありがたかった。ここで過保護に気にかけられていたら、私は申し訳なさで小さくなっていたことだろう。
「ほんとうに、ありがとね」
何度感謝してもしきれない。米屋が来てくれなければ、私の地獄はもうしばらく続いていただろう。今の米屋は、私の救世主だった。
「気にしなくていーって。オレ、桑染さんにやさしくしてるつもりねーし」
「そうなの? じゅうぶんやさしいけどなあ」
少しずつ薄まりつつある痛みから、強張っていた身体の力を抜いていく。丸めていた手足を広げて、あお向けになる。動けるようになったら、トイレにも行かないとなあ。ぼんやりと考えながら、お腹をさする。
「……桑染さんってよ」
「うん?」
顔を向けると、真剣なような、苦いような、複雑そうな表情を浮かべた米屋がこっちを見ていた。いつもひょうひょうとしている彼にしては、めずらしい顔つきだ。なんなのだろう。
「……いや、なんでもねー。それよりどうなの、オナカ」
「ああ、うん、だいぶよくなってきたよ。おかげさまで」
お腹をなでながらへらりと笑う。なんと、笑顔を浮かべられるくらいにまで回復している。薬とは偉大である。
「今日はもう、このあと帰るんだろ?」
「うん、そうするよ」
「じゃあ送ってくわ」
「えっ」
米屋が、くるくるとイスを回して遊びながらそう言った。
「いいよ、わるいよ。それに、薬ものんだからもう大丈夫だし」
「また体調不良で動けなくなられたりしたら、オレの後味がわりいの」
「う……」
帰宅までに鎮痛剤の効果が切れるとは思えなかったけれど、世話を焼かれに焼かれてしまった手前、強情を張ることもできなかった。「オネガイシマス……」としぼりだすと、米屋は目を細めて笑った
「それに、さっきも言ったけど、オレ桑染さんにやさしくしてるつもりねーから。それだけ覚えててくれればいいし、うん」
「うん……? 私もやっぱりよねやはやさしいと思うけどなあ……」
疑問符を残しながら、米屋の顔を見上げると、なんだかうれしそうな楽しそうな顔をしていた。さっき、ランク戦で私のお腹を貫いたときの表情に似ている気がする。
「ま、桑染さんがそう思ってくれんなら、オレにとって都合はいいけどな」
「……うん?」
私はやっぱり、米屋の含みのある物言いをくみ取れない。きちんと問いただそうと思ったけれど、座るイスをくるりと回して遊ぶ米屋が子供のようで、深く考えることをやめてしまった。
米屋はやさしくしているつもりはないというけれど、やさしくない人がここまで世話を焼くことはないだろう。きっと謙遜しているのだ。
「米屋はやっぱりやさしいよ」
そう納得をさせた私が、彼の「やさしくしているつもりはない」の真意を告白とともに知るのは、この数日後のことである。
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