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※おばあちゃん主
※家永≒永倉=夢主

 女主がとうとう花に侵されてしまった。

 いや、もともと行商だったのだし、脳内は侵されていたとも言えるのだけれど。それは思考に関することで、まさか本当に侵されるとは一体誰が思うだろうか。

 「女主さんが体調を崩している」と永倉様から聞いた時、あの怪我知らずの病気知らずな女主がと驚いたものだった。常ならば町医者にかかるところを、いの一番に女主と旧知の仲である私に仰るのだから、永倉様もはじめて見る彼女の弱々しい姿に肝を抜かしてしまったのであろう。
 私たちが拠点とするこの家に来る前に女主と彼女の義妹親子、つまりは永倉様の奥方とご子息であるが、三人で営む薬舗に顔を出したのだと彼は言う。携帯用に一般の者でも使えるものを貰おうとしていたそうだ。何時もなら同じ年の快活な義姉を見るところ、そこには自身の妻子のみがいた。珍しい状況に朝から出掛けているのかと聞いたところ、体調が悪く部屋から出てこないのだと。感冒だと移ってはいけないから、と言われて誰も部屋には入っていないと聞いた永倉様は忙しくしている妻子の代わりに邸宅へと戻り、女主の様子を見に行った。女中らも部屋への立ち入りを遠慮されたようで、今日は誰も顔を見ていないという。

「それで、部屋には?」
「無理を言って入らせてもらった。だが…」





 数年前までの老いさらばえた己の姿であれば、彼女に会いに行くのも違和感がなかったであろう。永倉様に連れられながら、「女主の故郷にいる親類」という体で杉村邸の内へと進んでいく。
 親族らが暮らす二階へと上がると、頻りに嗚咽が聞こえてくる。少し年老いた声色のそれは、まさしく女主のものであろう。部屋の前へと促され、暫し佇む。永倉様は人払いをしていた様で、一階にいた心配顔の女中連中は見当たらない。
 聞いているこちらが苦しくなるような咳を止めたい。そう意を決して襖を開けると、彼女が吐き出したであろう酸の臭い。しかしそれをかき消すように散漫する華の香り。それは一つや二つどころではない。遥か遠く彼女との思い出に含まれる福寿草や黄梅、はたまた嗅ぎなれぬ芳しいもの。私の知る内でも判別のつく華の香り。それらの季節感の統一のなさ、郁々たる、などでは言い表せぬほど異様に充満する香に首をかしげながらも、部屋の主の容態を見るべく部屋へと入っていく。
 女主は部屋の真ん中に敷かれた布団の上にはいなかった。永倉様の仰っていた通り、押し入れから下半身が見える状態で彼女はいた。前日には何の兆しも見られなかったのだから、不調は今朝からとおおよそ考えられる。押し入れへと近づき、記憶にあるものよりも幾分か薄くなった背に手を添える。

「・・・・・・?」


 立て付けの悪い戸から吹く風のような音を喉から発している彼女。少し落ち着いたのであろう彼女が後ろを振り返る。すっかり白くなった艶髪が汗でしっとりと纏まっている横顔から、少しずつ皺の刻まれた仏顔が私の顔を捉える。
 一寸の間をおいて状況を把握した彼女は、驚きと煌めきを目に乗せた顔で、嗚呼、と呟いた。

「来てくれたのかい」

 そう、安堵の顔を向けてくれる彼女に、背に寄せた手とは逆の手で労りの意を伝える。左頬に寄せた私の右手は、正確に彼女の体温を把握する。

「いつから?」

 感冒では、なさそうだ。右手からは彼女の暖かな温もりのみが伺い知れる。
視線をずらし、いつもは爛々としているはずの双眼を見つめる。

「昨日の零時ころ」

 度重なる嘔吐により、目は水膜に覆われている。受け答えの声も、少ししゃがれてはいるが正常だ。

「具体的に、症状を言えますか?」

 背後からの気配がより、強いものになった。それと同じくして、彼女が押し入れの奥を指し示す。
 ちょうど日の指さない角度に設けられた押し入れの奥は、日中であっても目を凝らさなければなかなか見辛い。彼女のように少し身をつき入れて中を覗くと、暗がりの中に散らばる無数の”何か”。そこにあるはずの吐瀉物は見当たらない。その代わりというように、押し入れの中には無数の華たちがしっとりと散らばっていた。

 昨夜から吐き出された華たちを見られてはと思ったらしい。口許から出てきた白いスミレを見たときに、初めは昼間に採った花がついていたのではと思っていたと。けれども、咳をする度掌に残る花弁を見るうち、それらの出どころが自身であると気づいたのだという。止めどなく溢れ出るそれらを隠すため、押し入れへとまさしく”押し入れ”た女主はそのまま上体を中へと入れ、今の今まで華を吐き出し続けてきた。
 初めて見る奇っ怪な状態に永倉様も女主も如何ともし難く、とりあえずは吐き気を催さないように気持ちを落ち着けつつ、合間に粥を一口食べて気が緩んだ頃に再び吐き出す、といった具合らしい。物を胃に含んでから綺麗に吐き出すものだから、いよいよもって奇病か呪い(まじない)でも受けたかと思っていた頃、昔馴染みの私であれば何か知っているのではと声をかけたそうだ。

「私は見たことがありませんよ」
「チカちゃんもないかあ」

 一度ならず二度も見られて諦めた様子の女主が、ごほっと露草を口から咲かせた。全国に、況してや世界にもこのような病はあるのだろうか。人の体から植物が出てくるなど、聞いたことはない。見たこともないと言いたいところだが、現に目の前の女主はごほっと更に翁草を一輪産み出している。この吐き気の外には身体の不調が見られないことからも、私の手でも途方に暮れるばかりであった。

「苦しいけんども、見事なもんだねえ」

 額に汗をにじませながらケラケラと朗らかに笑う女主に呑気なものだと言いたげな永倉様。元花行商の彼女にとっては嬉しいことだろう。

「何か心あたりはありませんか」

 もしかしたら知らぬ誰かも同じような症状を持っていて、もしかしたらその誰かから貰って来てしまったかもしれない。憶測でしかないが、昨日から昨夜までの間に何か切っ掛けがないかと尋ねる。そうだ、全てに因果が有るはずだ。赤い山茶花を弄る女主の答えを待つ。
 ううんと唸る女主を二人で凝視していると、ああ、という声と共に多彩な蝦夷菊をぼろぼろと吐き出した。あまりの多さに永倉様が女主の背を擦りなさる。何とか胸を整えた彼女は、

「花ばかりを持った軍人さんと、昨日会ったかな」
「それは、貴女のような華でしたか」
「たぶん私のような華だったんじゃあないかねえ。窶れた顔で腕一杯に花を持っていたから、気を惹かれて話しかけたんだよ。もしかしたらきっと」
「貴女のこれが奇病であると仮定して、その軍人と似ているところは他にありましたか」
「いんやあ・・・・・・」
「兵営か師団に尋ねられると良いのですが・・・」
「そうもいくまい」

 私の身の上を知る永倉様がぴしゃりと嗜める。無論私も理解している。しかし、現時点での最も有力な情報を逃すことはできない。結局、女主の義妹と甥を華にまみれた部屋へと招いて事情を伝え、師団医とも顔見知りの甥が師団に赴くことで話が纏まった。
 華を吐く以外には特段症状も見られないし、夜通し吐き続けたことで幾ばくか慣れてきたらしい彼女がもう暫くは大丈夫だというので、その言を信じて今日のところは散会することとなった。

「明日も、来ますからね」

日々草を口から溢した女主が目尻に皺を寄せ、待ってるよと微笑む。

早く彼女に安寧を祈るばかりだ。