健兄が警察署へ連れて行かれた。夏希先輩が追いかけようとしていたけれど、車に追いつけるはずもなく。私はただそれを眺めて泣いている事しかできなかった。
私って、無力だ。

健兄達のいなくなった室内は静まり返っていて、少しの後立ち上がった私はふらふらと歩き出す。

「ちょっと?」

前触れなく動き出したせいか、それとも足取りが覚束無かったせいなのか直美さんが不審気に声をかける。今の私はただの邪魔者で厄介者だ。

「螢ちゃん……?」
「……夏希先輩。私、帰りますね」

私の言葉に不安気な表情をしていた夏希先輩の顔が歪んだ。

「待って、螢ちゃん!」
「迷惑かけてごめんなさい。お世話になりました」
「でもほら、今交通機関とかも混乱してるって」

以前から慕っていて、丁寧に剣道を教えてくれた夏希先輩は昔の私からすれば憧れであり、太陽みたいな人だった。けれど今、私はそんな人の声に耳を傾ける事もしない、歩みを止めない。
早く荷物を纏めて、東京に帰ろう。例えそこにお帰りを言ってくれる人が誰一人いなくとも、東京には私の家がある。

「逃げんの?」
「っ佳主馬君」

いつの間にいて聞いていたのか、そこには佳主馬君がいて、私を無表情に近い表情で見下ろしていた。
だって、

「お兄さん置いて東京帰るって、正気?」
「だって……健兄がそう言った」

妹が無事東京に帰れるまで、ここにいさせてほしいと。健兄は自分が腕に手錠をかけられながらもそう願ったのだ。
だったら無力な私は、それに従うしかできない。いや、たった一つ、それだけならできる。早く帰らないといけない。この家にこれ以上の迷惑もかけれない。

「ふうん……ま、別に止めないけど」

キッと結局腫れたままの目で佳主馬君を睨む。分かってはいたけど、それならどうしてわざわざ突っかかって来るの。嫌いなら嫌いで放っといてくれれば良い。人にここまで苛立ったのはもしかしたら初めてかもしれない。

「追いかけたいなら追いかけたら……良いと思う。大事なお兄さんなんじゃないの?」

視線を反らして言う佳主馬君は、こういう状況に慣れてなくて、慰め方を知らないんだ。その言葉を聞いてようやく気が付いた。
そうだ。大事な大事なお兄ちゃんだ。私が生まれた時からずっと一緒にいる。誰よりも長く誰よりも理解してくれた。私がその優しさにつけこんで我儘を言えばなんだかんだ言って聞いてくれて、かくれんぼで鬼になっても全然見つけられないクセして、私が迷子になれば絶対に見つけてくれた。記憶の節々に登場する私の13年間の、ほんの昨日まで覆らなかったヒーローだ。

「っうあぁん!」

内側にあった何かが弾けるような衝撃が全身を襲って、大粒の涙が流れる。ああ私、今日だけで泣くの何度目だろう。それを考えるのもまた、泣き止んでからである。

「螢ちゃん!」

と、突然大きな声で私を呼んだのは夏希先輩である。突然の声に驚いた私は間抜け顔。彼女の手に持った携帯電話の画面には見覚えのある猿のアバターが見える。

「健二君、追いかけよう!」


***


螢は夏希と共に落ち着きなく屋敷を出た。翔太さんの車を追いかける為に協力を頼んだのは理一さんだった。それに足として利用するのは彼のバイクで、玄関先にて二人で乗り込もうとしてはたと気付く。
サイドカーはついているものの、この渋滞ではそこに健二と翔太を連れて帰らなければならない事になる。今螢と夏希の二人が乗れば、明らかな定員オーバーだ。「螢ちゃんが行った方が良いんじゃない?」と少しだけ困った顔をする夏希の背中を押したのは螢で、バイクの後方に座るよう促す。
こういうのは妹じゃなく、彼女候補が行くべきでしょう、やっぱり。
バイクが怖いとか少しでもこの腫れた目を直しておくとか適当な理由を並べあげ、代わりに早く健二を迎えに行ってあげてほしい、と頼んでから螢は笑った。

夏希が理一のバイクに乗り走っていくのを見送り、螢はまた涙腺が弱まりかけたのを感じて急いで堪える為に目を瞑った。
健二が帰ってきたら、真っ先に謝らなければいけない。泣いていたら、また健二に心配をかけるだけだ。

「なかなか、意地っ張りだよね」

目元を早く冷やさなければならない。台所へ向かう為に螢はくるりと振り返るが、そこには佳主馬が門に身体を預けた状態で立っていた。人がいるとは、それもまさか佳主馬だとは思ってもおらず、一瞬認識が遅れる。

「……あの、ごめん。さっき。言い過ぎた」

突然の彼からの謝罪にぽかんと呆ける。少しだけ言い辛そうに言われた言葉に、追いついた螢の脳がその意味を理解する。同時に、きゅうと息が詰まった。

「……私も、最低だなんて言ってごめんなさい」

どちらからともなく視線を下げてしまい、お互いに表情を読み取れない。今顔を上げるのも億劫だ。だから残念ながら佳主馬に螢の心境は分からないし、螢に佳主馬の考えを察する事も不可能だった。

「でも、佳主馬君。突然謝るなんてどうしたの?どうしてさっき、慰めてくれたの?私の事嫌いなんでしょ?」
「はあ?嫌いじゃないって!嫌いなら関わらないし、むしろ……!」

佳主馬の勢いが止まる。自分が何を言おうとしているのかにまだ冷静な頭のどこかが忠告したらしく、彼はぴったり固まりついた。いつも日に焼けて黒っぽい顔が今は心なしか、いや、確実に赤い。

「むしろ……?」
「……っああもう!」

この子は本当に!一々率直に口に出さないと理解できないのか!お兄さんも言う程なだけあって、本当に鈍すぎる。鈍いったって程度があるだろうに!
自分はわざわざ興味のない人間に対して道案内なんてしないし(口答でならともかく)。OZでのアバターなんかは絶対言わない、何故ってミーハーな奴恨みのある奴にバレたりなんかしたら生活に支障が出るだけだ。何より、言い過ぎで僕は人に謝罪なんかする性格なんかじゃない。
少なくとも僕にしては不服ながら、かなり分かりやすく態度に出てしまっていたのに、これで嫌われてるなんて思うアンタって一体どんな頭してんの!?

頭の中でぐるぐると文句やら問答を繰り返す佳主馬だったが、実は普段からここまで螢は鈍い訳ではない。今螢がとても鈍く思うのは、元々の鈍さ半分と思い込み半分だ。思い込みとは、勿論佳主馬が自分を嫌っているという認識である。

「えっと……嫌ってない、むしろって事は、好き?」
「っ!」

あぁ、終わった。自分の口で言う事すらなく、ばれた。
さっきまで気付かない事に腹を立てていたはずの佳主馬が、今度は気付かれた事に絶望する。随分と勝手なものである。
さて、佳主馬は開き直ってここで改めて告白をするべきだろうか。それとも、隠すべきだろうか。後者は多分、いや確実にまた螢の中であらぬ誤解を生む結果になりそうだが。
佳主馬が出した答えは、肯定だった。

「……うん」
「……なんだぁ、そっか。嫌われてなんてなかったんだ」

心底安心したように微笑した螢はやっぱり目元が赤いが、そんな女の子としてNGな顔をしていても恋する男、佳主馬には通用しない。言ってしまった、と顔から湯気が出そうになっている彼の姿は一族の誰が見ようととても貴重だ。

「じゃあ、これからも仲良くしてね!」

佳主馬が珍しく眩暈を起こしたのは、勿論顔の熱のせいじゃない。


彼女の脳内ブラックホール

‐‐‐‐‐‐
謎だらけってことで。

2010.09.19.sun

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