「母さんが目を覚まさないのよ!体も冷たくて」
「螢ちゃん、人を呼んできて頂戴、急いで!」


それはこの陣内家の敷居を私が跨いでから、ほんの3日目の朝。夜明け前の出来事だった。
騒ぎを聞きつけてぞろぞろと大家族が集まってくる。その中でも万作おじさんの登場はとても早かった。いや、早すぎた。内科医で大おばあちゃんの体調管理も受け持っているという話だから、何か嫌な予感があって慌てて走ってきたのかもしれない。

そこからはもうひたすら夢心地で、ぼんやりと部屋の入り口で蘇生法の繰り返されている様を眺める。大おばあちゃんを囲む人達の声が悲鳴のようになった事も、遅れてきた健兄の声かけも何もかもが遠かった。切り取られた世界。まるで私は今、テレビ越しにこの光景を眺めているようだ。
これが、事態に実感が沸かないって事?

「5時21分―」



89年と364日目の夜明けと共に、大おばあちゃんは息を引き取った。
それからしばらくは誰一人その場を動かなかったけれど、医者である万作おじさんが縁側に腰かけて話し出した事で、ようやく時間が動き始めたような感覚がした。

「狭心症でな。ニトロ処方してた」

一人として違わず万作おじさんの声にひっそりと耳を傾けている。
まだ室内から去る人はいない。目を離したらいけないと言うように見つめ続ける人もいれば、その場で喉をひくつかせている人もいる。私はと言えばふと頭に浮かんだ事を実行すべく、1人その場から足を動かし始める。昨日も使った如雨露を庭の隅から取り、部屋に近い場所にある朝顔の植木鉢を一周見回した。

陣内家全体が沈む中、主人を待つ朝顔達に1人水やりをしていく。

一つ一つの朝顔に目をやりながら、ふと昨日までこれは大おばあちゃんがしていたんだという事実が頭の中に思い浮かぶ。昨日なら隣に大おばあちゃんがいたんだ。たった一度だったけれど、一緒に水やりをして花札で遊んだ昨日の記憶がひどく懐かしくて、大切な時間に思えた。

「寿命……だろうなぁ」

夜明けと共に活動を始めたらしい蝉達の声と万作おじさんの長く息を吐き出す音とが混じる。煙草の匂いが風に乗って微かに薫った。
偉大な人が亡くなった朝も、真夏の空はカラリとしてまるで笑ってでもいるようだ。ポタリと如雨露からでない水滴が朝顔の蔓に落ちた。

「……うぅ」

悲しいとか悔しいとか、いわゆる負の感情というべきものが身体中を駆けて、誰にも聞こえないくらいの小さな、振り絞るような呻き声が漏れた。今になってようやく現実に実感が追いついたらしい。
あの夢はきっと予知夢だった。私に知らせてくれていたんだ。なのに、私がもっと急いで確認しに行っていれば変わったかもしれない。その間におばあちゃんはきっとひとりで苦しんでた。なのに!

自然と眉間に力が籠る。一度零れた涙を自力で止める事はこんなにも難しい。止めどなく目尻から溢れる雫と、如雨露を持っていない手との攻めぎ合い。
此処にはずっと大おばあちゃんを慕ってきた家族がたくさんいるのに、ぽっと出の私がぼろぼろ泣いてるなんて何だか可笑しい気がしてならないのだ。だから私は声を殺しているし、だから涙を懸命に拭っている。
万作おじさんの話し終えた後、少しずつ人の気配が減っていく室内だけれどまだ大半の人間がその場を離れられないでいた。
こんな姿は陣内の人達には見せられないと、水やり途中の如雨露を置いて私はその場から逃げ出した。





おばあちゃんの部屋を離れて屋敷を横切っていく。着いた先は裏山で、森林生い茂るそこは先程までと打って変わって少し影になっている。
それが表情を隠すにはちょうど良いのかもしれない……とは言え今こんな状況の中でこんな場所に人がいるとは思えないから、誰かとバッタリなんて事はないだろうけど。

「なに、隠れてんの」
「……佳主馬君?」

バッタリ会う事はなくとも、どうしてか着いてくる人がいたらしい。「また迷子になりたいの?」と皮肉と一緒に青々とした草の根を踏む音がゆっくり近付いてくる。木の影で見え辛い顔がそれでようやくはっきりとしてきた。
私が人の影に驚いたのは、健兄が夏希先輩をひどく心配していて、そういう事をする人物を他に考えなかったからかもしれない。

「佳主馬君には、関係ない」
「関係なくない」

関係ないじゃん。私が勝手に自己嫌悪してるだけなのに。何より私は今、この顔を人に見られたくない。大体今佳主馬君が一緒にいるべきは他にいるんだから。聖美さんとこにいてあげないと駄目でしょ。妊婦さんなのに、お父さん不在の今佳主馬君が傍についていないでどうするの。
大方泣いてるのに気付いちゃったから見て見ぬフリはできないとかそういう事でしょ?佳主馬君は少し優しすぎるんじゃないかな。
なのに佳主馬君はどこで何しようが自分の勝手だ、なんて言う。それは確かにそうだけど、それならどうしてわざわざここに来たの?

「螢が泣いてるから」

ほら、やっぱり優しいんだよ。でも今は1人でいたいんだよ。放っとくのも時には優しさかもよ。

「泣くなよ。螢が泣いてるの見たくないんだけど」

なにそれ。なんでそんな事言うの?泣くなって言われるとなんか、余計泣けてくる。ぶり返してくるというか。感情が高ぶって、また息が上手くできなくなってくるんだ。

「っなんでまた泣くのさ!?」
「変なんだよ、誰も声上げて泣いたりなんかしないのに……ほんの1日2日一緒に過ごしただけの私が勝手に泣いてるの」

焦ってるのか驚いてるだけなのか、佳主馬君が少し慌てているのが視界の端に映った。声色もいつもの淡々としたものとは違う。私はと言えばそれはもう完璧に泣き癖が再発してしまっていて。

「我慢しなきゃって思ってるのに、なのに」

それなのに、押し殺そうとすればする程しゃくりあげるように声はむしろ酷くなっていくし、目頭に感じる温度は増して涙を拭き取ろうとする手は濡れていくばかり。

「なんで我慢すんの?」

あとで目が腫れるのを分かっていながらぐしゃぐしゃに擦ってしまう。それはおばあちゃんに近しい人が目の前にいるから、見られちゃいけないと考えてしまうからかもしれない。
そんな私の努力も知らないで言う佳主馬君の声は全くもって優しい。

「泣きたいなら泣けば良い」
「泣きたくないよ……泣けないよこんなの。場違い過ぎて、私なんかが」

自分を見下げたような物言いが気に入らなかったのかもしれない。私の言葉に佳主馬君が少し眉を顰めた。
「人が死んで泣くのに場違いとか時間とか関係ないよ」と呟いて。

「螢が悲しいなら泣けば良い」

その瞬間少し収まりかけていた目頭の熱がまた上がったように思う。
悲しいか、悲しくないか?そんなのは分かりきってる。

「、悲しいよ……悔しい」

自分の気持ちを口にする事でまた自覚をしたのか。何かが弾けたように流れた涙にも、佳主馬君は今度は何も言わなかった。私も少し俯きながらも、拭う事すらやめて話し続ける。
もしかしたら私は誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれないと思うほど、すらすらと言葉が溢れ出てくる。

「夢の中でっ大おばあちゃんが私を庇う……の。なんにもできないで、逃げてばっかりの私を!」

寿命。本当に?OZの混乱がなくても結果は同じだった?私があの夢を見なくても?あの夢をもっと真剣に受け止めて、もっと早くに気付いたとしても?
きっと予知夢だったのに、ちゃんと気付けなかった。私は何もできなかった。

「……そんなの真に受ける方が難しいよ」

酷い夢の内容にも途中で口を挟んだりしなかった佳主馬君の出した答えは、私を咎めるものなんかじゃなく。

「もしかしたら予知夢だったかもしれない。でもおばあちゃんが死んだのは病気で、夢みたく螢を庇ってじゃない」

それなら単に昨日の騒動で疲れて見ただけ、そう考える方がずっと自然だよ。
私の考えもしなかった方向に私の納得できる順路を追って誘導する彼の恐るべし話術と言ったら。無口は口下手のせいもあるものだと思っていたのに、それは感心の2文字に限る。

「さっき聞いてたろ、万作おじさんの話。OZが正常でもし健康管理システムが大おばあちゃんの異変をちゃんと知らせてたとしても助かったとは限らないって。寿命だって」
「……そう、なのかな?」

すっかりと重荷が下ろされたような、足枷が外されたような、なんと言うべきか今の私はとにかくそんな気持ちを味わっていた。

「私のせいじゃないのかな?」
「うん」
「じゃあ……泣いても良いのかなぁ」

「うん」もう一度繰り返されたその返事を私は心の底から待ち望んでいたようで、一瞬優しい笑みをした彼の顔はまた目元の水分量の増える事ですぐに見えなくなる。

よくよく考えたら確かに、自分の考えは酷く自己中心的だ。自分が夢なんか見たせいで大おばあちゃんを亡くしてしまったなんて言わないけれど、夢を見た私なら助けられたとか、夢を見たのは私なのに助けられなかったとか、十分すぎるくらいに傲慢な考えだ。
私は物語の登場人物、ましてや主人公なんかじゃないのだから。

いつの間にか日は随分と昇ってきていて、空はもう十分明るい。森の中にも少しずつ光が迫ってきている。夏らしい暑さが空気に広がる頃になるまで、私は声を押し殺す事すら忘れてわんわんと恥ずかしげもなく泣いてしまった。
そっと胸を貸してくれた佳主馬君は他に何をする訳でも何を言う訳でもなく、私が泣き止むまでただそばにいてくれるようで。
私の気持ちの整理がつくまでは、しばらくかかりそうだ。


夜明けの幕閉じ


2011.01.05.wed

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