この男は私を好きだと言った。初めて会った日から、これまで何度となく。
だから、私はいつもこう答えた。彼が「好きだ」だとか、「あいしてる」だとかそんな言葉を吐く度に、

「くたばれ」って。




「……勝負は一回限りよ。待ったもやめたもなし」
「望むところだ」

ピン、と指先が金属を弾く。
4つの目が見つめる中、軽やかに宙へ舞ったその銀色が素早く加速し、そして減速。くるくる回るコインが、まるでスローモーションみたいに見える。そして、視線よりずっと高いところで、停止。
そのまま来た道をまっすぐ戻るように私の元に戻ってきたコインを手の甲でさっと受け止めて、視線を上げた。
目の前には、眉を寄せて私の手を見ている、整った顔がひとつ。

「裏?表?」
「…………」
「早く決めてよ。思い切りが悪いわね男のくせに」
「煩い。表だ」
「男に二言は?」
「ない」

お互い仕事帰りの私服。コートを椅子の背に掛けて、テーブルには飲みかけのウイスキー。
カウンターの向こうで、店のママがため息とともに肩を竦める姿が視界の端に映った。まるでくだらないとでも言いたげだったが、私にとっては遊びなんかじゃない。人生を左右する、云わばターニングポイントだ。
お互い何かとサボり癖のある私たちだが、今は仕事のときとは比べ物にならない程真剣な顔つきで睨み合っていた。大佐である彼は私より階級が上だが、軍服を脱いでしまえばただの同寮、ただの男と女。遠慮なんて必要ない。この勝負、何があっても負けるわけにはいかない。

数秒続いた睨み合いから、先に視線を外したのは私だった。
視線を下ろして、ゆっくり右手を上げる。私と彼が同時に、右手と左手の甲の間にできた隙間を覗き込んだ。
影の中から、コインが光の下に晒される。
     きらりと光る真新しいコインが、堂々と、上を向いてそこに在った。

「……………………」
「私の勝ちだな」
「…………まじ?」

現れたコインは、どう見ても表。得意げに笑う準備をしていた自分の口元が、ぴくっと揺れるのを感じた。
思いもよらない結果に驚きが大きくて、私はコインを見つめたまま停止する。表。どう見ても表。目をこすって、ゆっくり瞬きして、深呼吸して、もう一度コインを見る。やっぱり表。
目の前でロイが口角を上げるのを視界の端に入れながら、私は背中を嫌な汗が伝うのを感じた。まさか、こんなはずはない。

「ありえない、なんでこうなった。本気でありえない」

自分の手の甲からコインを持ち上げて、ひっくり返す。表面からひっくり返したのだから、当然現れたのは、コインの裏側。……おかしい。まずこれ自体がおかしい。表の裏側に裏があることが。
運任せの勝負だったが、私は勝利を確信していた。その理由は至って明快。私が投げたコインが、普通のコインじゃなかったからだ。

正直に言おう。私、イカサマしました。両面裏のコイン投げました。
今後の互いの人生を揺るがす一大選択、しかも一度きりの大勝負とくれば、格好つけで自信家の彼が選ぶのは、ほぼ65%の確率で「表」。その他雑多な可能性を考慮し、キャリアとともに磨き上げた自慢のプロファイリング能力を仕事の時以上に発揮して確率を弾きだし、周到に偽のコインまで用意したはずなのに、なんで負けた?
というか、いつの間にコインは正規品にすり替わってたの?私のイカサマコインどこいった?

「ま、こうなる運命だったと思うことだな」
「思えるか!!ああダメ、絶対いやよ私!」
「勝負は一回限り、待ったもやめたもなし、だろう?」

先程までの緊張の面持ちから一変して上機嫌に笑う目の前の男に、私は殆どパニックになっていた。思わず立ち上がり、否定の意を込めて首を横に振れば、先程の私の言葉を一言一句違わず繰り返される。
そう。もちろんそのつもりだったのだ。私が勝って、彼が負ける。待ったもやめたもなし。これが私の想定していた結末だった。
勝利を疑っていなかったからこそ出た言葉。それがこんな風に自分に返ってくるなんて。

「まだチェスの方が勝機はあったのにな。面倒臭がってコイントスでいいと言ったのは君だぞ」
「だって絶対勝てると思ってたもん!」
「それは災難だったな」

取りつく島もない彼の態度に、私は絶句して言葉もなく口を開けたり閉じたりする。頭の片隅に僅かに残った冷静な自分が、まるで間抜けな金魚のようだ、と自分を評価した。
音もなく椅子に座り直して、私は頭を抱えてため息をついた。今更結果は変わらない。絶望感に身を委ねて、テーブルにガツンと額を預ける。
そんな私の後頭部を、彼の大きな手がぽんぽんと撫でた。いつもなら振り払って罵声のひとつも言うところだが、そんな気力すらない。むしろ、振り払うことにもはや意味を感じなかった。
勝負に負けた私は今や、彼がどれだけ私に構おうと、文句を言える立場ではなくなったのだ。

「……ていうか、災難だったな、とか言っちゃうんだ?自分のことなのに」
「捉え方は追々変えてやる。いつまでも後悔していられると思うなよ」
「自信満々だなおい。ロイのそういうところが大嫌いなんだよ私は」
「今に好きになるさ」
「うーーーーわーーーーーー何言ってんのこの人気持ち悪い気持ちわる、い」

彼のナルシスト発言にドン引きして軽蔑の視線を向けた、その刹那
唇の上を温かい感触が走った。
驚いて目を見開くと、乗り出していた彼と至近距離で視線がぶつかる。たった今触れた口元がふわりと弧を描いて、彼が笑う。……不覚にもその笑顔を眩しいと感じてしまったことは、彼には絶対、一生秘密だ。

「……何すんの」
「まぁ、とりあえずの契約証明にな。頂いた」
「頂いたじゃねーよ調子のんなよコノヤロウふざけんな」

ああもう、バカ、変態、無能、すけこまし。
思いつく限りとめどなく彼を罵りながら、私は脱力して再び頭をテーブルに預けた。隣でガタガタと椅子の音がする。彼が立ち上がったのが気配でわかった。靴が床を踏む鈍い音、コートの擦れる音。それらの雑音に混ざって、上機嫌な笑いが頭上から降ってきた。と同時に再び後頭部に彼の手の感触。
ああ、もう、早くどっか行ってくれ。顔をあげられないじゃないか。

「自分の人生をコインに託したお前が悪い。……あぁ、それから、これは返しておこうか」

すぐ近くで固いものが転がる音がして、私は少しだけ視線を上げた。
テーブルの上で、シャラシャラと音を立てて廻っている小さなコインが目に入る。掌でそれを叩いて動きを止めると、私はコイン持ち上げて、そして眉を寄せた。
店の照明を浴びてキラキラ光るそれは、私が用意した、両面裏のイカサマコインだった。


「勝負は公平でないとな?」


囁くような声が耳の後ろに聞こえて、私は慌てて耳を押さえて振り返った。が、すでに彼はこちらに背を向け、背中越しにひらひらと手を振って出口へと足を進めている。その優雅ともいえる振る舞いに、思わず盛大に舌打ちをした。

イカサマコインを指先で弄びながら、いつの間にすり替えられていたんだろう、と眉を寄せる。そもそも私の企みに、彼はいつから気づいていたんだろう。知ったうえで勝負に乗っていたのだとしたら(流れを考えれば当然そうなのだが)この上なく意地の悪い男だ。惚れた女を騙すなんて。

「(……でもまあ、私も騙したようなもんか)」

結局騙しきれていなかったけど。そう思いながら、表のないコインをテーブルに転がした。当然、コインは裏側を上に向けて、ことんと倒れる。
最初からあの男の手の上で踊っていたような気がして、私は更に顔を歪ませた。ああ、だから嫌いなんだ。歳もそう変わらないというのに、あの大人の余裕がムカつく。
こっちは、赤い顔を隠すだけで精一杯だったというのに。

「……あーあ、」

さて、どうしたものかな。
熱い頬を両手で包む。どうして私、ドキドキしてんだろ。この世で一番嫌いな男のせいで跳ねるこの心臓に、杭を打ち込みたい気分だ。
先日の口約束を心の底から後悔しながら、私は飲みかけのウイスキーを勢いよく煽った。


『 じゃあ、私に勝てたら結婚してあげる 』


神さま神さま、どうやら私は選択を誤ったようです。





いっそ骨抜きにしてやろうか

===2012.10.03