金曜日とは、いわゆる週末、というやつで。この日を迎えるのがあたしは結構楽しみだったりする。
翌日は土曜日。ということはつまり学校に来なくていいわけで、部活なんて青春かましてないあたしにとっては一日家でごろごろごろごろマンガ読んでゲームしてコンビニへ出かけてお菓子とジュースを買いこんでまた家でごろごろごろごろごろごろ出来る2日間を迎えるプロローグである。

こんな魅力的なことってない。うん、他にない。そして、今日はその念願の金曜日だ。
グラウンドは既に運動部の生徒達で賑わい、秋の空は少しずつ赤みを増していた。夕暮れ時の暖かな陽に照らされた時計は5時少し前を示している。
いつもなら部活へ急ぐ波を背に校門を出て、来る平穏な休日に向けて意気揚々と歩を進めているころのはず。

なのにどうして、あたしはこんなところで雑巾絞ってるんだろうとか思うわけだ。

ギュッと腕に力を込めると、バケツの中の水が黒く濁った。所々破れた古い灰色の雑巾を広げて、あたしは窓の外を眺めながら窓ガラスをその雑巾で拭いた。
水に濡れた雑巾がガラスの上を滑る度、水滴が窓に白く薄い線を残していく。その線を指でちょっと撫でると、一部分だけ線が途切れた。
これじゃホントに綺麗になってんのかわかんないな、なんて考えながらも、そんな事で早く帰りたいと急く気持ちが変わるはずもなくあたしは「まいっか」とだけ呟いてその薄い線を無視することに決めた。
さっさと拭いて片付けよう、と思いながらちらっと時計を見る。掃除を初めてから、既に30分は経過していた。
そろそろ終わってもいい頃だろう。最後の窓を拭き終えて、あたしはバケツを持ち上げて部屋を出た。廊下に出て手洗い場に向かいがてら、たった今自分が出てきた扉の上にかかったプレートを恨みがましく見上げる。
「応接室」と書かれた黒いプレートにべっと舌を出して、あたしは重たいバケツを持ち直した。

「はぁぁ……早く帰りたいー」

手洗い場でバケツの水を捨てて軽く濯いだ後、雑巾を洗いながら小さく呟く。
そもそも何であたしが応接室の掃除なんかをしているかというと、話はあたしの低血圧へと帰結する。7時起きも5日目となれば体も悲鳴を上げてくるというもの。週末前、最後の金曜日。つまり今朝の事だ。
けたたましいアラーム音で起こされたあたしは半分眠ったままで無意識に目覚まし時計を殴りつけた。
その衝撃で時計は壁に跳ね返り床を転がり、買ったばかりだった目覚まし時計は早々と天へと召されることとなりました。はい、ご愁傷さまです。
その後30分経ってようやく目を覚まし慌てたあたしの八つ当たりで再度床を跳ねることになるが、それについては大人気なかったと反省してます。

単純明快に事実だけを説明すると、そう、つまり寝坊ですね。
慌てて猛ダッシュしてみたがその苦労も空しく、校門前で風紀委員にしっかり名前を書きとられてしまった。
しかもそのことを友達に話したら「殺されずにすんで良かったじゃない?」と呆気なく言われてしまった。まあ、確かにその通りなんだけれども。その通りなんだけれどもなんか腑に落ちないというか。
だって、まさかたった1回の遅刻で罰則掃除なんて!
遅刻常習犯らしい1年生が例のトンファーで殴り倒されるシーンを見た直後は「掃除で済んで良かった!」と心から思えたが、時間が経つにつれ脳は常識的に働くようになり、たった1回の遅刻に対して重すぎる罰に対し怒りが湧き上がってきた。
とは言っても、あの風紀委員長に面と向かって文句など言える訳もなく、あたしにできる事と言ったら洗い終わった雑巾をバケツに投げつけることぐらいなのだから余計に腹が立つ。ああ、もう、やってらんない。

バケツに放られた汚い雑巾を見送って、あたしは両手を広げて顔を顰めた。……手が、なんとなく牛乳みたいな匂いがする。うえー、きもちわる。そう呟いて慌てて蛇口をひねって、雑巾の匂いが付いた手を念入りに洗う。
石鹸の泡に包まれた両手を見ながら、あたしは何度目かわからないため息をついた。


バケツと雑巾を片付けに応接室へ戻ろうとして、あたしは扉の2、3歩手前で足を止めた。
なんと、閉めてきたはずの応接室の扉が開けっ放しになっている。
あたしは眉を寄せて、そろりそろりと慎重に歩を進めた。閉じてあった扉が開いてるってことはつまり、誰かが扉を開けて中に入った、ということで。当然、風紀委員の可能性が高い。というかそれ以外考えられない。
暴力委員長だったらどうしよう…、窓の白い水滴の跡ちゃんと綺麗にしておけばよかったな。やり直しとか言われたらもう泣きたいわ。ぐるぐるそんなことを考えながら、入り口の端から少しだけ顔を出して、そろっと中を覗き込んだ。

嫌な予感というのは当たるもので、案の定部屋の中には人がいた。
黒い革張りの高級そうなソファに腰を下ろした、学ラン姿の黒髪     頭が状況をそこまで理解した時点で、あたしは頭を引っ込めて「あぁ…」と声に出さずに呻いた。タイミング悪いなぁ、もう。
掃除だけ済ませてなるべく関わずにさっさと帰ろうと思ってたのに。
右手に持ったバケツを見下ろして、扉の横の壁に背中を預ける。掃除の終了報告を余儀なくされたこの状態を打破する術はないものだろうかと、あたしは頭を抱えた。
……いや、考えても仕方ない!あたしはぐっ拳を握って自分を奮い立たせた。
風紀委員長がなんぼのもんじゃい!!そうよ!だって悪いことは何にもしてないし、一人だから「僕の前で群れるな」とか言って襲われることもないだろうし!そうと決まればさっさと報告して片付けてとっとと帰ろう!夢のホリデーライフがあたしを待っているっ!

あたしは勢いよく踵を返すと開け放たれたドアの前に躍り出た。
ところが、口を開こうと思った瞬間、あたしは違和感に気が付いてピタッと動きを止めた。
姿を現せばすぐに視線が合うと思っていたのだが、目の前の人物は顔を上げる気配を見せない。それどころか、ソファに深く沈み込んだまま頭を背もたれに傾けている。

「(………寝てる!?)」

目を閉じて首を傾けて微かな寝息をたてているのは、言わずもがなこの部屋の主、不良の頂点に君臨する並盛の秩序、最強最凶の風紀委員長、雲雀恭弥。
あたしは姿勢を低くして、その不良とは思えない程整った顔を覗き込んだ。今誰かがこの廊下を通ったらあたしは完全に変態か不審者と間違われそうだが、そんなことを気にしている余裕はない。
あの風紀委員長が、扉も閉めずにこんなに無防備に寝ている姿なんてツチノコより貴重だ。いや、結構屋上とかで寝てたりする(風の噂、主にミーハー女子集団語録集より抜粋)らしいから、そこまで希少な事態ではないかもしれないが。

あたしはしばらく中腰で停止し、彼が完全に寝ていることを確認すると姿勢を正してバケツに視線を下ろした。
バケツも雑巾も、応接室の掃除用具入れのロッカーから拝借したものだ。当然ロッカーは部屋の中で、これをしまって帰るためには部屋の中に入らなければならない。あたしはごくっとつばを呑み込んだ。

「(と…とりあえず、起こさないようにして……っ、でも雲雀って、葉っぱが落ちる音でも起きる、みたいな話聞いたことあるんだけど……)」

そんな耳が良くてよく屋上なんかで寝れるな、とか思うわけだが今はそんなことどうでもいい。
あたしはゆっくり、なるべく無音で応接室に足を踏み入れた。彼は起きない。
気配を消してもう一歩進む。委員長の後頭部が見えた。彼は起きない。
壁際を這うようにすすんで、ロッカーの前までたどり着く。彼は起きない。
ここからが難関、ロッカーを開けなければならない。扉に手をかける。彼はまだ起きない。
ゆっくり、指先に力を込める。扉が数ミリ動いた。彼はまだ、

     カチン、


「……掃除終わったの?」
「!!」

ロッカーの扉が微かに音を立てて、背後から低い声があたしの背中に届いた。
壁に肩をくっつけるようにして立っていたあたしは慌てて背筋を伸ばして彼に向き直った。雲雀恭弥が、ソファの背もたれに片腕をかけてこちらを見ていた。

「たっ……たった今、終わりました、です……」

ついさっきまで眠っていたとは思えない鋭い目に、あたしは心臓をドキドキさせながらそう言った。すると雲雀は少しだけ目を細めて眉を寄せる。何かマズったか、とそう思ったとき、

「変な臭いがするんだけど」
「!」

彼の言葉に、あたしは思わず両手を握ってバケツと一緒に背中の後ろへ隠した。

「ぞっ、雑巾が古くて洗ったんですが臭い取れませんでしたもう新しいのに換えた方がいいと思いますよ!」
「……ふぅん」

一気にそう言い切ると、風紀委員長は短く返事をして再びあたしに後頭部を向けた。
あたしはドキドキしながら少しの間その場に突っ立っていたが、彼はそれ以上何も言わなかった。とりあえずあたしはこの居心地の悪い場所から逃げ出そうと、ロッカーを開けてバケツと雑巾を素早くしまった。パタン、とロッカーを閉じて、もう一度風紀委員長に視線を向ける。眠っているわけではないが、何かしている様子もない。
……やっぱり、黙って出ていくのはまずい、よね。
扉の前まで戻って、あたしはすっと息を吸って勇気を振り絞った。

「あの、……じゃぁ、失礼します……」

目を見て言う自信がなかったので、あたしは言いながら深々と頭を下げた。

「うん、ご苦労様」

返事など期待していなかったのだが、下げた頭の上にそんな言葉が降ってきて、あたしは一瞬目を丸くした。視線を上げると彼もこちらを見ていて、ばっちり視線が合ってしまった。畜生、頭上げなきゃよかった。
あたしはもう一度頭を下げて、今度は視線を向けずに廊下を走り出した、が、2歩進んだところで廊下を走っていたため風紀委員に粛清されていたクラスメイトの姿を思い出して歩幅を緩めた。

任務完了、脱出成功。
鞄を取りに教室へ向かいながら、頭の中で呟いてあたしはようやく盛大にため息をついた。ああ疲れた。まさかあの風紀委員長が、「ご苦労様」なんて言うと思わなかったなぁ。肩をぐるぐる回して鳴らしながら、あたしは少しだけそんなことを考えた。
何はともあれこれで幸せいっぱい週末を楽しめる。あたしは誰もいない廊下で、両拳を突き上げた。



その後窓に残った白い線が雲雀のお気に召さなかったらしく、翌月曜日、あたしは再び応接室の掃除を命ぜられることになってしまった。
雑巾は真っ白な新品に変わっていて、水吸いにくくて非常に使いづらかったです。





牙の裏側に見えた言葉

===2011.10.09