式なんて不要だった。
理由は、彼にとってこの結婚が愛のない形だけの関係だったから。
誓うべき愛が見つからないのは、至極当然のことだと思う。私は彼の妻となったけれど、私たちはお互いを求め合うわけでもなければ、抱きしめたり、キスをしたりするわけでもない。ただ離れているのは体裁が悪いからという理由で、同じ屋根の下に暮らしているだけ。

それだけの、関係。


「紅茶を淹れましょうか?」
「いや」

黙って朝食の席に着いた彼に、おはようの後にそう声をかける。帰ってくるのは短い返事のみで、「おはよう」の言葉はない。当然だろう。彼は自ら望んで私の「おはよう」を受け入れているわけではない。
私たちはただ、己の身を守る術のひとつとして、お互いを利用している。だから私も返事など期待しない。
彼から「おはよう」と言葉が返ってきたことはこれまで一度もないし、これからもない。
私は自分の紅茶だけ淹れて、彼の背中側にひとつ置いてある古い木の椅子に腰かけた。
彼の腰かけている席の真向いの椅子は空いたままだったが、朝、私がそこに座ることはほとんどない。
物を食べている姿を真正面から人に見られるのを、彼が嫌うからだ。

私はいつも彼より早く起きて、自分の朝食をさっと簡単に済ませ、彼の朝食を作る。テーブルに並べる頃には彼が起きてきて、私が「紅茶を淹れましょうか」と聞く。そして彼が「いや」と短く答える。
それが日常の朝だった。10年以上繰り返されてきた、この家での朝の光景。

「書斎を片付けたのか?」
「ええ、昨日。明後日には学校に戻らなきゃならないし、そろそろ片付けておかないと」
「そうか」

昨夜にでも書斎に入ったのか、食事中の彼にしては珍しくこちらを振り向いてそう声をかけてきた。
けれどやはりその会話が長く続くわけもなく、彼は私の返事を聞くとさっさと朝食へと向き直る。
私も大して気にすることなく、広げた新聞へ視線を落として、一面に大きく掲載された指名手配犯の顔写真を見ながら紅茶を啜った。

連日うるさく報じられているこの男のニュースのせいで、彼はここのところいつも不機嫌だった。とりわけ暴れたり、文句を零すわけではないが、腹を立てていることは確かだ。態度には出ていないが、空気に出ている。
何年経っても迷惑な男、と写真を見下ろして、私は静かに新聞を捲った。

二面も変わらず例の脱獄犯の関連記事が続いていて、2秒とせずにまた新聞を捲る。
そして三面の記事でようやく別の写真を見つけて、私は手を止めた。
それまでの凶悪な殺人鬼からうって変わって、写っていたのは幸せそうな夫婦だった。魔法省の高官の挙式の様子らしい。正装した若い男女と、その2人を祝福するように囲んでいる人々の写真。
花嫁衣裳に身を包んだ女性が男性に引き寄せられて、カメラに向かって幸せそうな笑顔を向けている。
写真を数秒見つめて、私は思わずため息を漏らした。

幸せそうな花嫁に、羨望を抱かないと言ったら嘘になる。女なら誰だってそうだ。
学生時代には、美しい衣装に身を包み、心から愛し愛される誰かの隣にいれるだけで満たされる日を思い描いたこともあった。友人たちが祝福する、幸せな結婚式を。
けれど私と彼の間にある関係には、「幸せ」という言葉はあまりに似つかわしくなかった。


「セブルス、」


中身のない愛を誓ったところで、偽りでしかない。
結婚を発表したとき、作り笑いの世辞で「おめでとう」を言ってくれる人々に向かって笑顔を向けるだけで、周囲を騙すには事足りた。だから、式までやる必要はなかった。
少なくとも、彼にとっては。

私の声に振り返った彼を見て、ふと思いついた様に言葉を繋いだ。
答えは分かりきっている。どうせ、言っても言わなくても結果は同じ。でも、どうせ同じなら意志だけでも伝えておきたいと、唐突に思った。この先、死ぬまで一生傍にいられる事なんてないのだから。
私は、これまで十数年、秘かに抱いてきた願いをぽつりと言葉にして吐き出してみた。

「写真を撮らない?」

ああ、ええ。やっぱりね。
伝えた直後の彼の顔を見て、私は思わず笑ってしまった。

「写真?」
「そう」
「……必要なのか」
「いいえ」

ほんの一瞬驚いた様な色を見せるけれど、次の瞬間には、まるで開心術を使っているんじゃないかと思うほど慎重にこちらを観察してくる。私が少しでも日常から外れた発言をすると、彼はいつもこうだった。
あまりにも予想通りの反応。その反応を少し残念に思いながらも、安心している自分に気付いた。
所詮私も、2人の「日常」から外れることを嫌う臆病者なのだろう。これが私たちにとって日常の平行線で、そこから外れることは決して許されない。だから私は思うのだ。
結婚は、万人にとっての「幸せ」と同意ではないと。


「ただ、思い出に」


答えは分かりきっている。どうせ、言っても言わなくても結果は同じ。けれど言わなければよかったとは思わなかった。ほんの少し、日常で見える彼の、いつのも表情が崩れた。それだけでも良しとしよう。

「必要ないだろう」
「それもそうね」

無理強いすることも、乞うこともない。彼と結婚しようと決めたとき、そう自分に誓った。
彼は再びテーブルに向かい、朝食を食べる。背中越しに小さく食器のカチャカチャという音が聞こえた。私はその背中をしばらく見つめて、そして手元の新聞に視線を戻す。
幸せそうに手を振る夫婦の写真がくしゃりと音を立てて、そして紙の裏側へ消えた。






この愛は君を縛らない

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2012.09.23