「おーいリア、死ぬなよー」


積み上がった書類の向こう側から声がする。
死ぬなよ、とは言うものの、対して心配そうな声色に聞こえないのは、相手も大概死にそうだからだろうか。机に突っ伏した状態で停止していたリアは、数秒開けてからようやく口を開いた。

「無理です無茶ですもうわたし死体ですから話しかけないでください」
「これ追加資料だ。期限は朝日が昇るまでな」
「……先輩、AKUMAより悪魔ですね……」

顔を上げないまま蚊の鳴く様な声で呟けば、耳元にドサッと資料を投げ出される。その音に、ようやくリアは顔をあげた。
不機嫌さを隠そうともしない口元は真一文に結ばれ、額には書きかけの数式がうっすら写っている。疲れた目を数回瞬いて、首を回す。凝り固まった首がポキポキと鳴った。

「リアー」
「はいー?」
「班長、な」
「あー……すいません」

書類の山の向こうから、リーバー班長が諌める様な口調で言った。班長。そう言われて初めて、彼を先輩と呼んでしまったことに気付いた。

リーバー班長。未だに、この響きには慣れない。彼が化学班班長になってから、早2ヶ月が経とうとしている。
周りの班員たちはとっくに「リーバー班長」に馴染んでいるというのに、リアだけはどうにも「先輩」の癖が抜けずにいた。
これまでも何度か注意され、その度に訂正するのだが、気が緩むとまた元に戻ってしまう。

「っはあぁぁぁああああぁ」
「重っ苦しいため息つくなよ、気が滅入るだろ」

殆ど叫び声と言ってもいいような重低音で息を吐けば、書類の向こう側から暗い声が返ってくる。それでも、紙の上を走るペンのガリガリという音は鳴り止まないのだからすごい。おそらくリーバーは今、視線も上げずひたすら数式と戦っているんだろう。それこそ、気が滅入るほど長くややこしい数式と。
対してリアが手に持った羽ペンは、インクを付けただけの状態で放置されている。わたしも頑張らなきゃ。そう自分を叱咤して、ペン先の乾いたインクを拭う。けれど、襲い来る眠気だけはどうしようもなかった。何せ、もう2日間もまともに寝ていないのだから。
眠気覚ましにコーヒーを煽ろうと、リアは自分のマグに手を伸ばした。……が、軽い。右手に掛かる軽量感に眉を寄せて、マグを傾ける。覗き込むと予想通り、マグは空っぽだった。

出鼻をくじかれたような気分になりながら、リアはマグを片手に席を立った。欠伸を噛みしめながら、寝ぼけ眼でコーヒーの入っているであろうフラスコを持ち上げる。傾けようと視線をおろして、リアは思わず「お、」と声を上げた。
まただ。やけに軽いと思ったら、マグと同じくフラスコの中まで空っぽだ。コーヒーが入っているはずのそれを目線の高さまで持ち上げて、ニヤリと口角を上げる。
コーヒーがない。つまり、調達しなければいけない。他のどこかから    たとえば、食堂から。

「班長!!コーヒーがありません!」
「あー」

振り向いて、空のフラスコをめいっぱい振って見せる。
リーバーは視線を上げることなく、気のない返事を返した。
ここから見えるのは彼の後ろ姿だけだ。相変わらず左手のペンはひたすら動いている。
リアは丸まった背中に近づいて、期待顔でフラスコを握りしめた。

「コーヒーがないと仕事ができません!ゆえに大至急ジュリーさんに貰いに行ってきますっ」
「2分で戻れよ」
「……ついでにみんなの分のコーヒーと夜食も貰ってきますから15分ください」
「2分しか認めん」
「(悪魔め……)」

期待を裏切る辛辣な言葉に、リアの目から輝きが消え去った。ちっ、と聞こえない程度に舌打ちして空のフラスコを乱暴に元の位置へ戻すと、諦め顔で自分のデスクへと戻る。空っぽのマグを元の位置に戻して、羽ペンを持ち上げながら深々と息を吐いた。

「コーヒー貰いに行くんじゃないのか?」
「2分じゃ往復ダッシュじゃないですか。行きませんよ」

ペンをインクに浸しながら、リアは不服そうに頬を膨らませて言った。先程まで鳴り止まなかった彼のペン音が止んでいる。代わりに、書類の山を漁っているのか、紙の擦れる音が耳に届いた。
リアの言葉に対する返事はなかったが、今頃向かい側の彼は、資料の向こうで困ったように苦笑しているのだろう。
視線を上げて、目の前の紙束を見上げる。持った羽ペンが一文字も綴らないうちに、リアはその向こう側へ声をかけた。

「…リーバー先輩」
「ん?」

多分、まだ彼の視線は上がっていない。
そう思ったら、どうしてもその目をこちらに向けさせてやりたくなった。


「先輩のコーラください」

ぴたりと、向かい側の作業音が止まった。かと思えば数秒後、呆れたようなため息が聞こえてくる。そして、椅子を引く音。
視線が絡んで、思わず頬が緩む。資料の山の上から顔を出したリーバーに、リアは嬉しそうな笑顔を向けた。

「……ほら」

差し出された「泡」と書かれたリーバー専用のカップを受け取る。彼はすぐ書類の向こうに頭を引っ込めてしまったが、リアは満足げにストローを銜えた。

「あっま。」
「嫌なら飲むな」
「ふふふ、ありがとうございました」

コーヒーばかりだった口の中に刺激と甘みが広がった。
炭酸の気泡がぱちぱち弾けて、慣れない刺激に思わずきゅっと目を瞑る。鼻に抜ける甘い匂いに、ようやく脳みそが冴えてきたようだ。
ふた口飲み込んで、リアはリーバーに礼を言いながら書類の山の一番上にカップを置いた。向こう側から彼の骨ばった手が伸びてきて、カップを持ち上げる。その手が見えなくなるまで見送ってから、リアは自分の両頬をぱちんと叩いた。

「よーし、続きやりますか!」
「頑張れよ、これ終わったら2時間休憩やるから」
「2時間じゃぐっすり寝れもしないじゃないですか……」
「メシ付き合うから我慢しろ」
「ジャンクフードは禁止ですからねー」

お互い手元に目を走らせながら、書類越しの会話をする。もうしばらくはぐっすり眠れそうにないが、息抜きに彼と食事出来るのなら、それも悪くない。
再び乾いてしまったペン先を拭ってインクに浸しながら、リアは目の前の書類に思考を集中させた。







柔らかな激動

「先輩終わりません無理です計算合わないですもうすぐタイムリミットです死亡フラグです」
「喋ってないで手動かせ!手と頭!」

ああ、空が明るいです先輩。

===2012.10.22