騒がしい店内で吹かす煙草の煙と、その白の向こう側でジャラジャラと転がる銀の玉。背の高い丸椅子のうえに座って、右足だけ靴を脱いで、胡坐をかくように左足の腿の下に置く。猫背で、光のない目でガラス越しの玉を目で追う。1分ごとに漏れる溜息。

そう、今のあたしは、はたから見ればかなりうつろな目をしているんだろうな。何十回目かのため息をついてみるけど、騒がしい中ではそんな声も自分の耳にすら届かない。忌々しい。別に、何かあったわけじゃないけど。でも、忌々しい。一体、何が?なんて、聞かれてもわからないけれど。
説明のつかない黒い感情はいつでもあたしに付きまとってる。だからあたしはここへ来るのだ。ここには同じような目をした大人たちがたくさん集まる。
無精ひげの男とか、ぐるぐる眼鏡のふんどしのオッサンとか、白髪のお兄ちゃんとか、グラサン掛けたマダオとか。
そして、今日も。

「よう、久しぶりだな」

サングラスで濁った瞳を隠す、まるでダメな大人がやってきた。

声をかけられて、顔だけをそちらに向ける。煙草を持った左手を上げることさえ面倒で、あたしは「あぁ、」とだけ言った。彼は何も言わずに、あたしの座った席からひとつ離れた椅子に座る。

「今日もいるのか。アンタ、ここに住んでんじゃねーか?」
「そんな訳ないじゃない。家くらいあるわよ」

彼が手に持っていた箱を下に置いて、玉を掴み上げる。そんな動作を目の端に捉えながら、あたしは自分の玉に視線を戻した。

「あ〜あ……やってらんねぇなぁ」
「まったくもって、同意見」

お互いガラス越しの丸い銀色を追いながら口を開く。隣で彼が煙草に火をつけた。あたしの吸ってるのとは違う銘柄だ。白い煙が視界を横切って、煙越しに玉が輝いた。

「面倒なのよねぇ」

その輝きをゆっくり目で追いながら、あたしは煙草を銜えて両腕を上げた。朝からずっとこの体勢で、いつの間にか体が固まってしまったようだ。首を左右に倒すと、ポキポキ、と気持ちのいい音がした。
ぐっと背中を伸ばして天井を見れば、まだ昼間だというのに煌々と輝く蛍光灯の光が眩しい。店の至る所から煙が上がっていて、その煙越しに見える電気の光が、まるで燻ったように揺らめいだ。

「どうして世界はこうなのかしら。やってらんないって思うあたしがダメなのかしら」
「アンタだけじゃねェ、誰だって同じだ。生きてりゃ誰だってそう思うもんだぜ」
「不思議ね、それなのにどうして人は生きているの?」
「単純な話さ」

あたしは天井を見上げたまま、そんな会話が間の空席を通過していく。いつもの調子で淡々と喋る隣の顔馴染みは、あたしの質問に当然のようにこう答えた。

「みんな死ぬのが怖ぇのさ。だから仕方なく生きてる」
「あたしは生きてることの方が怖いわ。だって、今のこの世界を見てよ。この江戸を見てよ」
「そう言ってたってアンタは死んだりしねぇだろ?みんな同じさ」
「……不思議ね、それならどうして人は生きたいと思うのかしら」

変化もなく過ぎていく孤独な毎日の中に幸福なんてありはしない。
もしも、あたしの隣に誰か居てくれていたなら、少しは希望も持てたかも知れないけれど。もしも、夢は必ず叶うものだと誰かが説いてくれたなら、少しは濁らず生きていたかも知れないけれど。現実っていう残酷な世界は、酸いも甘いもなく、どこまでも苦い。
この世界でこんな日常を繰り返す意味は、一体何だろうか。


「単純な話さ」


こんな哲学的な質問にも、彼はいつもの声でこう言う。
それは確かに、一種の正解だと思った。

「それでも幸せになりてぇ。這い蹲っても、泥水啜っても、いつか幸せになりてぇ。……そう望んでる」
「……ふぅん」

白い光と白い煙で満たされた視界を閉じて、伸ばした腕をぶらりと振り降ろす。そう答えた彼に視線をやると、その横顔は見慣れた大人の顔だった。光の見えないこのゴミの街を歩く、まったくもってダメな大人の顔。つまり、あたしと同じ顔。

「……人間って不思議」
「アンタだって人間だろ」
「わからないわよ?貴方に言ってなかっただけで、もしかしたら天人かも」
「アンタは人間さ。俺にはわかる」
「…………」
「この江戸でそんな濁った目をすんのは、ここに住む頭の悪い人間達だけだ」


下げた右手を元の位置に戻して、再び玉を操る様に転がした。からから、からから、心地良い聞きなれた音が耳の奥に響いてくる。
玉のひとつが視界の中央を通り抜けて下へ落ちる。画面が点灯して、ルーレットが回った。お、チャンス到来。

「ちっ……今日は当たり悪ぃなぁ、オイ台交換してくれよ」
「嫌よ、ここ今日のアタリなんだから。その台は特にダメ、反対側の3つ目がいいわ」
「おっ、サンキュ。さすがここの住民だな」
「住んでないってば」

立ち上がった彼を振り返って、言いながらあたしは小さくなった煙草を口に銜え、空になった左手を上げた。手のひらを上に向けて彼の目の前に差し出すと、彼の目は高そうなサングラスの奥で怪訝な色を見せる。
何も言わないあたしを黙って見て、しばらくの後、痺れを切らしたように口を開く。

「なんだよ」
「情報代。一本」
「けっ、抜け目ねェなぁ」

そう言いながらも、彼はポケットから煙草の箱を取り出した。右手にぽいと煙草を乗せられて、礼の意味も込めて、あたしは右手を上下に軽く振った。
掌の上で踊るその一本は、とても軽い。その重みを確かめるように、あたしはその一本を握った。

「じゃーな。精々這い蹲って生きろよ」
「お互い様よ、精々野垂れ死にしないでね。道端で死体見つけても弔ってなんかやんないわよ」
「悲しーなぁオイ、せめてこっそり泣いてくれよ」
「知らないわよ。奥さんに泣いてもらいなさい」

馬鹿言え、ハツにゃんなトコ見せらんねぇよ。

去り際にそんなことを呟くので、あたしは確かにな、と声に出さずに同意した。それでも、泣いてくれる者がいる彼が少し羨ましいと思った。
もしもあたしが道端で野垂れ死んでいたら、彼はこっそり泣いてくれるんだろうか。きっと泣いてくれるんだろうな、と確信に近い結論を出して、少しだけ口角を上げる。
けれどあたしは、彼が野垂れ死んだってきっと泣きはしないだろう。

たった今貰った煙草に早速火をつけようとして、自分がまだ一本銜えていたことを思い出す。短くなった煙草を灰皿で押しつぶして、貰った煙草をくわえる。
苦味が口内から脳へと広がっていく。言葉にならない焦燥感を掻き消すように、脳を循環したその煙を一気に吐き出した。





幸 水
福 溶
は 性


薄く溶けて見えなくなる前に、掴み取れたならよかったけれど。

===20100630