「……あ」
「あ、」

忍術学園の廊下で久しぶりに会った彼女は、少し驚いた顔をしたかと思うと。

「半助さん」

にっこり笑って、楽しそうに私の名前を呼んだ。
途端、嬉しさと同時に少しの緊張が走る。気取られないように周囲に気を配り、誰もいないと確信すると少し気を緩ませる。
そんな私の一連の動きを目で追っていた柚子は、くすくすと楽しそうに笑っている。焦る私が面白いのか、笑顔のままの彼女を責めるように目を細めると、柚子は小さく「ごめんなさい」と言った。

「分かっていてやってるだろう……」
「ちょっとからかっただけです」

事も無げにそういう彼女に、けれどそれ以上怒る気も起きずにため息をひとつ吐いた。
正直、誰にも言ってないだけで、彼女との関係をひた隠しにしている訳ではない。きり丸は当然知っているし、山田先生と学園長、それに山本シナ先生も、多分気付いている。しかしだからといって大っぴらに宣言するような事でもないし、当然、職場内で立場を忘れて恋人然と接する気ももちろんない。それを彼女に説明したことはないが、それでも私の意を汲み、彼女もここでは一線を引いた態度に徹してくれていた。
けれど彼女は、時々こうやって悪戯のようなことをする。一瞬ドキリとするような言動で私を焦らせては、楽しそうに笑うのだ。
それが毎回唐突で、私はいつも彼女の思惑通りに振り回されてしまっている。

柚子はひとしきり笑った後、ようやく満足したのか小さく息を吐いて、改めて言った。

「土井先生、お出かけですか?」

その言葉と話し方に、僅かに背筋が伸びる。本当に、彼女の徹底ぶりは見事なものだ。他人然としたその言葉遣いに、自分で促しておきながら少しだけ寂しい気持ちになる。矛盾した自分の気持ちに苦笑いひとつ零して、

「はい。学園長の遣いで、少し」

己も言葉を正して、そう答えた。
そうでしたか、と短く答えた柚子が私から視線を外して空を見上げる。

「外、雨降りそうですよ」
「えっ、そうですか?」
「この辺りはまだお天気ですけど、南風が強いし、山の方はもう崩れてきてるようなので」

彼女に倣って空を見る。
少し雲が多いくらいで青空も覗いているが、彼女がそう言うのならこの先崩れてくるのだろう。

「お出かけ先が近くでないのなら、傘を持っていったほうがいいですよ」
「そうですか。では、そうします」
「はい」

にこりと笑った彼女に礼を言って、ならば傘を取りに戻らねばと、振り返って一歩踏み出した時だった。

「いってらっしゃい」

背中に掛けられたその言葉に、思わず足が止まってしまった。
ぶわっと、身体に衝動が走る。指先が痺れるような感覚の中、私は彼女を振り返った。彼女の今の笑顔は、学園で”土井先生”に見せる笑顔だ。当たり障りなく、朗らかで淑やかな笑顔だった。
廊下伝いに並んだ教室の戸に手をかける。中に誰の気配もないことを確認してから、私は敷居を跨いで振り返り、首を傾げる柚子に向かってちょいちょいと手招きした。不思議そうな顔をしたままついてくる柚子が、部屋に入ったのを確認して戸を閉める。
……衝動とは恐ろしいものだ。制御が効かなくて困る。

「……いってくる」

抱きしめた柚子の肩に顔を埋めながら呟く。ふふ、と零れるような笑いがすぐ耳元で聞こえて、次いで背中に腕が回された。

「はい、いってらっしゃい」

呆れたような、困ったような、心底幸せそうな声。
顔を見なくても、彼女がさっきまでとは全く違う笑顔でいてくれることがわかる。それだけで、ひどく満たされたような気がした。
こうして見送ってくれる彼女がいる場所に、毎日でも帰れたなら。そう思って、流石に我儘だろうか、と笑う。

「……早く休みにならないかな」
「また心にもないことを」

ぽつりと呟いた言葉に、柚子は私の腕の中から私を見上げ、また笑った。

「だって半助さん、学園も生徒達も大好きじゃないですか」





ただいまも聞けたなら
情けなく眉を下げるしかない私を笑って許してくれる彼女に、頭が上がらない。
===20180602