その日、医務室の戸を開けて三秒もしないうちに私の予定が崩れ去ったのは、結論だけ言えば忍術学園には幸運なことだったのだろう。

「えっ、出掛けられた?」

背負った薬箱を下ろす間もなく告げられたのは、新野先生の不在。今日この時間でと約束をしていたのだが、どうやら急な用事だったらしい。ほんのついさっき学園を出たのだという。
困った顔の乱太郎くんが私を医務室に招き入れながら、ごめんなさいと謝罪した。

「三刻ほどで戻られるそうなんですけど……」
「となると、夕方になるかしら」
「はい。それで、新野先生から柚子さんに伝言です。待たせるのは申し訳ないから、日を改めましょうか?って」

乱太郎くんの言葉に、腕を組んでどうしようか、と考える。今日はこのあとの予定もないから、待てないことはない。と、いうより、寧ろ今日しか待てない、のが正しいか。
そう考えていると、薬棚を数段開けて、おそらく薬の在庫を調べていたであろう伊作くんが振り返った。

「今日はいつもの補充じゃないんですか?」
「そう、今日は新薬のことで」
「補充なら僕でも対応させてもらえるんですが……すみません」
「いいのいいの、タイミングが悪かったんだわ」

眉を下げて言われては、逆にこちらが申し訳ない気持ちになってしまう。誰も悪くないのだから気にしないでと告げて、私は薬箱をおろすことにした。
明日からは領境での仕事が入っている。ここからだと少し距離があるし、しばらくは学園に来られなくなるだろう。やはり、今日の予定は今日のうちに済ませよう。

「やっぱり待たせて頂いてもいい?明日から遠出の予定があって、しばらくは来られそうにないから」
「構いませんよ、ゆっくりしていってください。お茶淹れましょうか」
「さすがにそれは申し訳ないから、出来ることがあるならお手伝いするよ」

指示待ちの状態で二人を見上げると、伊作くんが薬棚に掛けていた手を止め、考えるように視線を上げる。
正直に言えば自分は学園の部外者で、当然学園内のあれこれについて手も口も出す権利はないのだが、それでも医務室に関しては、もう二年以上通っていることもあって勝手知ったるものだ。それこそ、新野先生の長期不在時には校医代理の依頼も来る。食堂の黒古毛先生のようなものだ。保健委員の彼らも当然のように受け入れてくれて、こうして作業を手伝うことも珍しくなはい。……予算不足で何もかもが自主調達・自主製作である彼らが不憫でならないというのも、一つの理由だったが。

「そうですね、それなら    」
「ならば柚子くん!!少し頼まれてくれんか!」
「へっ……うわぁっ!!?」

その時、突然に視界と伊作くんの言葉を遮ったのは、聞き慣れたしゃがれ声と煙幕だった。伊作くんと乱太郎くんの慌てふためく声だけが響き、視界が白煙に覆われる。
既に医務室の外に気配を察知していた柚子は、彼の人お決まりの登場の仕方に驚くでもなく、ただただ眉を寄せ目を閉じ天を仰いだ。思いっきりため息を吐きたい気分だったが、そのせいで咳き込むのは癪だ。仕方なく息を止め、煙が晴れるのを待つことにする。

煙の向こうで保健委員の二人がしっかり咳き込み、そして何やらガタガタバタンうわぁドスンぎゃあと二次災害の音を響かせる。ああ何かひっくり返したな……。恐らく慌てた乱太郎くんが持っていた包帯を取り落とし伊作くんがそれを踏んづけて薬棚と乱太郎くんを巻き込みながら転んだんだろうな……。
煙幕の向こう側で彼らを襲った不運を想像し、柚子は振り向いて手を伸ばした。膝立ちのまま数歩進み、探り当てた医務室の戸を全開まで開け放つ。白煙に覆われた医務室に風が通る。その風にあわせて、白煙がその形を歪ませ霧散していった。

「学園長先生、今後医務室で煙玉は禁止です。……危ないので」

逃げていく煙幕を部屋の外へ見送りながら振り返ると、当然のように学園長が部屋の真ん中に仁王立ちしていた。

「君の時間が空いたと聞いてな!ぜひ頼みたいことがある!」
「はぁ……いいですよ」
「おおおお、そうか、有難い!いやぁ助かるっ」
「ですがその前に、二人の手当を」

予想通り、というかなんというか。
学園長の背後で折り重なるようにして床に伏せる二人は、包帯と薬棚の引き出しいくつかが散らばった床の上で目を回していた。二人とも、後頭部にしっかりと大きなたんこぶを作っている。不運委員会の名は伊達ではない……というより、単に究極のドジなだけのような気もするが。
二人を助けおこし、こぶの状態と様子を確認してから(当然、はた迷惑な「お茶目」で二人の頭にこぶを作った学園長には、しっかり謝罪をさせた後で)改めて学園長に向き直る。今から保健委員の手伝いをする予定なんですが、と言ったところでこの人が引き下がるわけもないので、柚子は半ば諦めのかたちで学園長の頼みを了承することにした。
諸手を上げて感謝する学園長の反応と勢いに少し警戒心が疼くが、後退りたい気持ちを抑えて次の言葉を待った。
一体今度はどんなに突拍子もない話が飛び出すのやら。そう思って身構える柚子に、けれど飛び出した言葉は予想外なものだった。

「小松田くんのお守りを頼みたいんじゃ!」

吉野先生と事務のおばちゃんが出張で!しかし放っておくと何をしでかすやら!
泣きつく勢いでそう言った学園長に、柚子は脳裏に気の抜けた笑顔を思い描きながら首を傾げた。

小松田くん。1年と少し前に忍術学園の事務員になった子で、歳は柚子より四つ下だったか。
最近では忍術学園を訪れたら二度は必ず見る顔で、正門をくぐるということはイコール彼の入出門表にサインをすることとセットである。会えば挨拶をするし、たまに他愛のない世間話もする。けれど柚子と彼の関係はその程度だった。親しくもなければ、正直言って彼の下の名前さえ知らない。

「お守り、ですか?でも学園長先生、私事務は……」
「構わん!見張っててくれるだけでいいんじゃ!」
「見張りって……」

鬼気迫る、とはまさにこのことで、必死の形相で柚子の肩を掴みぐわんぐわんと遠慮なく揺らす学園長は、どこか恐ろしさに震えているようにも見えるほど。けれどいまいちその必死さを理解出来ずにいると、後ろから恐々とした乱太郎くんの声がした。

「ちょっと待ってください学園長先生……!ということはつまり今、小松田さんはひとり野放しに……!?」
「野放しって」

振り返ると、伊作くんも乱太郎くんも恐ろしいものでも見たような顔で、そして学園長同様掴みかかる勢いで柚子に迫った。

「柚子さん!僕達からもお願いします!」
「小松田さんがまた何かしでかす前に監視を!」
「えぇぇ……」

その勢いに、ちょっと引く。
忍たまたちは小松田くんにどんなトラウマを植え付けられているのか。だが今にも泣きそうな顔で、新野先生が戻ったらすぐ知らせますんで!と言われては、今更断ることも出来ない。必死な3人を宥め透かして、柚子は彼らの頼みを受けることにした。



何故か半分涙目の三人に見送られながら、 柚子は釈然としないまま医務室を後にした。軽い足取りで廊下を進み、小松田くんの主な仕事場であるという事務室へ向かう。場所は把握しているが、実際足を運ぶのはこれが初めてだ。
薬箱からあまり離れたくはなかったが、保健委員の二人に絶対に持っていかない方がいいと力説されたので、いつも持ち歩いている薬箱はしばらく医務室に置いてもらうことにする。不運渦巻く医務室に置いていくのも不安なのだが、自覚のある不運体質達が口を揃えて「ここのが安全だ」と言い切るのだから、今回はその言葉を信用することにした。
……小松田くんの傍は、不運よりも恐ろしいと言う事だろうか。

正直言って、彼の失態をあまり知らない。きり丸と半助さんから少しだが話は聞いていたし、短い立ち話の中で本人が吉野先生に叱られたと困ったような笑顔で言っているのを聞いたこともある。けれどその程度で、あの気の抜けた笑顔と朗らかさも相まって、柚子のイメージは「ちょっとドジで憎めない事務員」くらいのものだった。

「(……どうせ時間が空くんだったら、半助さんに会いたかったなぁ)」

そう言えば前に会ったとき、近々テストがまとまってあるのだときり丸がぼやいていた。
何もいっぺんにやらなくてもいいのに、と口を尖らせるは組を他所に、1年い組の子達が両手いっぱいの本と教科書を持って図書館に向かっていくのを見た覚えがある。

は組のテストは視力検査、とはよく言ったもので、休みにきり丸が持ち帰ったテストの点を見て、思わず三度見したのはまだ記憶に新しい。噂のテストがもう終わったのかこれからなのかは分からないが、それでも今は、脳裏に思い描く彼の胃が最高潮に痛みを増している頃だろうなとぼんやり思う。
仕事の邪魔をするわけにはいかない。きっと補習だ追試だ採点だと忙しくしているだろうから。思考にそう切りをつけて、柚子は視線を上げた。すぐ目線の先には、「事務室」の掛札。
さて、小松田くんの実力拝見。半分冗談のつもりでそう呟いて、事務室の戸に手をかけた。


「小松田く    



ドッカーーーーーン!!!



「………………えっ」

声をかけ終わる前に、目の前の部屋からあるまじき爆発音が轟いた。同時に、貼られた障子が外へ逃げ出そうとするかのように膨らんでビリビリと震える。隙間から耐えきれず零れた風が、柚子の横髪をふわりと背中へと送った。
ああ、薬箱置いてきてよかった。本当によかった。伊作くん、乱太郎くん、ありがとう。

「……はっ!小松田くん!!?」

一瞬現実逃避した頭を秒で奮い立たせ、柚子は慌てて障子を開けた。
部屋の中は、まぁある程度予想通りというか、紙という紙が空中に投げ出され、部屋は煤け、机は焦げている。火薬の匂いが立ち込め、焦げた紙はひしゃげ壁の掛け軸は音を立てて落ちる。あまりにも酷い有様だが、人の気配はひとつ。
ぐちゃぐちゃの部屋の真ん中で、ひくひくと動くものを見つけた。柚子は慌てて部屋に入ると、書類の山の中から目を回した小松田くんを引っ張り出した。

「小松田くん!大丈夫!?」
「ひゃい〜〜〜」

引きずられるまま事務室を出た小松田くんを廊下に落として、柚子は改めて注意深く部屋の中を覗き込んだ。人の気配はなく、特に仕掛けも見当たらない。第三者関与の痕跡がないとなれば、さっきの爆発は必然的に小松田くんの仕業、ということになる。
散らばった書類と焦げた巻物で溢れる部屋は、事務室としては惨憺たる状況だろう。火薬の臭いを追い出すように手を振りながら、柚子はほんのり残る煙に一度だけ咳で喉を鳴らした。

「何がどうなってこう……」
「あっ柚子さん〜〜どうしたんですかぁ〜」
「それはこっちの台詞だけど……とりあえず、怪我は?」
「大丈夫ですぅ〜」

廊下に転がったままこちらを見上げる小松田くんに視線を落とす。むくりと軽やかに起き上がった彼の様子を見るに、本当に怪我も火傷もなさそうだ。つい、この悪運の良さは保健委員にはないものだなぁ、などと思ってしまう。
室内で爆発なんて、火事にならなかったのが奇跡なくらいだ。

「いやぁ、さっき用具倉庫に行った時にあのほ、ほう……何とかって爆弾を〜」
「焙烙火矢ね」
「あっそれです〜。それをどうやら引っ掛けてきちゃったみたいで……」
「用具倉庫に焙烙火矢が?それ危ないんじゃないかしら……」
「あっ大丈夫です〜。僕が引っ掛けたのは六年生の立花くんが個人的に持ち込んだものですので〜」
「(それ余計に大丈夫じゃないんじゃ……)」

煤けた顔でへらりと笑って頭を掻く小松田くんに、柚子はほんの数分前までの考えを猛烈に反省し改めた。甘く見ていた。完全に彼を甘く見ていた。
不運と言われる保健委員会と一年は組のおかげで学園のトラブルには慣れてきたと思っていたが、小松田くんはどうやら別格らしい。保健委員が不運を呼び込む避雷針だとしたら、彼は動くトラブルそのものか。
吉野先生が帰られたら、用具倉庫の爆弾含め、絶対報告しよう。そう心に決めて、柚子は改めて事務室に視線を向けた。

「まぁ、それより……ここ片付けましょうか」

とりあえずこの事務室をどうにかしないと、と柚子は腰に手を当てて改めて室内を覗いた。こんな状態じゃ、吉野先生に報告どころの話じゃない。まずは部屋を片付けなければならない……が、これは結構手強そうだ。
覚悟を決めて襷を取り出した柚子を、小松田くんが驚きの顔で見上げた。

「柚子さん手伝ってくれるんですか?」
「学園長先生に頼まれたの。外出中の新野先生がお戻りになるまで時間があるから、その間お手伝いさせてもらうね」
「本当ですかぁ!?助かります〜!!」

柚子の右手を両手で握り、ブンブンと振り回す小松田くんを制して、柚子は着物の裾を襷で括った。……見張りだけのはずが、とんだ労働作業になったものだ。襷の端をぎゅと縛って、そして大きく息を吸う。

「よしっ、やるわよ小松田くん!」
「はぁーい!」

元気だけは良い小松田くんの返事を背中に、柚子は事務室へと足を踏み入れた。





そして日も傾く頃。

帰ってきた新野先生は、医務室の隅に置かれた薬箱を見つけ、持ち主を探して部屋を見回し首を傾げた後、保健委員から事のあらましを説明されることとなった。
客人が問題児の監視役として事務室に派遣されたと聞いて、ならばと新野先生が下ろしたばかりの腰をあげる。こちらの都合で待たせてしまったからと柚子を迎えに行く新野先生に、乱太郎と伊作は好奇心から思わず手を挙げて付き添いを申し出た。

「柚子さん、小松田さんのドジに巻き込まれて怪我とかしてないといいけど……」
「怪我はともかく、絶対疲れきってるとは思います……」
「僕もそう思う……薬湯作っておけばよかったね」
「こらこら」

口々に心配の声をあげる二人を新野先生が苦笑いで窘める。正直な話、口ではそういうものの、彼も生徒達と同じ思いだった。普段小松田くんの世話係である吉野先生を見ている分、その大変さは知っている。慣れない人には、彼の世話は相当疲れるだろう。同情せずにはいられないのが本音だ。

「……あれ?学園長先生?」

そんな思いで三人連れ立って事務室に向かっていると、今回柚子を巻き込んだ張本人がそこにいた。廊下で腰を屈めて、ヘムヘムと一緒に事務室を覗いている。伊作の声に振り返ると、学園長はしぃーっと人差し指を立てて、そして手招きした。
何となく三人視線を合わせて、足音を忍ばせる。彼女を待たせた罪悪感よりも、好奇心の方が先立ってしまった。学園長の頭の上に並ぶようにして、僅かに開いた襖に顔を近づける。部屋の中からは、二人分の声と気配。当然、柚子と小松田くんだ。気づかれないように気配を消して、三人は部屋の中を覗き込んだ。

「あっ小松田くん!違うわ、そっちは一年生の分でしょ」
「ええっ、そうでしたか?」
「そうでしたよ。それは赤い箱に入れて、二年生の分がそっち」
「ああ!了解です〜」
「待って走らないで足元巻物が転がってるわ!」
「おっとと〜!」
「持ってる書類は左の箱に入れてね。落ちてる巻物拾ってくれる?全部で八本よ」
「八本ですね〜。えーと、ひぃ、ふぅ……」
「紫の巻物は五年生の棚ね。緋色のものだけそこの箱に。二本あるはずから」
「はいはい、これですね〜」

パタパタと小走りで駆ける小松くんの影を見送りながら、三人は目の前の光景を信じられない目で見つめた。

「……小松田くんが働けている……」
「ドジもミスもなく働けている……」
「しかも仕事が片付いていく……」

肝心の柚子は着物の袖を襷で括り、雑巾を手にどうやら掃除をしているようだった。桶に汲まれた水は真っ黒になっていて、一体何があったのかと全員が首を傾げる。……が、恐ろしいので追求するのはやめることにした。柚子は手元の棚を拭きながら、時々集めた書類をめくっては素早く仕分けていく。けれど、目線はずっと小松田くんを捕まえたままだ。

「机の右に置いてある封書は吉野先生の文机に    硯をここに置くわね。そこに座って、はい筆   これで先生方の名前のところに印をつけてね」
「わかりました〜!」
「拾った資料ここに置いておくから、肘で落とさないように!学園長先生の分があったら教えてね」
「あっ、早速ありましたよー」
「じゃぁこの箱に分けておいてもらえる?ありがとう」
「いえいえ〜お願いします〜」

絶えず指示を出し続ける柚子と、言われた通りに仕事を片付けていく小松田くん。意外にも使い物になっている小松田くんを前に、襖の外の四人はぽかんと口を開けたまましばらくその光景を見つめていた。

その後、感涙の吉野先生がすごい人材を見つけたとはしゃいで柚子を事務員にスカウトし、あっさりと断られらるのはそのすぐあとの話。








手に余る不出来
「……ところで皆さんはそこで何を?」
「感心しておったのじゃ!」
「感動してました」
「びっくりしてました……」
「驚きのあまり言葉を失ってました……」
「何でもいいですけど気が散るので解散するか手伝うか私を解放するかしてください」

===20180918