※きり丸入学の二年ほど前





忍術学園という存在は知っていた。
ただ、正直言って最初の印象は良くなかった。

身分の垣根はなく、決して安いとは言えない額の入学金を支払えば誰でも入学出来る。学期毎に授業料が発生し、寮生活ではあるが日々の食事も生活必需品も全ては個人の負担になる。当然、授業料が支払えず途中退学する者も存在するし、そもそも忍者になるためではなく行儀見習いとして入学し、上級生に上がる前に縁組のため去っていく者も多い。
学園長である大川平次渦正は、若い頃は名うての忍者だったと言う。が、私は名前を聞いた覚えはない。時代が違うのだから当然だし、そもそも名の知れ渡った忍者が優秀とは限らない。知られぬ優秀さこそ、本来忍者に求められるべきだ。であればこそ、彼の実力は未知数である。

その学園長の持つ人脈で城へのつては幾つかあるようだが、敵対する城も多く選り好みが激しい。故に、という訳では無いかもしれないが、就職に関しては全て個人に任されているという。
当然希望すれば口を利く程度のことはするのだろうが、この時勢に高い学費と六年の歳月を費やして就職は全て自己責任とは、人材養育機関としては何とも無責任な話ではないか。それとも、学園の後ろ盾など必要ないくらいに優秀な人材を排出しているという自負が、この学園にはあるのだろうか。

その実態について調べれば調べるほど、忍術学園という存在の本質を見失いそうになる気がした。卒業生は確かに優秀だと聞くし、即戦力になるならばどこの城も欲しがるだろう。そういう時代だ。
けれど即戦力になるということは、早々にプロの集う前線へ押し出される可能性も高くなるということ。事実、卒業から数年と経たぬうちに命を落とした者も少なくないという。
忍の本質は諜報だが、諜報だけではない。
これは経験論だが、現に私も幾度となく最前線に送り込まれた。幾度となく。そしてその度に思う。幾つ歳を重ねても、若い命がこういう場で散っていくことを良しとする気には、到底なれないと。





広すぎる敷地をぼんやりと眺めながら、報告を終えた部下を後ろ手に払う。音も立てず気配が消えたのを感じながら、うちの隊の部下はほんと優秀だなぁなどと頭の隅で考えた。
ずずずと、音を立てて雑炊を啜る。いくら気配を消してもその音で台無しですよと、あの子煩悩な小頭に言われたのはいつだったか。

目下の門にちらりと目を向ける。つい先程、内も外も綺麗に掃き掃除されていた正門は、しかし既に桜の花弁に覆われつつあった。
小と付けるにはあまりにも見事な春の日和。柔い日差しは明るく、陽の下では頭巾と覆面も些か暑く感じる。こんな日は仕事じゃなくて、風通りの良い室内でゆっくりお茶でも啜りたいもんだ。ぼやくようにそう呟いて、枝の隙間から覗く薄い青の空を見る。

その声が聞こえたのは、人の気配を感じて視線を戻したのと同時だった。

「こんにちはー」

忍術学園の正門を前に、花弁の上に立つ人がいた。
笠を被り、背中に大きな荷を担いでいるが、その後ろ姿も声も間違いなく女のものだった。

隣の家の戸口から声をかけるような調子だったが、しかしここは忍術学園。その実態を知らない者が軽々しく訪ねてくるような場所でもない。関係者か、もしくは縁のある者か。
主命でここへ調査に来ている身としては、この予期せぬ来訪者を知らぬ振りはできない。仕方なく雑炊を懐にしまって、その後ろ姿を観察することにする。

背負った木箱は首元から腰の下程までもある大きさで、その見た目からしても軽くはないであろうことが窺える。しかし、その後ろ姿は特に疲れた様子もない。旅に慣れているのか、山奥の辺鄙な地だと言うのに足取りは軽く、慣れた様子で正門を叩くその手には手甲が見えた。
女の旅人は珍しくもないが、しかし一人旅となれば話は別だ。最近は貴族崩れや賊も多いのだ。

女が声を掛けてからしばらくの後、内側から門が開いた。ひよと顔を出したのは教員と見られる黒の忍装束を着た男だった。面長で細い目の不思議な顔をしている。

「あぁこの間の。確か、橘くんでしたか?」
「はい、お久しぶりです吉野先生」

橘と呼ばれた女が笠を取り頭を下げる。黒い髪が陽の光を浴びて、さらりと肩から落ちるのが見えた。

「学園長先生のご好意で、定期的に薬を卸しに来ることになったんですよ」
「そうでしたか。それはどうも、末永くよろしくお願いします」

頭を下げた”吉野先生”が筆を取り出し、入門票にサインをと一言言った。女がそれを受け取るのを見ながら、その票に書かれた文字を覗き込もうと少し背筋を伸ばす。
    へぇ……薬師か?
生憎名前は見えなかったが、声や背格好からして若いであろうことは窺えた。おそらく十代の末から二十歳程度か。その歳で、しかも女の身で遍歴の薬師とは随分珍しい。

「新野先生はお手隙でしょうか」
「ええ、医務室にいらっしゃいますよ」

門をくぐりながら聞こえた会話はそれが最後だった。暫くして、挨拶を終えたらしい女がひとり敷地内を歩いていく姿が、塀の屋根のむこう側に現れた。
顔を見たのはその時が初めてだ。けれど歩いていく横顔がその時一瞬だけ    こちらに向けられたような気がした。


「…………」

遠くて、視線がどこを向いていたかまでは解らない。けれど一瞬確かにこちらに向いた顔を、私は情報として脳裏に焼き付けることにした。





半刻程経っただろうか。
そろそろ帰りますよと呆れ声で言う部下を軽く払ってから随分と経ったが、ようやく薬師の女が姿を現した。先ほどと同じように門の影に一度消え、暫くの後、開いた門を潜って学園の外へと出る。

「では、お邪魔しました」
「はい。またよろしくお願いしますよ」

出迎えたときと同じ職員に見送られ、女が頭を下げた。忍術学園に背を向けた女の顔がまた一瞬だけ見えたが、直ぐに笠の下に隠れる。
目の前を通り過ぎ、小さくなっていく背中が見えなくなる直前で、私は長らく腰を下ろしていた木の枝から漸く腰を上げた。道沿いに続く木々の枝を渡るようにして彼女の後を追う。

暫くつけた後で、ふと思い立って私は枝を降りた。踏んだ地面に生える草が、かさりと僅かな音を立てる。思わず好奇心が先立って、女との距離を少しだけ詰めた。
慣れた足取りの女は杖もなく山道を下っていく。その距離を少しづつ、僅かな程度に詰めていく。
そうして谷に差し掛かった時、短い橋の手前でついに女が振り返った。それに合わせてこちらの足も止まる。女はそのままさっと辺りを見回して、すうと息を吸った。

「なにか御用でしょうか?」

近くにいるであろう、誰かに向けられた言葉。その声は固くはあったが、しかし怯えは感じられない。
しばらくその場で気配を潜めていたが、女はそれ以上言葉を発することも動くこともなく、たた真っ直ぐ自分が歩いてきた道の先を見据えていた。おそらくこちらが姿を現すか、もしくは己の疑念が完全に断ち消えるかしなければ、彼女があの場を動くことはないだろう。
彼女にとっての”誰か”である私は、観念したようなふりで立ち上がり、そして彼女の前に姿を現した。
木立から現れた私に、女の視線が刺さる。その目が私の姿を捉えた瞬間、彼女は更に警戒を強めた。

「驚いたね。尾行がバレるとは思わなかったよ」
「そうですか?私が気付くくらいですから、わざとわかり易くしているのかと」
「おや、鋭い」

彼女の言った通り、わざと一般人にバレるかバレないかの瀬戸際で尾行していた。というのもあの時、この薬師が本当にこちらに気づいていたのかを確認しようと思ったからなのだが。
明らかに忍装束の得体の知れない私を前に、女はまっすぐ立っている。その度胸には感服するが、結論を言えば彼女は一般人だった。この距離まで近づかなければ尾行に気付かない者が、あの時木の上に潜んでいた私に気付くわけがない。
だが、頭は切れるようだった。橋の手前で振り返ったのも、おそらく計算の上でのことだろう。例えばこの距離なら、彼女が踵を返し走り出したら私が妨害するより先に彼女は橋を渡りきり、向こう側から橋を落とすことが可能だ。

ふうと息を吐いて、頭を掻く。
目の前の女は、大きな木箱   おそらくは薬箱   を背負っていること以外、取り立てて特別なところは何もないように見えた。

「肝が据わってるねぇ。……見たところ、ただの薬師だよね」
「肝が据わってないと薬師なんて出来ませんよ」

女の言葉に、なるほど確かにと腕を組んで頷く。遍歴医は必要とあらば合戦場にだって赴く。彼女の仕事も、ただ薬を売るだけではないのだろう。
好奇心から近付いたのはいいものの、さてこの先はどうしたものかと考える。するとその時、背後から自分を呼ぶよく知った声が聞こえた。

「あぁ!いた!!組頭!」
「おお、尊奈門」
「困りますよ勝手に動かれては……!」

隣に着地した尊奈門がいつもの様に小言を並べようとして(こいつ最近小言が陣内に似てきたな)ふと、その視線が女を捉える。橋を背に立つ彼女をたっぷり三秒は見つめて、漸くその目がこちらを向いた。
目の前に来るまで彼女の存在に気づかなかった辺りの未熟さは後で喝を入れるとして、見知らぬ女だけでなく私まで怪訝な目で見るのはやめてくれないかなとその時切に思った。
まるで任務中に女に会いに来たのかと責めんばかりの目だ。

「……誰です?」
「さぁ?」
「さぁって……」

彼の問いに正直に答えると、尊奈門はまた呆れたような目でじとりとこちらを見た。よし、こいつ、今季の賞与カットだな。
黙ってこちらのやり取りを見ていた女が、その時漸く動きを見せた。首紐に手を伸ばすと、こちらが警戒する間もなくその笠を取り、私と尊奈門に向かって浅く頭を下げる。

「薬師の橘柚子と申します」
「あ、これはどうも……」

丁寧な彼女の挨拶に、流された尊奈門が思わず頭を下げる。警戒心の薄すぎる部下の様子にあーあ、とため息を漏らしながら、けれど部下が齎した思わぬきっかけに驚きもしていた。
まさか、彼女が自ら名乗るとは思わなかった。あちらも警戒心が薄いのか、それとも、今更隠しても無駄だと悟ったのか。おそらく後者だろう、と、顔を上げた彼女の目を見て確信した。

「忍術学園に薬を卸してるって?」

彼女に向かって、そう投げ掛ける。隣の部下は漸く状況を把握したようで、一瞬息を止めると、今度は隙のない視線を女に向けた。うん、そうあからさまなのも警戒心を煽るだけなんだがなぁ、と心の中でマイナス一点を付ける。
女はそれを気にする様子もなく、名乗った時と同じ調子で、なんでもない様子で頷いた。

「そうですが」
「それ、そんな簡単に喋っちゃっていいの?学園の敵側に知られたら君も危ないんじゃない」
「例えばあなた方のような、でしょうか?」
「……本当に肝が据わってるね」

こちらが何者かも知らないだろうに。
にっこりと笑顔を向けた彼女に尊奈門は気後れしたようだった。成程、彼女ならば女の一人旅も可能だろう。これだけの肝と度胸があって、賊対策をしていない訳がない。
その上薬師だ。戦の多いこの時勢、医者や薬師は重宝されるし、腕のいい者ならどこの城も組織も欲しがるだろう。不用意に殺される心配も少ない。

仮説を立てるなら、忍術学園もそうであったのかもしれない。腕のいい薬師との出会いがあり、薬の卸業を依頼して彼女がそれに応えた。
そうであったのならば、彼女から引き出せるであろう情報も今はそう多くないだろう。
橘柚子。その名前を頭の片隅に縫い付けて、私は真っ直ぐこちらを見る彼女から視線を外した。

「ま、別にどうこうしようと思って追ってきたわけじゃないよ。ちょっと気になっただけ」
「そうですか」

肩を竦めた私に、女は淡白にそう返し、そして笠を被り直した。
そして、

「では、もうお会いすることがないといいですね」

先程と同じ笑顔でそう言い放った彼女が、そして踵を返した。ほんの数歩で橋まで辿り着き、揺れる橋を慣れた様子で渡る。渡りきった後、私と呆けている尊奈門を一度だけ振り返り、軽く会釈した。
その後ろ姿が木々の陰に隠れた頃、漸く私は頭をぽりぽりと掻きながら呟いた。

「……ちょっと聞いてみたかったんだけどなぁ」

自ら忍術学園に関わろうとするその理由を。
見えなくなった背中に向かって、ほんの少しの心残りをこぼす。だが、今はまだその答えを求めるのはやめにした。次に会った時にでも聞けばいいやと、楽観的にもそう考えたのは、確信に似た予感があったからだ。

彼女が忍術学園との関わりを続けるつもりならば、彼女の意志に関わり無く、また会うこともあるだろうと。





薬師殿と曲者さん
「(あれがタソガレドキの組頭……厄介そうだなぁ。バレてないかなぁ)」

===20181112