「伊作くん、薬師目指してみない?」

唐突に降ってきた言葉に、伊作は顔を上げる。
太陽を背にするその影法師は見慣れた形で、伊作はその人物が自分のいる穴の淵に腰掛けるのを見ながら苦笑いを零した。

「柚子さん……もしかして暗に忍者向いてないって言ってます?」
「そういうわけじゃないけど」

一瞬、嫌な言い方をしてしまったかなと後悔した。けれど困ったように笑う彼女は、伊作の言葉を嫌味とは受けとらなかったらしい。……まぁ、落とし穴の中から何を言ったところで、格好悪いだけだけど。

日課のように後輩の掘った穴に落ちる自分は、確かに忍者向きではないのかもしれない。その上保健委員気質も相まって尚のこと忍者には向かないと自分でも思う。
けれどそれでも忍者を目指している。なぜなら、その為にこの学園に六年も身を置いているからだ。

「実際、この辺りは薬師も医者も足りていないのよ。ヤブを含めず言えばの話だけど」

だからこそ私もお仕事を貰える訳だけどね。
そう続けた彼女に、ふと、そういえば柚子さんは何故薬師になったのだろうと考えた。当然彼女にその知識を与えた人がいた筈だが、彼女から師の話を聞いたことはない。そもそも生まれもこの辺りではないらしいと小耳に挟んだことがある。
彼女の言うように、医学を志そうにも学ぶ場は限られる。“自称医者“も確かに多く、柚子さんや新野先生のようにきちんとした知識を持つ人は希少なのだ。

「伊作くんは今学べる環境にあるし、知識もある。患者はもちろん、他人との距離感をとるのも上手いでしょう。素質あると思うのよ」
「うーん、薬師かぁ。考えたことなかったですね……」
「それに忍の知識があるのも有効なのよ。医療に役立つのはもちろんだけど、何より戦場でも自分の身は自分で守れるからね」

言われて、確かに、と頷く。この学園での経験が無駄にならないのならば、そういう道もあるのかもしれないと。
保健委員として、尊敬する柚子さんにそう言ってもらえるのは素直に嬉しかった。穴の中で土の壁にもたれ、空を背負った柚子さんを見上げていると、本当にそうするべきだという気持ちが持ち上がってくるから不思議だ。

この人のこの説得力は、医療に関わる者には必要なものなのかもしれないと思う。特に、診療所を持たない彼女のような遍歴医には。往く先々で、この人なら信じられる、この人なら助けてくれるという患者からの信頼が得られなければ、旅回りの薬師など到底務まるはずがないのだ。
自分と五つしか歳の離れていない彼女は、女の身でありながらそれを成し遂げている。例え自分が医者を目指さないとしても、尊敬に値することは変わりない。

「……柚子さんも、戦場に行くことが?」
「もちろんあるよ。この辺り戦多いし、戦場医も足りてないし」
「自分の身は自分で?」

好奇心だけで、そう問うた。柚子さんは何も言わずに、ただ少しだけ、悪戯っぽい顔で笑っただけだった。

「……個人的には、伊作くんは忍者に向いてると思うけどね」

そう言って顔を上げた柚子さんにつられて視線を動かすと、ふっと自分がいる穴の中に影が差した。
これまた見なれた影法師が、覗き込むような体勢で自分を呼んだ。

「伊作、柚子さんに言われて縄持ってきたぞ。お前また綾部の穴に落ちてたのか」
「あ、あははは……すまない留三郎」

肩に縄をかけた留三郎が、いつもの呆れたような笑顔でこちらを見、そして縄を下ろしてくれた。
縄を握り、十尺はあるであろう落とし穴の壁を登る。最後は手を伸ばしてくれた柚子さんと留三郎に引き上げられて、伊作はようやく穴の中から這い出た。慣れた手つきで服の土埃を落としながら、引き上げてくれた二人に礼を言う。

落ちてから四半刻も経っていないというのに、日は傾き、冬の空は赤く色づきはじめていた。
また貴重な午後を穴の中で浪費してしまった。薬草園に行く途中だったし、今日はやらなきゃいけないこともまだ沢山あるのに。
無意識に零れた溜息を柚子さんに聴かれてしまったらしい。彼女は伊作の背中をとんと叩くと、さっき落とした(穴の脇に落ちていたのだろう)笊を手にひらひらさせて「薬草園でしょ。手伝うよ」と言った。

縄を片付けに行くという留三郎を見送って、先に歩き出していた柚子さんの背中を追う。長い髪が揺れるその背中を見て、ふと、先程湧いた疑問を思い出した。
一瞬迷って、けれど好奇心には勝てず、僕はその疑問を声に出す。

「柚子さんは、何故薬師に?」

振り返った彼女と目が合う。予想外に真っ直ぐ見つめられて、一瞬ドキリとした。
不思議なのだが、六年修行した身でも、一般人である彼女の感情がまるで読めない時がある。やっぱり向いてないのかな、頭の端でそう考えた時、柚子さんは小さく頭を振ってこう言った。

「幻滅されちゃいそうだから、内緒」

不思議とその笑顔が、彼女もよく知る一年生の彼と重なった気がした。




知りもしない癖に必死になって首を振りそうになる自分を、僕は慌てて抑えたんだ

==2019.02.01(大遅刻)