休暇の初日、家へ帰る道すがら通りかかった露店の前で、ぼんやりと並ぶ商品を見る。
隣のきり丸は、日差しの強い中接客続きの店主に向かって手持ちの水を売っているところだ。帰路の道中までご苦労なことだと、一歩下がって見ていたが、ふと並ぶ商品の中に気になるものを見つけた。

「(……簪か)」

目に止まったのは、透き通った夕暮れ色の蜻蛉玉が揺れる簪だった。
ふらりと近づいて、それを手に取る。頭に浮かぶのは、今頃家で私たちを待っているであろう、彼女の顔。
    そう言えば、贈り物などまともにしたことがないな。

恋人と呼べる間柄になって、もう2年も経つだろうか。
休暇を同じ家で過ごし、学園でも多くて月に一度は顔を合わせている。しかし、自分が彼女に何かを贈ったという記憶はなかった。
頭の片隅で、男の甲斐性、と声がする。くるりと簪を回すと、飾りが光を反射させながら上品に揺れた。鮮やかな橙は、きっと彼女の黒髪にも映えるだろう。
これを、柚子に買って行ってやろう。そう決めて財布を出そうとした時、はたと違う考えが頭に浮かんだ。
……考えてみれば、彼女が飾りのついた華やかな簪を差しているところを見たことがない。
よくよく思い出してみれば、柚子はいつも木目の、飾りのない簪で髪を纏めている。女性が好んで持ちそうな華やかな装飾品を、彼女の持ち物で見た覚えもなかった。

表向きは薬師として、そして忍としてあちこち飛び回っている彼女には、華やかな物は身に重いのかもしれない。
財布に触れていた右手を懐から引き抜き、膝の上に戻す。不要なものを贈るのは、やはり迷惑になるだろう。自分だったら、使わないものを貰っても困るだけだ。けれどそれを相手に悟らせず礼を言う術を、優秀な忍である彼女は心得ている。そうさせたくはなかったが、彼女が本気で相手を騙そうと思えば、自分ですら見破れる自信がない。しかし何故か、その簪を店先に戻す気にはなれなかった。

「(情けない話だなぁ)」

忍としても、男としても。
ひとり自嘲の笑を零していると、視界ににゅっときり丸の顔が現れた。

「土井先生、もしかしてそれ買うの?」
「ん?あぁ……うーん、そうだなぁ、」

決めきれず、歯切れ悪く誤魔化すと、きり丸は上機嫌でニカッと笑った。
金を使うことにとことん否定的なきり丸がこの買い物に文句のひとつも言わないのは、広げた風呂敷の向こうで水をがぶ飲みする店主のおかげか、それとも彼の脳裏に浮かんでいるその人のおかげか。

「柚子さんに似合いそうな色っスもんね!」

顔を輝かせるきり丸の、屈託のない言葉。
その言葉に思わず笑いが零れた。

「ああ、その通りだな」

教え子の言葉に背中を押されるなんて、ますます情けない。迷う心に喝を入れて、夕焼けの空の色をした簪を、改めて握りしめた。




「おかえりなさーい」

長屋の戸を引いて、最初に出迎えてくれたのは暖かな香りだった。火にかけられた釜の中から立ちのぼる蒸気と匂いに、腹の虫がたった今目覚めたばかりように活発に鳴いた。
そして彼女が振り返り、いつもの笑顔で笑う。

「柚子さんただいまー!」
「おかえり、きり丸。夕飯もうできるから、手洗ってきてね」
「ういっす!ついでにチャチャッと長屋まわってくるー!」

学園から家までの道のりなぞなんのその、元気いっぱいのきり丸は荷物を放るとその足でまた飛び出していった。長屋を回って、明日のアルバイトの予約を入れに行ったのだろう。
休暇の恒例行事になりつつあるきり丸のバイトは、油断していると自分たちにまで仕事が回ってくるのだから厄介だ。けれど以前そんな愚痴を零したら、目の前の彼女は「それでも断らないんだから、本当にお人好しですよね」と楽しそうに言ったのだ。
小さくなるきり丸の背中から視線を戻すと、柚子は炊事用の前掛けで手を拭きながら駆け寄ってきて、私を出迎えた。
    ああ、その笑顔は久しぶりだ。

「おかえりなさい、半助さん」
「ただいま。荷物を置いたら私も手伝うよ」

玄関を閉めてそう言う。
けれど柚子はきり丸の放った荷物を拾い上げると、履物を脱いだ私の背中を押して居間へとあげた。

「いいですよ。もう殆ど出来てますから、座っててください」

そう言って返事も聞かずこちらに背を向けた柚子に苦笑して、私はその好意に甘えることにした。腰を下ろして、土間を動きまわる彼女の背中を見つめる。
学園で顔を合わせる事はあっても、それも月に一度あるかないか。会えないまま、彼女が学園を発った後に、乱太郎から彼女の訪問を知らされることも何度もあった。
学園で忍装束に身を包んでいれば堪えていられた欲が、家の今で気を抜いた今、溢れそうになる。手を伸ばせば触れられる距離と、触れることが制限されない空間。
ふいに伸ばしそうになった右手を慌てて握って、懐に入れる。先程買ったばかりの重みが、そこにあった。

いつ渡そうか。早い方がいいだろう。
そう思って立ち上がろうとして、ふと部屋の隅に置かれた彼女の薬箱が目に入った。彼女の商売道具であり、命ほど大切だと言っていた大きな薬箱。その薬箱の上に、何やら茶色の、細長い物がいくつか散らばっていた。木目で、艶のない、4寸ほどの、

「…………簪?」

飾りのない質素なそれは、今彼女の髪を束ねているものと似たようなものばかりだった。……もしかして、たくさん持っているのか?

「ああ、それ」

私の呟きが聞こえたのか、振り返った彼女がこちらを見て、困ったように微笑んだ。

「私、よく失くすんですよ」

3人分を器用に運ぶ彼女が、いつもの位置に皿を並べて行く。自分の分を受け取りながら、私は首を傾げた。

「簪って、そんなによく失くすものか?」
「……と言うか、正直に言うと使っちゃうんです」
「使う?」

尚更疑問符を浮かべる私に、柚子は斜め上へと視線を泳がせた。
簪など、髪に挿す以外の使い道を聞いたことがない。
答えがいつかないまま彼女の返事を待っていると、彼女は一回り小さな声で、


「……忍装束じゃない時とか、便利で……その、所謂、苦無代わりと言うか……」


呟くように、恥ずかしそうにそう言った。
無意識に、もう一度薬箱の上に散らばった簪に視線を向ける。……確かに、よく飛びそうではあるが。
彼女にとっては手に馴染んだ、使い勝手がいい物なのだろう。それならば、いくつも携帯する理由も分かる。とはいえ、簪は簪だ。本来髪を纏めるものであり、武器として扱う物ではない。思わず、呆れるようなため息が口から零れていた。

「柚子……消耗品じゃないんだから……」
「半助さんだってチョーク投げるじゃないですか。あれだって十分もったいないです」
「うっ」

そう言われては、何も言い返せない。
恥ずかしそうに頬を染めながらも反論した彼女は、私が言葉に詰まったのを見て少しだけ口角を上げる。
まるできり丸のように、まだ使えるのにもったいない、と繰り返す彼女に今度はこちらが視線を泳がせる事になってしまった。
いつだったか、折れたチョークで攻撃した際、年下忍者にセコい、と言われたことがあったが、それは今回黙っていることにしよう。

「だから最近は消耗品だと割り切って、自分で作ってるんですよ」

簪をひとつ手に取って、くるりと回す柚子。
見れば確かに小刀も置いてあって、おそらく夕飯の準備の前に形を整えていたのだろう。
その出来は手作りと思えない完成度で、器用な彼女らしく表面はなめらかに削り上げられている。触れていないのに、するりとした肌触りすら想像できるほど。

飾り気のないそれは、機能性だけ見れば確かに使いやすく、重宝するのだろう。
手に馴染む武器を持つのは良い事であるし、彼女の言う通り、いざという時には便利だ。
けれど振り返った柚子は、諦めに似た顔をしていた。

「可愛くないでしょう?」

こうして同じ長屋に身を寄せていても、柚子は自分と同じく、家にいることの少ない身だ。
女だてらに薬師の腕を買われ、今やあちこちにお得意様の居る彼女は、薬の調達と配達であらゆる土地を回る。
その上忍としても仕事を引き受けているのだから、忙しさで比べたら私の比ではないだろう。
必要以上に着飾る機会も、余裕もない生活のなかで、職業柄仕方ないのだと諦めているのなら、これ程もったいないことはない。

「なら、」

手を伸ばし、彼女の髪に触れる。簡素な造りの簪をそっと引き抜くと、綺麗にまとめられていた髪がさらりと背中に落ちた。
ああ、全部下しているのも好きだな。一瞬そう思いながら、懐から出した簪を耳の近くに挿した。

きょとんとした柚子に手鏡を渡すと、彼女は鏡を覗き込んで、そして驚いた顔でわたしを見た。
顔をあげた彼女の動きに合わせて揺れた簪が、きらりと光りを跳ね返した。

「これはなるべく使い捨てにしないでくれよ」

再び鏡を覗き込んだ彼女の手が、そっと耳元の簪に触れる。透き通った橙の蜻蛉玉が彼女の指先で揺れ続けていた。
口を開けたままもう一度顔をあげた柚子に思わず笑みが零れた。これほど呆気に取られた彼女の顔を見るのは、いつ振りだろうか。普段は余裕綽々の彼女に自分が振り回されることのが多いが、今日は珍しく立場が逆転した。これはこれで、気分がいい。

「うん、似合ってる」

本心からそう告げると、彼女は一瞬だけ泣きそうな顔をして、わたしの胸で顔を隠した。朱に染まった彼女の頬を見て、あぁ、贈ってよかったと心から思う。

「……ありがとうございます」

顔をあげた柚子の、学園では決して見せない、緩んだ笑顔。否、きり丸の前ですら、こんなにも嬉しそうな顔はなかなかしないのだから、きっとこれは、私だけの特権なのだ。
嬉しそうに簪を揺らす彼女の肩を引き寄せて、その髪に口付けた。





チョークと簪
「……万が一使っちゃったらごめんなさい」
「その時は罰としてチョークを買ってもらおうかな」

===20180602