夏の休暇中だったと思う。
きり丸のアルバイトに付き合わされ、三人で荷車いっぱいの薪を運んでいた時だ。荷車を引く私の後ろで、その荷車を押しながら交わされる二人の何気ない会話を聞いていた。

「柚子さんが一番嫌いなものって何?」

そんなきり丸の素朴な問いに、彼女が一切迷うことなくキッパリ答えたのを、よく覚えている。



その日は陽気も暖かく、雲もない過ごしやすい日だった。ぽかぽかと暖かな日差しが注ぐ忍術学園で、

「「「………………」」」

ここ医務室にだけは、絶対零度の凍てつく空気が流れていた。
不憫にも本日の当番であった乱太郎と伏木蔵、それに前日残した仕事のために自主的に薬草管理に立ち寄った三反田数馬は、お互いに視線を合わせた後、この空気を作り出した張本人をこっそり横目に見た。皆、包帯やらすり鉢やらを手にしてはいるが、その手は一向に動かない。
そんな彼らの横に敷かれた一枚の布団の上に、この学園の学園長たる、大川平次渦正がなんとも小さく縮こまって正座していた。
そして、その目の前にはひとつの笑顔。

「学園長先生」
「ひっ!」

掛けられた声は、相手を気にかけるような配慮を抱きながらも、しかし底冷えするような冷たさを放っていた。
今の一言で名指しされた学園長ばかりでなく、その場にいた全員が、室内の温度が確実に二、三度下がったと確信した。けれど、発言した本人はにっこりと穏やかな(それでいて背景に雪山を背負うような気配の)笑顔を浮かべる。

「お加減、いかがです?」
「そっ、そうじゃな!もう元気じゃ!元気モリモリじゃ!!」
「それは良かった……では、先生」

立ち上がって両手を振り、ほれほれと体全体で元気を表現する学園長。その姿によかったとは言いつつも、彼女の言葉からはそんなことは分かっています、という意思が伝わってくる。そしてゆっくりと右手をあげると、笑顔を崩さぬまま、冷えた声でこう言った。

「早く布団をお空けなさいな」

怒気すら感じるその声に、学園長は肩を震わせ光の速さで医務室を出ていった。

「……まったく」

開け放たれたままの戸を閉めて、柚子は困ったようにため息をついた。いつもの空気に戻った彼女を見て、残された生徒達はようやく肺が呼吸機能を取り戻したかのように大きく息を吸った。

「え、えっと……柚子、さん……?どうしたんですか、そんなに怒って……」


数馬の隣に座って、同じように薬草に手を伸ばした柚子に、生徒を代表して現状この場の最高学年である数馬が声をかける。一年生の乱太郎と伏木蔵は、未だに少しびくついた様子で大きく頷いていた。
三人の様子に苦笑いをこぼした柚子は、怖がらせてごめんね、と前置きして、手元に視線を落としたままため息混じりに言った。

「私、仮病ってこの世で一番嫌いなのよ」

再び少しピリついた声でそう言う。その言葉に、三人が同時にあぁ、なるほど、と声を零した。
学園長が腹が痛いと言って医務室にやってきたのは、ほんの十分ほど前のことだった。新野先生が席を外していたのでたまたま居た柚子さんが対処し、ひとまず安静に、と学園長を布団に寝かすまでは良かった。
その後、ぽつりぽつりと話す学園長の言葉から、実は予定にあった外出が面倒になって仮病でキャンセルしようとしていたことが判明するのだが(この辺りは、彼女の巧みな話術の賜物だろうと思う)、そうと判明した途端、柚子の態度はそれまでとうって変わり、先程のような絶対零度の状況に至ったのだ。

「限りあるものは無駄にするべきじゃないわ。私が薬師として持つ時間も労力も薬も包帯も、仮病の人達のためのものじゃないし」

テキパキと薬草の分類を進めながら話す彼女は、珍しく語気が荒い。
そんな柚子に乱太郎はああこれは本気でものすごく嫌いなんだなぁと納得し、伏木蔵は柚子さんでもこんなに怒るんだなぁと再認識し、数馬は話しながらも淀みなく薬草を分類していく彼女の動きに感心していた。

「何より仮病の人に拘っている間に、本当に薬師を必要としている人を見落とすことはしたくないでしょう?」

そう締めくくった柚子はしかし、はたと手を止め、そして少し反省の色を示して語気を弱めた。

「でも嫌いすぎて、仮病に対するアンテナが鋭くなっちゃって。……さすがに、心が狭くてダメよね」
「そんな事ないです!柚子さん間違ってないです」
「そうですよ、大体学園長の仮病には私達も迷惑していて    

一年生たちのフォローを受け、学園長の我儘な仮病案件についてつとつとと語る乱太郎に苦笑いを零す。

「確かに、付き合わされる側から言えば、仮病ほど無駄なものはありませんよね」
「ね、そう思うでしょう?」

同意を示した数馬に力一杯頷き、柚子は再び目の前の薬草に手を伸ばした。
そういえば、これが何の薬草で自分が何をしているのか一切説明をしていないが、彼女は当然のように理解してそこに座り、分類を手伝ってくれている。数馬がそれに気付いたのは、自分の分けた薬草の山と、柚子の山がほとんど一緒になってからだった。

「あぁ、ごめんなさい!いつの間にか手伝って頂いてしまって」
「いいのよ。今日はもう他に用もないし、お夕飯もこちらで頂くことになってるから」

終わるまで付き合うわ。有難くもそう言った彼女の前の薬草は、しかし殆ど分類し終わっていて。

「これ、挽くところまでやる?薬研出しましょうか」
「いえ、今日は分別までで。明日伊作先輩がまとめて挽くそうなので」

仕事の早い彼女と一緒になら、或いは自分でも今日中に全て挽き終えるのも可能かもしれない。一瞬そう思った数馬だが、しかしその瞬間、ヘムヘムが鐘を鳴らす音が聞こえた。
日も傾き、もう夕刻だ。
数馬が乱太郎と伏木蔵に仕事を切り上げるよう伝えるのを聞きながら、柚子も分けた薬草の山を手分けして袋に詰めた。
種類ごとにタグをつけて、さぁ棚に運んで終わりだ、と思ったその時、医務室の戸が再び開いた。

「……あれ、柚子さん」
「こんばんは、土井先生」

全員が同時に入口へと振り返り、柚子が挨拶する。
現れた土井先生は彼女の姿に一瞬驚いて動きを止めたが、その挨拶に会釈を返してぐるりと医務室を見渡した。新野先生は、いない。

「どうかされましたか?」
「い、いや……少し胃の調子が悪いので、今晩は食事を控えようかと思ってね……」

土井先生またですかぁ?、と乱太郎から声が上がるが、今回ばかりはお前らのせいだろうとは返せず、鳩尾を抑えて情けなく笑った。
心配顔の数馬に布団を勧められるが、それには及ばないと断りを入れて、柚子から少し離れた場所に腰を下ろす。
途端、彼女が眉を寄せたような気がしたが、気付かないふりをすることにした。

「なら、夕飯はおばちゃんに頼んで何か胃に優しいものを作って貰いましょうか。お粥とか……」
「いいえ、数馬くん。その必要はありません」

終始心配してくれる保健委員たちの言葉を割って、柚子のキッパリとした声が届いた。全員が振り返ると、柚子は薬草の入った袋を抱えたまま、じっとこちらを見つめていた。いつもの人当たりの良い笑顔ではなく、探るような目で。その目に、思わず腰が引ける。

「土井先生」
「は、はい……?」

その場を動かず自身を呼ぶ柚子の声に、思わず腰を浮かせて本能的に逃げの体勢を取った。
しかしどうやら、その態度で彼女は確信を持ってしまったようだった。小さく、聞こえるか聞こえないかのため息をついて、その調子のまま話し出す。

「夕飯はちゃんと食堂で食べましょうね。お粥じゃなくて、きちんと精のつくものを。食べられるでしょう?」
「うっ……」
「バランスの良い食事はストレス解消にも効果的です。ああそういえば、食堂のおばちゃんに聞きましたよ。今夜のおかずは……おでんだそうで」

その言葉が決定打だった。
本日二度目の空気に、まさか、という目でこちらを見る保健委員の三人。そして放たれたとどめの笑顔に、私は今度こそ立ち上がって逃げ出すことになる。

「私が竹輪とごぼう巻きと半平とさつま揚げを山盛りよそって差し上げる前に早く行ったほうがいいですよ〜」
「そうしますっ!!」

脱兎の如く駆け出して食堂へ走り去った後ろ姿に、呆れた目を向ける生徒三人。
まったく、ここは生徒より大人達の方が情けないわね。そう言った柚子は、今度こそ盛大にため息をつくと、思わず、といった調子でくすくすと笑いを零した。

「……しょうがない人ですね」



その後、遅れて食堂に現れた彼女が隣に座り、こっそり私の皿から竹輪と半平を盗んでいったのには、誰も気づかなかった。





嫌いなもの

===20180610