※きり丸入学前です




家に帰るのに、これ程緊張するのは初めてだった。
道すがら足は重く、道程もいつもよりずっと長く遠く感じた。家に帰りたくないわけじゃない。むしろ早く帰って、彼女に会いたい。会いたいと思うのに、会うことを考えるとやけに緊張した。
前回の休みもずっと一緒に居たはずなのに、何を緊張しているのだ、と自分を叱咤する。解ってはいても、「自分の家に彼女を迎え入れること」と、「彼女の待つ家に帰ること」が、気持ちの面でこれほど違うとは思わなかった。
落ち着こうと深く息を吸う。そもそも、彼女が家に居るかもわからないのだ。薬師として仕事を始めた彼女は、今では学園だけでなく町の診療所のいくつかに頼まれて薬を卸したり、時には医者のいない山間の村で自ら患者を診たりしている。まず家に居ないことの方が多いのだ。
先程まであれほど緊張していたのに、彼女が家にいない可能性を考えたら気分が沈んだ。独りの家に帰ることなど、何も特別なことはない。今までずっとそうだったことが続くだけだ。けれど、一度彼女の温かさを知った家は、彼女がいないだけで酷く冷えて見えるだろうと、そんな予感だけがあった。

いてくれるといい。出迎えてくれたら、もっといい。そんな期待が胸の内に膨らむのを、止めようがなかった。自分で考える以上に、私は彼女に固執しているらしい。そう考えて、自分の結論に身体が熱を持つのを感じた。


「おや半助、おかえり」
「どうも、隣のおばちゃん」

緊張と期待の続くままようやく長屋の前までたどり着くと、見慣れた隣人がほうきを持った手を止めて迎えてくれた。挨拶を返しながらも、待ちきれず家の様子に目をやった。    窓が開いている。

「柚子ちゃんも帰ってきてるわよ。まったく、二人して留守ばっかりで……アンタ達いつ結婚するんだい」
「えっ!!?いっ、いや、そういう話は……」
「何言ってんだい情けない!男ならシャキッとしな!」

アンタいくつだと思ってんの!バシンと力強く背中を叩かれて苦笑する。会話しながらも、心はさっきまでより弾んでいた。彼女は家にいる。
しかしおばちゃんと別れて家の前に立つと、一通り浮き足立ち終わった嬉しさが少し影を潜め、再び緊張が持ち上がってきた。彼女が待つ家に帰る。たったそれだけの事なのに、どうしてこう特別に感じるのか。同時に、おばちゃんに言われた言葉がさっきから頭の中にずっと残って繰り返されていた。
結婚。それを考えたことがない訳ではない。ただ、まだ早いと思っていた。それだけだ。
ため息と同時に頭を振って、緊張と雑念を追い出す。少し立て付けの悪い戸を開けて、中へと入った。

「柚子……?」

部屋は暖かく、囲炉裏には火がくべてあった。釜の方からもいい匂いが漂ってくる。どうやら、夕飯の支度は終わっている様だ。
けれど、肝心の彼女の姿がない。
どこに。そう思ってもう一歩踏み出した時、突然後ろから抱きつかれた。

「おかえりなさい、半助さん」

驚いて危うく声をあげそうになる所を必死で抑えて、腕の下から背後を見やる。いたずら成功、とでも言いたげな笑みを浮かべた柚子が、見上げるようにこちらを見ていた。

「……あんまり可愛いことをしないでくれ」
「気配を消して背後をとる女が可愛いですか?」

確かに、気が緩んでいたとはいえ全く気づかなかった。流石は現役の忍。気づけない自分も、情けない話だが。気を取り直して、くすくすと楽しそうに笑う柚子の腕をそっと解いた。その腕を握ったまま彼女の正面に立つと、柚子はただ笑顔で私の言葉を待っていた。

「……ただいま、柚子」
「はい。おかえりなさい」

そういった柚子に、私は先程までの緊張など吹き飛ばされてしまった。ああ、なんてことはない。ただその言葉が聞きたかっただけだ。堪らず、おかえりなさいと紡いだ柚子の唇に口付けた。

「……半助さん」

小さく呟いたその息さえ飲み込む距離で、柚子が笑ったのが見える。その笑顔を見て、確信する。
きっと彼女も、同じような気持ちでいたんだろう。私の帰りを待ちながら緊張したり期待したり。そしてそれを、さっきの驚かすような態度で誤魔化したのかもしれない。

「おかえりって言わせてくれて、ありがとうございます」

そして二人で、同じところに辿り着いた。柚子の頬に置いた私の手を包んで、彼女がそう言った。
その言葉ごと飲み込むように、また深く口付ける。

今は、形はどうでもいい。ただ、今は特別なこの言葉を、当たり前にしていける二人の未来を望んだ。

「それは私の台詞だよ」


ただいまを聞いてくれて、ありがとう。










今のかたち
===20180607