「……………………」
「……………………」

こんな奇跡があるとは。
神仏に頼るなど忍者にあるまじきと分かってはいるが、もしも神というものが本当に存在するなら、今はそいつに向かって全力で出席簿の角を振りおろしてやりたい気分だ。

仕事 の途中、町角で人にぶつかり尻もちをついた。
ただそれだけの話。
それだけの奇跡。

目の前の相手は若々しい武士の姿で、黒髪を結い上げた凛とした雰囲気の青年だった。姿勢や所作の端々に育ちの良さを感じさせる振る舞いで、こちらがぶつかって尻もちをついても、その青年は僅かによろけただけだった。
すぐに姿勢を整え、けれどこちらに対する謝罪を口にして手を差し出     そうとした、その状態で彼が固まった。

青年と、しっかりと視線が絡む。否、正しく言い換えるならば、青年ではない。
目の前のその姿は誰がどう見ても青年だろう。けれど自分はそれが誤りであることを知っていた。きっと、おそらく、誰よりも。

「……どうぞ、御手を」

長い沈黙のあと。
私が本物の令嬢だったら一瞬で恋に落ちるような艶やかな笑顔で、彼が私に言った。差し出された手は、私のよく知る手だ。
線が細くしなやかで、水仕事や薬草つみで少し傷の多い、そして僅かに薬の芳香がする手。しかし差し出されたその手からいつもの薬草の香りはせず、水仕事で作った傷も丁寧に隠されている。正直、その真新しい印象と違和感のない風貌に感心もした。
……けれどこちらに気づかれたくはなかった。
本当に。本気で。

差し出されたその手を取って、青年らしい強い力に引かれて起き上がる。立ち上がった女性をさり気なく支える心遣いまで、まるで女性の扱いに慣れた貴族の様な振る舞いだ。知らぬ者が相手ならば、例え城の若君を名乗っても疑われることはないだろう。

「お怪我はありません?お着物汚れてらっしゃいませんか」
「いえ、大丈夫ですよ」
「それはよかった。本当に申し訳ないことをしました」

丁寧に頭を下げたその姿に、近くにいた若い女子がほうっとため息をついたのが聞こえる。そして流れるように顔を上げた柚子が、一点の曇りもない爽やかな笑顔で、未だ腰の引けた私にこう言った。

「お嬢さん、お時間が許すなら、どうぞ謝罪させて頂けませんか」




促されるまま近くの茶屋に移動し、軒先に並んで座る。
注文した団子と茶に手をつけることもなく、私は羞恥に耐えるように顔を背けていた。先程まで流暢に言葉を重ねていた柚子も黙ったまま顔を伏せていて、それがさらに私の羞恥心を膨らませていた。傍から見たら、気まずい雰囲気の恋人にすら見えるだろうか……傍目には、今は私が女で、彼女が男なのだが。
そんな無言に十数秒耐え抜き、しかしそれ以上は耐えられず、私はついに柚子へと視線を向け、そして口を開いた。


「……笑いすぎだぞ」
「ぶっ」


小さく、彼女にしか聞こえない声でそう呟くと、ずっと肩を震わせていた柚子は耐えきれず吹き出した。
口の中で笑いを殺すように背中を丸めて震える彼女を責めるような目で見下ろす。けれどそんな目をしてはみても、自分の顔がもうずっと赤いままであろう自覚があった。威厳も凄みも何もかも、今の自分からは程遠い。
諦めたようにため息をついて、揃えた足が開かないように注意しながら頭を垂れて両手で顔を覆った。
視界に映る女物の着物が、これまでで一等恨めしく思えた。

「いえ、違うの、ごめんなさ……っふふっ」
「………………」
「ほ、本当に違うんですよ、半助さんがどうこうじゃなくて」

顔を上げた柚子は、姿こそ立派に青年だったが、声と表情はいつもの彼女だった。
ようやく素を覗かせた彼女にどこか安心しながら、けれど笑われている事実に不満を隠さず目で訴える。けれど彼女は楽しそうに笑うばかりで、目尻に溜まった涙を指先で拭いながら言った。

「こんな奇跡あるんだなぁと思って」

……同じことを考えていた。
目の前の品の良い着物に身を包んだ柚子は、当然自分と同じくなにかの忍務中なのだろう。闇に紛れる仕事が多い彼女にしては珍しい事だったが、それでも薬師としての仕事でないことだけは確かだ。先程差し出された彼女の手が思い出される。薬師としての仕事ならば、これ程念入りに薬の痕跡を消す必要などないだろう。
お互い忍務中に、こんな格好で、町中でばったり出会う。お互い忍のくせに、お互いの気配も読めず曲がり角でぶつかった。普段ならば私が彼女を支えるはずなのに今日は支えられて、その上団子を奢られて。
これ程の偶然の重なりを奇跡と呼ばず何と言おうか。

「そう思ったら、なんか、っふふふ、わ、笑いが止まらなくなっちゃって」
「……私は涙が止まらんよ」
「何言ってるんですか、すごく可愛いですよ……えーと、半子さん?」
「勘弁してくれ……」

お腹を押さえて震える彼女の隣で、はぁぁと盛大に息を吐き出す。
半子、と呼ばれてさらに赤くなる顔を見られまいと、私は膝に肘をついて頭を垂れた。いつもと違い、毛先でまとめられただけの髪が肩から流れて顔を隠してくれる。正直、それだけは有難かった。
けれどそれも束の間で、都合の良く流れたその髪を、横から伸びてきた柚子の指が掬いあげてしまった。
ひらけた視界に映った彼女の指が、私の傷んだ髪を耳へとかける。一瞬頬に触れたその指がひやりと冷たくて、思わず彼女を見上げてしまった。

「こんな姿で他の男の人と居るとこなんて見ちゃったら、私嫉妬しちゃいますね」

いつもと変わらない、少し照れた時の彼女の顔だった。
ああ、なんだかどうでも良くなってきた。そう思って、耳に触れていた彼女の指を捕まえる。近くで見ると、薄い化粧で手の傷を隠しているのがわかった。薬の匂いは、香で誤魔化しているのだろう。鼻をくすぐった嗅ぎ慣れない香の匂いに、やっぱりいつもの彼女の匂いのが好きだと、ぼんやり考える。
手を取られた彼女は小首をかしげながら、それでも男性のように掌を上にして私の指先をそこに乗せた。うん、所作は完璧。百点。

「君は時々、本当に格好良いなぁ」
「それはそれは、ありがとうございます。半助さんはいつも格好いいですよ」
「こんな格好の時に言われてもな……」

大人しく指先を取られたまま溜息をつくと、彼女が「本心ですよ」と笑った。
私も本心で彼女のそういう所が格好いいと思っているのだが、これ以上言うと数倍の恥ずかしさが自分に返ってきそうな気がしたのでこの話題で彼女を褒めるのはやめておくことにする。

「しかし随分慣れてるな。その格好よくするのか?というか今仕事の途中じゃないのか」
「仕事終わりの帰り道です。……今回は致し方なくですよ。男装なんて滅多にしません。面倒だし回りくどいしあんまり好きじゃないです」
「それを言うなら私だって女装は好きじゃないし、一人なら極力他の手を考えたさ」
「というと、おひとりじゃないんですか?」

会話をしながら自然と手が離れる。それと同時に、茶屋の前の道の端に見慣れた姿が現れた。
上品な足取りで可愛らしく駆けてくる姿を見て、ああ、こっちも所作だけなら百点なんだけどなぁ、所作だけなら。と、苦笑いが零れた。私の視線に気付いた柚子が小首を傾げて後ろを振り返り 、そしてあの綺麗な青年の表情で、でもどこか楽しそうに微笑んだ。

「ああ、伝子さん」
「あらやだ、いい男〜!半子ったらこんないい男捕まえて何してるのよぉ〜」
「……………」





半子の憂鬱
「伝子さん、よければなにかお力になれることは?」
「まぁ嬉しい!じゃあ私にもお団子ひ・と・つ」
「喜んで」
「仕事はいいんですか伝子さん……」
「半子が此方の殿方といちゃいちゃしてる間にもう片付いちゃったわ。お団子食べたら私たちも帰りましょ」
「それは失礼しました……。私がお引き留めしてしまって」
「あらお気になさらないで。お陰で可愛いものが見れたもの〜」
「…………(いつから見てたんだこの人……)」

===20180813