※前話の続きです





学園長の庵で柚子の報告を聞いた後、一度部屋へ戻って山田先生から利吉くんの様子を聞いた。
すぐに駆けつけてくれた新野先生のおかげで、手当は既に終わり、意識も問題ないようだった。腹に痛々しい包帯を巻いた状態で、再度謝罪した利吉くんに私は首を振って応える。……なんとなく、彼の謝罪には怪我のこと以外の何かも含まれているような気がした。
おそらく山田先生から柚子について聞いたのだろう。それは構わない。柚子自身も、この状況でまで隠し通そうとは思っていないだろう。寧ろ最初から覚悟の上で利吉くんを助けたのだと思う。
あれでいて、彼女も山田先生には懐いている。そんな山田先生の一人息子を、柚子が見殺しにできるわけがないのだ。

部屋の隅で寝着から職員の忍装束へと着替えを済ませ、手当を終えた新野先生と共に部屋を出て、庭へ降りる。
どの道山田先生は今晩利吉くんについて看病だろうし、その隣で一人だけ眠るわけにもいかない。まだ朝は遠いが、目も冴えてしまった。何より    こんな時に不謹慎ではあるが    こんなに近くに居るのに、眠るのは勿体ないと、思ってしまう。

「利吉くんは大丈夫だよ。……というのは、もう既に知ってるか」

薄い月明かりだけが照らす庭の、その奥の木立に向かってそう声を掛ける。仮にも薬師で、その上彼女は利吉くんが傷を負ったその場にいたのだ。山田先生に傷の状況を説明した様子から見ても、命の心配はしていないようだった。
木立の影から音もなく姿を見せた柚子に歩み寄って、その手をとる。必然的に、自分も木立の暗がりの中に入る。

「君は、怪我は?」
「大丈夫です」

短く答えた彼女は、しかしその暗がりから出てこようとはしない。そんな彼女に、小さく苦笑いを零した。
この学園で、忍の姿で居ることに抵抗があるんだろうと思う。ここへ来る彼女は、いつも「薬師の柚子」だ。「戦忍の紅」ではない。時折学園長からの依頼も受けて忍として動いている彼女だが、それでもこの姿で学園に現れることなど滅多にない。
……彼女がそれを望まないなら、長く引き止めるわけにはいかない。名残惜しいと思いながらも、無事は確認したのだからと自分に理由をつけてその手を離す。
けれど、一瞬離れた私の手を、意外にも彼女が引き止めた。

「……半助さん」

離れた私の指を掬うように取って、小さく、とても小さく呟く。その声に僅かに躊躇いが見えた。まるで、そう呼ぶことは許されるのだろうかと、問うような。
思わず息を止めて、肯定の意が伝わるようにと祈りを込めて、触れられた遠慮がちな指を握り返した。私を引き止めたはずの彼女の指が、一瞬逃げるように跳ねる。けれど逃がすつもりなどなかった。

「……どうした?」

その手をぎゅっと捕まえたまま先を促すと、彼女は一瞬迷って、そして頭巾を取った。
頭巾に隠れていた黒い髪が背中に流れ、口元の肌が顕になる。
晒した肌に夜風が冷たいのか、彼女は一度唇を噛み、そして口を開いた。

「ごめんなさい」
「今日のことは皆感謝こそすれ、責めるなんて誰もしないさ」

学園にとっても、利吉くんは身内のようなものだからね。そう言うと柚子は一度頷いて、そして首を振った。
その顔は僅かに伏せていて、私の目線より低い位置にある彼女の表情は窺えない。

「違うんです……それもあるけど」

戸惑いがちにそういった彼女の顔を覗き込むと、彼女はちらとこちらを見て、そして顔を背けた。

「こんな時に不謹慎だけど……その、暫くは、半助さんに会えないと思ってたから」

そういった彼女の声は、一音発する毎に小さくなっていき、最後には微かに空気を震わせるだけの小さな音でしかなかった。
その言葉に、思わず吹き出して笑う。僅かに顔を上げた柚子が睨むようにこちらを見たが、構わずその頬に触れて額を合わせる。

「……情けないこと言ってるって思ってます?」
「いやまさか。ただ、いつもの私と同じだと思ってね」

そう言うと、彼女の視線は少しだけ緩んだ。
いつも考えていた。ここにいる間、自分は彼女がどこにいるのかも把握していない。たまに学園に来る時も私からすればいつも唐突で、故に期待してしまうのだ。
今日は会えるだろうか。次はいつ会えるだろうか。話せるだろうか。触れられるだろうか。名前を呼べるだろうか。
半助さん、と。名前を呼んでもらえるだろうか。

口では叱りながらも、からかう様に彼女が発する自分の名を聞けることが嬉しくて仕方ないのだ。
きっと彼女は、それを知らない。けれど彼女が今、いつもの私と同じ気持ちでいることが嬉しいと思った。こんな情けない話、彼女に語る気もないが、せめてこの愛しさが伝わればと、そう願いながら彼女の口を塞いだ。
ほんの一瞬躊躇った柚子が、しかしそれでも受け入れてくれるのをいいことに、深く深く口付ける。くぐもった声が漏れるのも無視して、後退る彼女を追いかけた。

許してくれるとわかっていて彼女を困らせるのは、私の我儘だろう。自覚はしていても、普段の距離を少しでも埋めたくて必死に足掻いている。
彼女がどこまでも優しい人だと、知っているから。

ようやく少しだけ唇を離すと、彼女が大きく息を吐き出した。堪らずその息ごと飲み込むようにもう一度その口を吸うと、そこで初めて、彼女が小さな抵抗を見せた。
その弱い力に押されるままに、漸く体を離す。

「少しは私の気持ちも察してくれたかな」

呆れたように、けれど熱を込めて私を見る目にまたその口へ吸い付きそうになるが、我儘は十分過ぎるほど通したのだからと自分を諌めた。

「……そうですね」

楽しげに笑った彼女に、もう先程までの戸惑いは見られなかった。



辺りが薄く白み始め、木の葉の隙間から少しずつ朝陽が溢れる。木立の影に木を背にして座り込んだまま、私と柚子は紺から青へ変わる空を見ていた。
もうすぐ食堂から朝餉の香りが漂ってくるだろう。長屋が少しずつ騒がしくなり、小松田くんは正門の掃除を始める。
そうなる前に柚子は学園を出た方がいい。分かってはいるが、どうにも腕に抱いた彼女を離す気になれなかった。

「……今日、外で着替えたらまた来ます。利吉くんのことも気になるし、大川様にも改めて報告を」
「そうだな」

口でそう返しながらも行動は正直なもので、どうにも離し難くて、私の胸に背中をつけて空を見ている彼女の肩に顔を填めた。

「……そう言えば利吉くんだけど」

一時の別れをすこしだけ先延ばしにしようと、そう会話を続ける。きっと彼女には、そんな私の心情もバレていただろう。それでも、少し困ったような笑顔で応えてくれる彼女が愛しい。
また来るとは言っても、その時に会えるかどうかはわからないのだから。別れは毎回名残惜しい。

「よく一緒になるのかい?」
「……よく、という程では。一緒に仕事をしたのは初めてですね」

もともと仕事内容が全然違いますし。そう続けた彼女の仕事は、確かに利吉くんの仕事とは異なるものだ。言ってしまえば、彼女の仕事が忍者の仕事の中でも特殊なのだが。

「あ、敵方では一度会ってますね。去年の夏の頃に」
「……もしかして以前の、」

去年、夏。その言葉にはたと思い当たる。
『顔見知りだったので、油断しちゃって』。そう言って笑う彼女が、頬から首にかけて紅い傷をつけて帰ってきた時を思い出す。
もう痕は残っていないが、あの頃の自分は今以上に彼女の傷に敏感で、肝を冷やすと同時にその傷をつけた相手に対して腸が煮えくり返るほどの怒りを覚えたものだ。
無意識に、あの時の傷を撫でるように彼女の首に触れる。
小さく笑った彼女が、振り向きながら私のその手を取った。

「怪我人なんですから。襲ったりしちゃダメですよ?」

困ったような笑い顔で、諌めるように柚子が言う。バツが悪くなって、私は思わず一瞬視線を背けた。あ
傷を負ったあの時、柚子が怪我について語りたがらなかった理由がこれでようやく解った。
それまでは怪我をした時、仕事に触れない程度ではあるが、私が聞けば怪我の状況や症状を教えてくれていたのに、あの時だけは彼女は口を噤んだ。顔見知りを庇っているのだろうと解って余計に虫の居所が悪かった私だが、相手が利吉くんと知ればその矛先も行方を失いひとり悶々としていただろう。
利吉くんと、そして私を(主にストレスに弱い私の胃を、かもしれないが)彼女なりに気遣っての判断だったのだろう。

「お互いフリーでやってれば、そんなこともあります」
「……解ってるさ。今更怒らないよ」

言いながら、彼女の頬を包む。
さすが腕のいい薬師なだけあって、あの時の傷は痕もなく綺麗に治っている。それが救いだった。
痕が残っていたら、さすがに利吉くん相手でも怒りを隠せなかったかもしれない。……否、これは寧ろ、嫉妬だろうか。

「大丈夫ですよ。私、利吉くんには負けませんから」
「……利吉くんが聞いたら怒りそうだ」
「プライド高そうですもんね」

にやりと音が聞こえそうな顔で柚子が笑う。
実際彼女の言う通り、あれほど優秀な利吉くんであっても、こと戦闘においては柚子に勝るとは思えなかった。私自身も、純粋な闘いでは彼女に勝てる自信がない。

それが幼い頃から培われた彼女の実力であり、彼女にとって唯一の生きる道だった。    出来ることならばそんな彼女が、この忍の道から抜け出せる日が来ることを心から願う。


「柚子」

呼べば向けられる目を覆うように抱きしめて、そして離す。察した彼女がふっと微笑んで、そして跳躍した。塀の屋根の上に着地した彼女が振り返り、私は彼女の後に白む空を見ながら片手を上げる。

「……またあとで」
「はい、あとで」

手を振り返してくれた彼女の姿が、一瞬で塀の向こう側へ消えた。目の前に残った空の色だけを目に焼き付けて、ふぅと息を吐く。さぁ、朝だ。今日は一限が座学でその後裏山マラソンだったかな。彼女が再びここへ来る頃、まだ自分は学園にいるだろうか。
いるといい。会えるといい。そう思いながら、私は漂ってきた朝餉の良い匂いに釣られるように、ふらふらと食堂へ向かって歩き出した。





===20181018