ホグワーツに入学したての一年生が先ず苦戦するのが、この城の自由すぎる構造だろう。気ままに行き先を変える階段、何処に辿り着くか解らない廊下。知らない道を一人で歩き回ろうものなら、目的の場所へ辿り着く可能性はほぼ皆無、それどころか、場合によっては命の保証すらしかねるという。そう、それこそ幸運の薬でも飲まない限り。
入学して、もうすぐ一年が経つ。他の生徒と同じように、私も未だこの城には随分と煩わされていた。

「(……やっぱり、迷ったのかしら)」

見覚えのない廊下を前に、ついに足を止める。予想では、この先は右曲がりの廊下になっているはずだった。角にユニコーンに乗った乙女の絵が飾られていて、生徒が通る度に気位の高い乙女が煩わしい咳払いをしてくるのだ。けれど目の前には、左右に別れた階段と、おそらく西棟へ繋がる渡り廊下へと続く道。ガーゴイルの像と、見慣れない青い装飾のシャンデリア。傲慢な乙女の姿は何処にもない。
ああ、一人で大丈夫だなんて意地を張るんじゃなかった。
寮まで送って行きましょうか、と言ってくれた馴染みの面々を思い出す。彼女らの有難い申し出を断ったのは、彼女らの手を煩わせたくなかった気持ちと、僅かながらも城に慣れてきたという自負と、それにより培われた自信があったからだ。教わった道を正しく進んできたつもりだったが、どこで誤ったのだろうか。
戻ろうと振り返り、そして私はまた足を止める。ほんのついさっき、降りてきた階段が、消えた。身体からさっと熱が引くのを感じる。暑い訳でもないのに、背中に嫌な汗を感じた。

けれどその時、幸いにも近くから話し声が聞こえた。反射で振り返ると、同じ年頃の生徒が二人、西棟から渡り廊下を進んでくるのが見える。道に慣れたあの様子から見て、恐らくは二年生以上だろう。胸をなで下ろし、彼らに駆け寄る。ご令嬢方に教わった礼節や所作も、この時ばかりは気にする余裕がなかった。
パタパタと慌ただしく駆け寄った私に彼らが気付き、二つの視線が私を捉えた。黒髪で、一人は端正な顔立ちに鋭い目、もう一人は人好きそうな眼鏡の少年だ。ネクタイもローブの内側も赤色、つまりはグリフィンドール生だ。

「あれ、きみ1年生?もしかして迷子かい?」
「はいっ……あ、あの、ここからロビーに降りるには」

どうしたら、と言いかけたとき、彼らが私の胸元のネクタイを見下ろしているのに気がついた。2人が互いに視線を合わせ、そしてまた私を見る。無遠慮なその視線に、思わずネクタイを抑えて足を止めた。

「……えっ、と」
「ああ、ごめんね。ロビーはそっちの階段だよ」
「え?」

眼鏡の少年が迷いなく指し示したその階段は、おそらく階下へ続く階段だった。両側の手すりに青色の縁取りがされており、角にルビー色の硝子で形作られた雄鶏が飾られている。
「雄鶏の階段は使わん方がいい。とんでもなく気まぐれで、下手をしたら一生城を彷徨うことになるぞ。二年生以上はみんな知っとる」
寮監からそう聞いたのは、入学式のその日だったか。期待と希望に満ちていた心に一気に警戒心を呼び戻したその言葉は、今でもよく覚えている。
疑い深い気持ちで振り返り、少年を見上げる。その顔には意地悪を楽しむ意図は見られないような気がした。人当たりの良い、親切さのみを漂わせた笑顔。寮監の言葉はただの冗談だったのだろうかと疑う程に、彼から悪意を感じなかった。寧ろ善意から道を教えてくれているのだと、信頼さえ抱く程に。

正直言ってこの頃の私は、グリフィンドール生に漠然とした好感を持っていたのだと思う。リリーの印象も強かったのだろうが、父母の友人にもかの寮出身の人は多くいたからだ。友人を敬い、傲慢さや卑劣さを嫌う彼らは常に人徳に溢れ、広い視野で人生を楽しんでいた。
だからこそ、こんな事は予想もしていなかったのだ。

「ああ、そうだな。その階段を降りて右に行くといい。スリザリン寮の一番近くに出るぞ」
「大丈夫さ、僕らも何度も使ってる道だから。信用しなよ。不安なら途中までついて行ってあげようか?」

迷う私の腕を取って、少年たちが先を促す。それに僅かに抵抗すると、彼らの力が強くなった。その力に、恐ろしさを覚える。
目の前には笑顔、そして疑惑の階段。どちらを信じていいのか、判断ができなかった。
   私は今、何に怯えているのだろうか?



「エミリア!」

後ろから聞こえた高い声に、はっとして振り返る。見るとリリーがこちらに向かって走ってくるところだった。その姿に、彼女の声に、酷く安心する。無意識に少年二人の手を振り解いて、私はリリーに駆け寄った。

「リリー、よかった!私迷って   
「ポッター!ブラック!」

駆け寄った私を、リリーは少年たちから隠すようにぎゅっと抱きしめた。いつもの優しい声じゃない、怒りを含んだ声。その声が真っ直ぐに少年たちに向けられている。

「あなた達、ここで一体何をしてるの?」
「やぁ、エバンス。そこのスリザリンの子、まさかとは思うけどきみの友達なのかい?」

少年の声に、初めて棘が表れた。けれどリリーの胸に抱かれ隠されていたため、その表情を確認することは出来ない。
だったら何、と答えたリリーに、ポッターと呼ばれた少年は低く唸る(その声が小さく、冗談だろ、と言葉を紡いだ気がした)。

「別に、道を聞かれたから案内してやってたところさ」
「ひどい嘘ね、ブラック。わたし見てたのよ。この子を『あの』階段に行かせるつもりだったんでしょう!?」

   ああ、やっぱり。
間違っていなかった。寮監も、私も、間違っていなかった、
起こらなかった出来事を想像して、私は肩を震わせた。もし彼らに言われるまま進んでいたら、どうなっていただろう。
私が帰らなかったら、スリザリンの彼女たちは心配するだろう。父母も、寮監も。セブルスも。そしてもし、迷い込んだ先から帰ってこられなかったら、わたしは  


「なぁ、エバンス。スリザリン相手に、そんな怒ることでもないさ」
「そうそう、ちょっとしたジョークさ、そうだろ?」

背筋が凍った。彼らはなぜ嘘をついたのだろうか。
私が、何か彼らの気に触ることをしてしまったのだろうか。出会ったばかりの彼ら相手に、当然思い当たる節などない。彼らはきっと、私の名前すら知らないはずなのに。
何故。どうしてこんな嘘をつくのか。穏やかな声で、親切を施すような顔で、初めて会った名前も知らない年下に向かって。

ただ私が、スリザリン生だから。

リリーが彼らを叱りつける声を聴きながら、私は彼らの顔を見ることが出来なかった。顔を見るのも、見られるのも怖い。ただ凍るように冷たい手だけが、これ以上ないほど酷く現実的だった。



   ごめんなさい、エミリア」

その声に、我に返る。顔を上げると、あの2人はもう居なかった。リリーがさっさと追い払ったのか、彼女の説教から彼らが逃げたのかは分からないが。優しい声が私を気遣い、その手が肩を叩く。私は「大丈夫」と何度か繰り返し、今更早くなった鼓動を抑えようと息を吐いた。

「悪い奴らじゃないのよ。ただ、悪戯事となると歯止めが効かなくて」
「……いたずら?」
「理解できないわよね、分かるわ。でも彼らは何故か、それに心血を注いでいるのよ」

まったく幾つになっても子供っぽいの、男の子ってみんなそうなのかしらね。
呆れ顔で笑ったリリーに手を引かれて歩き出す。

「ロビーまで送るわ、エミリア。道を完全に覚えるまでは、誰かと一緒にいた方がいいわよ」




ロビーでリリーと別れてから、私は足早にスリザリン寮へと向かった。
殆ど駆け足で寮へと滑り込みながら、ナルシッサに教わった作法が全く身についていない自分に情けなさを感じた。この一年、真剣に教えを乞うたつもりだった。彼女らのように強く、気高くなりたくて。彼女たちもその想いに答えてくれて、幼子のように無知な私に真摯に向き合ってくれた。だというのに、私は何一つ気高く振る舞うことも出来ず、今も体の震えが止まらないほどに、弱い。
彼らの嘘を悪戯と片付けたリリーに、違和感を覚えた。まるで手の掛かる弟の戯れを詫びるようなあの笑顔が、少しだけ怖かった。リリーは初めて会った時から変わらず優しく、公平な人だと言うのに。私は、なぜそう感じてしまったのだろう。

力の抜けた脚が、遂に立つことを放棄した。談話室の隅で蹲り、涙が零れないよう堪えるのがやっとだった。
私はスリザリンなのに、ナルシッサのように気高くはない。
私はリリーの友達なのに、彼女のようにあの二人を許せない。
尊敬する人たちに、何故報いることが出来ないのだろう。



「エミリア?」

己を呼ぶ声に、顔を上げる。今、誰よりも会いたいと思っていた彼が、その眼に戸惑いを湛えてそこに居た。
セブルスの顔を見て、堪えていたものがポロポロと零れてしまった。


スリザリン生になら何をしても許されるのだと、当然のように思っている人が居る事実を知った。ならば、父母の友人達も同じなのだろうか。“友人の子”に慈愛に満ちた眼差しをくれた彼らは、“スリザリンの私”を受け入れはしないのだろうか。父母のあの不安は、戸惑いは、もしかして彼等と同じ「嫌悪」から来るものなのだろうか?

ホグワーツに入って一年。私はこの時、初めてそれを肌で実感した。スリザリン生がマグルを良く思わないのと同じくらい、否、それ以上に、他寮がスリザリンに抱く嫌悪は強いのだと。
嫌悪の的になることが、これほど恐ろしいことなのだと。


===2023.8.31