ベルが響いている。
自分の頭上にある部屋から大音量で聞こえてくるその音は、リリリリ、リリリリと定期的に間を空けながら空気を振動させていた。
開けっ放しの居間のドアから、廊下と階段を過ぎて耳に届く電話の音。
鼓膜を揺らすその音に気付きながらも、アメルアは倒れ込んだソファから動こうとしなかった。
端に積んだクッションに頭を乗せた状態で浅く呼吸を繰り返す。目は瞑っていたが、眠ってはいなかった。
外は陽気な昼下がりだ。適度に吹く風が芝生を揺らし、外壁や窓を掠めて通り過ぎる。
太陽は真南から少し西に動きはじめ、白い雲が風向きに合わせてゆっくりと動く。
穏やかな春の陽気だった。
窓から差し込む太陽光が、冷まされた吹き竿を照らす。煤だらけの鉄が、わずかに光を反射した。電話はまだ鳴り響いている。
しばらくはそのまま時が流れた。電話のベルは数十秒鳴り続けて、その他は死んだように静まり返っている。
リリリリ、リリリリ、リリリリ。
しつこくなり続ける音に眉を寄せる。一仕事終えた後の疲れた体は、ただひたすらに休息を要求していた。
リリリリ、リリリリ、リリリリ。
短い間隔を置いて、ベルが16回鳴った。そして、唐突に17回目の途中で音が切れる。
静かになった部屋で、無意識にほっと息をつく。ようやく心地よい静寂が戻ってきた。
しかしそう思ったのも束の間、再び2階からリリリリ、とベルが響いた。
仕方なく、閉じた目を少しだけ開ける。しかし、今度の音は一度鳴っただけですぐに消えた。再び、静寂が戻る。
短いベル音を不思議に思って、目を開けて体を起こした。2階へ繋がる廊下に目を向けて、黙ったまま首を傾げる。
一度きりのワンコール切り。
…遠い記憶を遡る。それは、幼いころの合図。「遊ぼう」代わりの呼び出し合図。
再びベルが鳴り出した。リリリリ、リリリリ。今度は長く。
ソファから起き上がって、廊下に飛び出す。長い階段を駆け上がって、居間に飛び込んだ。
1階の工房まで聞こえるようにと、大音量に設定されたベルの音。耳を塞ぎたくなる衝動を抑えて電話に駆け寄った。
リリリリ、リリリリ。鳴り続けるベルの音。慌てて、受話器を握った。
音が止まり、静寂が戻る。誰もいない家の中で、受話器をそっと耳に当てた。
『……アメルア?』
耳に当てた受話器から、耳慣れた声が聞こえた。
少しくぐもった、こもる様な響きを湛えた音が、自分の名前を呼ぶ。
「…やっぱり、アルだったんだ」
『うん。こうすれば気付いてもらえるかなって思って』
照れたような笑い声がする。
久しぶりに聞く声に、アメルアも笑いながら「うん、おかげで気付いた」と返す。
小さいころは、よくあの方法でお互いを呼び出していた。
こっそり家を抜け出すときや、親に内緒で一緒に捨て猫を育てたとき。そんなときの為に、仲間内で決めた秘密の呼び出し。
「電話、一回目に出れなくてごめんね」
『こっちこそ。仕事中だったでしょ?』
「ううん、一区切りついたとこだったんだけど…ほら、電話まで遠いから」
『あ、そっか。ごめんね、もしかして疲れてる?』
気遣うような声に、伝わらないと分かっていながらも、その場で首を振った。
「平気。あたしもアルと話したかったから」
『うん、僕も』
最後に話をしたのは、いつだったっけ。壁にもたれて窓の外を見ながら、アメルアは考えた。
記憶が正しければ、もう1年程前だった気がする。確か、エドが機械鎧のメンテナンスに戻ってきたときだった。
「久しぶりだよね、電話くれたの。今どこ?」
『イーストシティ、さっきついたんだ。今は司令部の前だよ。兄さんは今頃また大佐と喧嘩してるんじゃないかなぁ』
会って早々喧嘩ふっかけてたから、と言うアルの言葉に、相変わらず、と呟く。
その「大佐」がどんな人かは知らなかったが、アルの話は会う度よく聞いていた。
それも年に数度のことだったが、アルはエドのハチャメチャっぷりと共に軍部の話もよくしてくれた。
出会った人々、別れた人々。軍属だからこその経験と錬金術師ならではの見解。
深くは理解できずとも、彼らの旅が騒がしく賑やかで、同時に途轍もなく果てしない難儀な旅であることぐらいは分かった。
昔は、よく理解出来なかった。“軍の狗”という言葉の意味も、軍属になることで背負う負荷も。
覚えているのは、昔一度だけ目にした青い軍服。エドもあれを着ることになるのかなと考えて、少し違和感を覚えたこと。
「エドは?二人とも元気?」
『バリバリ元気だよ。さっきも列車の中でトレインジャック犯捕まえたばっかり』
「またそんな……危ない旅してるんだね…」
『僕は平穏にいきたいと思ってるんだけどね……』
兄さんがね〜…。
呟くアルの声色の中には、呆れと諦め、それと同時に穏やかさが覗く。
あぁこの兄弟はいつまでたっても変わらないな。そう思った。
「エドのお守りは大変そうだね、アル」
『本当に。あっちこっちで騒ぎ起こしっぱなしだよ』
「らしくていいじゃない」
『巻き込まれる身にもなってほしいよ』
疲れた声。その声に、アメルアはお疲れ様、と心からアルを労わった。その言葉に「ありがとう」と返事が返される。
脇の道路を、車が走ったんだろうか。受話器から微かなエンジン音が聞こえた。
本当に外にいるんだ、と考える。よく聞いてみると、ガシャン、と鎧がすれる音もした。
電話越しの声は、やっぱり味気がないと思う。
どれだけ正確に言葉を伝えても、どれだけ感情を伝えてくれても、…微かなノイズが壁を作る。アメルアはきゅっと拳を作った。
この 距離 を、実感 させられる。
『……急に、さ』
「うん?」
ぽそりと呟いたアルの言葉は、とても小さかった。
アメルアは脇を通り過ぎる車のエンジン音にかき消されないようにと受話器をぐっと握る。
『声、聞きたくなって……元気かなーって。ごめんね』
「ううん、うれしいよ」
控えめな言葉に、アメルアは微笑んでそう言った。今度はアメルアが、ありがと、と礼を言う。
その言葉に返事は返ってこなかったが、アメルアは受話器の向こう側でアルも笑っているような気がした。
彼の優しさと強さには何度も助けられてきた。初めて会ったときから、彼が体を失ったときも、旅に出ると決意したときも。
自分より他人を優先する無償の優しさが、心配になる事もある。…だが同時に、その優しさが大好きでもあった。
今も、そう。彼の言葉に、あたしはどれだけ救われているだろうか。
「あたしもバリバリ元気だよ。他のみんなも」
『ほんとに?忙しくて無理してない?』
「全然。最近は落ち着いてちょっと暇なくらい」
しばらくは、掻い摘んで近況を報告しあった。
エドとアルの旅は思った以上に思わしくなく、アメルアの仕事は思った以上に上々だった。
2人の旅を心から応援するアメルアと、仕事の好調さに心から喜ぶアル。
お互いに心地よい時間が、続いた。
「たまには帰ってきたら?ウィンリィとばっちゃんも文句言ってたよ」
『あはは、心配じゃなくて文句なんだ?』
「そう。連絡の一本もよこせないのかとか、ちゃんと定期メンテナンス来いって言ってるのにあの豆粒!、とか」
『うわ〜、ウィンリィらしいなぁ』
「エドにも忠告してあげて。連絡入れないと後で帰ってきたとき怖いよって」
『うん、伝えとく』
笑い声と共に、繰り返されるささやかな会話。意味のない話題。
こんな時間がいつまでも続けばいい。…あわよくば同じ場所で、面と向かい合った状態で。
そう思うのは、やっぱり身勝手だろうか。アメルアは小さな幸せの中で考えた。
『もう行かなきゃ。兄さん待たせてるし』
「……そっか」
『うん。じゃぁね、』
「あ、っアル!」
じゃぁね、の言葉に、アメルアは慌てて声を大きくした。名残惜しいと、心臓が騒ぐ。
兄弟が旅立ったあの日、密かに誓ったことがある。
その誓いを破りたいとは思わないけれど、…それでもやっぱり、会いたいと、願う。
「たまには電話してね。真夜中でもいいから」
『……うん、ありがとう』
「ちゃんと起きて待ってるからね」
『だめだよ、アメルアはちゃんと眠らなきゃ』
「言ったでしょ?最近暇なの。大丈夫だよ」
『はぁ……わかったよ』
言い出したら聞かないんだから、と小さな呟きが耳に届いた。
『じゃぁ……またね、アメルア』
「…うん、またね」
今度こそ別れを告げる。しばしの沈黙の後、受話器がガチャンと置かれる音。
受話器をゆっくり耳から放して、アメルアは無音の部屋へ戻ってきた。
静かなリゼンブールの昼下がり。
天気良好、微風、南風。開けっ放しの窓から、部屋の中に僅かな風が送り込まれる。
「……またね、かぁ」
握った受話器を下ろして、アメルアはひとり呟いた。
がちゃんと音を立てて受話器を置く。ベルの余韻が、部屋中に広がった。
次の「またね」は、いつになるだろう。
一ヵ月後だろうか。一年後だろうか。待つ時間というものは、途方もなく長くて、遠い。
贅沢は言えない。たまにこうして電話をくれるだけでもいい。そう思わなければ、押しつぶされそうだった。
アメルアは一度ぐっと伸びをして、両頬を叩く。よしっと気合を入れて呟き、静かな居間を後にした。
熱くなった電話が、日盛りの陽光の下で、少しずつ冷えていった。
=====H20,9,12