夜長不行き届き



明日に大事な試合を控えた深夜のことだ。興奮か緊張か、食事をしても入浴してもベッドに転がっても妙に落ち着くことができない。本当なら可愛い彼女へ電話でもして気分を落ち着けたいところだが、今スマートフォンを開くと余計に目が冴えてしまいそうなので泣く泣く諦めた。枕元に置いてある時計をちらりと見ると、眠れないまま長い時間が経過したことを実感した。このまま天井を見上げていても変わらないだろうと踏み、気分転換も兼ねて走りに行こうと着替えを始めた。家に戻ることには気分も落ち着いているだろう。軽くシャワーを浴びて、温まった体でもう一度ベッドに入ればきっと眠れるはずだ。念のためウェアのポケットにスマートフォンをねじ込み、反対のポケットには自宅の鍵を入れる。必要最低限の荷物を身に着けて走り出した。

この時期は日中こそ暑いが、夜は涼しい風が吹いていて心地が良い。先ほどまで降っていた雨がアスファルトを濡らし、草木の匂いを際立てている。自然豊かな地域の夜を思わせる香りが呼吸と共に胸へと落ちていく。辺りには誰もおらず、しんと静まっている。夜独特のしっとりとした雰囲気が少し心を落ち着かせた。

走り始めて15分ほど経過した頃だろうか。進行方向の遠くに人影が見えた。自分のことはすっかり棚に上げ、こんな時間に歩いているなんて物騒だと思いつつも走っていると、その距離はみるみるうちに縮まっていく。人影に近付くにつれ、ある疑念が生まれてきた。――あれは彼女ではないか。確かに彼女の家はこの近所だ。それにしてもやけに軽装、と言えば聞こえはいいが、実際のところ部屋着だ。自分も何度か見たことがある上に、恐らく胸元がざっくり開いているものだ。あんなん着て外出てどないすんねんと思いつつもどうか違う人であれと願いながら隣を通り過ぎると、いつも通りの彼女の柔らかい香りが鼻腔をくすぐった。……間違いなく本人である。

「おいおいおい、名前チャンはこんな時間に何しとるん?」
「わ、侑!そっちこそなんでここにおんねん」
「眠れんくて走りに来たんやけど、まさか可愛〜い彼女の名前チャンとこんな深夜に会うなんてなあ?」
「ほんま偶然やなあ」
「こんな時間に一人で歩いて危ないやろ!どうしても出なあかんのやったらちゃんと連絡せえ、俺すぐ行くっていっつも言うとるやん!」

こっちの心配をよそに、名前は「だって侑明日試合やろ?もう寝てるかと思ってんもん」と飄々としている。確かに普段ならとっくに寝ている時間ではあるが、彼氏としてはそれでも一声かけて欲しいものだ。案の定彼女は見覚えのある胸元ざっくり開きの部屋着を着ていたので、思わず左右の胸元の布を中央へ寄せる。くっきりと見えていたふくよかな双丘が少しだけ隠れた。

「何すんねん、伸びるやろ」
「こーんな服で外出たらあかんやん、襲われたらどうすんねん」
「言うても誰もおらんし」
「そう言うことやないの!気いつけや!」
「オカンか」
「ちゃうわ!」

思わず上がってしまった声のボリュームを抑えろとでも言うように、名前は人差し指を唇に当てた。うっすらとした街灯に照らされて艶を持った唇に思わずどきりとしてしまう。

「もう夜中やし静かにせんと」
「誰のせいやっちゅうねん。…ほんでどこ行こうとしてたん?」
「眠れないから散歩がてらコンビニでも行こうと思っててん」
「ほー、その格好で?」
「どうせ誰も見てへんよ」
「…もう本当にそろそろちゃんと自分が魅力的なこと理解してくれへん?」
「そんなん言うの侑だけやし」

明後日の方を向いて唇を尖らせる彼女の自尊心の低さは甚だ疑問だ。こんなにも可愛くて愛らしくて愛おしくて堪らないのに、何故自分の価値を理解していないのか。一層のこと、毎日毎日うんざりされるほど褒めたくって刷り込みしていくしかないのではと思うほどの危機意識の薄さには参ってしまう。

「コンビニで何買うん?」
「ちょっと寄ろって思っただけで取り立てて欲しい物はないねんな」
「はー…、ほんなら家まで送るから帰んで」
「はーい」

どちらともなく繋がれた手は、自分のものとは違って暖かく柔らかい。人の体温とはこんなに心地のいいものだったかと思うのと同時に、どうしてもこの体温を近くに置いておきたいという欲が顔を出してしまった。今晩はこの柔らかな熱を抱いて眠りたいと思ってしまったのだ。そうすれば、眠れずにジッと天井を見上げる時間もきっと無くなるだろう。幸いにも明日は土曜日なので彼女の通勤の心配をする必要もない。

「…なあ、提案なんやけど、このまま俺の家来てくれへん?」
「あんた前に"試合前は一人で居たい"って言うてたやんか。明日大事な試合やろ?私が居ってもええの?」
「名前やから傍にいてほしいって思ったんや」

まあ、侑がええなら。と繋いでいた手をゆるりと解き、互いの指同士を絡ませ恋人繋ぎにした彼女は少し照れたように笑った。

「そんなん自惚れてしまいそうやわ」
「だから俺は名前に心底惚れとるって毎回言うてるやろ」
「…ありがとな、自信付いてきた気いする」
「だからこんなもう不用心な事するのやめてな?」
「ん、わかった」

繋がれた手にぎゅっと力が入る。こんな時間に外にいた彼女と運よく出会えたのも眠れぬ夜のおかげかもしれない。結果的に眠るのは遅くなってしまったが、きっと心地よく眠れるに違いないだろう。二人でベッドに入る温かさを思い浮かべながら帰路につく。雲の間から顔を出した月が薄らと二人の影を作り出した。







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