紅い果実と白磁



『今度の土曜日、ドライブ行かね?』

黒尾からそう連絡がきたのは水曜日の事だった。そういえば以前無事免許を取ることができたと言っていたことをぼんやりと思い返す。部活がひと段落した頃からせっせと教習所へ通い、なんとか卒業と同時期に取得できたそうだ。黒尾よりも少し前に免許を取得していた私は、教習車独特のセダンの広いとは言えない運転席に長い足を押し込む黒尾を想像してにやりをしたことを思い出した。

黒尾と私は付き合っていない。だが、高校を卒業し、大学生となってから少し経った今も変わらずお互い暇を見つけてはちょこちょこ遊びに行く仲である。とは言っても行き先は近くのショッピングセンターや公園、バッティングセンターだったりと到底色気のあるものではない。初めて遠出の誘いを受けたこともあり、心臓がいつもより少し強く脈を打った。しかしそれを文面に出すのは少々癪に障るので、当たり障りのない返信を送りかえす。

『いいよ。どこ行くの?』
『まだ決めてねえけどそっちの希望ないなら横浜とか?中華食いたくね?』
『いいじゃん横浜。決まりね』
『おー。んじゃ当日迎えに行くからまた連絡する』

とは言え三半規管の弱い私はペーパードライバーの車に同乗することは結構気合がいる事だった。自分が運転する場合は問題ないのだが、運転が上手くない人の車に乗ると十中八九体調を壊すタイプなのだ。了承の返信をしたものの、体調の心配と遠出への高鳴りで落ち着かない数日間を過ごすこととなった。

普段二人で出かけるときは近所ということもあり、そこまで気合の入った服装にはしていなかった。だが、遠出ともなると話は別だ。しかもドライブである。少しは着飾らなくてはいけないだろう。この春から大学生になったということもあり、少しずつ手持ちの服を新調していた。クローゼットひっくり返して、最近増えた真新しい服たちをベッドの上に並べる。ずらりと並んだ少し大人っぽい服を眺めながら首を捻る。折角だから黒尾が好きそうな服を選んでみようかと思い、今までの記憶を思い起こした。
一緒に出掛けた時、黒尾は女性向けの服屋を見かけては「あれ、名字に似合いそうだな」と何の気なしに言いながらショーウィンドウを指さす。それは決まってスカートだった。黒尾と出かける際は行く場所の所為もあり、大概パンツスタイルにスニーカーなどと動きやすい服装を選んでいた。それに、今さらスカートなんて着ていくと、ちょっと意識していると思われてしまいそうで気恥ずかしかったのだ。それはそれで事実なのだけど。結局手持ちのスカートたちは黒尾と出かけるときは日の目を見ることはなかった。

結局着ていく服が漸く決まったのは前日の夜、寝る直前だった。この数日間あれやこれやと鏡の前でファッションショーを繰り広げては首を傾げる事を繰り返しており、自分でも何がいいのか分からなくなってきていた。そんな私に救いの手を差し伸べたのは一番仲のいい友達だ。彼女だけには黒尾への気持ちを伝えていたため、全く服が決まらない愚痴を相談を素直に話せた。世話好きの彼女は私のファッションショーにビデオ通話で嫌な顔せず付き合ってくれ、少し背伸びをした服を着ていく後押しをしてくれた。自分以外の目で見てもらえると少し安心ができた。ベッドで天井を見ながら悶々と着ていく服を考える日々とは無事お別れできたので、久しぶりにゆっくり眠れる気がする。布団の中で大きく伸びをし、遅くまで付き合ってくれた彼女へ渡すお土産に何を買おうか考えているうちに深い眠りへと落ちていった。



翌朝、ドライブ当日。懸念材料も無くなり、ゆっくりと眠れたお陰ですっきりとした朝を迎えることができた。締め切られたカーテンの隙間からは朝日がのぞいていて、今日の天気が良いことを伺わせた。枕元に置いたスマートフォンの画面を点け、時間を確認する。よし。約束の時間まではあと二時間程ある。大学生になってから初めてメイクをし、徐々に上達きてきたものの、まだまだ腕は未熟だ。出掛けるのだから、いつもより少し気合の入ったメイクをたどたどしく施し、ついでに髪も軽く巻く。あまり普段は行わない事なので、正解はわからない。でも、黒尾に可愛いって思ってもらいたかった。今日の私はいつもと違うぞというのを示したかったのだ。
慣れないことを大事な日に完璧に行うのは難しい。例に漏れず、完成したはずの自分の姿を鏡越しに見つめてはため息をつく。アイラインはもう少し綺麗に引けたのでは?口紅の色、これでよかったかな?髪も後ろが綺麗に巻けていないような気がする。気にしだすとキリがない。鏡を見つめて思い悩むこと早数十分。脇に置かれたスマートフォンが震え、黒尾からのメッセージを受信したことを知らせた。

『着いたけど準備できてる?まだだったら焦らなくていいけど』

約束の時間ぴったりに送ってくるところが黒尾らしいなと思う。こちらの状況を見透かしたような文章を目で追い、もう一度鏡を見る。時間的にもこれが限界だ。両手で抱いていた不安を押し込め、腹を括った。

『大丈夫。今出るね』

簡単な返信をし、玄関に向かう。昨晩予め出しておいた真新しいハイヒールは玄関の隅にちょんと置かれている。これを履いた私は黒尾の目線に少しは近付けるだろうか。そんなことを考えながら、最後に全身鏡で身嗜みを確認した。多分、大丈夫。ふーっと大きく息を吐き、指定された場所へ向かう。

私の家の少し先、暫く停車しても邪魔にならないような場所で車にもたれ掛かってスマートフォンを弄りながら私を待っていた黒尾は、慣れないヒールが鳴らす音を聞いて顔を上げた。こちらに気付いて空いている方の手を軽く挙げ、いつものようにへらりと笑ったのを見て、私もつられて手をひらひらと振る。

「おー、」
「待たせちゃってごめんね」
「いや、さっき連絡したタイミングで着いたし別に待ってねえけど」
「黒尾の事だからまた随分早く来てたのかなって思ったけど、違う?」

少しバツの悪そうな顔をした黒尾は斜め上を見ながら「…実は、ちょっと早く着いたから、この辺り何週かした」と歯切れ悪く小さく零した。黒尾は人を待たせることを嫌う。それは相手のことをよく考えているからがゆえになんだと思う。多分、それをうまく隠せる技量もあるのだけど、それなりに付き合いも長い私には分かってしまうのだ。なんだかそのことに優越感というか、ちょっとした嬉しさを感じて少し笑ってしまう。わざとらしく唇を尖らせた黒尾はおどけた調子で「ちょっとは男に花持たせてくださーい」と私の額を軽く小突いた。こちらもわざとらしく額を抑えつつむくれてみせると、にやにやした顔で助手席のドアを開けて、「ドーゾ、お姫様」と妙に恭しく頭を下げた。その様子がおかしくてまた笑ってしまう。

「いいから早く乗りなさいよ」
「はーい、お邪魔します」
「ちゃんとシートベルト締めてね、じゃないと俺が捕まっちゃうから」
「黒尾より早く免許取った私に言うセリフじゃないよ、それ」
「はは、確かに」

くだらない会話をしながら出発に向けて車に乗り込む。運転席と助手席の間のドリンクホルダーには既に二本のペットボトルが差し込まれており、その隙間に挟むように小袋のチョコ菓子が置かれている。それを見た私は思わず声を上げてしまった。だって、私の小さめのバッグにも二本のペットボトルが押し込まれているから。黒尾の分と、自分の分。しかも黒尾が用意していたであろうものと全く同じ物を持ってきていたのだ。挙句の果てに持ってきたお菓子まで一緒だ。私が声を上げたのを聞いた黒尾は、運転席のシートベルトを締めながら不思議そうにこちらを見た。私のバッグから取り出された二本のペットボトルを見て目を丸くし、次に出てきたお菓子の袋を見て声を上げて笑った。

「は、まじ?俺ら気が合いすぎて面白くなってくるわ」
「だね、ここまで同じこと考えてると可笑しくなっちゃう」
「…さすが、無駄に長くオトモダチしてるだけあるな」

そう言った黒尾はほんの一瞬得も言われぬ表情をした。眉根を寄せ、少しだけ困ったような、悲しいような、良く分からない顔をしたのだ。その意味は私にはわからなかったが、すぐに元のへらり顔に戻ったので深く理由を聞くことはできなかった。



心配をしていた車酔いは、黒尾の運転が案外上手だったお陰もあり事なきを得た。まだ免許を取って日が浅いはずなのに、運転もセンスなのだろうか。日頃から視野を広く持つことを意識している賜物だろうかはわからないが、隣で見ていても安心感があるものだった。おまけに駐車も上手いときたら、先に免許を取っただけの私はもう太刀打ちできないとなんだか悔しくなる。唯一のリードは一瞬で埋められていたようだ。

「なんで黒尾のくせにそんなに運転上手いの…」
「くせにってなんだよ。やっぱり才能かなあ〜?」
「なんかムカつく…」

横浜市街の駐車場に車を停め、肩を並べて目的地に向かう道すがら、素直に褒めることのできない私は嫌味たっぷりに黒尾に問いかける。にやにやしながら肩をすくめ、「我ながら多才で困っちゃいますよォ」と冗談めかして返してきた黒尾の空いた脇腹を肘で軽く小突くと、大袈裟に痛がる振りをした。隣を通り過ぎた私達より年上であろう女性二人がそのやり取りを見て、小さく会話を始めたのが耳に入った。

「仲いいね、カップルかな?」
「男の子の方、凄く背が高いね。格好良いなー」
「女の子の方もすっごい可愛いね!お似合いで羨ましいねえ」

思いがけない会話にお互い立ち止まって顔を見合わせてしまった。黒尾は先ほど車で見せたような良く分からない表情をしたが、またすぐにいつもの表情に戻し、「聞いた?あの素敵なお姉さん方から見ても俺格好いいってサ」とにやにや笑う。少しだけ見せた表情の意味がわからなかった私は咄嗟に言葉が出てこず、短い返事を返すので精一杯だった。それを不思議に思ってか腰を曲げながら私の顔を覗き込み、そのまま何も言わずに元の体勢に戻った。その時から、二人の間に微妙な空気が流れ始めたのだ。

あれからと言うものの、中華街で大きな肉まんを半分こにして食べても、美味しい中華バイキングのお店に巡り合えても、熱々の小籠包に一緒に苦戦しても、偶然居合わせた獅子舞に頭を噛まれても普段通りに会話が弾むことはあまりなかった。楽しいはずの遠出も気付けばすっかり曇り模様だ。私達とは反対に、能天気なくらいに晴れている天候にさえ悪態をついてしまいそうになる。まだ初夏だというのにジリジリと突き刺すような日差しを一瞥し、少し前を歩いている黒尾を小走りで追いかける。記憶の中の黒尾は、足の長さはうんと違うのに私を置いていくようなことは絶対にしない人間だったはずなのに、やはり今日は少し変だ。妙な気分なのは自分もなのだけど、それを棚に上げて首を捻る。どこから間違ってしまったのだろうか。



「アー、今日、ごめんな」

黒尾が気まずそうにそう言ったのは観覧車の中だった。
山下公園や赤レンガ倉庫といったお決まりのデートスポットへと足を延ばしても、私たちはどこか余所余所しく過ごしていた。本当だったらふざけて赤レンガ倉庫の鐘を鳴らしたり、真ん中に向かって傾斜が掛かっているカップルベンチに冷やかしで腰かけて写真を撮ってみたりと楽しく過ごしていたはずだ。多分、普段ならそうしていた。でも今日はそう過ごすことはできなかった。悶々としていた私に「…観覧車乗らね?」と提案してきたのは黒尾の方だった。正直この雰囲気のまま密室に閉じ込められるのは気まずいと思っていたのだけど、返事をするよりも早く、私の腕を引いて列に並んだので何も言えなかった。どうにかこの状況から逃げ出したくて、チケット買ってないよと言おうとした矢先に黒尾のポケットからチケットが二枚覗いていることに気が付き、それも言えず仕舞いだった。会話らしい会話もなく只管並び、やっと乗り込んだ観覧車が時計で言うと三時の位置くらいまで昇った時に沈黙を破ったのが先ほどの発言だ。

「いや、なんかこちらこそごめん」
「なんでそっちが謝ってんの」
「…うーん。気まずくしちゃって?」

黒尾が付いた大きなため息によって振り出しに戻り、またもや沈黙が二人を包んだ。ゴンドラが気付けばもう少しでてっぺんに到達しそうな程まで上昇しているというのに外の景色も見る余裕もなく、何を着ていくか悩みに悩んだ末に選ばれたスカートの上で緩く握られた拳を眺める事しかできない。黒尾は今、どんな顔をしているんだろう。

「本当、ごめん。俺、カップルって言葉を意識しすぎちゃって。傍から見たらそう見えるのかってすげえ嬉しかったんだけど、柄にもなく名字は迷惑じゃないかなとか考えちまったりしてさ。本当ダセーんだけど、名字に嫌われたくないわけ。だから、色々悩んでたら名字も微妙な顔してるし、取り返しがつかなくて。ごめんな」
「…なにそれ」
「や、言い方が悪かったな。名字のせいじゃないの、完全に俺のせい」
「そういうことじゃなくて、私も嬉しかったのに。…カップルに見えたの」

すっかり下がった視線を上げた先には、耳まで赤く染めた黒尾がいた。

「待って、それ俺自惚れていいやつ?」
「多分、いいやつ」
「あー…まじか…」

大きな手で自分の顔を覆い、一呼吸ついた後にこちらに向き直った黒尾は何時になく真剣な顔をした。

「この関係を壊したくなくて今まで言えなかったんだけど、俺は名字がすげえ好き。だから付き合ってもらえませんか?」
「…私も黒尾がすごく好き。不束者ですが、よろしくお願いします」
「…はー、良かったー…」

すっかり気の抜けた様子の黒尾は座席から滑り落ちそうなくらいにずるずると体勢を崩した。先ほどの真剣な顔は何処へやら、緩んだにやり顔でこちらを見た後、私の隣の座席に移動をしてきた。体重が偏ったゴンドラはすっかり傾いている。そんなことは気にも留めず黒尾は続ける。

「実は最近さ、名字が可愛くなりすぎて焦ってたの。大学生になってから、あーんなに伝えても着てくれなかった可愛い服なんて着ちゃってさあ。このままじゃ他の男に捕まっちゃうかもしれねえって思うと居ても立っても居られなくて」
「だったら早く言ってくれればよかったのに」
「言えたらこんなに悩んでねえよ!…名字に格好いい所見せたくてコッソリ運転の練習だってしてたし、今日だっていつも以上に可愛いから勘違いしちまいそうって思ってたし」
「私だって初めて黒尾と遠出するから少しでも可愛く思われたくて、夜眠れないくらい悩んだんだからね」
「は?まじで可愛すぎねえ?はー、俺の彼女は最高に可愛いって大声で言いたい気分」
「普通に迷惑だからやめて」

冗談だって、と言った黒尾はすっかりいつもの調子だった。ゴンドラ内の狭い座席に二人並んで腰かけているこの状況は、嫌でも身体が触れ合ってしまう。黒尾が少し動いたのでそちらを見ると、目も瞑る間もなく軽いキスを落とされた。驚いて身を引いた私の背中に手を回し、空いている手を頬に寄せて今度は先ほどよりも長くキスをする。気付けばゴンドラはもう下降を始めていた。

「ちょっと、他の人から見えちゃうよ」
「んー?どうせ誰も見てねえよ」

私の頬に置かれていた手はいつの間にか胸元に寄せられていた。そのまま襟元を下げ、露になった鎖骨の下へ顔を近付けた黒尾は私に小さな痛みを与える。少し口を離して満足そうに笑い、襟元を整えると耳元で「後で確認してね、名前ちゃん」と妖しく笑った黒尾は何事もなかったかのように向かいの席に戻っていった。

付き合った初日でこれだ。呼び方もいつの間にか名前に変わっている。これから先を案じた私は、恐らく付いているであろう印を服の上から撫でる。目の前の黒尾はこちらが恥ずかしくなるくらいに満足そうに笑っていた。

あっという間にゴンドラは地上へと降り、結局景色も何も見ることはできなかった。どちらからともなく繋がれた手は熱を帯び、そのまま頬へと伝わっていくようだ。今度は私にペースを合わせて隣を歩く黒尾と観覧車を後にした。今度来るときは楽しく散策できますようにと願いを込めて繋がれた手を握りなおすと、黒尾の大きな手がそれに応える。指の間から伝わる幸せが堪らなく愛おしく感じた。







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