はじまりの夜



「――やってしもた」

静かに零れ落ちた言葉は、見知らぬ部屋へ溶けるように消えた。

見知らぬ天井、見知らぬベッド、見知らぬカーテン。どこからか漂う良い香りに刺激されて目を覚ましたここは自分の部屋ではない。恐る恐る下を見ると案の定服を着ていない。俺ここで何をしたのか。思い出すのも恐ろしいくらいだが、寝惚けた頭で考えること数分、昨夜の記憶が徐々に蘇ってくる。



昨日、店を閉めた後に少し飲みたくなってしまい、そのまま行きつけの居酒屋へ向かった。小ぢんまりしたその店は、座席の大半がカウンターだ。申し訳程度に置かれたテーブル席も、精々四人で座るのが限度だ。その為自分の様に一人で来る客が大半で、落ち着いた雰囲気で居心地がいい。おまけに店の大将もママさんも人が良く、いつも帰る頃にはすっかりいい気分になっている。そんな居心地の良さを求めてこの店へやってきてしまった俺は、店に入るなりママさんから手招きされた。

「あ、治ちゃんやん!丁度良かった、ちょっとこっちおいで」
「なんや突然やなあ」

招かれた先、カウンターの一番端には見知らぬ女が座っていた。歳は俺と同じくらいだろうか。中々女性が一人で来ることがない店だけに、女性客の来店に喜んだママさんが話し掛けていたらしい。丁度そこに現れたのが俺と言う訳だ。

「この子、今恋人おらんねんて。治ちゃんもやろ?折角だから一緒に話したらええやん」
「ええ、それは流石にお節介やって。お姉さんも初めましての男と酒飲むの気まずいやろ」
「あ、いや、まあ…」
「若いうちは色んな人と話した方がいいんやって!ほら、ここ座り」

ママさんによってひかれた椅子は、もちろんその女の隣の椅子だ。到底断ることのできなさそうな雰囲気に観念して隣に座る。「ほなこれサービスな」といって二人分運ばれてきた中ジョッキは二人の真ん中に置かれ、思わず顔を見合わせる。

「…まあ、乾杯でもしよか」
「そうですね」

控えめにぶつかったジョッキがコチと音を立てる。彼女のグラスの飲み口は俺のグラスの真ん中辺りにあてられ、なんとなくその人柄を察した。多分、ちゃんと考えてる人だろう。

「あー、お姉さん名前なんて言うん?」
「名字と申しますー」
「いやこういう時は普通名前やろ。それに堅いねん、ビジネスか」
「え?あー、名前です」
「名前ちゃん言うんか。可愛い名前やなあ」
「ありがとうございます。そちらは治さん?」
「そ。治ちゃんです」

お通しの小鉢と彼女の注文していたらしい数品を運んできたママさんが、「この子可愛いやろ。中身も可愛いし私の一押しやねん」と言いながら手際よくカウンターテーブルに料理を並べていく。奇遇にもそれは俺が普段頼むものと大体一緒だった。まあとりあえず頼むと言ったらこれだろう的なラインナップなのだが、そのことが妙に嬉しく感じる。食の好みが一緒なのはいいことだ。一通り並べ終わり、取り皿をそれぞれの前に置いたママさんは、「まあ後は若いお二人で」とお見合いの定番の様なセリフを残してカウンターの中へ戻っていった。彼女はどうやらたまにこの店に来ている顔馴染みらしい。どうやら今まで会わなかったのは偶々だったようだ。

「治さんはこの店によく来てはるんですか?」
「おー、めっちゃ来てんで。俺、この近くで店やってんねん」
「へえ、何のお店?」
「おにぎり屋や」

その時、彼女の目がきらりと輝いたような気がした。先ほどまでは俺が座る方とは逆方向に傾いていた身体が、心なしか真ん中に戻る。めし、好きなんやろか。少し緊張が解れたのか、先ほど届いた小鉢をきちんと手を合わせてからつつき始めた彼女は「それって、おにぎり宮?」と探るように聞いてきた。そうだと返事を返すと、彼女と俺の距離がまた少し縮まった。

「やっぱり!いつか行きたいと思ってんけど、なかなかタイミング合わんくて」
「ほんま?今度遊びに来てや」
「もうちょい遅くまで空いてると仕事帰りに寄れるから嬉しいんやけどなあ」
「むしろ遅くまで働きすぎやろ」
「やー、最近残業続きで敵わんわ。お酒飲まないとやってられん」
「ほんなら今日は名前ちゃんの気が済むまで付き合うで。流石に明日休みやろ?俺も店休日やし」
「相手の許容量知らずにそういうこと言うと後悔すんで」
「…もしかしていける口の方?」
「さあー、どうやろな」

いつの間にか解れた口調のせいか妙に会話が弾み、そのままの勢いで再度ジョッキを合わせて乾杯をする。今度は飲み口同士がぶつかり、中身の減ったジョッキは先ほどよりも軽い音を立てた。出会った当初よりかは随分緩んだ目元を横目に見て、こちらもつられて目尻が下がる。気が付けばジョッキも空になり、メニューを一通り眺めた彼女はこちらをちらりと見た。

「治さん、次どれ頼むん?」
「まだ決めてへんけど、名前ちゃんは?」
「…治さんが引かんかったら、焼酎」
「ええやん、そんなら俺も同じの頼むわ」

「ほんま?」と嬉しそうに言った彼女はもう一度こちらをちらりと見てからメニューに視線を落とし、「治さんと飲むの楽しいなあ」と呟いた。それが何を意味するのかは分からなかったが、そう言われて悪い気はしない。照れ隠しに「そうか?」と言えば「んー」と軽い返事が返ってきた。メニューを指でなぞりながら何を頼むか決めるのに意識が持っていかれているらしく、その様子も微笑ましく思える。

それからというものの、本当にいける口であった彼女に付き合って飲んでいると、あっという間に時間が過ぎていた。スマートフォンが受信した通知につられて時刻を見ると、気が付けば日付が変わりそうなところまで迫っていた。この店の営業時間的には問題ないが、終電等の問題もあるだろう。すっかり楽しそうに飲んでいる彼女にそれとなく時間を告げると、「じゃあもう一軒いく?」なんて能天気な返事が返ってきた。聞けば、彼女の家はここからそう遠くないらしい。一応俺の終電はまだあるが、最悪タクシーで帰ればいいかと思いその誘いを了承した。正直、もう少し一緒にいたかったという気持ちもあった。出会って間もないが、実は結構居心地がよかったのは確かだ。そうと決まれば次の店へ向かうまでは早かった。きっちり割り勘でお会計をし、歩き出した彼女の足取りはしっかりとしている。あれだけ飲めば多少ふらつきそうなものではあるが、本当に酒に強いのだろう。本当は全部出すつもりだったお会計も、レシートをパッと見て暗算したらしく「受け取ってくれなかったら次行かない」と言いながらきっちり半額分渡してきた彼女によって割り勘という形になった。少しは格好つけさせてほしいものだが、こちらの痛い所をついてきたので恐ろしい。まるで何もかも見透かされているようだ。

次に入った店でも変わらないペースで飲み続け、流石に二人とも出来上がってきた頃。すっかり楽しくなってしまってお互い時間を気にすることなく過ごしていた為、終電なんてとっくに過ぎている時間となっていた。そろそろ帰ろうかという流れになり、二人で店を出る。ちなみに今回もきっちり割り勘となった。流石に夜も遅いので、適当にタクシーを捕まえて彼女を送ってから自宅に向かうはずだったのだが、運の悪いことに店の近くでは全くタクシーが捕まらなかった。配車を頼むよりも駅まで向かった方が早いということで、並んで駅に向かう。終電もなくなったこの時間なら空いていると踏んでいたタクシーも、乗り場が長蛇の列となっていてかなり待ちそうな状況だ。この近くに家があるという彼女を一緒に待たせる訳にもいかず、ひとまず徒歩で送ることにした。

――問題はその後だ。千鳥足のサラリーマンが彼女にぶつかりそうになり、咄嗟に肩を引き寄せた。意図せず抱き寄せるような形となり、二人の間に微妙な空気が流れたのだ。それからどちらともなく手を繋ぎ、彼女の家に着いた後なんとなくお邪魔する形になり、なんとなく、本当になんとなくそういうことになっていた。勿論双方合意の上だ。…少なくともその時は。



徐々に取り戻した昨夜の記憶は、ベッドの脇に落ちている自身の衣服によって答え合わせがされた。どうやら間違いではない。そうなるとここは名前ちゃんの自宅だ。自宅に着いてからのことは全く覚えていないわけではなく、暗闇にぼんやりと浮かぶ名前ちゃんの白い身体や、赤く染まった頬、快感によっていやらしく歪められた表情はよく覚えている。その体温も、柔らかさも、感触も覚えている。要はそれ以外の事は朧気なだけだ。いい歳をした大人がワンナイトだなんて本当に顔を覆いたくなるくらい恥ずかしいものだが、とりあえず彼女への謝罪が先だと散らばった服を集めて身に着け、目覚めたときに感じたいい匂いの元へ向かった。

「あ、治さん、おはよう」
「ほんま、申し訳ない…」
「何言うてんの、お互い様やって」
「…自分なかなかいい性格しとんな」
「まあ、それより朝ご飯食べへん?簡単なものしかないけど」

小さめのテーブルに所狭しと並べられた二人分の朝食は、ほかほかと温かな湯気を立てている。白米、味噌汁、漬物、焼鮭、ほか色々。…これを簡単なものという彼女は所謂"ちゃんとした"タイプの人間なのだろうか。並んで座り、手を合わせてから食事を始める。そういえば、昨日の彼女も食事を始める前に手を合わせていたなとぼんやり思い出した。小さなテーブルに合わせて寄せられた身体は、触れ合いそうな程に近い。昨夜と比べればどうと言うことのない距離感のはずなのに、彼女がいる方に熱が集まるのを感じた。喉元から身体の熱を均一にするように、温かな味噌汁に口をつける。その優しい味に思わず「うまい」と声が漏れだした。ちらりとこちらを見た彼女は「それは良かった」と笑った。

「朝ご飯作るとか、正直出過ぎた真似したかと心配やってん」
「や、どれもめっちゃ美味いし嬉しい。嫁に来てほしいくらいや」
「付き合ってへんのに嫁とはえらい飛躍したなあ。でも治さんとなら趣味も合いそうやし、案外上手にやっていけるかもしれへんな」

おかしそうに笑いながら言った彼女を見て、なんとなく感じていた気持ちが固まっていくのを感じた。彼女の言う通り、上手くやっていけそうなのだ。これが本当に百パーセントの冗談だったらとしたら恥ずかしい限りだが、こうなったら当たって砕けろの精神だと思う。

「あの、順番というか色々前後してしまって申し訳ないんやけど、付き合ってくれへん?俺、すっかり名前ちゃんに惚れてしまったみたいや」
「…それ本気なん?信じてもいいやつ?」
「ここまで言って嘘なわけないやろ」

一瞬動きが止まった彼女は持っていた箸を箸置きに置き、こちらに身体を向けた。

「不束者ですが、よろしくお願いします」
「堅いねん、ビジネスか」
「いやビジネスはちゃうやろ、昨日と同じツッコミでさぼんの禁止や」

同じタイミング吹き出した彼女を見て、なんとなく始まったこの縁も、きっと心地よい関係を築けそうだと思う。願わくば、ずっと続きますように。彼女の作った朝食を食べながら、毎日並んで一緒に朝食を共にする、そう遠くない未来を想像した。







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