リ・アンブレラ



…完全に油断をしていた。梅雨もそろそろ明けそうという頃、今朝は珍しく晴れ間がのぞいていた。アプリの天気予報には一日中曇りと表示されていて、雨雲レーダーも今日は雨が降らないと言っていた。…にも拘らず、今盛大に雨が降っている。元々曇天ではあったものの、お昼休みが終わった頃からみるみるうちに空が暗くなっていったのを見て、薄々嫌な予感はしていたのだ。嫌な予感というのはよく当たるもので、案の定帰り際にはバケツをひっくり返したような雨が降っていた。先日も帰り際に雨に降られ、置き傘を使ってしまったので今日は傘がない。こんな事なら嵩張るのを我慢して毎日折り畳み傘を持ち歩いていればよかったのにと後悔してももう遅い。所用で少し残っていたために、帰宅部の友人は帰ってしまったし、部活のある友人はまだまだ帰る時間ではない。昇降口で空を見上げて途方に暮れていると、背後からトントンと肩を叩かれた。振り返るとそこにはビニール傘を持った赤葦君が立っている。今日は部活のはずじゃ、と思ったが、教室で少し話した際に急遽休みになったと言っていたのを思い出した。

「名字さんも今帰り?」
「うん、そうなんだけど傘を家に忘れちゃって。だから雨が止むまで待たなきゃなーって思ってたとこ」

最後まで言った後に、これではその傘に入れてくれって言っているようなニュアンスになってて物凄く図々しいのでは?と気付いてしまったがもう遅い。案の定優しい赤葦君は、自分の持っていた傘をちらりと見て「名字さんは帰り電車だっけ。よかったら入ってく?」と言ってくれた。気を遣わせてしまって申し訳ないのはやまやまなのだけど、これではいつまで経っても帰ることができないので赤葦君の提案に甘えることにした。

「ありがとう、凄く助かる!なんか図々しくお願いしたみたいになっちゃってごめんね」
「別に大丈夫だよ。ただそんなに大きくない傘だからちょっと窮屈だと思うけど」
「うう、なんかごめん」
「名字さんは謝ってばっかりだね」

傘を開きながら小さく笑った赤葦君は、バッグを掛けていない左側に私を招き入れた。先ほど大きくない傘と言っていたのは本当で、肩が濡れないようにはお互い結構寄り添わなくてはならなかった。もはや私の肩は傘を持つ赤葦君にくっついてしまっている。もうすぐ夏ということもあり、今日の気温は結構高い。おまけに雨も降っているのだから、ムシムシとしていて必要以上に人と近付くのは不快だろう。一人なら余裕のサイズなのに、私のせいで窮屈になってしまってごめんなさいと心の中で呟く。先ほど謝ってばかりだと言われてしまったので、この謝罪は口に出さずに留めておいた。

「名字さん濡れてない?」
「あ、うん!こっちは全然平気だけど、赤葦君の肩、傘からはみ出てない?」
「俺は多少濡れても平気。名字さんはすぐ風邪ひきそうだからちゃんと濡れないようにしなね」
「なんとかは風邪ひかないっていうし全然大丈夫だから、赤葦君こそちゃんと傘の中入って!」

そう言って赤葦君から少し身体を離して、先ほどまで触れ合っていた腕を右側に少し押す。赤葦君の右肩に掛けられたバッグは勿論、肩も結構濡れてしまっているので、少しでもそちら側に傘を傾けてほしかった。だけど、押した腕はびくともしなくて日頃の鍛え方の違いに驚いてしまった。

「ほら、濡れるよ。もう少しこっち側に寄って」

持っていた傘を一度右手で持ち直し、空いた左側の手で私の肩を抱き寄せた赤葦君は、なんてことないような顔でまた左手に傘を持ち直した。突然のことに私は心臓を掴まれる思いだったというのに、赤葦君はいつもと変わらない表情をしていた。まるで意識しているのは私だけみたいで、猛烈に恥ずかしくなってしまう。赤葦君にとってはありふれた行為なのだろうか。こっそり好意を寄せている身としては、やたらと深読みをして気分が乱高下してしまう。

「あ、ありがとう…」
「名字さんの肩、結構濡れてたね。俺に気を遣わなくていいからちゃんと傘の中入って」

私よりも濡れてしまっているはずなのに、自分の事よりもこちらを気に掛けてくれる赤葦君にはドキドキさせられっぱなしだ。そのせいで上手く言葉がでてこなかったので、何かを誤魔化すように傘を見上げる。学校を出た時には強かった雨脚も、段々と弱まってきたようだ。もうすぐ雨は止みそうだ。同じように傘を見上げた赤葦君は「雨、そろそろ止みそうだね」と静かに言った。

結局会話らしい会話もないまま、駅まであと五分程度の所まで来ていた。あれから雨脚はどんどん弱まり、もう傘はいらない程度になっていた。「傘、もういいかな」と言った赤葦君は、私が頷いたのを確認するとビニール傘を閉じた。一緒に歩く理由はなくなってしまったものの、目的地は同じはずなのでそのまま駅に向かって二人で歩いているが、未だに恥ずかしさを抱いた私の目線は道路を捉えている。道端に転がる石をぼんやり見ていたら、隣から「…あ」という小さな声が聞こえた。思わず赤葦君の顔を見ると、ちらりとこちらを見てから正面を指さした。

「ほら、そこ。虹がでてるよ」

赤葦君が指さした先には、なかなか見られないような大きな虹がかかっていた。

「本当だ、久しぶりに見た」
「俺も。なんか虹を見ると良い事ありそうで嬉しいよね」
「うん、わかる。なんか嬉しくなるよね」

虹のお陰で会話のきっかけを掴めた私たちは、最後に虹を見たのはいつだとか、もう梅雨は明けたのかとか、当たり障りのない会話をしながら歩いていた。くっきり出ていた虹が薄っすらとしてきた頃に駅に到着すると、赤葦君は「じゃあ、俺今日バスだから」と言って、来た道を戻ってバス停に向かっていった。確か、赤葦君が使っているバス停は学校と駅の間にあった筈だ。何なら駅に向かう途中でバス停の横を通り過ぎた気がする。赤葦君も電車だと思っていた私はすっかり面喰ってしまった。傘がない私をわざわざ駅まで送ってくれたんだ。思いがけない赤葦君の優しさに気付いてしまい、じんわりと頬に熱が集まる。これは、自惚れてもいいのだろうか。その答えは赤葦君だけが知っている。







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