夢現リバーシブル



「…嘘でしょ」

お手洗いの洗面台の前で小さく呟いた言葉はすぐに空気に溶けてなくなった。この後の予定に備えて身嗜みの確認のため鏡を覗いて覚えた違和感――つけていたはずのピアスがない。慌てて左耳を触ると、当然そこには何もなかった。ついこの間誕生日プレゼントとして貰い、大切に毎日つけていたピアス。どこかで落としてしまったのだと気付き、背筋を冷たい汗が伝う。一体いつからなかったのか、記憶を思い返しても答えは見つからない。運悪く今日は朝から外回りをしていたので、自宅や満員電車の中、はたまた取引先や通ってきた道など、落とした場所候補も無限大だ。もっとこまめに確認しておけば、なんて後悔しても先に立たず。先人たちが残した言葉よろしく鏡の前で呆然と立ち尽くしてしまった。
しかも間の悪いことにこの後ピアスの贈り主と食事に行く約束をしている。察しのいい彼ならきっと不自然に片耳だけつけているピアスにきっと気付いてしまうだろう。残ったもう片方も外してしまおうかと思うところだが、外したピアスを無事に保存できる保証もないのでそのままつけておくしかあるまい。いっそのこと同じ物を自分で買い直そうかと保身的な思い付きもしたのだが、正直に謝った方が良いのではと少し残った良心が言う。腕時計をちらりと確認すると、待ち合わせまでそう時間がないことを思い知らされる。…これは素直に謝罪するしかないだろう。結んでいた髪を解き、髪型を整えるとどちらの耳も髪で隠れた。見えなければわからないのではという邪な気持ちに蓋をし、腹を括った私は待ち合わせ場所へと急いだ。



「…なあ、左耳どうかした?」

突然切り出された言葉に思わず咀嚼していたものが詰まりそうになった。あれから待ち合わせ場所で落ち合い、いつ言おうかと悩んでいるうちにすっかりタイミングを失い、あれよあれよという間に食事も終盤に差し掛かっていたのである。

「鉄朗、ごめん」
「お、どしたの」
「この間プレゼントしてくれたピアス、片方落としちゃったみたい…」

嗚呼、穴があったら入りたい。願わくばタイムマシンでピアスを無くす前に戻してほしい。気まずさと申し訳なさから鉄朗の顔を見られず、視界はどんどんぼやけていき、やがて涙が頬を伝う。こんなところで泣いても余計困らせてしまうだけなのはわかっているのに。

「あー…、だからやたらと左耳気にしてたのね」
「ご、ごめんなさい…」
「形あるものはいつか無くなるし気にすんな…って言っても気にしちゃうよな」
「もう、本当に、自分が情けない…」

ぐずぐずと懺悔を繰り返していると、彼の大きな手が私の頭を撫で、零れていく涙を優しく拭う。顔を上げると何故かニヤリとした鉄朗と目があった。

「じゃあさ、俺の言うこと一つだけ聞いてくれたら許してあげる。でもここじゃなんだから内容は後で伝えるってことで」
「…謹んでお受けいたします」
「おー、いい子だネ」

「優しく拭きなさいよ」と手渡されたハンカチをありがたく受け取り、零れた涙を拭った。すっかり冷めてしまった料理を口に運びつつちらりと前を向くと、頬杖をついてこちらをニヤニヤと見ている鉄朗と目があった。相変わらずその真意は見えないが、口パクで早く食べなと急かしていることはわかったので大人しく食事を続けると向こう側の鉄朗は満足そうに笑っていた。



「で、俺の言うこと聞いてもらっていいかね」

食事の後、自宅とは決して近くない私の家まで送ってくれた鉄朗は、玄関前に到着するなり切り出した。どうせなら上がってほしいところだが、こうなったら梃子でも動かないのが鉄朗である。

「何をすればいいの?」
「まず、落としちゃったピアスはもっと似合うのを探すからちゃんと受け取ってね」
「まず?え?」
「ん。あと、大丈夫だと思うけど家に俺以外の男を上げないこと。男も参加する飲み会は十分に気をつけること。仕事でも遊びでも帰りが遅くなりそうな時はちゃんと連絡すること。出来る限り迎えにいくから。名前は世界一可愛いんだからちゃんと用心してほしい」

ひとつと聞いていたはずがツラツラ出てくる"言うこと"に目を白黒させていると、意地悪く笑った鉄朗は私の左手を取り、薬指にキスをした。

「最後にひとつ。この指は俺のためにあけておいてね」

どきりと大きく心臓が波打ち、顔に熱が集まるのがわかった。熱を持った頬に両手をあてているとその上から鉄朗の大きな手が重なり上を向かされる。

「いい子の名前チャン、お返事は?」
「…はい」
「よろしい」

にやりと笑った鉄朗は少し屈んで私に口付けを落とす。
ひとつどころか沢山あった"言うこと"は、やはりこの人には敵わないなと実感させられるのには十分であった。







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