淡紫の空のとおく



突然だが俺は彼女のことが好きだ。愛していると言っても過言ではない。人生で初めて好きになった人。人生で初めて自分から告白した人。人生で初めて無償の愛を捧げたいと思った人。そんな人と出会えて付き合うことまで出来ているのだから、自分は大層幸せ者だと思う。だが、彼女はどうだろう。花が咲いたように笑って、朗らかに話す彼女は見た目には幸せそうに見える。果たしてそれは自分がそう思っているだけなのではないか。
付き合い始めてからかなりの時間が経ち、自分達の関係性も安定している。悪く言えばマンネリだ。最近は仕事の忙しさに感けて碌なデートもできていない。俺は彼女との関係に無意識に胡坐を掻いていたのではないか。眠れぬ夜に考え事を始めると余計な事しか思い浮かばないのは分かっているのだが、こうなってしまったらもう遅い。居ても立っても居られなくなった俺は、脳裏に浮かぶ不安達を押し込めるようにスマートフォンに手を伸ばした。

『夜遅くにごめん。突然だけど今週末旅行しない?』



「突然びっくりしたよ、深夜に旅行しようなんて連絡くるんだもん。京治にしては珍しいね」

助手席に乗せた彼女は今日の目的地の特集が組まれた旅雑誌を捲りながら言う。あの晩、同じく夜更かししていたらしい彼女からはすぐに了承の返事がきた。マンネリ打破のために突如思い浮かんだ旅行という案について、具体的に何をするかはまだ深く考えていなかった為、そのあとに続けて送られてきた『どこに行くの?』という言葉には答えられず、苦し紛れに当日のお楽しみと返信をしていた。どこかに出掛ける時は下調べをしたい性分が故に、今までの旅行は事前に完璧にスケジュールを組んでから臨んでいたため、今日のように当日まで行き先も告げていないことは初めてだった。

「ごめん、嫌だった?」
「んーん、なんか新鮮でワクワクしてる」
「実は泊まるところ以外何も決めてないんだよね」
「え、更に珍しい!」

どこに行こうかと雑誌に視線を落としながら楽しそうに話す彼女を見て、そうか、こういう旅の仕方でも良かったのかと心の中で手を打った。長い間付き合っていたために、いつの間にかパターン化してしまっていた行動を反省しないといけないだろう。右耳に髪をかけながらこちらを見た彼女は心なしか浮ついて見える。「旅行、楽しみだね」と笑いかける名前は、どこか付き合ったばかりの頃を彷彿とさせ、思わずつられて目が弧を描いたのがわかった。



「おお、オーシャンビュー…!」

チェックインを済ませて部屋に入ると早々に窓際駆け寄った彼女は目をキラキラと輝かせて窓の外の海を眺めた。どうやら部屋まで案内してくれた宿の人の事はすっかり頭から抜けているらしい。見て、京治と振り返った時にそのことを思い出したようで、耳まで赤く染めて大人しく座布団の上に座った。
一通り宿の説明を聞いて去っていった宿の人を目視で見送った後、机の上に置かれた宿案内のファイルをパラパラとめくった彼女は、あるページをこちらに見せてきた。

「…貸切の露天風呂?」
「そう!景色も綺麗みたいだし、まだ予約できるなら入りたいな」
「フロントに聞いてみようか」

貸切の露天風呂ということは、そういうことだろうか。フロントで予約の確認をしてもらっている最中にぼんやりと考える。最後に一緒に風呂に入ったのはいつ頃だったか?今更照れるという間柄でもないのだが、久しぶりと言うこともあり少し気が張った。『今ならまだご予約承れますよ』という電話の向こうの明るい声に意識を引き戻された後、お勧めだという夕食前の時間帯で予約を取ることができて一息ついた。
予約した時間まではまだ少しある。外に出てもよかったのだが、折角だから明るいうちに温泉に入ろうという名前の提案で、揃って大浴場に向かった。



それぞれ別れて暖簾を潜った後、数十分ほど経過した頃だろうか。案の定先に出たのは自分だったので、入り口のすぐ手前にある湯上り処で涼みつつ彼女を待っていると、とある雑誌が目についた。

「プロポーズ特集…」

表紙に大きく書かれた特集名がポロリと口から零れ落ちた。"当館が紹介されました!"と書かれたカードが表紙に貼り付けられているその雑誌を手に取り、適当な椅子に腰掛けて付箋が貼られたページを開く。そこにはまさに先程予約した露天風呂が紹介されていた。果たして露天風呂でプロポーズするカップルが本当にいるのかどうかはさておき、ロケーションはかなりのものなようだ。

「あ、それさっきの露天風呂だ」

いつの間にか温泉から上がった彼女は、背後から肩越しに雑誌を覗き込んできた。シャンプーだろうか、ほんのりといい香りに鼻腔を擽られて柄にもなくどきりとしてしまう。

「そうみたい。人気の宿だったみたいだね」
「分かってて予約してくれてたんじゃないの?」
「いや、今回は急だったし予約できるところを適当に選んだ」
「あら、これまた珍しい」

こんなにいい宿が空いてたなんてラッキーだねと鈴が転がるような声で喜んでみせた名前は贔屓目に見ずとも可愛らしかった。少し屈んだせいか緩んでしまっている浴衣の襟元を直してやると、照れたように笑った彼女は小さくお礼を言った。

二人して気付けば予約時間まであと少しというところまで差し迫った事に気付かないほどに例の雑誌を夢中読んでしまい、温泉のはしごをする羽目になってしまった。慌てて移動し無事に予約時間に間に合ったのでほっと胸をなで下ろす。先ほど着たばかりの浴衣を脱ぎ、露天風呂への扉を開けた先には写真で見た以上の絶景が広がっていた。

「うわ、凄い綺麗…」
「海と繋がってるみたいな露天風呂だ」

高台にあるその露天風呂は、眼下に広がる大海原を遮るものなく一望できるロケーションだ。丁度陽が落ち始めたようなので、予約の時に聞いたお勧めの時間帯とはこのことを指していたのだろう。幸いにも天候にも恵まれている為、沈み始めた陽の光が水面に反射してキラキラと光っている。いそいそと身体を洗い流して肩を並べて温泉につかると、先ほどと目線が変わったために違う景色が見えた。

「あ、見て京治、あそこに鐘が見えるよ」
「さっき雑誌に書いてあったプロポーズスポットかな」

「プロポーズかあ」と小さく呟いた彼女を見ると、湯温のせいか頬を赤く染めていた。つられてプロポーズか、と心の中で独り言ちる。自分が結婚するとしたら名前しか考えられないのだが、長く付き合っていることもありプロポーズのタイミングをすっかり見失ってしまっていた。いつか区切りの良いところで、とは思っていたものの、その"区切り"が中々見つからないまま今に至っている。女性としては早めに結婚したいものなのだろうとぼんやり思っていたものの、万に一つ拒否でもされたらと思うと踏ん切りがつかなかったというところもある。

「京治はさ、結婚願望あるの?」
「…あるよ」
「奇遇だね、私もある」

こちらを向いて嫣然と笑った彼女に思わずどきりとしてしまう。これは、今なのだろうか。雑誌の特集が頭を駆け抜ける。プロポーズの時に言われたい言葉、貰ったらうれしい婚約指輪のデザイン、素敵なロケーション。ロケーションは二重丸なのだろうが、生憎指輪もプロポーズの言葉の準備もない。どうするべきか。急を要する思考は得意だったはずが、今日に限ってうまく結論が導き出せない。

「…名前は、」
「ん?」
「名前は、俺でいいの」
「京治じゃなきゃ嫌だから長いこと付き合ってるんだけどな」

これはもう、今しかないだろう。事前準備も何もしていない、むしろお互い一糸も纏わぬ姿だ。人様には言えないようなくらい不格好で情けないが、ここはもう腹を括るしかあるまい。

「名前」
「はい」
「俺と結婚してください」
「…嬉しい」

いつ言うべきか長いことタイミングを失っていたこと、まだ指輪も準備できていないこと、とても格好の良いプロポーズではないこと。言い訳の様に謝ると、彼女は大輪の花を咲かせたように笑った。長い付き合いだが、このような笑顔は初めて見た。ああ、伝えられてよかった。

「もうすぐ陽が沈みそうだね」
「本当だ。いつの間にか空も茜色になってたんだ」
「私、一生この光景忘れないだろうな」
「確かに、これだけ綺麗だとずっと忘れないだろうね」
「毎年結婚記念日にここに連れてきてくれる?」
「お安い御用ですよ」

この先もずっと、二人でここからの景色を眺めて今日の不格好なプロポーズを思い出すのだと思うと少し滑稽で笑ってしまいそうだ。
いつまでもこの幸せが続くよう、茜色の景色に願った。







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