orpington


ドア・イン・ザ・フェイス


私が人生最後の日、と選んだその日は、夢を見るには暗すぎて、絶望するには明るすぎる、そんな調子の天気だった。
社会に出て、地元の家族経営の会社で事務職をしながら、親の目を盗みコツコツ貯めた数万円を握りしめて足元の悪い道を進む。
安い賃金からさらに母親に吸い上げられ、経済的な不自由を強いられながらも、この日を夢見て死ぬために生きてきた。
死ぬために生きるなんて甚だおかしい話だが、私にとって楽になれることこそが生きる希望だった。

田舎町の山間に、小さな山小屋があり、そこの小屋の裏手には大木が一本立っている。
根元から次々に枝が伸びているその木は、自分にはない生命力に満ちていた。
手ごろな高さの太い枝に、道すがらホームセンターで適当にこさえた黄と黒のロープをくくる。
楠の幹に背中を預け、ロープを首に通し、深呼吸をひとつ。
座り込むには高すぎる位置にくくったロープは、見事に私を死へと誘ってくれるだろう。
首に容赦なく自重がかかり、苦しい。
息ができなくなってゆき、視界が霞みゆく。

――マリア、

意識がだんだんと遠くなってきたころ、私の名前を呼ぶ父の声がした。

――おとうさん、もうすぐそちらへゆきます。
そのなまえ、よばないで。じぶんのなまえ、きらいになっちゃった、



うっすらと目を開けると、見慣れない天井。規則正しく鳴り響く機械音。
父の最期を思い出す、消毒液の匂いがした。

「ちぇんちぇー!目をあけたわのよ!」

舌っ足らずの女の子の声が耳元で響いた。
その声にびっくりして目を思い切り見開く。
それを聞きつけ、乱暴にドアを開けて部屋に入ってきた、

「目が覚めたかい」

心底ほっとしたような顔をしたこの人こそが医師なのだろう。
安堵の溜息を漏らしていた。

「なんであのまま死なせて下さらなかったんです?」

目の前の医者が安堵している、ということは、助かってしまったのだろう。
死に損なった事実を知り、私は湧き上がる怒りとも悲しみとも言えない感情を抑えつつ、努めて冷静に話しかけた。
それを察してか、先生は赤毛の女の子に席を外すように言う。
ぶつくさ言いつつも、部屋を後にした彼女。
ぱたん、とドアが閉まった音の後に、自分の少し速い心音だけがこだまして、気まずい気持ちになった。

「『なぜ死なせてくれなかったのか』と言ったな。それは、私が、…医者だからだ。おまえさんをひとめ見た時驚いた。おまえさんは…」

いやに歯切れの悪い人だ。言葉を選んでいるようだった。

「いや、おまえさんがあまりに私の大切な人に似ていたものだから」

「…ですが、私は死のうとしていた人間です。お金もないです。手術料もお支払いできません。助けていただいたとて、また…」

「それ以上言うな!」

びくりと体が揺れた。出会って間もない人になぜそんな強く言われなきゃいけないのだ。
だいいち、生きていても何もいいことなんてないのに。
はらはらと勝手に流れてゆく涙を止めることが出来なかった。
涙をぬぐおうにも、腕を動かす気力もなかった。

「...その顔には弱いんだ…」

目の前の先生は、何か考え葛藤しているようだった。
私を死なせたくないなんて、失礼だけど見た目どおり風変りな人だ。
あぁ、この見た目。思い出した。ブラック・ジャックとかいう、天才外科医だ。
天才的な腕を持ち、どんな患者でも救えるとまで言われている、だが法外な手術料を請求する医者――母親がずいぶんと嫌っていたっけな。

「うちも慈善事業じゃないんでね、手術料はいただきますよ」

「合意の上じゃないんですけれど。それに死ねば関係ありません」

「いいから話を聞きなさい。手術料3000万、ビタ一文まけない。といいたいところだが、確かに合意の上で行った手術じゃない。だからまけにまけて1000万。」

「いっせんまん!?それでも高いです!何年かかるかっ…!」

「おまえさん、経理はできるかい。死のうとしていたなら行く当てもないんだろう。せっかく助かった命だ。少し先延ばしにしてもいいんじゃないか。最近お上がうるさくてね。税理士か財務大臣でも雇おうかと思っていたのさ」

少し冗談まじりに肩をすくめて見せた。
意外と茶目っ気はあるらしい。
いや、今はそんなことを呑気に考えている場合ではなく。

「つまりそれって…」

「3年だ。3年働けばその後は自由にしてもいい。体で手術料を払ってもらおうか。」

彼のうむを言わさぬ物言いと、「死ぬ」以外の選択肢を与えられて戸惑った私は、目覚めたばかりのまだはっきりとしない頭じゃあ正常な判断が出来なかったのだ。

「は、はたらきます…」

そういった瞬間、にやりと人の悪い笑みを浮かべた彼を見て、あぁ早まったかもしれない、覆水盆に返らず。
口をついて出た自分のセリフに後悔したのであった。

「さて、マリア。回復したらじゃんじゃん働いてもらうぞ」

なぜ私の名前を、と聞く前に、『助けた時に保険証を見た。ま、この紙切れも、もう用なしだが』と言った。
法律ギリギリというか、アウトなことをやっているから、そりゃあそうだ。従業員の健康保険なんてないだろう。

「...その名前はやめていただけますか。嫌いなんです」

「そうかい...ではXXXなんてどうだい。私も本名を呼ばれることはないんだ。」

「では、ブラック・ジャック先生。お手柔らかにお願いします」

「ああ、よろしく。XXX。」

かくして私の死ぬまでの回り道の旅が始まったのである。


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