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何かが居る。
イシュヴァール戦も佳境に差し掛かったとある夜、私が寝床にしている布テントの向こうに『妙な』気配を感じた。一人のような、何人もいるかのような、妙な気配だった。
軍の粛清に腹を立てたイシュヴァール人が襲いに来たのだろうか。
松明や戦火で多少の灯りはあれども、訓練をしていない者が闇夜で人ましてや軍人を襲うのは容易ではない。
夜目が利く私の元に迷い込んでしまったイシュヴァール人を哀れに思う。
小銃とナイフを携えて向こうの動きを待つ。すると、見覚えのある長髪の影が見え、ばさりと布が乾いた音を立てた。
「淑女の寝込みを襲おうなんて良い度胸されてますね。暗闇は私の独壇場ということをお忘れのようで」
「…上官の頭に風穴を開けようとする女性のどこが淑女ですか」
銃口の先に居る少佐は両の手を挙げたまま私を見据えた。
少佐の手の中の太陽と月は、無防備に晒されていた。
少佐は楽しそうに、そしていつになく気が昂っているように見えた。
「こんな夜更けにどうしたんですか。」
私が銃を下すと同時に少佐も手を下ろし、長く息を吐いた。
「今日の己の美しい仕事ぶりに気分が高揚してしまいましてね。部下の顔でも見ればよく休めるかと思ったのです。」
「よく言いますよ。そんなこと微塵も思っちゃいないくせに」
「…いいえ。そんなことはありません。銃口を突き付けられて少し落ち着きました。」
貴方がいつも通りで、と付け加えられ、少しだけ頬が緩む。
少佐の真意は分かりかねるが、もしもはけ口にしようものなら『少佐の技術を駆使して己の中心に手投げ弾でも錬成してはいかがですか?』などと可愛げのない台詞でもぶつけてやろうと思っていた。
少佐が気を鎮めるために私のところへ来たなんて少しも思わないが、リラックス効果のあるという自分のルーツの国のお茶を淹れて手渡してみる。
戦場という特殊な場で、自分の故郷を思い返すひと時でもあれば気分転換になるかと持参していたのだが、今日まで出番は来なかった。
この上司の下で働いて、良くも悪くも軍人に染まっていると自覚した。
少佐は素直にマグを受け取った。飲んだことのない味に一瞬眉間にしわを寄せたが、すぐにふた口目を味わう。どうやらお気に召したようだ。私は“爆弾狂”と呼ばれる男のふと垣間見える人間臭さを探すのが好きだった。
この人も血の通った、私と同じ「材料」でできた人間なのだと実感するからである。
しかし、妙だ。少佐の纏っている「何か」が違う。
もともと狂人でそれを隠すための胡散臭さと腹黒さはあるが、以前にも増したように感じる。
胸の内を明かさないとも違う、腹に何か抱えているというべきだろうか。
その「何か」について言及すべきか悩んでいると、少佐が口を開く。
「これは一つの可能性として申し上げますが」
「私がこつぜんと消えたら」
「錬金術を託されたと思ってください」
持っておいて下さいと彼の自宅の鍵を渡された。
鉄だか真鍮だかの使い古した光沢、その質量がずしりと私の手のひらに鎮座する。
「まぁ、貴方が私の横にいる限りは死なないでしょうけれど」
「…その油断が命取りですよ。そもそも、どちらが先か。」
「確かにそうですね。しかし、案外、貴方には分かりやすい指標があった方が良いかと」
見透かすようにそう優しく微笑むものだから、表に出そうになった感情を深呼吸ひとつと視線を横にふい、と逸らすことでやりすごす。
私にとって一番嬉しい台詞を言っておきながら全く残酷な人だ。
「貴方を何人にも殺させはさせない。もしも貴方が殺されそうになっていたら私がとどめを刺しに行きますから。」
「えぇ。息絶えるその瞬間まで貴方を待っていましょう」
ごちそうさまでした、と空になった器を返された。
聴きたいことがあったのに、託された鍵の重みが言葉を紡ぐ邪魔をする。
代わりに、私は少佐の背中に話しかけた。
「少佐。すみませんが、御手を拝借してよろしいですか。文字通り」
「手、ですか」
きょとんとした手の持ち主を置き去りにして、私は錬成陣をなぞる。細かい傷がたくさん入った手。やけどの跡が残った皮膚。繊細そうな見た目とは裏腹に意外と武骨な手。神経質そうに切りそろえられた四角い爪。彼の象徴をなぜだか目に焼き付けておきたかった。目を閉じた闇の中でも、彼を覚えておけるように。
思いのほか温かかった彼の体温が途轍もなく大切に思えて、今度は堪えきれなかった涙が一筋ほほを伝った。それを彼に悟られないよう、私はまた深呼吸をひとつした。
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