下種も鳴かずば焼かれまい

双子の如く似通ったビル群の一角。
これまた没個性なドアの奥、階段を降りた先にそのバーは存在する。
まるで存在を隠す様な外観にはおおよそ客商売の意志が感じられないが、それもその筈。
そもそも正式な名前さえ存在しない事からして、仕事に対する熱量も推し量れるというものだった。
急な休業は当たり前。お客様は神様?いいえ、ここの独裁者は店主です。クレームには相応の応戦をしますので悪しからずご了承ください……そんな店主の独裁が許される夜の社交場は、今宵、異様な雰囲気で満たされていた。

「テメェ、ふざけんじゃねぇぞ!!」

政府の高官から果ては浮浪児まで。
良くも悪くも客に対して平等を貫く店には様々な客層が入り交じる。
故にこうして店内に怒声が響くことも何ら珍しい事では無い。
酒の勢いに任せただけの喧嘩ならば、選び抜かれたスタッフ達がそつなく対応する――のだが。
酒と怒りで顔を真っ赤に染めた男の腕が、歌姫の華奢な首に巻き付いているとなれば話は別である。
店主の恋人を盾に取られスタッフ達が手をこまねいていると、自分の優位を確信した男がにやりと笑った。
生意気にも自分に対し「出て行け」と命じた店主が呆然とする姿を、男は加虐に満ちた表情で見下ろす。
今なら何だって出来そうだった。
なんせ、大物さえも一目置くと言われる店主の弱点を握っているのだから。

「おい、兄ちゃん。この女の首へし折られたくなけりゃ――」
「わかった」

気をよくした男の陳腐な脅し文句は無残にも遮られた。

「な、てめぇ」
「取引しよう。俺としても、店内のもめ事は穏便に済ませたいんだよね。だから、うちで一番高い酒と彼女を交換しない?――穏便にさ」

棚から無造作に取り出された瓶のラベルには、中々お目にかかれない高級酒の名前が刻まれている。
憤慨しかけた男も、いきなりの譲歩に思わず口を噤んだ。
店主に薄らと笑う余裕があるのは気に障るが、今まで尊大な態度を貫いていた彼が下手に出た所を見るにこの女はよほど大事な女らしい。

「へへ……それっぽっちじゃ足りねぇなぁ」

どうせなら毟れるだけぶんどってやろう。
何なら、この店ごと蹂躙してやるのも悪くない。
強欲な男の下卑た笑みに、店主ベリトは微笑みで応じる。

「ふぅん?交渉決裂かな。――シエラ」

微笑んでいた唇が、その名を呼んだ直後。

「ぎゃあああああああ!!!」

せしめられるだけせしめようと欲を出した男の絶叫が響き渡った。
崩れ落ちたその太ももには、深々とナイフが突き立てられている。

(一体誰が。あの男か?――否、何をする気配も感じられなかった)

痛みに混乱する男の耳に、カツンとヒールの音が響く。
影を追うように視線を上げると、何時の間にか腕の束縛から解放された歌姫シエラが男を静かに見下ろしていた。

「――こういう事するひとって、どうして痛い思いをしないと分からないのかしら。不思議ね」

澄んだ声には純粋な疑問だけが滲んでいる。
荒事は専門外とはいえ、酒場の歌姫ならばこの程度の光景には慣れているという事か。

「この、クソアマァァァ!」

怒りにまかせて伸ばした手は、するりと翻ったドレスの裾を掴むことなく空を切った。
男の視界が真っ赤に染まる。
それは怒りからだ、と男は思った。
しかし直後回り始めた視界と濃厚に香る酒気に、己が殴られたのだと悟る。
目の前には、にこにこと営業スマイルを浮かべる店主。

「テメェ、よくも――」

わき上がる憤怒に任せ、掴みかかろうとした男の手が止まる。
ぐらぐらと視界が揺れるのは、殴打の衝撃のせいだけでは無い。
柔らかく笑みの形に歪んだ赤紫の瞳が、歪む視界の中なぜか異様に目に焼き付いて離れなかった。
宝石の如く硬質な煌めきで男を引きつけると同時に、何か得体の知れない恐怖を植え付ける。
声にならない悲鳴ががちがちと歯を鳴らす。
理解するよりも先に身体が近づく事を拒絶して震えるなど、初めての経験だった。
いけ好かないほどに整った美貌の吹けば飛ぶ様な優男。
目の前の男は、男に取ってみればその程度の認識だったはずだ。
しかし、不用意に怒らせてはいけない人種だったのだと、無知な男は今になってはっきりと理解する。

「それ、俺からのサービスね。お高い酒だから――よく燃えるよ」

男が取り繕うより先に、火柱が身体を覆った。
言葉にならない耳障りな悲鳴は勿論、純粋に酒を楽しみに来たであろう一般客のざわめきも綺麗に無視して定位置に戻るベリトは、何事も無かったようにグラスを拭き始めた。

「火事にならないかしら」

同じく定位置であるカウンター席に腰掛けたシエラがぽつりと呟く。

「大丈夫。結界張ってあるし。――それよりもさ」

普段よりも幾分か甘い色を含んだ声が耳をくすぐる。
ベリトの長い指が、まるでネックレスでも触る様にシエラの細い首筋を辿った。

「あんな野蛮な男に触られて、痛くなかった?」
「ええ。平気」
「えー。シエラが平気でも俺が平気じゃ無いよ。……ね。裏で消毒しよっか」
「ベリト。お仕事中よ」

凄惨たる光景を作り出した当事者達は、優秀なスタッフによって片付けられる消し炭など無かったかのように甘ったるい駆け引きを楽しんでいた。