Oh, sleepy. I want to see a good dream.


 山の奥深くにひっそりと佇む屋敷があった。
 その広大な屋敷に住む人間は、たったの二人しかいない。だというのにもかかわらず、騒がしい音が絶えないのは人ならざる者が数多く住んでいるからだった。
 屋敷の上空を旋回する鷹の目には、静かに回廊を歩く青年が映る。その鋭い目がきろきろと動く中、回廊を慌ただしく走る音が空に響いた。
 青年がその音に気付いて振り返るのと同時に、べそをかいた少女が涙をぼたぼたと流しながらその胸に抱きつく。
「師匠ー!!聞いてくださいよ、またおそ松のやつが私のお風呂覗いてきたんですよ!くず!死ね!」
「それはいけないことだね。でも死ねなんて言葉、言ったらいけないよ」
 穏やかな笑みをたたえながら、師匠と呼ばれた男は少女の柔らかな髪を撫でた。男の胸でぐすぐすと泣く少女に小さく笑う。いつまでもどこか幼さの残る子だと。
 青年は昔からしてきたように、少女の柔らかな髪の毛をすくように撫でた。
 ふと回廊の向こう側から黒い忍び装束を着たご機嫌な様子の女が一人、歩いてくるのが青年の目に映った。
 狐耳と尻尾が生えた女は男と少女を見るなり、ぎょっと目を丸くするが、すぐにまなじりをつりあげると頬を膨らませて、狐の耳と尾をぴんと立てるのだった。
「あーっ!ななし、何やってんのよぉ!神松くんの胸はトト子のものなんだからね!」
 ななしと呼ばれた少女は首根っこを掴まれて、神松という男と引き離された。神松の衣服から鼻水の糸を引かせながら、やだやだというように手をばたつかせる。
「うわああっ!ひどいよトト子ちゃん!」
「あーっ!鼻水までついてる!ななしったら一体いくつになったら大人になるのよ。もういい歳になったんだし、いつまで神松くんにべったりしてるもりなの?トト子は早く神松くんと一緒になりたいのに、あんたがいつまで経っても一人前になんないからなれないんだからね」
「まあまあ、トト子ちゃん。ななしは頑張っているんだからそう言わないであげてほしいな」
「もう、神松くんったら甘すぎるんだから」
 腕を組んで不満そうにトト子は頬を膨らませた。ななしが相変わらずぐすぐすと鼻をならしながら泣いているのを見て、神松は何かを考えるように顎をさすると、一人納得したように頷いた。
「うん、でもそうだね。ななしもそろそろかもしれない」
 ずびっと鼻をすすったななしは小首を傾げながら神松を見た。神松は相変わらずあるかなしかの微笑みを浮かべている。
「今夜僕の部屋においで。大事な話があるんだ」
「師匠……?」
 どうにも嫌な予感がして神松の袖を握ろうとしたが、それを見通したかのように神松は身をひるがえした。ななしの手は何も捕まえることができない。
 トト子はするりと神松の腕に腕を絡める。機嫌良さそうに狐の耳と尻尾がぴくぴくと動いていた。
 一人回廊に取り残されたななしは、どうしたらいいのかわからなくて俯く。ぼたぼたと床に涙が落ちた。
 そこを紫色の直衣を着た手のひらくらいの大きさの人形(ひとがた)がふよふよと漂ってきて、ななしの頭の上にのっかる。ゆるまった口元はにやにやと笑っていた。
「とうとう捨てられるんじゃないの。あんた、出来損ないだから」
「なんでぞんなごどいうのいぢまづぅ!!」
 すっかり涙でぐちゃぐちゃな顔を着物の袖で拭う姿は童女そのものだ。
 梅雨がきたような勢いで泣くこんな泣き虫でも、陰陽師なのだから人は見かけによらない。
 ななしの頭の上で頬杖をつく小さな人形(ひとがた)をとっているものは一松というななしの式神だった。姿を変えれば邪神と名高い黒龍の姿となるようなとてもすごい式神なのだが、こうしているとそんな風にはとても見えない。
「すっげぇ不細工」
「なんでぞんなごどいうのいぢまづぅ!!」
「あんたも災難だねぇ。泣いてるあんたを慰めることもしない屑でごみかすみたいな奴が式神なんだからさぁ」
「だがらなんでぞんなごどいうのいぢまづぅ!!ぞんなのわだじをなぐざめればいいだけのはなじじゃんかぁ!!どんだけなぐさめるのいやなのぉ!」
 ななしがえぐえぐと泣いていると、ぱちんという小さな空気の破裂音とともに青い光が一瞬弾けた。
 そうして現れたのは青い直衣を着た男だった。大きさは一松くらいである。黒いサングラスをしたその男はぱちんと指を鳴らすと赤い薔薇を一輪差し出した。
「何をそんなに泣いてるんだ、カラ松ガール。お前に涙は似合わないぜ。いつものようにサンシャイン・スマイルを見せてくれないか」
「がらまづがなにいっでるがわがんないいい!」
「えっ」
 異国の地の言葉が好きなのか、普段からそれを取り入れているカラ松もまた、ななしの式神の一つだった。こう見えて大海原を駆け巡る青龍だというのだから、世も末だ。
 心底嫌そうな顔をした一松が舌打ちする。
「弾け飛べクソ松」
「扱いがひどい!」
 ううっと涙を滲ませたが、それよりも真赤な鼻をすするななしの訳を聞くことの方が先だとカラ松は思った。すぐにきりりと眉を吊り上げる。
「それでマイガールはどうしたんだ?」
「おそ松がまたわだじの風呂覗いてきたぁ!いっつも覗いてくるからもうやだぁ!」
 わんわん泣くななしをよそに、ぴくりと眉を動かしたカラ松は瞳孔を青く光らせ、一松は目に不穏な濃い紫色を宿しながら関節を鳴らした。
「……ひひ、あのヘド松殺す」
「おそ松は何度も言っても直らないな。この俺が徹底的にお灸をすえてやろう」
 きりりと眉を吊り上げたカラ松の背後には青い炎が、低く笑う一松の背後には紫色の炎がごうごうと燃え上がっている。見ての通り、怒っている証拠だった。
 そんな三人の前方からふよふよと浮いて現れたのは黄緑の直衣を着たカラ松たち同様の人形(ひとがた)だ。
 二人の背後から燃え盛る怒りの炎に驚いてぎょっと目を丸くしながら身を引き、ななしの泣き顔を見て眉をひそめた。
「うわっ、お前らどうしたんだよ。ていうかなんでななしが泣いてんの。わけわかんないんだけど」
「……かす松がななしの風呂、覗いたんだって」
「はああ!?またかよ!あんのクソ長男何回言ったらわかるんだよ!学習能力のない猿なのかあいつは!」
「猿以下なんじゃない。むしろ虫けらでしょ」
「ほんっとどうしようもねー奴だな!ななしもいつまでも泣いてないで、あのクソ虫を探してぶん殴りに行くよ」
「うん、ぞうずるぅ」
 ずびびびっと鼻水を吸って前を向くと、きりりと眉を吊り上げて拳を握った。
「おそ松退治!いざゆかん!」
「あんまり力まないほうがいいと思うけど……。お前、不幸体質なんだから」
「確かにななしが言い出したことはことごとく失敗するな。ふっ……俺からしたらそんなところがチャーミングで可愛い子猫ちゃんなんだが」
「今すぐ俺が殺してやろうかクソ松」
「なぜ!?」
 こうして、ななしの風呂を覗いたおそ松退治が始まるのだった。
 歩き出すと、神松から今夜来るように言われたことがすっと脳裏をかすめる。なぜ、来いと言われたのか。
 大事な話とは一体何だというのだろうか。
 疑問に思うところは多いが、とりあえず今は式神の中でも問題児中の問題児であるおそ松を懲らしめることから始めなければならない。
 そうやって決意して早々、回廊に落ちていた濡れ雑巾を踏んで思いっきり滑って転んだ。後頭部を強打して星を飛ばしながら目を回すななしを見下ろす式神三人は溜息をついたのだった。
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