髪を伸ばすテルくんの話

*病みテルくん注意
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「ナナシ先パ〜イ!」
「わ!ふふ、ショウちゃん今日も元気だね!」

 ショウが調査隊室に入るなり、誰よりも早く来ていたナナシ先輩に飛び付く。これはつい最近見られる様になった光景で、なのにもう既に見慣れた光景で。
 朝から胃に不快感を覚えた気がして、それは夕べに皆で食べたイモモチの所為だと自分に言い聞かせる。

「先パイの顔見たら元気になりました!」
「そんなに面白い顔してる?」
「もう、違いますよ!ね、テル先パイ!」
「え?」

 突然話題を振られ、ナナシ先輩とショウの視線がこちらに向けられる。
 ああ、今日初めて目が合ったって気付いてますか?ナナシ先輩。

「……ナナシ先輩は可愛らしい顔をされてると思いますよ」
「あ……、そ、そんな事は……」
「そんな事ありますよ!」

 やっと合った視線もすぐに逸らされてしまう。それは決して照れから来るものではなく、拒絶から来るものだ。二年も共に活動しているのだから嫌でも分かる。

 二人の世界に戻ってしまった先輩とショウをぼうと眺める。
 二年の間に僕には詰めることのできなかった距離を、空から落ちて来たばかりのショウは僅かな日数でやり遂げた。それは性差なのか、人柄なのか。

 例えば僕が女の子であれば、ナナシ先輩は今のショウへと同じ様に接してくれたのか。
 例えば僕がポケモンを怖がらずにムラの外へ飛び出す勇気があれば、抱き締めてくれたのか。

 視界の真ん中でしきりに揺れる、ひとつ結びにされたナナシ先輩とショウの二つの後ろ髪がやたらと僕の目に焼き付いた。


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「いたた……」

 誰も居ない深夜の調査隊室で上半身の服を脱ぎ、腹に負った怪我の手当てをする。
 大分慣れたとはいえやはりポケモンは怖い生き物だ。今日改めて嫌というほど痛感した。勇敢に戦い、僕を守ってくれたピカチュウは既に傷を癒し、すぐ側で休んでいる。

 すっかり伸びた髪を結んでいた紐も切れてしまった。背中に纏わりつくのが心底鬱陶しい。邪魔でしか無いが切るわけにもいかない。これはもう僕の意地だ。
 少しでもショウに近づく為。ナナシ先輩との距離を縮める為。その為なら僕は何だってやるんだ。

「うっ」

 医務室から借りてきた消毒液を傷に掛ける。途端にヒリヒリジンジンと激しく痛み出し、思わず声が漏れでる。痛い、痛い。焼き切れるかの様だ。
 一人歯を食いしばり身悶えていると後ろに誰かの気配。

「ショウちゃん?」

 この声は、ナナシ先輩だ。
 ショウの真似をする様に髪を伸ばした結果、こうやって後ろ姿で間違えられる事も増えた。その回数が増えるに連れ、思惑通りに先輩との距離は縮まっている様に思う。

「……ぁ、僕です」
「あっ、ごめんテルくんか!暗いから分からなくて。……何してるの?」

 前に回り込んで来たナナシ先輩が僕のお腹を見て酷く驚いた顔をする。ああ、この人にこんな情け無い姿を見せたくなかった。ショウは擦り傷しかこさえて来ないのに、先輩の僕はこんな怪我をして。
 ああでももしかしたら。ナナシ先輩は心配して、手当てをしてくれるかもしれない。僕に触れてくれるかもしれない。

 緩みそうになる顔を引き締め、痛みに耐えるかのように厳しい顔を作り出す。こうすれば、先輩は。

「大丈夫……じゃないよね。私がやってあげる」
「……助かります」

 ほら、やっぱり。先輩は優しいから。こんな僕を放ってはおけないよね。

 僕の手からガーゼを奪いとった先輩が優しい手つきで僕の腹の傷に当てる。
 そのか弱い手にも傷痕が垣間見え、彼女もムラの外へ出る調査隊員なのだと気付かされる。今の僕が思うのはなんだが、あまり無茶はしてほしくない。

 自分でやっているときは痛くて堪らなかった消毒も、ナナシ先輩がやるだけで全く痛みを感じない。先輩の手当てが上手いのか、それとも僕が興奮し脳内麻薬が出ているのか。両方かもしれないな。
 先輩の細い指がするすると包帯を巻いていく。怪我をした箇所が箇所なだけに、後ろに回す際に先輩との物理的な距離がぐっと縮まりその度に心臓が跳ねる。

 ナナシ先輩が拒絶をせずにここまで僕に近付き怪我の手当てをしてくれているという事実に感動せざるを得ない。僕の小さな意地は報われ始めているのだ。例えその先に男女の幸せは無くとも。
 先輩も可愛い後輩の手当てをしているだけだと考えている筈。でも少しだけ期待をして、俯きがちに近付いてくるナナシ先輩の顔色を伺う。

「あ」
「どっ、どうかした……?」

 痛いかと聞かれるのに問題ないと答える。僕の視線は先輩の顔から離せずに居た。
 久々に視線が合わない先輩のその顔は、耳先は暗がりでも分かるほど赤くなっているのだ。

 ──先輩に、意識されている。

 それを認識してしまうと、今まで手際良く思えた手付きも途端に辿々しいものだった様に思え、僕の中で期待が降り積もっていく。

 包帯を巻き終え、すぐに離れて行こうとする先輩の手を掴む。ああ、思っていた以上にこの手は細い。

「先輩、ありがとうございます」
「う、ううん。何か手伝いが必要だったら遠慮なく言ってね」
「はい!……あ、じゃあ」

 話は終わったと手を引き抜こうとする先輩を諌め、提案をする。もう少しだけ、一緒に居て欲しい。

「髪、結ってもらってもいいですか?腕を上げたら怪我に響いちゃうんで」
「あ、うん!勿論だよ」

 もっともらしい理由を付けた事により先輩を上手く引き止められた。
 この後は家に帰って寝るだけなのだから態々髪を結ぶ必要なんか無いのに。先輩は少しも疑っていないのが逆に申し訳なくなる。

 髪紐を、と渡そうとした所でこの怪我を負ったと同時に切れたのだったと思い出す。ああ、僕は必ず何処かで上手くいかなくなるな。

「……。……先輩、すいません。やっぱりいいです」
「え?どうして?」
「髪紐、さっき切れちゃって」

 髪を結って貰うのはまた次の機会がある事を願おう。仕方がない。これからは予備の髪紐を持ち歩かなければ。
 そう心の中で悔やんでいると、先輩がくすりと笑い僕の後ろに回る。

「先輩?」
「じっとしてて」
「はあ」

 するりと僕の髪に、先輩のものであろう細い指が触れる。そして数回手櫛で撫でられ、ぐっと髪の束が上に持ち上げられる。

「結構しっかりした髪質だね」
「そうですか?」
「……男の子だからかな」

 そう小さく呟いた先輩が出来たよと肩を叩く。頸はすっきりとし、あれだけ鬱陶しかったものが高い位置に纏められている。
 それは自分でやるよりもきっちりとしていて、少し高くて。毎朝結って貰えたら、なんて考えてしまう。

 ありがとうございますと先輩を振り向くと髪を結った僕とは逆に、あまり見ない髪を下ろした先輩の姿。もしかして、今僕の髪を縛っているのは。

「先輩、の髪紐ですか?」
「ふふ、そうだよ。家に帰れば沢山あるし、それはテルくんにあげる」
「……ありがとうございます」

 思わぬ収穫に無意識に口が弧を描く。先輩から私物を貰う日が来るだなんて。嬉しい。髪を伸ばして良かった。

 ふと視界に先輩の結び癖のついた髪が目に入り、腕を伸ばす。

「え、あ、ど、どうしたの?」
「ああ、いえ。特には」
「そ、そう……?」

 指に絡みつく先輩の髪は、絹の様に艶やかで、細く柔らかい。確かに自分のとは全然違うな。

「先輩の髪は、柔らかいですね。女の人だからですか?」
「あ、えっと、どうだろう」
「先輩」
「あっ、何?」

 髪を触り続けるフリをして、少しだけ耳に触れる。その度に肩を跳ねさす先輩に笑みを浮かべながら、少しだけ上目遣いを意識してオネダリをする。

「また、髪結ってくれますか?」
「う、うん!私でよければだけど」
「先輩が良いんです」
「そ、そう?」

 ああ、やっぱりナナシ先輩は可愛いな。今も顔を真っ赤にして、本当は僕を拒絶したいんだろうに。
 でも僕は可愛い後輩の枠に入っているからそこから格下げする事なんて出来ない。出来るのは、後輩以上の関係になる事だけ。そうだよね、ナナシ先輩。

 怪我の功名とは正にこの事を示すのか。怪我をして良かった。あの時襲ってきたポケモンに感謝を伝えたいくらいだ。
 お前のお陰で、僕はナナシ先輩との関係を変えられるかもしれない。

 名残惜しくもおやすみの挨拶を交わし一人宿舎に向かう僕の頭の後ろでは、いつもより僅かに高く結われた長い髪が楽しげに揺れていた。




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