無題
*刃視点
*血表現注意
『──、──』
目の前の女が俺に向かって何か呼びかけている。何度も何度も女が口にしているその言葉が、どんな音をしているのか、何を示しているのか、聞こえているはずなのに理解出来ないまま唯々すり抜けていく。
反応しようにも身体は動かない。
『──、──』
おそらく四つの音で構成されるそれを、女は紡ぎ続ける。
酷く馴染みがある気がする。それだけで、何も起こらない。
ふ、と瞼を落とし、もう一度女を見る。ああ、この女は誰なのか。知っているようで、知らない。だが無くした記憶の中に、この女はきっと存在しているのだろう。
それがいつ無くなった記憶かは分からない。俺は、剣なのだから。
女をじっと観察していると、女は瞳を細め、口元に弧を描く。そして何かを袂から取り出すと、俺に見せつけるかのようにそれを揺らし、その度にそれの繊細な装飾がシャラと音を立てる。
俺はそれに、──その簪に、酷く既視感を抱く。それがどういう過程で、どの様に生まれ、そしてどうして女の手に渡ったのか。俺は、それを知っている。知っているが、思い出すことは出来ない。
俺の反応を楽しむかのように女は簪を細く白い指でするりと撫で、ふふと声を漏らす。
『──、──。ふふ、やっと約束を果たしてくれたね』
約束。
頭に霞がかかる。この女と、約束。俺は、この女と。
『あのね、──。貴方は『あの人』のせいで、私と『おんなじ』じゃなくなったでしょ?』
女が笑いながら、細く息を吐く。何か緊張をしているようだ。誤魔化すように髪を耳にかけるのは、この女の癖。……何故、俺はそれを知っている?
『だからね、決めてたの』
女が、簪を首元にあてがう。
『これから先の、ずーっと長い──の記憶の中では、綺麗なままでいたいの』
簪の先端が、白く柔い肌に食い込む。
『──、見ててね』
ゆっくりと首元から離された簪は、細かく震えている。
俺はそれを、震えではなく女の行動を止めなければいけない気がして、腕を動かそうとする。だが身体は動かない。
やがて強く握り直されたそれは、勢いをつけ、元の位置に戻り、視界に入るのは、赤、紅。よく見慣れた、鮮血。
記憶にある中で、一番綺麗に見える、などとぼんやりとした思考で女を見ていると、女の口が最後に何かを紡ごうとし──。
「あの!」
はっと息を呑む。止まっていた心臓が動き出したかのようにどくどくと血液を送り出すのを感じ、不快な気持ちを覚える。そのまま止まっていれば良いものを。
ゆっくり息を吐きながら目の前でヒラヒラ揺れる手を辿り、首を上げた。
「よかった、生きてた」
「……何も良くない」
「え?」
手助けのつもりか差し出されていた手を無視し、自力で立ち上がる。ああ、今回も俺に死は訪れなかったようだ。
それでも完全には治癒しきれていない足のせいでふらついてしまい、小さな手が俺の背を支える。
「そんな勢いよく立ちあがっちゃダメですよ!こんなに血まみれなのに」
「ふん。お前には関係ない」
「でも……」
何かを言い募ろうとする女に既に塞がった腕の傷を示すと「ああ、『豊穣』の」と納得したように手を引っ込める。
否定も肯定もせず、この場を離れるため踵を返すと性懲りもなく女はまた声をかけてきた。
「あの!貴方、私のこと知ってますか?」
「……どういう意味だ」
「そのままですけど」
うるさい女だと思い、カフカが変質者に性別は関係ないと言っていたのを思い出す。これがかと納得しながら、この女の声を短時間で嫌というほど認識していたと気づく。
思い返せば先ほど俺に鮮血を見せつけて来たのはこの女だったのではないか。だがこの女は先ほどの女と背格好は同じだが、身に纏っている衣服が違う。
あの女の衣服のほうがこの女にも合いそうだ、と考え、そしてその思考の中であの女が赤に塗れながら歪に、綺麗な顔で笑った。
鈍痛を感じ始める頭。ああ、このままでは不味い。魔隠が出てしまう。カフカの元に戻らなければ。
またふらついてしまった俺を支えながら、女が酷く喚く。
うるさい、うるさい。お前はどうしていつも大袈裟なんだ。俺だって、俺は、俺は?
ぐるぐる回る視界と思考で立つこともままならない。頼りない女に寄りかかることしかできない。なんとも情けない身体だ。
そんな中、女からどこか懐かしさを覚える香の香りを感じ、次第に身体の力が抜けていく。
女の肩越しに見慣れた赤紫を捉え、俺の意識はここで途絶えた。
****
「え、寝たの?お、重……」
「ハーイ、刃ちゃん。……あら、遅かったようね」
「っ!あ、あの、貴女は?」
「ふふ、そちらこそ。そのままだと殺されちゃうわよ?」
「え?でも、お……、この人は、ただ寝てるだけで」
「……ふーん。いいわね、面白いじゃない」
「?」
「刃ちゃん、貴女のこと気に入ったみたい。離さないわ。ねえ、よかったらウチに来ない?」
「ウチってどこに……」
「そうねえ……、長くなるから説明は後にしましょ」
「そんな」
「『聞いて』貴女は私に着いてこればいいの。分かった?」
「……はい」
応星の子供の時から面識があった短命種夢主。応星は望んだ訳ではなくても不老不死になったのに自分だけ老けて醜くなっていくのが嫌で、応星にもらった簪で死んだってやつ!
応星に簪貰うのはまだまだいっぱい書きたいので書くよん🎵
2023/12/04