おむかえ

 突然部屋に鳴り響いた音にびくりと反応する。なんてことない、それは度々耳にするインターフォンのチャイムなのだが、おかしい。

 深夜、というほどではないが日付が変わる少し前の時間。こんな時間に配達なんて来るわけがないし、アポも無しに尋ねてくる友人知人もいない。
 しかも、鳴ったのはオートロックの方ではなく、玄関の方だ。得体もしれないヤツは、すでにマンション内に侵入していて、そして私の部屋の玄関前にいる──。

 いやいや、隣の部屋と間違えたのだろう。反応がなければ向こうも気づく。ヤツにはマンションに招き入れた人物がいるか、そもそもヤツ自身がマンションの住人……であればチャイムは押さないのか。であれば酔っ払いとか?やだやだ。

 こわいなあ、こわいなあと嫌な気持ちでベッドに入る。誰かとこの怖さを共有したいのと、何かあった時のために仲のいい同僚に連絡しておこうか。『こんな時間に玄関のチャイムが鳴った』というメッセージにすぐ既読は付き、無視しておけとの助言。そう、そうだよね。無視に限る。
 いつもよりかなり早いが怖いので寝てしまうことにしよう。この状況ではソワソワして何も手につかない。スマホに充電器を刺して、部屋の電気を消して。布団を頭まで被ったところでまたチャイム。しかも二回連続で。

 無視だ、無視。私は何も関係ないんです。間違ってますよ。早く気づいて酔っ払いさん。
 その間にもチャイムは鳴らされ続け、しまいにはドンと扉を叩く音。ひえ。

 怖さはあるものの、仕方がない。この状態ではヤツは部屋が間違っていることに気付きそうもない。酔っ払った状態では数字も読めないのだろう。扉は開けずに声をかけてやろう。関わりたくないが。
 念のため、武器がわりのモップを手に足音をできるだけ立てず、しずしずと玄関へと向かう。あ、くそ、センサーライト。

 ドアの隙間からライトが漏れたのか、扉が叩かれなくなる。そういう認識能力はあるのか。心の中でツッコミながら、万が一と思いドアスコープを覗く。

「えっ」

 ドアの向こうに居たのは、頭から身体にかけて真っ赤に染まった、血まみれの男だった。

「だ、大丈夫ですか!?」
「……?」

 しまった、思わず開けてしまった。なんて冷静に状況を俯瞰する私がいるが、それどころではない。
 この現代社会で、しかも早々殺傷事件なんてものも起きないこの国で、ここまで血まみれの男を私は見たことがない。一体どんな死線を渡り歩けばこんな事になるのか聞きたいくらいだ。よくその状態で立っていられるな。
 エレベーターから私の部屋の前までにもたくさんの血痕。かなりの出血量だ。
 まずは警察、救急車?緊急時の対応に慣れてなくて何からしたらいいのかわからないが、何かはしなければならないと気持ちだけが焦る。

 扉を開けたものの、どうしようと固まったままの私の顔を不思議そうに見ている男は何も言わない。チラリと部屋の奥を覗き込もうとしているが、血のせいで視界が悪くよく見えていないのだろう。苛立たしげに眉に皺を寄せ、呟く。

「……カフカは」
「え?か、かふか?えっ、うわ」

 男はついに耐えきれなくなったのか、ずるずると座り込む。大丈夫かという問いかけにはなんとか肯定を示すのでとりあえず玄関に連れ込んだ。

「ど、どうしよう」
「……を」
「え?ご、ごめんなさい、もう一回」
「カフカを……呼べ……」

 カフカって何?さっきから呼んでいる?おそらく人の名前?そんなこと言われたって私は私だし、カフカと言われて思い浮かぶものもない。
 とにかくまずは救急車、とスマホを探すもベッドの上で充電しているのだったと気づく。血まみれのまま部屋に上がるのを躊躇してしまう自分と葛藤している間にも、扉にもたれ掛からせていた男はズルズルと床に滑り落ちていった。
 仕方がないと立ち上がり、足を踏み出そうとしたところでガチャリと扉が開く音、誰かの頭が地面にぶつかる痛そうな音、違う人の気配。

「あら、ごめんなさい。刃ちゃん」
「……っ!」
「え」

 ばっと振り返るとそこにはついこの間、ご丁寧に引越しの挨拶をしにきた女性。この時代に珍しいなとよく覚えているはずのその出来事。それなのに、名前だけはモヤがかかり思い出せない。
 しかしどうしてこの人がここに?ああ、もしかしたらうるさくしていたからか。それにしては、この二人は知り合いのような。

 必死に状況を理解しようとしていると、女性の不思議な色合いをした瞳が私を見ていること気づく。

「ごめんなさいね、刃ちゃんたら部屋を間違えたみたい」
「え、あ……?」
「アナタは何も気にしないで。ほら、もう眠った方がいいわ」
「で、でも」

 『聞いて』と言われた次の言葉は聞き取ることができず、ただ意識だけが遠のいていく。
 この血はどうしよう。全部綺麗に落ちるだろうか。どうやったらここまで酷い怪我を負うのか。この男は何者なのか。お隣さんも。名前は。

 結論も出ないまま、私の意識は途絶えた。


****


 遠くから人の声が聞こえてきて意識が浮かぶ。朝から楽しそうに叫び回る、元気な子供の声。もう登校の時間なのだろう。私もそろそろ家を出なく、ちゃ?

「ち、遅刻ーーッ!!」

 やばい、何時だと枕元のスマホを確認する。いつも家を出る時間の十五分前。完全に寝坊だ。起こしてくれる家族は遠い地に住んでいるので全てが自己責任。ああ、平日に寝坊するだなんて初めてだ。
 心臓がバクバクと激しく動くのを感じながら、手足もバタバタと動かす。動かさなければならない。服は昨日とさえ被っていなければなんでもいい。

 朝ご飯を食べる時間も、お弁当を用意する時間も、化粧をする時間すらない。せめてヘアセットだけはと簡単に一つに結び、あとは適当にアイロンを通す。
 通勤バッグとスマホを引っ掴んで玄関へ向かうと、昨日の脱ぎ捨てたままのパンプスに足を通す。と、ここで違和感。

 ──昨日の夜中、ここで何かなかったっけ。

 考える間にも時間は過ぎてしまう。最後にと時間を確認すると二分オーバーなくらいだ。これなら遅刻せずに済む。やればできるじゃないか、私。
 少しだけ早めの達成感を覚えながら玄関の扉を開く。と、同時にお隣さんも出かけるようで扉が開いた。

「おはようございます」
「あ、おはようございます」

 相変わらず色っぽいお姉さんだなと見惚れてしまう。しかしながら、はて。引越しの挨拶に来てもらって以来顔を合わせていない筈なのに、なんだか引っかかる。
 どこかですれ違っただろうか。

 思わずじっと見つめているとお姉さんはフフと魅惑の笑みを浮かべる。あまりにも艶があり、同性ながらもどきりとしてしまった。
 失礼な態度をとっているのにも関わらず、お姉さんはずっとニコニコしながら口を開く。

「いつもより少し遅いようだけど、大丈夫?」
「え、あ!遅刻!!」

 ありがとうございますごめんなさいと上手く紡げたかも分からないまま頭をぺこぺこ下げ、エレベーターのボタンを押す。
 お姉さんも乗るかなとチラと振り返ると扉に寄りかかりながらこちらに手を振ってくれた。少しだけ幸せな気持ちになりながら、お姉さんはじゃあ何のために外に出たのだろうかと疑問が湧く。
 それを深く考え始める前にエレベーターが到着し、一階に着いた途端に私は駅までの道のりを走り出した。


****


 昼休み。
 オフィス街で混雑している中をダラダラと歩く。どこかお店に入りたかったけれど、今日の気分の店はことごとく人が並んでいておとなしくコンビニで調達した。近くの公園にでもいって食べよう。

 ちょうどタイミング良く空いたベンチに腰掛け、ふうとため息を吐く。

 今日は朝から散々だった。なんとか始業に間に合いさえしたものの、ギリギリの駆け込みで、部長に冷たい視線を投げられてしまった。自分はしょっちゅう遅れてくるくせに。重役サマはお偉いことで。
 いざ業務が始まったら始まったで後輩のエラー処理のヘルプに呼ばれたり、別部署からのタスクが回ってきたり。臨時の対応ばかりで予定していた業務が全くこなせていない。
 これは残業コースかと嘆きながら、残業申請をしたらしたで明日に回せないのかと目クジラを立てられるのだから、平社員とはなんとも奴隷のような立場だ。

 ふわと漏れ出るあくびに、寝坊したくせにまだ眠いのかと自分を殴りたくなる。それでも眠いものは眠いのだ。
 ショートスリーパーにはなれない私はとにかく前日よく眠らないと次の日仕事に集中できない。だから睡眠時間だけはしっかり確保するようにしているのだけれど。
 昨日もいつもと同じように、むしろ少し早く寝ようとした気がするのに、どうしてこんなにも眠いのだろうか。それに疲れが全く取れていない。むしろなんだか疲れたような。いやそれはいつものことかも。

 ハハと乾いた笑いを浮かべながら、おにぎりを食べ出す、と視線を感じて顔を上げる。
 思わず含んだばかりの米を落としそうになるのを堪え、こちらをじっと見つめる人物に声をかけた。

「あ、あれ?偶然ですね」
「フフ、そうね」

 「お隣いいかしら」と朝ぶりに出会うお姉さん──つまりお隣さんにどうぞと席を譲った。
 たしかにここはオフィス街だ。たくさんの人が集まっている。私の住む街もここから近い。だからかなりのレアな確率だとしても、お隣さんとここで会うことはあり得ないことではないし、おかしくもないのだ。

「状況は整理できたかしら?」
「あ、はい……。なんとか」
「お利口さんね」
「……」

 なんだか子供に向けられるような言葉にむず痒くなってしまう。お姉さんと勝手に呼んでいるだけで、歳はそこまで離れていないであろう相手に褒められるなんて早々ない経験だ。
 そもそも褒められたのもいつぶりだろうと悲しい思考になりそうなところでブンブンと頭を振り断ち切る。

「あの、お姉さんも近くで働いてるんですか?」
「それ私のこと?」
「え、あ、その」
「いいわよ、お姉さんで。でも、貴女は私の名前、知ってるでしょ?」

 お姉さんの、名前。今日ずっと引っかかっていたもの。引越しの挨拶の時に名乗ってくれたはずなのにずっと思い出せなくて。昨日もそうだった。昨日?
 何かが意図的に、大事な記憶を覆い隠しているような気分だ。私の記憶なのに、取らないで。隠さないで。奪わないで。

 忘れた、とは思いたくなくて、言いたくもなくて、私はお姉さんをじっと見つめる。
 お姉さんの不思議な色合いの瞳は、ゆっくりと変化しているようにすら思えてきた。そんなこと、あるわけないのに。
 変わらずニコニコと笑みを浮かべるお姉さん。赤にも近い薄紫の髪色は、とてつもなく目立つはずなのに。なんだか見慣れているような気がして、名前も覚えていないのに?と冷静な自分が笑う。
 この人のそばにはもっといろんな色があって、それは銀色だったり、白色だったり、黒色だったり。黒。紺、赤。赤。
 私は、昨日。それを、目にした。

「か、ふか……?」

 お姉さんが、カフカが目を三日月のように細め「正解」と笑った。
 それを見て、慣れたように頭を差し出すと「良い子ね」と撫でられる。そうだ、私は、私は、どうして。

「さあ、帰りましょうか。ナナシ」
「うん」

 早く帰って、みんなに、私の家族に会いたい。



(めっちゃカフカ夢みたいになってるけど刃ちゃん相手なんだよなあ)


2024/4/10




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