雨の中上司を拾う話

「ねえ、なんか作ってよ」
「ええ……」
「アハハ!すっごく嫌そうな顔するね」

 だって嫌だからという言葉は飲み込んだつもりだったのだが、目の前の上司様はさらに大笑いを始めたのでどうやら漏れ出てしまっていたようだ。
 失礼なほどにヒーヒーと笑っているのを見て、全然元気じゃないかと、正直少し安心した。

 定時よりも二時間ほどオーバーして、ようやく翌週に持ち越す決意をし、帰宅する途中。華金だというのに結構な雨だからどこにも立ち寄らず、一直線で自宅に向かうその道中で、雨に打たれるこの人を見つけた。
 傘も刺さずにびしょびしょに濡れて、いつもヘラヘラと感情のこもっていない笑みを浮かべているのに、この時に限っては本当に何もない、まさに『無』で。
 直属の上司の、あまりにも様子のおかしい姿を見かけてしまったからには、見なかったことになんてできなかった。

 で。
 上司がどこに住んでいるかなんて知らないし、話しかけても気まずそうに目を逸らすだけだし(これも知らない反応で、別人かと思った)、仕方がないので、本当に仕方がないので、徒歩圏内である私の家にお招きしたのだ。
 びしょびしょのまま玄関で立ち尽くすその人にタオルを渡し、急いで軽く掃除を済ませたシャワールームの使用許可を出し、そこから出てきたと思ったらもう先ほどの状態。しっかり自分を繕えるくらいには落ち着きを取り戻したようだ。
 ちなみに服はいつだかに父が置いていったスウェットを用意しておいた。すこしダボついている。

「君は一人暮らしだったね」
「まあ、この狭さに家族では住めないですよ」
「んー、そうか。そうだね」

 お構いなしに人の部屋をじろじろ見渡すその姿に、掃除をしたばかりでよかったと安堵する。この間の休日の私、思い立ってくれてありがとう。それを維持せざるを得ないほど家に居る時間を減らしてくれてありがとう、弊社。

「で?君はお世話になっている上司に何も作ってくれないのかい?」
「……そんなにお腹が空いたなら、何か買ってきましょうか」
「この雨の中?」

 雨は止む様子はなく、先ほどから一際窓を叩く音が大きくなった。季節外れの豪雨。カーテンの隙間から外の様子を伺うと、横殴りの雨と暴風に煽られる木々が目に入る。
 たしかに、せっかく安全な場所にいるのに、わざわざ外に出ようとする物好きはそう居ない天気ではある。

 そっとカーテンを閉め、振り返ると思っていたよりも近くに人が居て思わず声が出た。

「もしかしてこの家には食料がないのかい?」
「……あるのはありますけど」
「そう、じゃあ作れるじゃないか。安心して、費用はもちろん出すから」

 「これくらいで足りるかな」とスマホを操作する上司に嫌な予感がしながら自分のスマホを手にとる。通知画面には『アベンチュリンさんがあなたに送金しました』の文字。
 チャットアプリを開くとそこにはゼロがいち、に、さん、し──。

「デリバリーしますか?」
「頑なだなあ、君」

 配達員が気の毒だと、優しい上司さまに私の意見は虚しくも却下されたのだった。


****


 コト、とお皿を並べ終わる。作りはした、ものの。
 ほぼ空の冷蔵庫からなんとか産み出したのは本当に最低限のもので、この時間に食べるものというよりは朝起きて簡単に済ませたい時のメニューが並ぶ。並ぶという表現があっているかもわからない品数だ。
 この出来にまた嫌味を言われるのかなと上司の顔色を伺うと、思ったよりも柔らかく、口元を緩ませてテーブルの上を見つめている。これはこれで困る反応かもしれない。

「本当に簡単なものですいません。いつもはもう少し……もう少し……」
「そんな事ないよ、美味しそうだ」
「あ、あはは……」

 これが?正気か?と言いそうになるのを堪える。今度は耐えられた。口には出ていない。が、顔には出ていたようでまた笑われてしまった。
 そのままくすくす笑いながら地べたに座った上司はすぐにカトラリーを手に取り、食事を始める。独身女の一人暮らしの部屋にダイニングテーブルなんてものは無く、小さなローテーブル。
 こんな質素な食事、この人にとって久しぶりなんじゃないだろうか。というか、上司に手料理を食べさせるシチュエーションて実際に存在するんだ。
 嬉しさなんか有るはずがない。申し訳なさで溢れている。なんでこの人が家にいるんだ?

「ん、美味しいじゃないか!良い味付けだと思うよ」
「お気遣いありがとうございます……」
「本当なのになあ」

 確かにその言葉どおり、美味しそうに食べてくれている。そういえば、あまりこの人が食事をしているところを見たことがないかもしれない。
 あったとしても取引先との食事会で、そこではこの人は相手を楽しませることを優先し、ほぼ手をつけずに終わることが多い。カンパニーの食堂や飲み会にも顔を出さないし、業務中に間食しているのもあまり見ない。

 だからとても新鮮で、案外食いつきのいいその姿は伸び盛りの少年のようにすら見える。もうこの人は伸びないけど。失言。
 お詫びの気持ちで私の分として取り分けていたものをいるかと聞くと「頂くよ」と返ってきたので渡した。これで許されただろう。

「いいね、こういうの」
「何がですか?」
「こんな感じだよね?『家族』って」
「ああ……」

 そういえば、この人は、と社員の中で噂されている過去の話を思い出す。どこまでが本当かは分からないが、極々普通の一般的な生活を送ってきた私とは全く違う。正反対の。悪い方向で。

 自分が生まれた星の、たった一人の生き残りになるなんて私には耐えられそうにない。家族に生かされて、自分だけが生き延びる。そんな事になれば、私はきっと自害を選ぶ。でも、と上司の顔を見る。
 この人はそうしなかった。それでも時たま寂しそうな顔をしているのは知っている。この人は何を考えて、何のために生きているのだろうか。

「なんだい?」
「……いえ」
「そう?ああ、気を遣わせてしまったかな?」
「……」
「本当に君は正直だね」

 にこりと微笑む。その感情は私には分からない。

「僕の生まれた星ではね、雨は祝福なんだ」

「でもね」

「僕は昔から大嫌いなんだ」

「……」
「でも僕は運がいいからね、ほら」

 上司が立ち上がり、カーテンを開ける。

「天気さえも操れるんだ」
「え」
「アハハ!なんてね!そんな訳ないだろ」
「……」

 ベランダ越しに見える外はさっきまでの豪雨がすっかり嘘のように星空が広がっていた。あんなにも真っ暗で、月明かりさえ漏らさない分厚い雨雲しかなかったのに。
 それがこの人の仕業だなんて、本人が言う通りそんな訳が無いのに、信じてしまいそうになる。そんな不思議な力をこの人は持っているから。

「ご馳走様。すっかり邪魔をしてしまったね。そろそろ失礼させてもらうよ」
「大丈夫ですか?」
「何が?」
「いえ……」

 片付けを手伝おうかと聞かれるのに首を振る。目の前の人が、なんだかまた不安定に揺れているような気がして、でも私はこの人を引き止める手札を一枚も持っていない。

「ああ、この服は借りていっていいかい?流石に濡れた服は着たくない」
「どうぞ、使わないので」
「彼氏くんの?いや、元彼かな?」
「は?」
「君はフリーだって風の噂で知ってるんだ」

 ああこれはセクハラかと笑う上司に父のだと主張をする。が、へえとだけ返され、本当に信じてもらえたのかは分からない。なんとなくだけど、信じて欲しい。
 流れる動作で身支度を整え、玄関へ向かう後ろ姿について行く。

「ああ、そうだ。これも借りていっていいかな」
「え、傘ですか?」
「うん」

 開けられたドアの向こうを見ても、先ほどと同じく雲一つない星空が見えるだけだ。それなのに何故。

「君さ、僕の右腕になりたいならもう少し表情管理が必要だね」
「……失礼いたしました」
「アハハ!嘘嘘。普段はもう少しマシだよ」
「……それで、もう雨は降らなさそうですけど」

 少しだけ苛立っているのをわざと出し、天気アプリの雨雲レーダーを上司に見せる。上司の家なんか知らないのでどこに帰るのかは知らないが、明日はここら一帯に太陽マークがついているのだからこのままそれに向かうだけだろう。

「ふふ、いいじゃないか。減るもんでもないし」
「そうですけど、でもそれ、女物ですよ?」
「だからだよ」
「??」

 何が『だから』なのか本当に理解ができない。だがきっとこの人の中では何かが繋がっているのだろう。
 他にも傘はあるし、なんとかはなる。上司が選んだのも最近はあまり使っていない物だった。

「じゃあね、良い週末を!」
「あ、はい。お疲れ様でした」

 ヒラヒラ手を振り音を立てずに静かにドアが閉じられる。
 あの人の考えることは本当に分からない。分からないが、まあ、仕事への不満はあれど嫌いにはなれないのだ。私は。他のみんなも。

 なんだかさっきまでのが現実なのか分からなくなってきた。本当に上司がこの家に来たのか疑いながら、二人分の食器の後片付けをし、すぐに眠りについた。



 週明け出社すると、誰もが知っているハイブランドの紙袋にわざわざ入れられた、全く価値の釣り合わないスウェットを渡された。周りがざわついた。

 それからまた時間を置き、女物の傘をさして雨の中楽しそうにする上司が社員に目撃され、カンパニーは騒然とした。




2024/4/24




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